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女房の徳

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第五章


第五章

「昨日の夜わてに教えてくれたやないか」
「昨日の夜って何言うてるん」
 逆にサトの方が言ってきた。
「あんた家におらんかったん」
「だから遊郭でや」
 彼はまだ言う。
「教えてくれたやろ。あの娘にしろって」
「わて昨日の夜家におったで」
 だが彼女はこう返すばかりであった。
「女房は家を守るものやさかいな」
「あれ、家におったんか」
「家のもんに聞いたらええわ」
 彼女は確かな顔と声でこう述べてきた。
「皆同じこと言うから」
「じゃああそこにおったんわ」
「あんたまさかと思うけど」
 怪訝な顔で亭主の顔を見て来た。そのうえで問うてきた。
「お酒残ってるん?」
「お酒って」
「二日酔いの顔出してたらあかんから井戸で水被ってきたらどないや?」
 それで酔いを醒ませということであった。彼が酔っている時はいつもこう言われる。
「今のうちに」
「いや、待ってくれ」
 しかし彼は納得できずにまた言う。
「酔ってはないんや」
「起きとるよな」
「アホ、歩いて寝る奴がおるかい」
 笑ってそう返す。
「ちゃんと目もぱっちりしとるわ」
「じゃあわかっとるんやろ?」
 また亭主に問い返す。
「うちは遊郭になんか行ってへんわ」
「そうか」
「そや。わかったらほら」
 ここでまた急かしてきた。
「店の支度があるさかい」
「ああ、ほな」
 彼はとりあえずは朝飯に向かった。白米に味噌汁、漬物の質素だがそれだけに味わいのある朝飯であった。それを食べてから一日に励むのであった。
 しかしどうしても遊郭で側にサトがいたことが気になって仕方がない。そのことがあってから数日後彼は付き合いのある僧侶と茶室で話をする場を得た。そこで彼にそのことを話してみたのである。二人きりで向かい合ってのことである。
「あの奥さんのですか」
「そうなんですわ」
 静かな落ち着いた和室である。昼下がりののどかな時間の中で茶と菓子を前にして話をしていた。茶は菊五郎が自分で入れたものである。そうしたことも嗜みとして身に着けていた。
「何でかわかりまへんねん。出て来た理由が」
「奥さんは家におったんですな」
「はい」
 僧侶の問いに答える。
「そう言うてますわ。しかも嘘やおまへん」
「確かにそうでっしゃろな」
 僧侶もその言葉に頷く。
「拙僧もそれは嘘ではないと思います」
「それでは一体」
 菊五郎はそれを聞いてまた問うた。
「何でっしゃろ。正直気味も悪うおましてなあ」
「それは霊ですな」
 僧侶はこう言ってきた。言いながら茶を手に取る。
「霊!?」
 菊五郎はそれを聞いて顔を顰めさせてきた。
「あの、それは幾ら何でも」
「信じられませんか?」
「そうですわ。うちのはまだぴんぴんしてまっせ」
 怪訝な顔をしてそう述べる。
「元気なもんですわ。それがどうして」
「霊と言いましても色々おまして」
 僧侶は茶碗を回していた。それが済むとまずは茶を飲んだ。
「色々?」
「はい」
 今度は僧侶が答えた。彼の仕草もまた茶がわかっている丁寧なものであった。お互い風流がわかった者同士で茶を楽しんでもいたのである。
「死んだ人間のだけではおまへんのや」
「生きているもんでもあるんでっか」
「そういうことですわ。多分それでんな」
 彼にそう述べる。
「話を聞く限りは」
「生きていても霊が出る」
「生霊というんですわ」
 そう菊五郎に述べてきた。
「それは」
「生霊ですか」
「死んだ人のは死霊って言いますわ」
 また説明する。
「これがあれでんな。よく言われる霊で」
「成程」
「生霊は魂が離れて出て来るもんなんで。お話を御聞きしたところまさにそれでんな」
「生霊でっか。それで」
 菊五郎はそれを聞いて腕を組んだ。そうして考えに耽るのであった。
「あいつも覚えてないんですな」
「覚えてる場合もあるんですわ」
 僧侶はこうも言う。
「まあそれはそれぞれで。どうやら今回は奥さんが寝てる間に身体から離れて御主人に教えに来たんですな」
「ふむ。あの女はやめとけと」
 その言葉を聞いて頷く。
「そういうことでんな」
「ふうむ。危ない女のことを教えてくれた」
「ええ話でんな」
 そう言ってにこりと笑ってきた。
「おかげで助かりましたんや。それででんな」
「はい」
 話はここで少しよくない方向に進む。僧侶が真面目な顔から笑みに入ったのであった。
「遊郭のお話でんな」
「まあそうですわ。馴染みの」
「成程。まあ拙僧もあそこには行きますので」
「おやおや、それは」
 褒められた話ではないが実際にそうした僧侶は今も昔もいるものである。まああまり酷くはない限りは大目に見てもらえることでもある。祇園にしろ僧侶は中々の上客でもあるのだ。
「それで何処のおなごでっしゃろ」
「それはでんな」
 その店のことを言う。すると僧侶はまた納得した顔になるのであった。
「あそこでっか。あそこはええでんな」
「行かれたことあるんでっか」
「ええ。まあ少しですが」
「そこの二人のおなごのうちどちらかを選ぶことになりまして」
 今度はその時のことを述べる。
「それで。岩手のおなごか秋田のおなごを」
「秋田の」
 それを聞いた僧侶の目の色が変わった。剣呑なものになった。
「あの店の秋田のおなごでっか」
「ええ、そうですわ」
 菊五郎は彼に答えて述べる。
「それが何か」
「奥さんに助けられましたな」
 彼は真顔で菊五郎に述べてきた。
「全く以って。奥さんに感謝するべきですわ」
「何かありますんか?」
 不安になって僧侶に尋ねた。すると予想通りの答えが返ってきた。
「ありますわ。あのおなごは危ないでっせ」
「女房も言うてました」
 そのサトの生霊のことをである。
「だから止めておけと。何か聞いてるんですか」
「簡単に言うと毒婦ですわ」
「毒婦」
 この剣呑な言葉に菊五郎は身震いした。予想していたとはいえどうにも聞きたくない言葉であった。
 
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