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菊と薔薇

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1部分:第一章


第一章

                    菊と薔薇
 船の中で。安曇朱雀は共にいる家の執事に対して尋ねた。
「それで英吉利ですが」
「はい」
「大層美しい国だそうですね」
 こう中年の執事に対して尋ねるのだった。執事は家にそれこそ江戸時代から代々仕えている執事であり名前を若本という。引き締まった顔をしていて黒い髪を後ろに丁寧に撫で付けている。何処か日本人離れした雰囲気がその後ろに撫で付けた髪から感じられた。彼は今船室の中で主家の娘である彼女と話をしていた。クリーム色の壁に赤い絨毯が敷かれ花がテーブルの上に置かれた品のいい部屋の中で水色の振袖に青の袴の彼女に対して話していた。
「素晴らしいものがとても多くて」
「はい、そうです」
 執事は朱雀に対して端整な声と物腰で答えた。
「特に私達が行く倫敦はです」
「はい」
「その繁栄は途方もないものでして」
「途方もないものですか」
「街は何処もかしこも石畳の道があり」
「石畳ですか」
 朱雀は彼の言葉を聞いてその黒く大きな目をさらに丸くさせた。
「何処もかしこも」
「そうです、どの道もです」
「それは素晴らしい」
 朱雀はそのことにまず驚いたのだった。日本はまだそこまで至ってはいなかったのだ。かろうじて帝都東京やそういった大きな街の表通りだけがそうなっていただけであった。
「しかも家は全て煉瓦造りで」
「煉瓦ですか」
「全てです。どの様な小さな家でも」
「信じられませんわ」
 朱雀は今度はその少し横に大きい薄いがそれでいて紅の色が鮮やかな唇を開いて声を出した。
「どんな小さな家でもとは」
「それが英吉利なのです」
「それがですか」
「そして屋敷には」
 彼はさらに彼女に話してきた。
「絨毯が敷き詰められていますが」
「それはどういった絨毯ですか?」
「ラシャです」 
 彼は述べた。
「ラシャの絨毯が至る場所にまで敷き詰められているのです」
「ラシャが至る場所にまで」
 朱雀はそれを聞いて目が眩みそうだった。白い細面の人形を思わせるような顔がそれでぽうっと赤くなる。それ程までに驚いたのである。
「何と贅沢な」
「しかも宮殿の如く石の彫刻があり」
「石の」
 朱雀も話で西洋の宮殿のことは聞いていた。これも彼女にとっては途方もない世界の話であった。
「これがまた実に端整なのです」
「どれもかれもが素晴らしいのですね」
「ですから。御用心下さい」
 恭しく頭を垂れたうえでの今の言葉だった。
「英吉利では粗相はできません」
「わかっていますわ」
 朱雀は執事の今の言葉に対して顔を引き締めさせて答えた。
「それは」
「はい」
「私も。安曇家の息女」
 安曇家は関ヶ原以前より大名、それも二十万石の結構大きな家であった。江戸時代では外様であり幕府の政治に携わることはなかったが名門として知られていた。今は侯爵として華族としてあり事業も幅広く行っている。朱雀はその家の娘なのである。
「恥は知っています」
「それでは」
「例えそのように繁栄している国であっても」
 朱雀の言葉が毅然としたものになっていた。
「我が国にも武士の国としての誇りがあります。それを忘れずに参りましょう」
「その御心意気です。それでは」
「今日は作法の手ほどきですか?」
「いえ、英吉利の言葉です」
 執事はこう彼女に述べた。
「それですが」
「はい、わかりました」
 朱雀も素直に頷く。こうしてその英語の勉強に入るのだった。
 倫敦に着くとまさに執事の若本のいった通りだった。街は至る道が全て石畳であり雨が降ろうとも汚れることはないのがわかる。家々は全て煉瓦でありその赤い色が実に美しい。橋は石であり実に強くあると共に彫刻の様に美しい。街行く人々は皆大きく背筋は伸びしかも立派な服を着ている。馬車までが日本のそれとはまるで違い馬は大きく立派で馬車自体も見事なものだ。これが倫敦であった。
「凄いですね」
「全くです」
 二人はその倫敦を馬車で進んでいた。その立派な馬車で。
「それで私達が今から行くのは」
「はい、ノーザンプール家の御邸宅です」
 執事は朱雀と向かい合って座っている。そのうえで彼女に話したのだ。
「そちらに今から」
「そしてこの国で二年」
 留学でである。こうした留学は当時では滅多にできるものではなかった。ましてや婦女である彼女が。これは極めて異例のことだが彼女の父がこれからは女も世界を知れということで行かせたのである。
 
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