「IF物語 ベルセルク編 銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)」の感想


 
コメント
謀略には成敗がつきもの。
だが、オーベルシュタインには、原作・本作に共通して「謀略が失敗した時の備えが(奇妙なほど)ない」。

焦土作戦(短期決戦)を選んだのはその後に皇帝を暗殺して内乱を起こし、天下を取るというシナリオあっての事だが、リカバーが効かない乾坤一擲の策であり、バックアップがまるで無い。

そして、いかなる人間でも平気で犠牲にする。

これはオーベルシュタインが弄する策に顕著な特徴で、最後には皇帝ラインハルトすら囮にした。
しかし、囮にしたならば、「それだけの価値があるものを収穫しなければ」意味が無い。
幾ら死にかけとは言え、皇帝と地球教徒ごときの身体生命は政治的に果たして等価であろうか?

オーベルシュタインは一見リアリストに見えるが、その実「犠牲を払って手に入れたいものの質は見ても、そのために支払う対価の量を見ない」という性質があるのではないか。

彼の策の本質を要約すれば
「交換不能な人間はいない」
というパラダイムに尽きる。

皇帝も交換可能、彼自身も交換可能、ヴェスターラントや辺境の住民に至っては一山幾らに過ぎない。
「帝国全体のため、一部の犠牲は仕方がない」と言うのが彼の言い分だが「いずれも欲しかったのはラインハルトの権力基盤を成立させるための時間と成果(短期決戦に繋げるための政治的効果)であり、結果的に犠牲者が減ったというのは副次効果に過ぎないであろう」。
10億が100億、いや、帝国の半分になったところで、彼ならば策を実行しようとしたのではないか。
「理想の帝国は、生き延びた者が築けば良い(人は交換可能)」という考えで。

大事なものは彼自身の理想の帝国であり、これを達成するためにはいかなるものでも犠牲にして厭わない。
だが、その理想は他人には決して告げない。
告げたら他人が従う訳はないからだ。
犠牲の量を厭わない手口を見て、常人なら怖気を奮う事は、彼も理解している。
だが、その怖気の本質は全く理解できていないのであろう。
理想に忠実過ぎるというのは、一種の機能的な狂気なのだ。
犠牲の量を事実上計量しないのであれば、理性が働いていないという事に等しい。
オーベルシュタインが人命に計量する価値は、あまりに軽すぎる。
その軽さに彼自身の命を含めていようが、これは平仄が合わない。
謀略には必ず他人が介在する。
「他人がどう感じているか」を正確に洞察できないならば、謀略家としての価値は半減しよう。

一見「非情だが有能」に見えるオーベルシュタインの策が、原作でも本作でも一定の破れを見せる理由は、その辺にあるのではないか。

実際、前回も提督たちを煽り、巻き込み、動かす事だけは成功しているものの、その戦意は低い。
ラインハルトがオーベルシュタインを統御できていない(足元で知らぬ間に謀略を実行され、かつ失敗してもその事実すら後付でしか知らされない)事が明白になっているからだ。
これは、「上に十分な器量がない」という事になる。
しかも、総参謀長の弄する策には洞察力の不足から来る齟齬が出ている。
これでは、戦いづらいであろう。