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蒼き夢の果てに

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第6章 流されて異界
  第96話 狭間の世界

 
前書き
 第96話を更新します。

 次回更新は、
 8月27日、『蒼き夢の果てに』第97話
 タイトルは、『ここは何処、私は誰?』です。
 

 
 永遠とも、一瞬とも付かない時間。動くモノも、動かない物も何もない。……ただ、赤い色に覆われただけの単調な世界。
 耳に届くのは夢幻のフルートの調べと、野生的なドラムのリズム。
 薔薇の香気に包まれた無限に広がる世界。

 ただひたすら、落下……。自らがそちらの方が下だ、と認識している方向に向け、移動し続ける俺。

 周囲を見渡し、そう考えた俺。しかし、その考えは直ぐに首を横に振って否定された。
 そう、おそらくは色彩、音色、それに香りも俺がそう感じて居るだけに過ぎない。この場所に対応する……と思われる場所の知識が産み出した幻。その幻を、俺自身が現実の物だと認識しているに過ぎない状況なのだと。

 そう考えた瞬間。
 最初にフルートとドラムの音色が消えた。
 次に、周囲を包んでいた薔薇の香気が消えた。
 そして、おぼろげながらに世界を照らし続けて居た赤い光が消えた。

 最後に、永遠に続くかと思われた落下する感覚さえも消えた。

 後に残るのは虚無。何も見えず、何も聞こえず、何も感じる事が出来ない。ただ、何も存在しない、と言う事のみが実感できる空虚な世界。
 自分自身と言う感覚さえ失いかねない状況。
 そう。暗闇すら存在するかどうかも判らない虚無の中に溶けだして行く自分。何処から何処までが自分で、何処からが自分以外なのかも判らない世界。
 もしかすると……。いやここが、ヨグ・ソトースが封じられていると言われている、自身では脱出する事の出来ない空間の事なのかも知れない。

 薄れ行く意識の中でそう考える続ける俺。考える事を止めたなら、その瞬間に俺自身が消滅する。そんな恐怖に囚われた状態。
 四肢が。五感が存在して居るのかどうかさえ怪しい現状では、考える事が唯一、自分を保つ事が出来る行為ですから。

 その瞬間。再び世界……俺の浮かぶ空間に光が灯った。
 本当に微かな光輝。明かりと、そして距離と言う物をこの時に取り戻す事に成功した。

 遙か彼方にぼんやりと灯る赤い光。すべての人間的感覚を失い掛けた俺は、その感覚を失いたくない一心から、そちらの方に意識を向ける。
 強く、強く、強く。もう二度と自らを失わない為に。

 もう二度と何も失わない様に……。

 一度距離と方向を確認……認識すると、そちらに近付こうと考えるだけで移動を開始する俺。
 いや、感覚から言うと、俺自身が動いて居ると言うよりは光源の方から俺に近付いて来ている、と言う感覚。
 体感時間すらも狂わされて居るのか、一瞬の事なのか、それともそれなりに時間が掛かっているのか判らない時間の後……。

 これは……樹?

 はっきりと形を捉えられるようになった時の感想はそれ。赤い光に照らされた中心にそびえ立つ巨木。俺の感覚では未だかなりの距離が有るように感じるのだが、その空間に存在する樹木がかなりの大きさに見えていると言う事。
 それはまるで天を支えるかのような巨木。かなり離れたここからでも判る、天にも届くかと思われる高く差しのべられた梢。揺れる葉がこすれ合って奏でる楽は爽やかな風の調べか。天の御柱。世界樹などと言う世界を支えると言う巨木伝説は、この目の前に現れた樹の事を霊視した結果なのかも知れない。そう考えさせるに相応しい威容を俺に伝えて来ていた。

 そうして……。

 その樹により近付く事により臭覚が復活。息をしているのかさえ曖昧な状態の中、感じるようになったのは異様な臭気。
 それはそう。まるで()えた肉が発するかのような、酸っぱい臭い。明らかに肉の類が腐った……。どう考えても、世界を支えると伝説で伝えられた樹とは考えられない異常な臭気。
 そして同時に感じる視線。
 それまでは俺以外の気配を感じる事のなかったこの異様な空間に感じる、圧倒的多数の何モノかの気配。
 湿った、悪意のある視線が俺に纏わり付くようで非常に不快な感覚。

 ――マズイ!

 これ以上、その巨大な樹に近付くは危険。復活したすべての感覚がそう警鐘を鳴らす。
 いや、それだけではない。その理由は既に判って居る。

 近付くに従って感じるようになった違和感。
 周囲に積み重なるように降り注いでいる枯れた葉。そして折れた枝。
 太い幹に絡み付くのは鱗に覆われた巨大な胴体。それは、幹を何重にも渡って締め上げ、枝をへし折り、そして多くの葉を枯らす瘴気を発す。
 いや、何故か大地の下。根に噛り付く小さなソレたちの姿も見える。

 その刹那。
 赤く光る無機質な……爬虫類に相応しい瞳が俺の姿を捉えた。

 こいつはヨルムンガンドなのか?
 明かりに向かって進んで居た状態から急制動を掛け、瞬時にそう考える俺。
 巨大な樹に絡み付き、その樹を枯らそうとしている蛇。頭頂部は完全に枯死している事が見て取れ、一部の枝や葉。根からのみ僅かに生を感じさせる。
 そして、その無数の蛇たちが放つのは死臭。この鼻……いや、俺の精神さえも腐らせるような腐臭が、この巨木を死に追いやって居るのは想像に難くない。

 その瞬間、鎌首をもたげ、突如目の前に現れた闖入者を睥睨していたその蛇から放たれる何か。
 それは凄まじいまでの悪臭を放つ黒き液体。

 枯葉を、へし折られた枝……俺の胴体ほどの太さのある枯れ枝さえも巻き込み、赤の世界を奔る津波と化した黒き液体が、俺を目指して殺到する!

 身体の前面にすべての能力。生来の重力を操る能力を動員して、その黒き濁流を防ぐ不可視の防壁を発生させる俺。
 これはおそらく、伝説に伝えられるヨルムンガンドの毒液。北欧神話最強の雷神と言われたトールでさえも殺すと言われている毒液。こいつを一滴でも浴びて仕舞えば、俺程度の存在など跡形もなく消されて仕舞う可能性が大。
 そして同時に、この場所からの早期撤退を望む。

 強く、強く、強く。この場所からの移動を強く願う。何モノに願うのかは判らない。しかし、このままここに居ても自我が霧散して仕舞うか、ヨルムンガンドに消されて仕舞うかの二択しかない。
 その瞬間。急速に後退――赤い光に包まれ、現在枯死しつつある巨木と、それに巻き付く巨大な蛇から遠ざかり始める俺。

 しかし! そう、しかし!

 その逃げ出す俺の速度に倍する速度で追いすがる黒き奔流。それは正に津波にも似た様相。三方向から包み込むように接近してくる巨大な黒い壁。
 マズイ、これでは逃げ切れない!

 次々と立ち上げ続ける不可視の壁。しかし、世界樹を取り囲むとさえ言われているヨルムンガンドの吐き出す毒の前では、そんな物は何の役にも立たない。ラグナロクの際に世界を洗うと表現されるヨルムンガンドの吐息を此の世でもない、ましてや彼の世でもない、閉ざされた世界で味わう事になろうとは……。
 思わず、笑いの形に表情を歪める俺。最早覚悟を決めるしかない状態。嗅覚は麻痺したのか、あれほど強く感じていた腐臭も今は感じる事もなく、実体が存在して居るかどうかも判らない現状故に、シルフを起動させての転移魔法も不可能。
 但し、今の俺に本当の意味で表情を浮かべるべき顔が存在して居るのかも疑問な状態、……なのですが。

 刹那。

 急に後方、やや下方に向けて身体が引っ張られる感覚。最後の防壁を突破され、黒き奔流に呑み込まれ掛けた身体が、完全なる無へと帰する寸前に虎口より逃れる事に成功。
 そして――――


☆★☆★☆


「召喚事故?」

 淡い光の向こう側から聞こえる若い女性の声。懐かしいその声に、思わず一歩踏み出そうとして、そのままバランスを崩す俺。
 そう、ここは現実界。出し抜けに戻って来た感覚が身体の各所の異常を訴え、踏み出した足……いや、テスカトリポカ召喚の泉付近で行われた戦闘の結果足首よりも先はすべて失い、倒れかけた身体を支えようと咄嗟に大地に着こうとした右手も存在せず……。
 更に、何故か視界が朱に染まる。いや、何時の間に傷付いたのか不明ですが、何故か左の眼からの出血がその瞬間に始まったのだ。

 しかし……。
 しかし、そんな俺を優しく受け止めてくれる何か。……誰か。

 そうして……。

「あなたの傷は重い。今は無理をしないで欲しい」

 俺を受け止めた少女の普段通りの、……普段と変わりない落ち着いた声音が俺の左耳に届く。そして、何時ものように彼女の洋服を血で汚して行く。
 しかし――
 ――戻って来られた。
 彼女の声に安堵。そしてその言葉の内容と、彼女の香りに落ち着きを取り戻す俺。
 両腋(りょうわき)に回された細い腕。俺を強く抱きしめるその感触と、彼女の華奢な身体に触れる事により妙な安心感を覚えた。

 ゆっくりと閉じる瞳。もう目を開けているのさえ辛い状態。
 まして……。
 まして、彼女が居る場所ならば大丈夫。何も問題はない。
 薄れ行く意識の中で大きく息を吐き、膝立ちになったであろう彼女に全身を預ける俺。ただ、何時の間に其処までの信頼を置くようになったのか少し疑問が残るのですが……。

 それでも、

【すまない、後の事は頼む】

 声さえ出せず、【念話】でのみ彼女……湖の乙女にそう告げた後……。
 それまでずっと保って居られた事が不思議な意識を手放したのだった。


☆★☆★☆


 朝礼の始まりを告げるチャイムが鳴り響く廊下。先に立って進んで行く身長差約二十センチの担任を少し見下ろすような形で付いて行く俺。
 十二月と言う時期。更に、朝と言う時間帯。流石にこの季節の朝は冷たく、閉めきられた廊下の窓を遠くの山から吹き下ろして来る季節風がガタガタと揺らせていた。

 時刻は朝の七時四十五分。下ろし立ての上履きがパタパタと少しマヌケな音を立てながら進む事数分。玄関から入った直ぐの場所に在るホールを見下ろすように二階の廊下を進み、四つ角を右に。一組から順番に並ぶ六番目の教室。一年六組と言う表札が出されている教室の前で立ち止まる担任。
 そうして、

「ここが、貴方がしばらくの間、学ぶ事になる教室よ、忍くん」

 振り返った若い女性から甘い花の香りを感じる。彼女に良く似合うジャスミンの香り。
 矢張り香りと言うのは、その時の気分を変える効果が有るな。そうぼんやりと考える俺。
 但し……。

「本当に、俺が学校に通う必要が有るんですか、綾乃さん?」

 未だ納得したとは言い難い雰囲気でそう答える俺。当然、俺の表情は不満げで、更にやる気もなし。
 もっとも、これは少しの演技が入って居るのも事実なのですが。
 そんな、まったく言う事を聞かない弟のような状態の俺を、少し困ったような表情で見つめる綾乃さん。
 もしかすると、この顔が見たいばかりに、俺はこんなクダラナイ事を口にしたのかも知れない。そう考え始める俺。

 しかし……。

「綾乃さんじゃなくって甲斐先生でしょう。忍くん?」

 そう言いながら問答無用で教室のドアを開く綾乃さん。何と言うか、少し答えがずれて居るような気もしますが、これが俺の良く知って居る普段の彼女の反応。それに冷静に考えると、()()の部屋でゴロゴロして居るよりは余程マシかも知れませんから。

 ドアを開けた瞬間、妙に暖かな空気に包まれ、ここが俺と同年代の人間が集まる学校だと言う事を感じさせられた。
 そう。冬の朝に相応しい……とは言い難いながらも、それでも冷たい空気に支配された廊下と、人の体温。そして、多くの人が存在して居るが故に高い湿度に保たれた教室内の空気との温度差は、おそらく五度程度の違いが有るはずですから。

 ドアを潜り、妙にザワザワした雰囲気の教室内に侵入する俺。それなりの偏差値の学校らしく、教師が入って来た段階では既にすべての生徒たちは自らの席に着いた状態で待ち構えている。

 そのまま教壇の真ん中。すべての生徒の視線の集まる場所にまで歩を進める綾乃……甲斐先生と、教室の入り口辺り。丁度、時間割が貼られている前辺りで立ち止まる俺。

「皆さん、おはようございます」

 生徒たちが着席して視線を上げた時、制服に身を包んだ一同を一当たり見渡した後に、甲斐先生はそう朝の挨拶を行った。
 礼儀正しくて、妙に子供っぽい声。身長は俺よりも二十センチほど低く、化粧っ気の少ない彼女は、どうかすると生徒として席に着いて居る方がしっくり来るような女性。
 そう。小柄で童顔。髪の毛は肩の位置で切り揃えられ、色は当然黒。濃い茶系の瞳を納めた目は優しく、そしておっとりとしたやや下がり気味。高校の教師と言うよりは保育園の保育士さんと言う雰囲気の彼女。

 但し、これでも既婚者。既に旦那さんが居ると言うのだから、世の中間違っている、と思わなくもないのですが。
 俺の暮らして居た世界では三年前……西暦二〇〇〇年に彼女は結婚しましたから。
 まして、この世界でも旧姓の方ではなく、甲斐と言う名字を名乗って居ますから、その辺りの事情は変わらないと思います。
 確かに細部まで完全に一致している訳ではなく、少し違う部分も有るのでもしかすると違う可能性もゼロ、と言う訳ではないのですが……。

「今日は最初に転校生の紹介を行います」

 それまで、一応、視線は教壇の上の甲斐先生の方に向けていながら、意識はかなりの生徒たちが俺の方に向けていた。
 まぁ、こんな季節外れの時期。明後日から二学期の期末試験が始まる日に転校などして来る人間はいないでしょう。
 普通はね。

 どうにも他人の注目を浴びると言う事が苦手な俺なのですが、こんなトコロで怯んでばかりも居られない。取り敢えず、普通の転校生と言う存在を演じるにはどうしたら良いのか……などと考えながら教壇に昇り、黒板に自らの名前を書く。
 そうして振り返り――



 授業が始まると、教室の中と言うのは例え四〇人以上の人間が居たとしても、それぞれ一人きりの時間と成る。教壇の上で初老の数学教師が黒板に向かって重要な公式を板書して居ようとも、それ以外に気がかりな事が自分の中に有ったのならば、そんな事は二の次にされて仕舞うのは仕方がない。……と言うか、正規の授業の前に補習授業が組み込まれているこの高校では、実質、午前八時が一時間目の授業の開始と成って居り……。

 二〇〇二年十二月二日。場所は日本の兵庫県西宮市の県立北高校か……。
 軽く開いたり、閉じたりを繰り返す右手……ハルケギニア世界での最後の戦いの際に失ったはずの右手を見つめながら、自らの置かれた時間。そして場所を改めて考えて見る俺。

 ――あの日。ハルケギニア世界的に言うと聖賢王ジョゼフ治世八年目の最後の日。十二月(ウィンの月) 第四週(ティワズの週)ダエグの曜日。ルルド村の吸血鬼騒動が終息した後に発生したゲルマニア皇太子ヴィルヘルム及びキュルケとの再会。その際に自称名付けざられし者の作り出した次元孔。ヨグ・ソトースの扉(オメガの扉)に囚われて異次元を彷徨(さまよ)い、そこから脱出出来た先は元のハルケギニア世界などではなく地球世界でした。
 但し、ここは俺が元々暮らして居た世界などではなく、まったく別の世界。
 確かに日本語が通用し、俺の唱える仙術が存在し、更に、俺が所属していた水晶宮さえ存在する、元々俺が暮らして居た世界に非常に近い世界であるのは確かなのですが……。

 ただ、この世界の徳島に武神忍の偽名を名乗る水晶宮所属の退魔師は存在して居ませんでした。
 更に、俺が暮らして居た世界は二〇〇三年の世界。其処から召喚されて、ハルケギニア世界で二七〇日以上暮らして来たので、元の世界と同じだけ時間が経過していたとしたら、二〇〇四年の一月末か二月初めに戻って来られるはずなのですが……。

 それで、俺がこの世界。元々暮らして居た世界に帰る事が出来ず、何故、この世界にやって来る事に成ったのかと言うと……。

 俺は、俺の隣の席にて定規で引いたような姿勢で、相変わらず板書され続けている数学の公式をノートに書き留めている少女に視線を送る。
 とても同じ人類とは思えない紫色の髪の毛。銀のフレーム越しに黒板を見つめるその瞳は濃い茶系の色。肌は東洋人の色の白い少女のそれ。

 俺の視線に気付いたのか、無の表情を浮かべた少女が俺の方を向く。
 表情は普段の彼女通り、感情と言う物をすべて失くしたかのような表情を浮かべた彼女が。

「授業に集中した方が良い」

 窘めるような……。しかし、こちらも普段通り静謐な、まるで人生のすべてを悟り切った、もしくはすべてを諦めきったのか、と思わずにはいられない口調でそう話し掛けて来る彼女。
 いや、厳密に言うとこの少女は俺が知って居る彼女では有りません。確かに見た目はまったく同じ。少し毛先の整っていない紫の髪の毛。かなり短い目のボブカット……少女と言うよりは、少年のような髪型。しかし、少年と言うには整い過ぎた淡麗な容姿。
 身長。華奢な身体。その言葉使い。

 そして、何よりも重要な部分。彼女の魂が持つ雰囲気も同じ少女……型人工生命体。

「少し視線が気に成ったか。それはすまなんだな――」

 最後に何故かこの部分も同じ――ハルケギニア世界の湖の乙女と同じセーラー服姿の少女に謝罪の言葉を口にした。
 もっとも、彼女が俺の視線如きを気にするはずはないと思いますけどね。

「――長門さん」

 ひとつ小さく呼吸を吐き出してから、彼女の名前を口にする俺。その瞬間、俺を見つめて居た彼女……長門有希と言う名前の人工生命体の少女から何とも言えない気が発せられた。
 それはとても冷たい。そして、とても哀しい気。
 彼女は何故か、俺が名前を呼ぶ度にこのような気を発するのですが……。

 しかし、それも一瞬。まして表情は一切変える事もなく、微かに首肯いてくれる彼女。そんな仕草ひとつ取ってもハルケギニア世界で出会った水の精霊王、湖の乙女ヴィヴィアンとまったく同じ。

 ただ、何故か彼女は湖の乙女ではなく、そしてここはハルケギニア世界ではなかった。

 俺がこの世界……俺が暮らして居た地球世界に良く似た世界にやって来た理由は、彼女が召喚作業を行ったから。
 何でも、この世界では今年の二月に世界を滅ぼしかねない事件が起こり、その事件を解決したのが俺の右隣の席に座る長門有希と言う名前の人工生命体の少女と、異世界から流されて来た武神忍と言う偽名を名乗る少年だったらしいのですが……。
 もっとも、俺の方の記憶にはそんな事件の記憶など一切ありません。二〇〇二年の二月なら、元の暮らして居た世界で高校入試の直前だったので、そんな厄介な事件……。次元移動の後に羅睺(ラゴウ)悪大星君復活に巻き込まれるような事件を忘れる訳はないでしょう。

 おそらく、その事件を解決したのは俺の異世界同位体。もしかすると魂まで同一の存在の可能性も有るので時間の軸も違う可能性も有りますが、少なくとも今生の俺のなした仕事では有りません。

 それで、その事件の影響……この十二月にも何か事件が起きる可能性が有ったらしく、最初から事件に関係の有ったその異世界同位体の俺を召喚しようとして、異次元に跳ばされていた俺を拾った、と言う事。

 そこまで思考を巡らせた後、もう一度、隣の席の少女を見つめる俺。但し、今度は少し視線に能力を籠めて。
 その俺の瞳に映る薄らとした淡い光の帯。その片方は彼女の元に。そしてもう片方の端は俺の元へと繋がる。
 ……間違いない。俺と彼女の間には、何らかの絆……それも、霊道と言う霊気をやり取り出来る絆が存在する。

 この事態。異次元に跳ばされていた俺を、偶々彼女の行った召喚作業が拾ったと考えるのは容易いでしょう。確かに最初、あの場に居たもう一人の女性。この長門有希と言う少女の仙術の師匠に当たる水輪綾(みなわあや)と言う名前の女性も最初はそう思ったようですから。
 故に、「召喚事故?」……と彼女は言ったのですから。
 しかし、あの場。――倒れ掛かる俺を長門さんが抱き留めてくれる直前に流れ始めた血涙。
 これは、おそらくオーディンの神話の関係。

 更に、ハルケギニア最後の事件で俺が右腕を失った事実。
 これは、ケルトの神々の王ヌァザの神話の関係。ヌァザは戦闘の最中に一度右腕と王位を失い、その後に失った右腕を再生する事で王位を取り戻した、……と言う伝承が有るのですが。
 この部分を今回の事象に当てはめると――
 俺が戦闘で腕を跳ばされた部分が被り、暮らして居たハルケギニアから追放された事により王太子としての位を失った点も被る。
 そして、この世界にやって来て、医療神の水輪綾の指導の元、彼女の弟子である長門有希により俺の右腕や両足を再生して貰う。

 ヌァザの腕を再生させたのは医療神ディアン・ケトとその息子のミアッハでしたから、この部分も微妙に関連性がある。

 後は、この世界から、仕事をやり残しているハルケギニア世界に帰る事が出来たならば、それでこの神話の再現は終わると言うのでしょうか。
 但しこの神話ですら、その戻った先で起きる戦争でヌァザは死亡する、と言う結末が待って居るのですが。

 其処まで思考を進めてから、左手首に回した腕時計に目を遣る俺。
 そして、その瞬間。

 補習の終了を告げるチャイムが教室内に鳴り響いたのでした。


☆★☆★☆


 挨拶が終わり、初老の数学教師がゆっくりと教室の扉を開けて出て行った瞬間。
 ガタンと言う荒々しい音と共に立ち上がる一人の少女。立ち上がった勢いに負けて彼女の座って居た椅子は倒れ、後ろの席に座る男子生徒が反射的にその少女を見つめた。その瞬間、教室内に緊張の糸が走る。

 しかし、そんな事は委細構わず、こちらの方向に視線を向ける少女。
 そして――
 俺の方に向けて大股で接近して来るその少女。長い黒髪をオレンジ色のリボンで纏め、視線はまるで獲物を狙う肉食獣のソレ。
 怒り……とは少し違う感情ながら、あまり御近付きに成りたくない雰囲気を発しているのは間違いない。

 ――って!

 何か良く判らない状態なのですが、これはヤバイ状況。
 向かって来る女生徒の勢いに押されるかのように椅子から立ち上がる俺。
 確かに、正面から突っ込んで来るのがバイアキーや牛頭鬼。ジャガーの戦士ぐらいならばこちらもそれなりの対応をすれば良いだけなのですが、一般人が相手では本気に成ってぶん殴る訳にも行かず、まして、こんなに人目の多い場所で瞬間移動などを使用して逃亡する訳にも行かない。
 本心から言えば、今すぐ窓から逃げ出したいトコロなのですが。二階の窓から。
 その瞬間、俺とその少女の間に立ち塞がる小さな影。

「どきなさい、有希。あたしは其処に居るバカに用があるのよ!」

 今にも、結露で覆われた窓に手を掛けて逃げ出そうとしている俺を指差しながら、そう叫ぶ少女。
 ここでようやく、事前に渡された資料を思い出す俺。この少女は確か……。

「よぉ、ハルヒ。久しぶりやな」

 涼宮ハルヒ。既に消えて仕舞った平行世界では、黒き豊穣の女神シュブ・ニグラスの種子を植え付けられた存在。但し、過去……一九九九年七月七日の歴史が異世界人、及び異世界の未来人に改変される事がなかった為、今年の七月八日以降は、少し奇矯な行動が目立つが普通の少女と成ったらしいのですが。

 ただ、邪神の種子を植え付けられただけとは言え相手がマズイ。黒き豊穣の女神と言えば、門にして鍵ヨグ・ソトースの神妃とも、名付けざられし者ハスターの神妃とも言われる存在。こんな連中に選ばれた人間を野放しにする訳にも行かず……。
 未だに多くの神族の監視対象と成って居る少女らしい。

 それで、彼女と俺の関係は、と言うと……。二月の事件の際に、俺の異世界同位体と多少の関係を築いたらしいのですが。

 非常に軽い感じで声を掛ける俺。間に立ち塞がった長門さんの頭を躱すようにしながら、右手を俺の方に突き出しネクタイを掴もうとするハルヒ。
 しかし!
 そんな、武術の心得がある訳でもない一般人の少女が出して来る手が、本気に成って逃げようとしている俺に触る事が出来る訳などなく――

 紙一重で躱され空を掴むハルヒの右手。しかし、彼女はそんな事で諦めて仕舞うような人間ではなかった。
 続けて大きく振られた左手を、今度は左足を半歩下げる事に因って躱し、
 同時にハルヒと俺の間に立ち塞がって居た長門さんを、右腕で自らの肩の後ろに移動させる。

 その瞬間!
 あまりに大きく振り過ぎた腕が空を切った瞬間、身体のバランスを崩すハルヒ。そのまま倒れ込むと、俺の胸の中に跳び込むような形と成ったのですが――

 しかし、その刹那。ハルヒを後ろから羽交い絞めにする女生徒が一人。

「危ない、涼宮さん!」

 危ないと言う前に、既に羽交い絞めにしている辺りが並みの運動能力ではない。まして、暴れ馬か、もしくは赤いマントに向かって突進して行く猛牛か、と言う勢いで前掛かりに成って居たハルヒを止める力と言うのは、既に真面な女生徒とは思えない。

「どんな経緯が有るのか知りませんが、取り敢えず落ち着いて下さい、涼宮さん」

 まるで松の廊下で刃傷沙汰に及ぼうとした浅野内匠頭を羽交い絞めにする梶川頼照……などではなく、この少女は確か……。

 このクラスの委員長朝倉涼子。
 身長は俺よりは十センチほど低く、長門さんよりは十センチほど高い。髪の毛は……青。俺の髪の毛が淡い蒼穹の蒼なら、彼女は深い蒼穹の蒼。容貌はかなりのレベル。かなりキツイ目の表情のハルヒ、淡い無表情と言う状態が凝る長門さんと比べるとかなり少女らしい雰囲気。
 但し、彼女も人工生命体。この二月……いや、始まりは一九九九年七月七日に始まる異世界からの侵略により生み出された人工生命体。
 もっとも、現在では歴史が元通り、異世界からの侵略など起きて居ない歴史に戻った事に因り彼女はその辺りの記憶を失い、自分は普通の人間だと思い込んで暮らして居る状態。

 確かにやや中途半端な状況ながらも、朝倉涼子と言う人格や存在に罪はなく、世界自体に大きな影響を及ぼさないのならば、この世界に生きて行くのは自由ですから。
 ……と言う名目で彼女、朝倉涼子や、長門有希。もしかするとその他に存在したかも知れない、彼女らと同じ人工生命体たちもこの世界で暮らして居るはずです。

 今年の五月に起きた事件以後に、水晶宮や天中津宮(あまのなかつみや)。ヘブライの聖堂など、それぞれの有力な神族の元に投降をして来た連中は。
 但し、当然のように投降……。彼、彼女らの造物主たる高次元意識体の元に残った連中に関しては、歴史が修正された瞬間、この世界より消滅しているはずですけどね。

「あたしは落ち着いて居るわよ。ただ、其処でバカ面を晒して立って居るヤツと話がしたいだけよ!」

 そう騒ぐハルヒ。朝倉涼子を無理矢理振りほどこうとして身体を左右に振るが、それでもしっかりとしがみついた彼女を振りほどく事は出来ない。
 ……おそらく、今は一般人だと思い込んで暮らして居る朝倉涼子なのですが、元々は何らかの意図の元、高次元意識体に因り作成された人工生命体。元邪神の苗床とされた人間でも簡単に振りほどく事の出来ない身体的なスペックは有して居ると言う事なのでしょう。

 しかし……。

【なぁ、長門さん】

 どうにも、腑に落ちない点が有るので、自らの右肩の後ろに存在する紫の髪の毛を持つ少女に【指向性の念話】を繋げる俺。
 その問い掛けに対して、実際の言葉にしての答えも、更に【念話】にしての答えも、彼女は返して来る事は有りませんでした。しかし、雰囲気だけで言葉を続けるような気を発した長門有希。
 但し、同時に妙に哀しげな雰囲気が流れて来ているのですが……。

 もっとも、この部分に関して今はあまり関係ないでしょう。

【事前に渡して貰った資料から言うと、ハルヒと俺の関係は友人だと言う事なんやけど、この世界では友人関係でも修羅場が展開される世界なのか?】

 そう考え、少し冗談めかした言葉使い。……かなり明るい雰囲気で問い掛ける俺。まるで彼女、長門さんの暗い雰囲気を払拭させようとするかのように。
 それに、どうにも、ここで遇ったが百年目。……と言う雰囲気で絡まれているようにしか思えないのですが。
 まして、ただ話がしたいだけの相手のネクタイを掴んでどうしようと言うのですか、彼女は。ネクタイを掴んだら、後は自分の方に引き寄せるしか利用価値などないと思うのですが。

【彼女とあなたの関係は単なる友人関係。それ以上の物ではない】

 しかし、感情の籠らない抑揚に乏しい口調で返された答えはコレ。俺の冗談に関しては素直に無視されたのか、それとも修羅場と言う言葉の意味が判らなかったのかについては不明ですが。

【それに、彼女が話したいだけと言うのなら、本当に話がしたいだけ】

 俺が答えを返さないでいる事に不安を覚えた訳ではないのでしょうが、こう言う説明を続ける長門さん。
 う~む。彼女の言葉を信用しない、と言う選択肢はないと思うので、この俺を睨み付けている美少女は本当に俺と話がしたいだけなのでしょう。

 そう考えた瞬間。
 何と言うか絶妙なタイミングで鳴り響くチャイム。時刻は八時三十五分。これは一時限目の予鈴。

「さぁ、涼宮さん。話をするのは授業が終わった後でも良いでしょう?」

 ズルズルとハルヒを引っ張って行きながら、そう言う朝倉涼子。う~む、かなり暴れている同年代の少女を抑え込んで引っ張って行ける少女。これはいくらなんでも高スペック過ぎるのでは……。

「命拾いしたわね」

 そうしてこちらの方は、まるでドラマに登場する悪役の捨て台詞のような物を残して連れて行かれるハルヒ。じたばたと両腕や両足を動かしているが、しかし、朝倉涼子の縛めは堅く彼女の自由を完全に奪って仕舞っている。
 しかし……。
 う~む。長門さんの言う事を信用するのなら、もしかするとハルヒが手を出して来た時に、素直にネクタイを掴ませてやれば……。
 ここまで妙な騒動には成らなかったのでは。

 確かに勢いに押されたとは言え、相手は一般人の少女。その彼女にネクタイを掴ませるぐらいで俺に被害を与えられる訳はない。
 それだけの事で彼女……涼宮ハルヒは納得したのでは――

 そう考えてから、長門さんの方に視線を向ける俺。何故か乗っけから対応を誤ったような気がして、少しアレな気分なのですが……。

 俺の視線と彼女の視線。そのふたつの視線が絡まった瞬間。
 一時限目の開始を告げるチャイムが教室内に鳴り響いたのだった。

 
 

 
後書き
 朝倉涼子に関しては原作からキャラを変えて居ます。
 どれぐらい変わって居るかと言うと、オオカミと犬神ぐらいには変えて有ります。

 ……これで判ったら奇跡だわ。

 それでは次回タイトルは、『ここは何処、私は誰?』です。

 追記。
 この世界は飽くまでも『ヴァレンタインから一週間』の世界の延長線上に有る世界です。
 故に、涼宮ハルヒ原作に於ける12月に発生する『消失事件』とは違った事件が進行して行きます。
 悪しからず、御了承下さい。

 追記2。
 これから9月3日まで毎週水曜日に更新を行います。
 
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