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相棒は妹

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志乃「手をどかして」

 カラオケから帰ったのは、あれから四時間ぐらいした後だった。今日は機材について詳しく知るという理由でいつもより早めに切り上げたのだ。課題曲は五回ぐらい歌ったが、いずれも満足出来る結果では無かった。だが、少しずつ前に進んでいるという感覚を意識的に味わう事が出来たので、モチベーションは上がった。自然と自信が漲ってくるのが分かる。

 志乃と話して、夜の八時頃に俺の部屋で機材について話す事が決まっている。最初は志乃の部屋という予定だったのだが、部屋が散らかってるだとか下着出しっぱなしだとか言いまくって、仕方なく俺の部屋になった。どうやら俺を部屋に入れたくないらしい。ちょっと寂しいが、年頃の女の子にそれを無理矢理求めるのも気持ち悪いだろう。

 家に帰って、俺は自室に戻り、風呂までの時間をパソコンで潰す事にした。遊ぶためでは無い。動画作りの要である機材について少しでも自分で知るためだ。そして、俺のせいで話が停滞しすぎないようにするためだ。

 パソコンを立ち上げて、全ての機能が整うまで待つ。その後インターネットにアクセスし、『動画作り 機材』と調べてみた。

 すると、二〇〇万程の検索結果がヒットし、俺はわずかに「おお」とか声を上げてしまった。

 とりあえず、比較的に信頼要素の高いと思われる一番上の検索結果をクリックしてみた。しかし、その内容は果たして自分に関係があるのか、よく分からなくなってしまった。

 その記事には、全世界共通の動画配信サイト『you tool』 での動画投稿の方法が書いてあって、目を凝らして読んでみたが、正直分からなかった。

 仕方なくそれの下にあった記事をクリックしてみたところ、そこには動画作りの基本が載っていて、機材の名前一覧や用語一覧、動画作りの準備や編集など、さらなる検索の群が構えていた。それ以上開くと頭が痛くなりそうだったので、インターネット自体を閉じてしまった。

 ここまでで分かった事は、動画作りというのは、時間的にも予算的にも精神的にも手の込んだ作業だという現実だった。さっきまでの俺、舐めすぎだったな。

 *****

 どこの空間よりも温かさを充満させている風呂場は、この時期が一番気持ち良い気がする。夏は暑くて湯船に浸かりたくないし、冬は寒さに冷えまくった足が突然の温度変化に耐え切れず、お湯を浴びるとビリビリする。やっぱり安定こそ人生そのものだなぁ、とか爺臭い事を考えてしまった自分に苦笑してしまう。

 話を戻すと、本当に春ってのは丁度いい。花粉症なんていうものがなけりゃ尚更素晴らしい。俺以外の家族の皆が花粉症持ってないっておかしいだろ。俺だけ仲間外れかよ。まぁ、いつもの事だけどさ。

 だが、風呂ってのは花粉症とか関係無く平等だ。確かに目は痒いけれど、過去のトラウマが我慢を持続させてくれている。つまり、この空間こそ、このシーズンにおけるオアシスなのだと勝手に考えている。これを最近志乃に力説したところ、「バカじゃん死ねば」と一掃されたのは内緒だ。

 それに風呂っていうのは、代々身体を存分に休めてくれる憩いの場だ。どれだけ耳が課題曲のメロディーで浸食されていようが、風呂の中では心地良いBGMとなって勝手に流れ続けている。俺は風呂が大好きだ。愛しているといっても過言では無い。

 だが、そんな俺の幸せのひと時を邪魔する奴は、週に三回ぐらい現れる。そして今日はまさにそれが起きてしまった。

 「兄貴、いつまで風呂入ってんの。もう三〇分経つんだけど」

 なんて間の悪い妹だろうか。今日という今日はゆっくり風呂を楽しみたかったのに。でも言い訳をするとこちらが立場的に危うくなりそうので、ここは素直に出るしかない。やはり、この家族は男性より女性の方が強いのだと、改めて実感させられる。

 とはいえ、大事な時間を邪魔されて今の俺はちょっと不機嫌だった。志乃の文句に答えを返さず、そのまますたすたと浴室を出てしまった。

 出てしまったのだ。

 そこに、返答を待って仏頂面を浮かべていた志乃の存在に気付かずに。

 たった一枚。たった一枚のバスルームと着替え場所を隔てる壁を、俺は何の感慨も抱かずにスライドさせてしまう。

 その先に、我が妹が待ち構えている事も忘れて。

 「……あ」

 最初に声を上げたのは……俺?いや違う。志乃だ。

 志乃の身長は、俺の胸骨ぐらいまでで、女子高生にしては小柄な体格である。その上、俺と志乃の間には五〇センチ程の、恐ろしいぐらいに程良い間隔が置かれていた。それはつまり、俺の全裸を一目で見れてしまうわけで……

 「う、うおおおおおああああああ!?おま、お、お、お前なんでいんの!?」

 まるで恋する男子に偶然自分の全裸を見られてしまった女子のように身体の部位を手や腕で隠す俺。だが、その心情は乙女のような恥ずかしさなんかじゃない。妹に『握り潰されるかもしれない』という危機感が全身をねっとりと纏わりつく、嫌な感覚だった。

 そんな俺の心を知ってか知らずか――いや、知らないだろう――志乃は右手から何か筒状の物を取り出した。って、

 「それゴキブリジェットじゃねぇか!何俺に向けてプシューしようとしてんだバカそれを元に戻しやがれいや間違えた戻してくださいお願いします!」

 握り潰されるのと同等だぞオイ!あれ、でも別の意味で死滅すんのかな……?

 「兄貴、その手をどかして。私にとって、それはゴキブリのように汚らくて不愉快極まりない汚物」

 「そんな言い方すんじゃねえ!これは人類の繁栄には必要不可欠な、いわば希望なんだ!」

 「そもそもの話、兄貴が私を無視して勝手にお風呂場から出てきたのが悪い」

 「うっ」

 いきなり正論を言われた。確かに、自分の楽しみを否定されてイラッときて言葉を返さなかったのは事実だ。志乃め、俺の話は無視するくせに、自分の話になると理屈を通してきやがって。理不尽だろホント。

 「だからゴキブリジェットでそのファッキンで胸糞悪いそれを二度と使えないようにする」

 「いやそれおかしいって!俺に一生小便我慢しろってのかよ!意図的に子孫作らせないって、
お前は悪魔か!」

 やべえ、こいつマジやべえ。刑罰が重すぎる。つか、女子ってこういう時『きゃああ!』みたいに叫ばないの?今のこいつ、すげえ目が据わってるんだけど。

 だが、そんな異常事態などお構いなしに、リビングの方から母さんの声が聞こえてくる。

 「伊月―、早く出ちゃってよ。まだ志乃が風呂に入ってないんだから」

 「分かってる!でも、そう言える状態じゃないんだよ!」

 何とかして助けてもらおうと遠回しにSOSを求めたのだが、あのコス作り大好きな母にそれが通じるとは思えない。

 そして、俺の予想はこういう時ばっかり的確にヒットしてしまう。

 「はいはい、スッキリした後がめんどくさい状態なのは分かってるから」

 ああもう、ホントここの人達おかしい。何がどうしたらそんな話になるのだろうか。きっとこの家族の先祖は遠い星々からやって来た宇宙人と親交して、血が混ざっちゃったんだろう。宇宙人に血があるかどうかなんてこの際どうでも良いわ。

 「……しょうがない。兄貴の生涯を悲しいものにはしたくないから諦める」

 その時、志乃がゴキブリジェットの噴射口を下げ、俺に背を向けた。マジか、許してくれた!

 「でも、次に私に見せた時には確実に殺す」

 ……この家、風呂をもう一つ増設した方がいいんじゃないか?と心の底から思った俺だった。

 *****

 風呂で温まった身体は瞬く間に冷えてしまい、もう一回入りたいなーとか考えたが、この後志乃と機材についての話があるのでそういうわけにもいかない。風呂と志乃、どっちを取るかって言われたら、迷うけど志乃を選ぶな。その時の俺に拒否権は無いだろうし。

 時刻は午後二〇時。そして、針がそれを丁度示した瞬間、志乃は手にカタログやノートパソコンを持ってやって来た。なんかチンドン屋みたいだな。

 「俺の部屋にもパソコンあるぞ。何で持ってきたんだ?」

 「兄貴のパソコン、二世代前じゃん。その上エロ動画見てるなら重くなりまくってて当然だと思って」

 「古いのは認めるがエロ動画見てる事を前提にすんな。お前のパソコンだって母さんのお古だろが」

 そんな刺々しいやり取りを済ませた後、志乃はカタログを俺に見せてきた。いくつか箇所にチェックされているので、恐らく前もって読んでいたのだろう。

 俺は折れているページの部分を見てみる。と、そこには何やら大きそうな機械やらマイクやらヘッドフォンやらが一ヵ所に詰め込まれており、目次で確かめてみると、これは機材の全てを揃えたスターターセットだという事が分かった。

 ちなみに値段は……二八〇〇〇円。破格すぎるぞ、これは。志乃が言ってた値段より高いじゃんかよ。

 「兄貴、バイトすれば?」

 志乃は俺の心を読むように、パソコンを弄りながらそんな事を言ってくる。だが、その意見にはけっこう説得力があった。

 なるほど、バイトか。これまで部活とか部活とか部活とかでやった事無かったな。でも、健一郎の奴は野球しながらバイトもしてるんだよな。確かコンビニのバイトだっけ。

 「ううん、でも俺計算苦手なんだよな」

 「あとコミュ力もね」

 「少なからずお前よりは他人と接する機会は多いぞ」

 「兄貴、私に喧嘩売ってるの?」

 うお、自分から突っ込んできたくせに怒ってる。なんてめんどくせぇ奴だ。でもバイトするという手も考えておこうかな。

 再びカタログのチェックしてあるページを見ていると、スターターセットの他に単品での説明やオプションの説明も載っていた。ふむ、俺が見たサイトの内容と全然違うぞ。

 「名前覚えるのは後でいいから、とりあえずそれぞれの機材が何のためのものかを覚えて」

 志乃は依然としてパソコンから目を離さないが、俺にそう呟く。それもそうだな。よし、頑張って読んでみよう。

 単品で紹介されているページを読んでみると、最初はただただ読んでいるだけという感じだったが、いつの間にか俺は次へ次へとページを捲っていた。これが不思議な話で、読み進めるうちに自然と頭の中で機材を使っている構図が浮かんでくるのだ。そして、さらに確実な絵図を求めるように俺の手が先へ先へと促すのだ。

 知識を知識で覆い被せているような、奇妙な感覚が手の先から脳髄に伝わり、俺の好奇心を活性化させる。

 一通り説明を読み、頭を上げると、志乃がこちらを見つめていた。何事かと聞く前に、志乃はぼそりと呟く。

 「随分読み耽ってたね」

 「え?」

 それがどういう意味かよく分からなかったが、志乃が時計を見せてきて、やっと意味が分かった。どうやらカタログを夢中に読み過ぎていたようだ。

 「ごめん、もしかしてずっと待ってた?」

 「まぁね。別に構わないけど」

 そう言って志乃はパソコンの画面に目を移し、マウスを器用に使ってみせる。そして、俺に目で合図してきたので、横からパソコンの画面を覗く。

 そこには、先程スターターセットという欄で見た赤い機材が『you tool』で公開されていた。志乃は動画をスタートさせ、その後は部屋に音声だけが響いた。

 数分後、動画が終了し、志乃はそのページを閉じる。ゆっくりと俺の方に振り向き、「どうだった」と問うた。

 「文章だけで想像してた時も凄いって思ったけど、実際に動く形で見てもっと凄いって思えた。そうか、これが動画作りに必要な物か」

 先程俺が見ていたサイトに、こんな機材の事は一切書かれていなかった。それを志乃に聞いてみると、きょとんとした顔をした。

 「私は、歌い手になるために必要な物を調べただけなんだけど」

 「歌い手?」

 「だって、表向きのメインは兄貴の歌声じゃん」

 何だと。だって動画作りって……。

 「兄貴、最初に自分で正解出しておいて忘れるとか単細胞の極み」

 何やらもの凄いバカにされた事を言われている。俺が答えを出した。何か重要な事言ったっけか……。

 「おお。言ってたわ。そうだ、俺が歌って志乃がピアノ。それの動画作りだった」

 今まで動画作りという単語に捕らわれ過ぎて完全に頭から離れていた。いかん。これだと俺が課題曲をマスターしても意味が無い事になっちまう。これは、単細胞の極みと言われても仕方ない気がした。

 そこで、俺は志乃の発言に気になるところを発見し、それについて聞いてみた。

 「ところで、裏のメインって何なんだ?」

 「ふふっ」

 珍しく志乃が純粋な笑みを浮かべる。そして、一気にドヤ顔をして言い放つ。

 「もちろん、私のピアノの事だけど?」

 その時の志乃は、嫌味一つ無い、ちょっと嬉しそうな笑みを浮かべていた。なんか、こんな笑顔みたの久しぶりだな。

 その後、俺と志乃は機材について検討し合い、意見をまとめた結果、赤が基調のスターターセットとオプションのマイクスタンド、ポップガードを通販で買う事になった。全額俺が支払い、という鬼畜は無く、俺と志乃の割り勘になった。

 しかし、マイクスタンドを買う分の金が俺には足りず、それだけ志乃が全額負担という事になってしまった。

 「兄貴はやっぱりバイトするべきだと思う」

 「本当にごめん。この借りは必ず返すから」

 機材が届くまで一週間。よし、それまでにもっと練習しておかなくちゃな。

 できれば、日常生活もこのまま充実していてほしい。そう切に願いながら、俺は志乃との話し合いをお開きにした。 
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