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英雄王の再来

作者:moota
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第8騎 帰還

 
前書き
こんにちは、mootaです。

話数を重ねる毎に、文字数が増える傾向です。その為、更新い時間が・・。
精進します。

では、どうぞ。 

 
第8騎 帰還



アトゥス王国暦358年5月5日 昼
王都シャフラス アイナェル神殿 中庭
修道騎士 ユリアステラ・イェニ


 花の匂いが漂う。甘く、鼻の奥を擽る様に思えるもので、人によっては憐憫さえ感じるかもしれない。色は、最高級の絨毯のように多彩な色を見せ、心を華やかにさせる。そんな場所に私は身体を横たえ、白い修道服を甘い風に靡かせていた。

思いを馳せる・・・あの人に。甘美の花々に身体を横たえた一時間前、私は修道院の院長に呼ばれ、彼女の私室へと足を運んだ。窓に背を向け、椅子に座り、こちらに悲愴の表情を見せている彼女は、私が部屋の扉を完全に締め切った事を確認する。そして、年相応に皺が目立つ頬を動かして、まだ他の者に話してはいけないという“秘密の話”を始めた。

「ユリアステラ、ノイエルン殿下が亡くなった事は本当のようだわ。3日ほど前に伝えられた情報は間違いではなかったの。」
可愛らしい、そんな言葉が似合う初老の女性は、目を伏せ、悲しみに肩を震わせる。彼女の悲しみは、私の比ではないだろう。アトゥス王国の3人の兄弟たちは皆、アイナェル神殿を住まいに育ってきたのだ。当然、院長とは毎日のように顔を合わせ、彼らは“祖母”の様に、彼女は“孫”のように仲を通わせる。

「ミティマ様・・・お気を確かに。」

「ごめんなさい。あなたを呼んだのは、慰めてもらうつもりではないのだけど。あの可愛らしくて、賢かったあの子を思うと・・・。」
そこでまた、彼女の頬を涙が伝った。開いている窓から燦々とした太陽の光が射しこみ、部屋を明るく照らしている。暖かい風が吹き抜け、白く軽やかな紗幕を揺らす。私はそんな彼女の手を取り、優しく包む。悲しみに震え、冷たくなっているその手を。

「・・・泣かないで下さい。ノイエルン様も、ミティマ様が泣いておられると知れば、きっと辛くお感じでしょう。“生きる者の義務は、死々たる者を尊ぶ事にある”、亡くなった者を嘆き悲しむ事よりも、その者の生きた航跡と、成し得た功績を尊ぶべきだと、ネストイル王も仰っているではございませんか。」

「そうね、ごめんなさい。」
彼女はそう言って、深く深呼吸をする。ゆっくりと、その思いを心の奥深くに吸い込むように。そうして、2度3度深呼吸した後、彼女はいつもの落ち着いた老婆の顔を見せた。

「・・ごめんなさいね。ユリアステラ。」
もう一度、落ち着いた声で謝罪する。

「いえ、お気になさらないで下さい。ミティマ様の御心を鑑みれば、当たり前のことです。」

「ありがとう・・・。あ、それでね。あなたを呼んだのは、エル様の事でなの。」
心に、少しばかりの緊張が走る。心配でならなかったあの人・・私が心配するなど、恐れ多い事だとは分かっている。それでも、あの人に思いを馳せる時間は多かった。
 ミティマ様は、王城として使用しているアイナェル神殿の建造物最高責任者である為、多くの情報が集まってくる。今上の王、ジンセルス王も国政、財政、人との関係性など、多岐に渡る事柄で相談に持ち寄っていた。

「トルティヤ平原において、エル様の機転でアカイア王国軍を退けた事は知っていますよね?」

「はい。もちろんです。」
彼女の顔には、少しばかりの笑顔が見える。言わんとしている話は、恐らく悪い事ではないのだろう。春の陽気さを含む風で揺れていた紗幕は、今は静かに垂れ下がっている。その為か、春の陽気にじんわりと、服の下に汗を感じた。

「その後、クッカシャヴィー河に援軍として向かったのも?」
こくん、と首を縦に振って答える。

「エル様は、クッカシャヴィー河でもご活躍されて、チェルバエニア皇国軍を退けたそうよ。お怪我もなく、この1週間の内には帰還すると早馬があったそうです。本当は、軍事に関する事だから内緒の話なのだけれど。あなたには・・教えて置いた方がいいかもと思ってね。」

「・・・よかった。」
静かに、囁くように呟いた。止まっていた風が吹き始め、白く美しい紗幕を揺らす。風は私の身体をも吹き抜け、汗を感じていた所がひんやりとする。

「あぁ、よかった・・・。」
もう一度、囁く。手を胸の前に重ね、瞼を閉じる。いつも、その瞼の裏に映る“あの人”は、無事であったのだ。

 その後、少しばかりの話をして部屋を後にした。そして、そのまま中庭に足を向け、そこに体を横たえたのである。中庭を吹き抜ける風は、部屋にいた時よりも花の匂いを多く含み、甘さを感じた。それが体を撫で、暖かい日差しも相まって眠気を感じる。
ふと、先ほど自分が言った言葉が頭に浮かぶ。“生きる者の義務は、死々たる者を尊ぶ事にある”と言う言葉は、建国の始祖アイナ王の夫であるネストイル王の私記に残された一文である。そしてそれには、続きがある。“尊ぶは難し、されど、意思を聞くはより難し”という言葉・・・この言葉の中心は“意思を聞く”と言う所で、これは“死んだ者の意思は変わる事はない”という意味。つまり、死ねば何もかもが終わりとなる。その人が描いた夢も、思いも、気持ちも全てが砂で造られた城のように風に流されて消えるのだ。ネストイル王が、最愛の妻アイナ王が亡くなった後、どのような気持ちで彼女を思ったかが、良く分かるだろう。

「エル様・・・」
そう呟いた言葉は、甘い香りがする風へと流されていった。



アトゥス王国暦358年5月5日 夜
トルティヤ平原東部 ヴェイズタヤの野
アカイア王国軍陣営 総督 テリール・シェルコット


 深い濃い色をした雲が夜空を覆い、月明かりすら頼りに出来ない宵闇が辺りを包んでいた。その夜空と同じ色を心に写す者達が、静かに蠢いていた。馬には縄を噛ませ、人間の兵士たちも紙を咥える。重く、音が鳴る甲冑は必要な部分を残して身に纏い、出来るだけ物音を立てない事に徹し、疲れて寝ているであろう敵を襲おうとしているのだ。その徹底ぶりには、誰もが関心したに違いない。それほどまでに、テリール・シェルコットがこの戦闘に懸けている気持ちが大きいのである。

 彼らの敵―エル・シュトラディール率いる一陣が、予定していた行軍路を辿り、ヴェイズタヤの野に現れたのは5月5日の昼過ぎの事であった。彼らは手早く円蓋、天幕を立て、柵を周りに張り巡らせたのである。それから彼らが寝静まるまでは、野営の端で小火が起きたくらいで、その他には何も警戒するようなところはなかった。

「斥候の報告はどうだ?」
静かに、問い掛けた。月明かりもない宵闇の中、張り詰めたような静寂が包み、自ずと緊張が高まる。

「はい、シェルコット総督。敵は行軍に疲れ、深い眠りについているようで、とても静かだそうです。夜が暮れる前には、中央の円蓋にエル・シュトラディールの姿も確認しております。」

「ふむ。予定通りと言う事か。味方の準備は万事整っておるか?」

「はい、滞りなく。」
力強く、そう答えた。それを聞いたテリールは、自分の後ろに広がる暗闇へと手を振る。その合図と共に、暗闇の中に無数の黒い影が蠢いた。彼は、アカイア王国南方方面軍第一等将軍バショーセル・トルディより、2万の軍隊を預かっていたのである。失敗を犯した人間に対し、2万の指揮権を与える所を見れば、バショーセルはただの “奇人”とは言えないのかもしれない。
 テリール率いる2万の大軍は、静かに、息を潜めてアトゥス王国軍の野営地へと近づいた。この時、天と地が彼らに味方していた。空は月明かりが漏れる事もないほどに重い雲が覆っており、アトゥス王国軍の野営地は小高くなっており、アカイア王国軍が移動していた所は少しばかり低くなっていた為、野営地のかがり火の光も届かなかったのだ。野営地に500フェルグ(500m)と近づいても、特に変化が見られない。勝利を確信したテリールは、鬨の声を上げた。

「それ、今だ!かかれ!」
その声に応えて、アカイア王国軍2万は大声を上げて、アトゥス王国軍の野営地へと飛び込んだのである。しかし、彼らはすぐに、その異様さを目の当たりにする。

「なんだ?誰もいないぞ!」

「こっちの天幕もだ!蛻の殻だぞ!」

「くそ、どうなっている!?」
野営地へと勢いよく踏込み、かがり火を蹴り倒し、薪を撒き散らす。白地に赤い縁取りの天幕を長剣で斬り裂き、声を張り上げた。勢いよく、柵の内側へとなだれ込み、寝て呆けているであろうアトゥス兵を血祭りに上げる筈であったのに、蓋を開けてみれば野営地は蛻の殻であったのだ。誰もが戸惑い、次への行動を見い出せていなかった時、一人のアカイア兵が異様な匂いに気が付いた。

「お、おい!この天幕、油の匂いがするぞ!」
その言葉が鳴り響いた刹那、宵闇に包まれる空は、重い雲で覆われているにも関わらず、彼らの頭上に無数の星が瞬いた。それは夜空に留まる事なく、彼らに降り注いだのである。

「ひ、火矢だ!計られたんだ!」
油がしみ込んだ天幕や円蓋は、瞬く間に燃え上がった。野営地は燃え盛る炎に包まれ、怒号と悲鳴、そして人間の焼ける匂いが立ち込めたのである。アカイア兵たちは、我先にその場から逃げようとした。しかし、勝気に走った大軍が柵に囲まれた場所へと入り込んだのだ、彼らは多くの逃げ惑う仲間とアトゥス軍が立てた柵に阻まれ思うように動けない。押し合い、潰し合い、踏み倒しても炎から逃げる事は叶わなかった。
 アトゥス王国軍野営地の柵の中で災厄に塗れずに済んだ他の兵たちも、味方が炎に包まれるの目の当たりにし、困惑と混乱に動揺する中、新たな災厄に塗れようとしていた。その彼らの周りで、猛々しい声が響いたのである。

「突撃!」
その声に応じて、野営地を闇に乗じて抜け出していたアトゥス王国軍が襲い掛かった。約6千3百の完全武装した騎兵と歩兵が、炎に反射する赤い刃を煌めかせて、状況に混乱し、反応に遅れたアカイア兵の血と肉片を撒き散らしたのだ。特に、敵に見つからないように重く音の鳴る甲冑を脱ぎ、軽装でいた彼らは、普段のように戦うことが出来ず、いとも簡単にその身を地に臥していく。
 戦場となったアトゥス王国軍の野営地では、轟轟と炎が燃え盛り、月明りすらない夜を煌々と照らしていた。悲鳴とうめき声、人間の焼ける匂いが充満し、吸った者の吐き気を刺激する。それはまさに、高温の炎と、高熱の大地を思い起こさせる“地獄”と、言えるようであった。そんな“地獄”の中、混乱する兵たちを押しのけ、踏み倒し、我先に逃げようとする男の姿が見えた。

「くそ、くそ、くそ!またしてもしてやられたのか、私は!どうしてだ?どこからだ?」
そんな悲鳴に似た声を、上げる。赤く燃え上がる炎と、濛々と昇る黒い煙が視界を支配する。人間であったモノが燃え、言い難い匂いが嗅覚を、悲鳴と怒号、燃えながら死んでいく人間の呻く声が聴覚を支配する。服と甲冑の隙間から高温の空気が入り込み、肌を焼く。呼吸をするだけで、喉を焼いているようだ。あまりにも熱く、吹き出る汗はすぐさまに蒸発する。

「どけぇ!」
意識が朦朧としているのか、ふらふらと目の前に現れた味方を力一杯に蹴り倒す。もはや、軍の指揮など知ったことではない。逃げなければ・・・2万の兵を借りて挑み、再び負けた。この場を何とかしようとも、本隊へ戻ればデューナー参謀長のように、物言わぬ顔を晒す事となるだろう。

「し、シェルコット総督!どこに行かれるのですか!?」
もう少しで野営地の外へと這い出れそうだと言う時に、悲鳴にも似た声に呼び止められた。しかし、テリールは無視して歩を進めようとした。声を掛けたアカイア兵は、テリールの前に立ち塞がり、周りの音に負けない位の声を上げる。

「総督!我が軍は総崩れ、もはや、軍隊として機能などしておりません。しかし、それでも指揮官が逃げようとするとは、如何なものですか!?」

「・・・・・れ」
小さく、呟く。

「え?」

「黙れぇ!」
一瞬の間、テリールは叫びながら、赤く反射する長剣を振り抜いた。思いも由らぬアカイア兵は反応に遅れ、長剣は彼に吸い込まれるように、頸椎を赤い血飛沫と共に砕いた。骨が砕ける鈍い音と、口から泡を吹くような音が響く。

「黙れ!黙れ!黙れ!黙れ!黙れ!黙れ!」
既に絶命しているアカイア兵を、長剣で何度も叩き付けながら狂ったように叫ぶ。不幸にも指揮官に斬られたアカイア兵は、人の形を失くし、ただの肉塊と成す。
 大きく肩で息をしながら、手を膝に置く。息をする度に吐き気が強くなり、次第に我慢出来なくなり、嘔吐した。地面に茶色の汚物が滴り落ち、酸っぱい匂いが立ち込めた。視界が滲み、目に涙が溜まっている事に気付く。溜めきれなくなり、頬に落ちる涙は、周りの熱で蒸発する。自分の嘔吐物の上とも関わらず、力が抜け、崩れ落ちた。身体が震え、天を見上げる。

「なんだよ・・・なんなんだよ、これは。」
その視線の先には、吸い込まれそうな程に黒い、宵闇の空間が広がっていた。



アトゥス王国歴358年5月5日 深夜
トルティヤ平原東部 ヴェイズタヤの野
従卒 ルチル・ラウリラ


 宵闇に包まれている筈の草原を、大きな災厄の塊が煌々と照らしている。辺りは1ルシフェルグ(1km)もの距離を、明るくさせるほどであった。それを考えれば、アカイア軍(殊更、テリール・シェルコット)にとって、どれほどの災厄であったか分かるだろう。
 戦闘が終了してから既に2時間が経過している。しかし、アトゥス王国軍の野営地であった場所は、今も尚、炎に包まれ、嘔吐を催すような人間の焦げる匂いが立ち込めていた。

 ちらりと、前に立つ“人”を見た。燃え盛る炎の明かりが、まだ、幼さが残るその顔を異形の様に見せる。ヴェイズタヤの野に広がる光景と、この匂いを感じても、彼の表情が変わる事はない。私よりも3つも下の筈なのに、随分と年上に見えるモノだ。
ふと、そんな彼に弟が声を掛ける。

「あ、あの・・・」
しかし、私がそれを遮った。同じ容姿を持つ弟・・ソイニの腕を掴み、ゆっくりと首を横に振る。その動作に、ソイニは意図を理解したのだろう、開いていた口を閉ざした。

「・・・構わないよ、ルチル。ソイニ、どうしたんだい?」
その声に、私は驚いた。彼は、私達より少しばかり前に立っており、振り向かなければ、今の一連の動作は分からない筈だ。そんな事を気に掛ける私とは裏腹に、ソイニは嬉々として話し掛ける。

「今回の戦闘、凄いですね。野営地を組んだ後、小火を起こして注意を引き、その内に野営地を抜けて待ち伏せを仕返すなんて・・・。」

「いや、そうじゃないよ。それは、現場での小細工に過ぎない。この戦闘の根幹は、シャプール砦で、テリール・シェルコットに“喧嘩”を見せた事に始まる。必要な“駒”を適切な場所に配置して、時宜に仕事をする・・・それだけで、今回の戦闘は“必然”となる。」
その言葉に、まじまじと彼の顔を見てしまう。私達が従卒として最初の仕事を頂いて、テリール・シェルコットの部屋を見張り、ヒュセル王子が彼に接触する所を盗み見た。その行軍路は偽物で、彼らが混乱する事が狙いなのだと思っていた。しかし、それは想像の範疇を超えるものだ。行軍路は“本物”で、それがアカイア王国軍に渡り、こちらを狙って来る事を利用する。エル様を討つ為に分断したアカイア王国軍は、それぞれの要因で油断する事となる。彼の、13歳になる男の子の一挙一動に、“謀略”と言うどす黒いモノが渦巻いていた。
冷たい汗が、背中を流れ落ちる。それに身体の芯から震えるように、身震いをする。恐ろしい・・・そう、感じているのかもしれない。
 顔を上げたその時、私の体温は一気に下がった。エル様が、こちらを見ていたのだ。

「怖い?・・・ルチル。」
静かに、でも少しばかりの濁りを見せる。私はその問い掛けに、勢いよく首を横に何度も振った。それに彼は苦笑しつつ、手に持った一枚布の外套を羽織る。

「5月とは言え、夜は冷えるな・・・。ソイニ、ルチル、各士騎長、兵騎長を集めてくれ。すぐにでも行軍を再開し、シャプール方面に残るアカイア王国軍の本隊を奇襲する。」
振り返って、私達の間を通りつつ言葉を発した。黒い地に、白い百合の花が刺繍されている外套が、吹き抜ける強い風に揺れる。炎に赤く照らさられる彼の顔は、少しだけ、“憂い”を含んでいるように見えた。

 この“ヴェイズタヤの野”で行われた戦闘において、アカイア王国軍は、そのほぼ半数である1万人を優に超える戦死者を出した。燃え盛る炎に巻かれた者、アトゥス兵に斬られた者、味方と同士討ちとなった者・・・あの混乱する戦場で、多くの死に方を選ばされた。残りのアカイア兵は、軍として組織できなくなった為に、混乱する戦場から我先にと逃げ出したのである。火計を掛けられ、思いもしない奇襲に逃げ場を失い、逃げる事しか考える事が出来なかった。逃げた者たちは“敵前逃亡者”の烙印を押される。故国へと帰る事も出来ないし、敵国であるこの地で生きる事も難しい。彼らの今後の人生には、苦難と困難が待ち受ける事、それは誰もがその意見を違える事はない。



アトゥス王国歴358年5月6日 早朝
トルティヤ平原北部 グシャフールスの丘
アカイア王国軍本隊 


 “グシャフールスの丘”は東西10ルシフェルグ(10km)、南北8ルシフェルグ(8km)に渡って、緩やかな起伏を見せるマイシュタニ丘陵の一部である。マイシュタニ丘陵の山頂は252フェルグ(この場合、海抜252m)あり、“グシャフールスの丘”は186フェルグ(海抜186m)ほどの高さがあった。また、マイシュタニ丘陵は、北東部分が急斜面で、北から西、西から南にかけては緩斜面が続いている。その緩斜面部分に“グシャフールスの丘“があり、後背を攻められる心配がない故に、アカイア王国軍がそこに南西向きへと陣を敷いていた。

 グシャフールスの丘に駐留するアカイア王国南方方面軍は、総勢2万9千2百である。つい、3日ほど前までは、後2万の軍勢が居た。しかし、アトゥス王国軍を奇襲する為に、テリール・シェルコットが率い、分かれていたのである。それでも、その戦力は3万に近い。これ程の大軍の中に居る兵たちは、一種の疾病を患う。それは所謂、数に慢心し、注意を怠るという疾病だ。南西方面に緩斜面を有するグシャフールスの丘に布陣している為、彼らの意識は其方に向いている。多くの斥候兵や見張り、その他の哨戒兵も基本、南西方面に重点を置いていたのだ。その南西方面とは逆の方向、北東方面は急斜面とは言え、登れない事もなく、通常の軍隊においては無視できない地形である。しかし、アカイア王国軍の兵達には、疾病が蔓延しており、自分たちが無意識のうちに、それらを思考の外に置いていた。いや、むしろ、それを無視している事にすら気づいていなかったのかもしれない。そして、それは彼らの目に見える形で、“症状”として現れるのである。

 薄く広がる朝靄の中、澄んだ空気が丘を包んでいる。靄を取り払うように朝日が稜線上に顔を出す。絵具を零したように、朱色の光が辺りを輝かせていく。水面に、少しずつ溶いた絵具を落とすように。朝日が顔を出すのと同時に、次第に気温が上がり朝靄が姿を消す。辺りは朝の澄んだ空気が満たし、遠くまでの風景を目に写すことが出来る。
 明暮の朝、そう言える風景であった。そんな早朝を、彼らは無理強いに起こされた。しかし、それは鳥の囀りでも、動物の嘶きでも、寝遅れてしまった時の上官からの叱責が原因ではない。地を突き上げるような地響きによってであった。

 慌てて飛び起きた見張りは、グシャフールスの丘の北東、このマイシュタニ丘陵の頂上付近に目をやった。その稜線上に朝日が被り、朱い光が強く輝き縁を染め上げる。彼は、眩しさに目を細めた。目が覚めたばかりの眼には、刺激が強いのだ。目を何度も擦り、瞬く。やっと目は慣れてきた頃だ、それはポツリポツリと現れた。朱く輝く稜線上に朝日を後ろに控えさせた黒い影が、湧き始めたのだ。最初はゆっくりと、しかし次第に早く、多く、数を増やしていく。そして、彼がはっきりとそれらを見据えた頃、その黒い影は、稜線を埋め尽くしていた。



同時刻
トルティヤ平原北部 グシャフールスの丘
従卒 エーリク・キステリナル


 私は飛び起きた。文字通り、地より20ルミフェルグ(20cm)程も跳ね上がり、落ちた際の衝撃と痛みで、数秒動けなかった。
 早朝、朝日が昇り始めた頃である。バショーセル将軍を起こす時間はまだ先なので、もう少し寝る事が出来たのに。私は、地を突き上げるような地響きに、そして、その地響きを体現するかのような大きな声の轟に起こされたのだ。大地と空気を震わせ、その振動は、私の心臓を高まらせた。兎にも角にも、天幕を飛び出した。

 眩い朝日の光が目に差し込み、瞼を瞬かせる。その明るさに眼が慣れず、周りをはっきりと捉える事が出来ない。ゆっくりと周りの輪郭を捉え、光景がその瞳に写った。
天幕が燃え、濛々と黒い煙を吐き出している。燃えたぎるそれは、上空へと舞い上がり火の粉を地上へと振らせていた。それを縫うように逃げ惑うアカイア兵、血に濡れ、汗で汚れる顔を恐怖が彩っている。中には腕が無い者、足や手首が無い者もいる。辺りは焦げ臭い匂いと、血臭が混じり合い、悲鳴と怒号、金属の弾き合う音、逃げ惑う兵の軍靴が秩序なく地を踏みしめ、勢いと秩序たる馬蹄が響いている。

「なん、だ・・。これは・・・。」
そう、呟いた。言い得ぬ匂いと光景に、咄嗟に口を手で覆う。何たる光景か、昨夜までの戦勝気分が自らを蒸し返すようである。テリール・シェルコットが齎した情報は、それほどまでの価値を有していたし、それに溺れる程、エル・シュトラディールという人間を恨んでいたのだ。いや、嫉妬と言ってもいい。
 ふと、馬蹄が後背に響いた。私は振り返ることなく、咄嗟に身を縮める。先ほどまで私の頭があった場所を、空気を割いて白刃が切り裂いた。アトゥスの騎兵が、通り様に立ち竦む私に斬りかかったのだった。それに失敗した騎兵は、一度だけ舌打ちをして、そのまま違う獲物を探すように駆けて行った。

「あ、危ない。ここまで敵兵が入り込んでいる。しかも、騎兵は陣地内を駆け巡っているとは、それ程までに我が軍は混乱し、秩序だって行動できていないのか・・。」
あちこちに味方の死体が転がり、呻き、もうすぐその仲間になろうとしている者も多くいる。心情的には、彼らに声を掛けてやりたいが、自分の仕事をせねばならない。バショーセル・トルディ将軍の安否を確認しなければ。この混乱の最中であっても、真面目にそんな事を考えた。敵の騎兵に気を付けつつ、将軍の天幕へと急いだ。

 将軍が陣中、寝泊りする天幕は豪奢と言って良い。希少な生糸で編んだ布に、赤色の染料を塗り込み、金、銀の装飾を施したもので、まるで宮殿のようである。しかし、それは今や燃え盛り、黒い煙を濛々と立ち上げ、黒い煤で見るも無残な物へと化していた。

「将軍!バショーセル将軍は何処に!?」
燃えているのも気にせずに、天幕へと走り込む。そこにあった物は、全裸で床に寝転がる一つの死体と、それを家畜でも見るような目で眺めている生きた人間であった。その人間の手に、血で濡れた短剣を持っている。短剣から滴る赤色の血は、その真下に小さな池を作っていた。

「将軍!ご無事でしたか・・。」
私は生きた人間の方へと声を掛けた。床に眠る死体は、若く、均整の取れた肉体をしている男だ。恐らく、同衾していた者であろう。バショーセル・トルディ将軍が男色家である事は、軍の中では有名で、その“被害”にあったものは数が知れないと言う。

「ふふ、ふははは!」
背筋を、氷塊が擦り落ちた。全身に鳥肌が立ち、心臓は壊れる程に鼓動を早くする。死体を眺めていた将軍は、私の問い掛けに笑い声で応えたのだ。何に笑っているのか、理解する事は出来ない。異様な雰囲気だけが、私に理解出来た。

「敵軍はどこの部隊かしら・・?」

「は、はい!私が見た限りでは、黒地に白い百合・・・エル・シュトラディールかと。」
それを声にした後、私は後悔した。“私が見た限り”などと言う中途半端な情報を告げる事は、この人の琴線に触れるような行為だ。身を固くして、降り掛かるであろう“災厄”に恐怖する。しかし、降りかかったのは、狂人のような罵声でも、血に濡れた短剣でもなかった。

「・・・そう。」

「へ・・?」
間の抜けた返事をしてしまう。それ程に、予想をもし得なかったモノが返ってきたのである。将軍は、沈み込むように背筋を曲げ、下を向いている。手から短剣が滑り落ち、偶然か、同衾していた死体の顔に突き刺さった。鈍い音を立て、さらに血が迸る。

「将軍、逃げませんと!敵の手はそこまで迫っております!」
そう言って、将軍の顔を覗き見るように少し屈む。そうして見えた彼の眼は、今まで見てきた何よりも恐ろしいモノだった。瞳孔が開いたような焦点の合わない眼は、血走り、その瞳に悔恨の色を映していた。

「ひっ・・!」
無意識に後ずさり、足の力が抜け、地面に倒れ込む。将軍はゆっくりと首を回し、こちらに眼を向けた。死体に突き刺さる短剣を抜き取り、身体をこちらへと向ける。ゆっくりと、ゆっくりと足をこちらへと進め、彼との距離は次第に縮まっていく。

「や、やめ・・あ。ああ・・や。」
声に成らぬ音が口から漏れ出す。恐怖に足が竦み、うまく動く事が出来ない。そうこうしている内に、もはや、彼との距離は手を伸ばすほどの距離だった。

「ああああああああ!」
焦点の合わない、血走った眼が私を見据え、手に持つ血で染められた短剣を振り上げた・・・。私の記憶はここで打ち切られ、耳には自分で発したであろう悲鳴が鳴り続いていた。



アトゥス王国歴358年5月10日 昼
王都シャフラス 大通り
アトゥス王国軍


 鉛色をした雲が、王都の空を覆っている。それはひどく重そうで、今にも落ちてくるような錯覚に囚われる。その眼で見る王都は、不思議と暗く灰色に見えた。

 グシャフールスの丘で、アカイア王国南方方面軍の本隊を打ち破った。彼らは策に嵌り、エル・シュトラディールの謀略に踊らされたのだ。テリール・シェルコット率いる2万余の南方方面軍分隊が、エル達を蹂躙すると言う未来に盲信した。それ故に、グシャフールスの丘に残る本隊は油断し、寝呆けていたのだ。後背から急襲したアトゥス軍は大きな抵抗もなく、彼らを蹴散らした。秩序だった反抗もなく、彼らはただ、その丘に血を巻き散し、絶命する。
 グシャフールスの丘が血で染まり、人肉で埋め尽くされた頃、アカイア兵の被害は1万強に上った。油断した所を、さらに後背から思いもよらない攻撃を受け、混乱し、組織として機能しなくなったアカイア軍は、1対6千と言う構図になったのだ。どれだけ多くの兵を抱えようとも、秩序を持ち、組織として機能しない軍は、ただの人間の集まりと言うモノに過ぎない。しかし、多くの戦死者を出したアカイア王国軍だが、その指揮官、バショーセル・トルディを見つける事は出来なかった。その点において、唯一、エルの思い通りにいかなかった。

 何はともあれ、敵の脅威を拭い去ったアトゥス軍は、シャプール砦にいるヒュセル・シュトラディールと合流し、王都へと帰還した。エルがトルティヤ平原に出陣してから、14日を数えた日である。14日とは、軍事行動としては極端に短い。特に、トルティヤ平原中部、クッカシャヴィー河、ヴェイズタヤの野、グシャフールスの丘という4つの戦場を戦ったのである。その軍隊が如何に速く行軍し、どれほどまでに苛烈に敵軍を打ち破ったのかが解るであろう。後世、このエル・シュトラディールの初陣は“雷の如く、天明を駆ける”と評される。“天明”とは文字通り“天空”を射し、そして、彼の“運命”と言う意味をも含んでいた。

 大通りを凱旋したエル・シュトラディールらを包んでいたのは、沈黙であった。アカイア王国軍、チェルバエニア皇国軍を退かせた彼らは、本来、大歓声に包まれていても可笑しくはない。それでは何故、彼らを迎えたのは沈黙であったのか。それは、行軍する彼らの隊列にある一つの荷車がその要因だ。漆喰で塗られたそれは、一つの長細い箱を乗せていた。それもまた漆喰で塗られ、その箱を覆うように、緑の地に金の太陽を刺繍した旗が巻かれていた。そこに、ノイエルン・シュトラディールが眠っているのである。

 大通りに沿って並ぶ民は、顔を俯かせ、肩を震わせ泣いている。これまでのアトゥス王国の歴史の中、王太子や王子が戦死する事はままあった。しかし、民がこれ程までに打ちひしがれた様相を見せる事は、そう多くはなかったであろう。それ程に、ノイエルン・シュトラディール王太子という人間は優秀で、優しく、聡明であったのではないか。この光景を見ながら、エル・シュトラディールはそう、答えに辿り着いた。

 この時代、混迷と言えるアトゥス王国の衰退期で、民に愛された王太子は“無言の帰還”を成したのである。彼が“英雄王の再来”であると願った、彼の弟の手によって。



未明
トルティヤ平原北部 グシャフールスの丘
従卒 エーリク・キステリナル


 暗闇が広がっている。物や色、心でさえも飲み込んでしまいそうな錯覚を覚えてしまう。何も聞こえず、身体を動かす事も出来なかった。これが“死”か・・そう思った。しかし、何も聞こえない筈なのに、一つの声だけが響いた。

「イェンス!こっち!まだ、生きてるわ!」
可愛らしい、素直にそう思ってしまうような声だ。それでいて、凛とした印象をも持つ。重く圧し掛かる瞼を開く。懸命に、力を振り絞って。
 薄く開ける事が出来た視界には、“女神”が写った。金色に輝く、長く少し癖のある髪、絹の様に滑らかで、白い肌・・・あまりにも美しく、綺麗だった。

「しっかりして。大丈夫、もう大丈夫よ。」
彼女は、私の頭を腕で抱える。彼女との距離は一層に近づき、その眼に惹きつけられる。翆玉を思わせるその瞳は、強い意思と、優しさを感じた。顔は、同い年くらいだろうか、幼さを残している。

「ふむ、彼はまだ、軽傷と言えるでしょうか。この戦場では。ヴェイズタヤでもそうでしたが、よほど、一方的に勝敗が決したのでしょうな。何より、死体が無残であるし、戦おうとした形跡が少ない・・・・。」
まだ若い、20代ほどの若い男が駆け寄ってきた。彼の言葉には、僕を抱く彼女を敬うような物言いをする。身分の高い人なのだろうか。

「そうね、とてもひどい。敵と言えど、容赦を全く感じ得ない。これを指揮した指揮官は、きっと人の為りをした“悪魔”に違いないわ。そうとしか・・・思えない。本当に。」
彼女の瞳に翳りが写る。私を抱く腕は、少しばかり振えていた。

「この子は、お助けになるので?」
若い男が問い掛けた。

「当たり前でしょ。」

「敵・・・ではありますが?」
訝しげな表情が見える。敵・・という表現は、何を意味するのか。それを考えようと頭を動かす・・しかし、思いとは逆に意識が薄れていく。

「私は“罪を糺す”為に、行動を起こしました。王統を正すとか、正義を貫くとかそんな事を言うつもりはありません。でも・・でも、“人が人として生きて行けぬ事”など、許したくはないのです。だからこそ、彼を“敵”だからと言って、放っておく事は出来ません。これは、私のわがまま・・・でしょうか?」
彼女の言葉は、何処か“憂い”を含んでいる。言葉の最後に行くにつれて、小さくなっていった。

「いえ、そのような事はありません。ご自身の、御心のままに。」

「ありがとう、イェンス!」

「御礼には及びません。貴女様に、何処までも付き従います。それが、私の務めですから。“御旗のもとに”・・・メェルトリシア“王姫殿下”。」




第8騎 帰還  完
 
 

 
後書き
最後まで読んで頂いて、ありがとうございました。

次回は、「前触れ」です。
最近無かった戦闘のない話になる、予定です。
一段落したエルに、次は何が降りかかるのか・・・ご期待頂ければ、幸いです。


ではでは。 
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