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妾の子

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第四章


第四章

「それだけの覚悟はね。まあこの話はこれまでだよ」
「これまでですか」
「そうだよ。少なくともあんたには変な心配はさせないからね」
「有り難うございます」
「他人行儀だねえ。御礼なんていいんだよ」
 どうしても言葉が自然に出てしまうのであった。
「ほら、さっさと食べな」
「お素麺ですか」
「他に何があるんだい」
 確かに他には何もない。それ以外に何の食べ物はない。これで他に何を食べろというのかというと言われてみれば確かに他にはないのだった。
「折角あんたが作ったお素麺だ。食べてしまいな」
「はい」
「まあついでだから言うけれど」
 さらにその素麺を食べながらカヨに話す。
「あんたさえよければね」
「私さえよければ」
「このお素麺ずっと食べていいんだよ」
 今は素麺はお椀の中になかった。丁度全部食べてしまっていたのだ。
「ずっとね。何だったら冬には鍋でもいいしね」
「お鍋も」
「あんたお鍋も作れるよね」
「ええ、それも」
 作れるのだった。まだ小さいのに料理上手なカヨであった。
「できますけれど」
「だったらあんたが思うのならいていいよ。こっちも一人で御飯食べるのは寂しいからね」
「いいんですか?セツさん」
 戸惑った様子でセツに問うのだった。
「そんなこと。本当に」
「いいよ、本当にね」
 気風のよい声で答えてみせた。
「だから。二人で食べていいんだよ」
「それじゃあ」
「あくまであんた次第だけれどね」
「わかりました」
 この日から数日後夫の同僚達が来たがセツはカヨを引き取ると告げた。カヨもまた彼女の言葉に頷くのだった。こうして話は決まった。カヨはずっとセツと一緒に暮らすことになった。二人の生活は慎ましやかであるが清潔で物静かであり二人はそのまま数年を過ごした。カヨは尋常学校から女学院に進み無事卒業式を迎えた。卒業してから数日経って家で家事をしていると。家に若い軍服の男がやって来たのであった。
「お邪魔します」
「はて」 
 居間にいたセツがその声を聞いて顔をあげた。彼女は丁度裁縫をしていた。カヨは廊下を水拭きしていた。掃除も奇麗にしているのであった。
「あの軍服は」
「はい、あれは」
「陸軍さんのだね」
 言わずと知れた大日本帝国陸軍である。当時の国民から見れば彼等はまさに英雄であった。仲の悪かった海軍もそうだが誰もが憧れる対象だったのだ。
「はて。陸軍さんに知り合いはいないんだけれど」
「またどうしてでしょうか」
「それがわかれば苦労はしないよ」
 裁縫道具をなおしながらカヨに応えた。カヨもカヨで雑巾をしまっていた。
「うちの人は内務省だったしね」
「そうですよね。それでまた」
「誰かおられませんか」
 またその軍人が言ってきた。
「小野田少尉ですが」
「少尉さんかい」
 セツは彼の階級を聞いてこう声をあげた。
「若い人だし。だとすると」
「士官学校を出られた方でしょうか」
「だろうね。市ヶ谷の人かい」
 当時陸軍士官学校は市ヶ谷にあった。その為士官学校卒業者はこう呼ばれたのである。なお当時陸軍士官学校に入ることは東京帝国大学に入ることより困難であった。まさにエリート中のエリートだったのだ。そして陸軍自体も規律厳正であり尚且つ公平な組織ではあった。確かに年功序列や官僚主義等問題があったにしろだ。そうした清潔極まる組織であったのは確かである。人を見る目に関しては甚だ疑問であったが。
「これまた随分な人だねえ」
「憲兵さんですか?」
「憲兵さんが来るような悪いことはしていないよ」
 その自覚はあるセツだった。憲兵は悪い奴をやっつけるものだとおぼろげに思われていた時代である。多分に融通は効かないのは確かだが。
「お金はないけれどね」
「兵隊さんはお金欲しがりませんしね」
「そうだね。じゃあ何で来てるんだろうね」
「おられませんか」
 またその少尉が言ってきた。
「どなたか」
「います」
 カヨがその軍人の声に応えた。
「どなたですか?」
「おられるのですね」
「はい」
 また随分と律儀な言葉のやり取りであった、
「今そちらに伺います」
「あっ、待ちな」
 ここでセツも応えた。
「私も行くから」
「セツさんもですか」
「陸軍さんでもね。男の前に若い娘が一人で出るのは危ないよ」
 そういう用心が為されていた時代である。
「だから。私も行くよ」
「すいません」
「だから。謝らなくていいって言ってるだろ」
 カヨのこうした性格は今もそのままだった。やはり内向きで引っ込み思案な娘のままだった。
「こんな時はね」
「そうでしたね。それは」
「だから一緒に行くよ」
「はい」
 こうして二人で玄関に出た。玄関には長身ですらりとした身体を陸軍の軍服に身を包んだ精悍な青年がいた。引き締まった顔立ちに短く刈った髪がよく似合っている。そんな若者だった。
 
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