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ムラサキツメクサ

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第一章


第一章

                 ムラサキツメクサ
 私が北海道に行った時の話だ。札幌のあちこちを歩いてふと喫茶店に入った。
 外見は特に何の変哲もない店だった。落ち着いた白い内装でただ店の中のあちこちに日本ハムファイターズの選手の写真やフラッグがあった。見ればあの懐かしいオレンジのユニフォームまであった。
「また懐かしいな。しかも」
 ユニフォームの番号を見る。二十一だった。
「西崎のか」
「あっ、お客さんわかったみたいだね」
 カウンターにいた顔中髭だらけのマスターが私の言葉を聞いて機嫌をよくさせた。額が広くでっぷりと太ってまるでオペラ歌手のパバロッティのようである。というよりか本人に生き写しであった。見ればカウンターには大沢親分の写真が立てられている。完全に日本ハムの中にあった。
「西崎がわかるなんて通だね」
「パリーグファンですからね」
 私はマスターにこう返した。巨大な腹が黒いエプロンに覆われているのが見える。そういうのを見ていると本当に何かアリアでも歌いそうな姿である。
「これ位は」
「じゃあ二十六番は誰かわかりますか?」
「江夏ですよね」
 私は笑ってこう言葉を返した。
「前に言っておきますが八十六は神の背番号」
「そうそう」
 マスターは私の言葉にさらに機嫌をよくさせる。
「百は永久欠番。オーナーの背番号だから」
「いいねえ。よく知ってるじゃないか」
「思い出はありますから」
 私も笑顔で言った。このオレンジのユニフォームをまさかここで見られるとは思わなかったからだ。懐かしい記憶が頭の中に蘇る。
「子供の頃からね」
「球団は何処のファンですか?」
「今はソフトバンクです」
 素直に答えた。あくまで今は、であるが。昔は違っていたがもうそんなことは思い出したくもなかった。
「おや、じゃあ完全にライバルですね」
「そうですね。日本ハムも強くなりましたよ」
「色々ありましたけれどね」
 マスターの目が優しいものになった。見れば肌が普通の日本人よりも白い。それが髭と合わさって結構目立つ。顔立ちも少しコーカロイドめいて見えた。
「北海道に来てから変わりましたよ」
「ソフトバンクも九州に来てからですし」
「あの名門南海があそこまで変わるとは」
「よかったんですかね。まあ巨人に潰されなくてよかったですよ」
「全くです」
 マスターは真剣な顔で私の今の言葉に頷いてくれた。私はその間にカウンターに座った。そこでさらに話を続けるのだった。
「巨人こそ潰れるべきです」
「その通りですよ。あそこは独裁国家です」
 私は忌々しげに言った。
「球界の北朝鮮です。どんどん惨めに敗れて醜態を晒せばいいんですよ」
「気が合いますね」
 マスターは私の巨人叩きに機嫌をよくしてくれた。何を隠そう私は巨人がこの世で最も嫌いだ。巨人の惨めな敗北を見ることは私にとって御馳走を食べるようなものなのだ。病み付きになっている。
「パリーグファンでアンチ巨人とは」
「アンチ巨人は僕の絶対の信条ですから」
 私はまた笑ってマスターに答えた。
「これだけはね」
「いや、それこそが真の野球ファン」
 お世辞で泣くこう述べてくれた。
「そうでなくては。おかげで楽しい気分になりましたよ」
「巨人がお嫌いですね」
「大嫌いです」
 予想された返答が返って来て何よりだった。この言葉を聞くと本当に元気になる。
「本当に崩壊して欲しいですよね、球界の為にも」
「全くですよ。まあ今日は巨人の試合を見に来たのではなく」
「ソフトバンク対日本ハムを」
「まあそれもありますが」
 それだけで来たのではなかった。理由は他にもあった。
「北の美女を見に」
「ほう、プレイボーイですね」
「いやいや、これは冗談です」
 実は観光だ。確かに北海道の女の子にも興味はあるがそれはまたその次だ。とりあえず苦笑いで今のジョークを引っ込めたのだった。
「冗談ですので」
「ふむ。しかし今の御言葉でですね」
「はい」
「一つ。面白い話を思い出したよ」
 マスターはにこにこと笑って私にこう述べた。
「面白い話?」
「実はですね、私はアイヌなのですよ」
「ああ、成程」 
 それを聞いて納得した。道理で肌も白いし髭も濃い筈だ。だからといってこうまでパバロッティに似ているというのはないだろうと思っていたが。
「そうですか」
「ええ。そのアイヌの古いお話ですが」
「どういったものですか?」
 コーヒーを右手に持って口をつけながらマスターに問うた。白い店の中で黒いコーヒーの香りが漂う。外の涼しげなのとその熱さもまた何か絶妙までの対比に思えた。
「恋人のお話ですが。どうでしょうか」
「そういった話は好きです」
 私はにこりと笑ってマスターにそう述べた。コーヒーの甘さが口の中を支配しているせいかどうにも言葉まで甘くなっているのがわかる。苦い中の甘さ、それがコーヒーの甘さだった。
「ですから宜しければお話下さい」
「わかりました。それでは」
「ええ」
 マスターは一呼吸置いて話をはじめた。私はその話に忽ちのうちに引き込まれていったのだった。まるで夢の中に落ちていくように。
 
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