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樹界の王

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20話

「由香、一体どこまで」
 山の中を、軽装でずんずんと進む由香をボクは追っていた。
「面白いものが見れる」
 由香は妖しい笑みを浮かべて、それ以上の説明はしなかった。
 不意に、由香が立ち止まる。彼女がその場で屈みこむと、ほら、と地面を指さした。
「猪の糞だ。新しい」
 近づくと、確かに猪らしい糞があった。鹿の小さく硬い糞と違い、猪の糞は区別がつきやすい。
 ボクは警戒するように周囲を見渡した。
「大人の猪だ」
 由香は立ち上がって再び山の中を進み始めた。
「もうすぐだ」
「ここはボク達の領域じゃない。不用意に立ち入るべきじゃない」
 ボクが警告すると、彼女は嗤った。
「先客がいるんだ。ここ最近、違法猟をやっている奴がいる」
 由香が何を考えているのか、ボクには分からなかった。
 樹々の間を抜けると、物音がした。反射的に足を止める。
 ボクは由香をちらりと見てから、独断で声をあげた。
「人が通ります」
 獣と間違えて撃たれたら堪らない。
 ボクの心配を打ち消すように、由香が軽い言葉で言う。
「大丈夫だよ」
 由香はそう言って、更に奥へ足を踏み入れた。
 つん、と獣の臭いが鼻をついた。
 同時に、視界に猪が飛び込んできた。
 ボクたちに向かって真っ直ぐと飛び込んでくる。
「由香!」
 反射的に由香の身体を引っ張って、地面に倒れ込む。
 受け身を取ると同時に、眼前まで迫っていた猪は動きを止めていた。
「カナメ、今のは良い動きだった。しかし、早とちりだよ。注意が足りていない」
 ボクの腕の中で由香がおかしそうに笑って、それから立ち上がって土を叩いた。
「あの猪はあそこから動けない。罠を踏んだ可哀想な子羊だよ」
 由香の言う通り、猪の足にはロープが絡まっていた。しかし、罠の可動範囲ならば自由に動く事ができる。猪は警戒するように一度距離をとって、こちらを威嚇していた。
「……猟期は、まだだよね」
「ああ、違法猟だよ。前々からこの山を巡回してる奴がいるんだ。腕は良いね。私達みたいな遊びでやってるわけじゃない、プロの猟師だ」
 ボクは猪の動きに注意を払いながら、それで、と由香に問いを投げかけた。
「どうするの? 散弾銃はおろか、空気銃もない。まさか、逃がすわけじゃないよね」
 由香はクスクスと笑って、バックパックを地面に下ろした。そして、空き缶を取り出した。
「カナメ、知っているかい」
 彼女は、それに刺さっていた胴板を抜き取る。
「私達が普段、何気なくコーヒーに入れる砂糖」
 銅板を抜いた後、空き缶から不可解な音が響いた。
「それは、こんなにも恐ろしいものになりうるんだ」
 ひゅ、と彼女は鮮やかなサイドスローでそれを猪に向かって放り投げた。
 次の瞬間、激しい轟音とともに、空き缶が炸裂した。
 閃光。平衡感覚が失われる。
 咄嗟の事に身が竦み、防御行動に遅延が生じる。
 呆然とするボクの耳に、猪の悲鳴じみた鳴き声が轟いた。
 全ては一瞬だった。
 由香が放った空き缶は爆発を起こし、猪の半身を吹き飛ばしていた。
「ねえ、カナメ。資格や申請が煩わしい散弾銃なんていらないんだよ。身近なものと、ちょっとした知識。それだけで、格上の生物を殺す事ができる」
 焼けた臭いが、鼻をついた。
 赤色の肉片が、緑色の自然と対照的なコントラストを描いていた。
「必要なのは、ちょっとした倫理能力の欠如。それだけで全てが変わる。必要なのは、本当にそれだけだ。システムは強大で、あるいは、とても脆い。そして、カナメ。システムが巨大化するほど、そのセキュリティは困難になる。私の言っている意味が、わかるよね、カナメ」
 周囲にへばりついた肉片を背景に、由香は目を輝かせる。その双眸の向こうには、得体のしれない衝動が蠢いていた。
 義務教育中の、最後の秋。
 彼女は、とても美しく成長していた。



『カナメ?』
 ラウネシアの思考を、ボクの感応能力が拾う。
 思考の海から急速に浮上したボクは、反射的にラウネシアを見上げた。
「何ですか?」
『何を、考えているのですか』
「少し、昔の事を思い出していました」
 そう言って、立ち上がる。
 森中の樹々が、穏やかに光合成をしている。
 戦争があったとは思えない程、穏やかな空間。
 ここはとても、落ち着く。
 食糧問題に関して、ボクは殆ど諦め始めていた。
 ラウネシアの原型種という特性を考えれば、人間の食料となるものはラウネシアが独占していると考えても不自然ではない。
 この森に、ラウネシアの果実以外の食料は存在しない。そう結論づけたボクは、無駄な散策を放棄していた。
 そうなれば、自然とラウネシアの元で過ごす時間が増える。
 ボクは特にやることもなく、ただ時間を過ごしていた。
 亡蟲は、そのうち洗練されたドクトリンに辿り着くだろう。平行して航空部隊の有効活用もされ、ラウネシアの軍勢は不利な対面を強いられる。
 その時に備え、ボクは既にラウネシアに一部の樹木の改良を頼んでいる。もう、ボクに出来る事は殆どない。
 人間一人に戦争の行方を左右できるほどの力はない。ボクが目指すのは、戦術的勝利ではない。勝機はないに等しいけれど、相手の勝ち筋を崩す事だけを考えてなければ、どちみち勝利はありえない。
『カナメ』
 ラウネシアが、ボクに語りかけてくる。
『敵の指揮官に相当する何かは、迷い人だと推測しましたね。カナメはもし、敵が同郷の人間であったとしても、私を裏切りませんか?』
 偽りを許さないように、ラウネシアの双眸が真っ直ぐとボクを捉えていた。
 ボクは一拍置いてから、ええ、と頷いた。
「ラウネシア。人は、人に対して慈しみ、愛し合う力があると言われています。でも、ボクはその力を持って生まれなかった。どこかに置き去りにしてしまった」



 脳裡に、由香の言葉がリフレインする。
「ねえ、カナメ。君は人間に対して一種のディスコミュニケーションを引き起こしている。植物の心を直接読み取れるという特性が、君と植物を近づけた。でも、人の心は読めない。その差異が、人に対しての共感能力を著しく低下させている」



「その代わり、ボクは植物の心を読み取る事ができました。同じ人を異物のように感じて、植物だけの世界を夢想してきました」
 だから、と自然に言葉が繋がった。
「帰還願望もありません。あの世界は、ボクがいるべき世界ではなかったのだと思います。同族に対して特別な感情はありません。ラウネシアに最後まで付き合うつもりです」
 ラウネシアは僅かに、意外そうな顔を浮かべた。
『カナメは、自分を人ではなく植物に近しい存在と定儀づけているわけですか』
 その問いには、すぐに答える事ができなかった。
 ただ、頷いた。
「そうかもしれません」 
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