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星の輝き

作者:霊亀
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第36局

 プロ棋士採用試験本戦を目前に控え、奈瀬明日美の心は高ぶっていた。つい先ほどまでは。

 最近は、和気藹々とした雰囲気になる事が多い勉強会だったが、今日は違った。室内は張り詰めたような空気が漂い、ただパチンパチンと石を打つ音のみが響きわたる。

 バチンッ!

 対局相手が石音高く盤上にたたきつけ、思わずビクッとする奈瀬。

 目の前には鬼のような形相をした、怒れる桑原本因坊がいた。

-……うわーん、なんかすごい怒ってるよっ!こっちにらんでるよっ!この前のときは優しそうなおじいちゃんだと思ったのに、いったい何があったのよっ!

 室内の雰囲気を作っていたのは、桑原本因坊だった。勉強会に突然現れた桑原は、先日の穏やかな態度とは一変、近寄りがたいオーラをまとっていた。
 いきなり対局相手にされた奈瀬は涙目だった。


「…緒方さん、何で桑原先生あんなに怒ってるのさ?」

 ヒカルは小声でささやくように対局相手の緒方に尋ねた。

「…先日の碁聖戦で名人に負けたばかりだからか?あそこまで険しい様子は早々見ないんだがな…」

 桑原のほうに目をやりながら、ささやき返す緒方。声が聞こえたのか、桑原がジロリとにらみつけ、慌てて視線を盤上に戻す。

 しばらくして、奈瀬の声が響いた。

「…ありません」
「…ウム」

 終局だった。すると、桑原は大きく息を吐き、いつもの飄々とした表情に戻った。

「ふー、疲れるわい、まったく。名人め、年寄りに面倒なことをさせよって」

 その突然の態度変わりにきょとんとする室内の面々。そんな桑原に声をかけたのはアキラだった。

「あの、桑原先生。お父さんに何を頼まれたんですか?」
「なに、この前の対局で賭けに負けてな。そうしたら、あやつめ、今度プロ試験を受けるヒヨッコ共にプロの気迫を見せてくれとぬかしおってな。わざわざ顔を出してやったんじゃ。まことに人使いの荒いやつじゃな、お前の親父さんは」
「…申し訳ありません」
「まぁ、プロとの対局経験がそれなりにあるお前さんと違って、こっちのお嬢さんはまだまだ経験が不足しているとのことだったんでな。最初にビシッといかせてもらったんじゃ。案の定、手が縮こまっておったわい。ふぉふぉふぉ」
「だって、すっごい怖かったんですよ!もう、表情も全然違ったし!」
「それではいかんのじゃよ。いつどんな相手と向き合っても、常に自分の心は落ち着かせて打たなくてはの。相手に飲まれておっては、自分の碁なぞ打てんわい」

 桑原の言うように、いつも通りの碁が打てなかった奈瀬は歯を食いしばった。

「…そうですね。勉強になりました」
「さて、では初手から並べてみるとするかの」

 桑原の砕けた様子に、室内の空気は和やかなものとなり、ヒカルたちは胸をなでおろした。だが、アキラと緒方はじれったかった。ヒカルとsaiの棋譜の話がしたいのだが、桑原がいるためにできないからだ。

 saiの棋譜のブログは、取りあえず試験段階ということで、外部には非公表で試験的に作ってみようということで緒方とアキラが押し切っていた。現在十局程の棋譜を借りて、アキラが作成に入っている。昔のは清書できていないからと比較的最近の棋譜だったが、どれもが見事な名局だった。緒方の目で見ても、まさにタイトル戦に匹敵するのではないかと思える碁ばかりだった。ぜひ進藤を交えて検討をしたいのだが、なかなか時間が取れないのが問題だった。
 ここ最近の勉強会では芦原が顔を出す事が多く、saiの事を知らされていない芦原の前では話すことができず、芦原本人は理由が分からないまま緒方に八つ当たりされたりもしていた。

 
 その後、検討が落ち着いたところで、桑原が窓際に行きタバコで一服しつつ、思い出したように緒方に尋ねた。

「そういえば、先日の国際アマチュア囲碁カップで途中なにやら騒ぎが起きたといっておったの。緒方君は何か聞いておるかね?」
「ああ、ちょうど私も居合わせましたよ。どうも世界各地で話題になっている碁打ちがいるようで、色々と探している人がかち合ったみたいですね。ネット碁の人物なのですが、非常に強く、負け無し。日本人らしいのですが正体不明なので、多くの参加者たちが探していたみたいですね」
「ほう、それはまた。日本のプロかね?」
「…それがどうも、プロではないのではないか、と噂なんですよ」

 ヒカルに鋭い視線を送りながら、桑原への返事を返す緒方。口調は穏やかだが、その目は鋭かった。

「ほう、ネット碁にのう。わしはああいったのは性にあわんでなぁ」
「ハハハ…、そんな人がいるんだねぇ」
-おや、まぁ。

 冷や汗を流しつつ視線をそらすヒカル。あの目を見続けるのはまずい。

「へ、へー、そんなアマチュアの大会もあるんですね」
 
 ヒカルを横目に、あかりは話題をそらそうと緒方に声をかけた。

「ああ、もう毎年恒例だ。今年の日本の代表選手の島野さんは以前よく名人の研究会に顔を出していた顔なじみでね。ちょっと応援に行ってたんだ。な、アキラ君」
「ええ。島野さんはネット碁はしていなかったけど、他の参加者、特に中国や韓国の選手はかなり熱心に聞いて廻っていたよ。島野さんもかなりしつこく聞かれてたね。どうやら、saiと中国や韓国のプロ棋士たちも対局していたようだね。全員負けているものだからね、結構話題になっていたよ」
「ま、saiに勝てないのは日本のプロも同じなんだがな…」

「saiというのが、その正体不明な人物の名前かね?」
「ええ、ネット上のハンドルネームですがね」

「はいはい、休憩はこれくらいで、次の対局に行きましょうよ。時間がもったいないよ、ね、塔矢君」
「…そうですね、せっかくの機会です。ボクにもご指導をお願いできますか?」
「やれやれ、人使いが荒いのは息子も同じか。ま、仕方ないの」

 一向にそれていかない話題を、奈瀬が強引に打ち切った。

-なんだか、騒ぎになっちゃってるみたいですねぇ。
-はぁ…。まぁ仕方ないことなんだけどな。外野はほっとけばいいさ。強いやつが集まってくる分には佐為は大歓迎だろ?
-それはもう!誰が相手でも、私は負けませんよっ!

 メラメラと燃える佐為を背に、ヒカルは大きく溜息をついた。








 そして、8月の終わり、プロ棋士採用試験の本戦が始まった。

 本戦初日、塔矢アキラと奈瀬明日美は白星で順調なスタートを切った。

  
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