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嘆き

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第二章


第二章

「このままではな法善殿は」
「どうなられますか?」
「鬼になられる」
「鬼に?」
「知っていよう。清での話だが」
「清!?ああ」
 側近は今の信綱の言葉で察した。鬼とはこの場合死者からなるもののことを言う。中国では昔より死者のことを鬼と呼ぶのだ。またこの時は丁度中華の王朝が清になった時なのだ。
「そうですね。あちらではああした存在を鬼と呼びましたな」
「嘆きや恨みは何よりも恐ろしい」
 信綱の言葉が険しいものになる。
「だからだ。法善殿もまたな」
「鬼になられると」
「恐ろしい鬼にな。わしの杞憂であればいいのだが」
 信綱は服の中で腕を組み沈痛な顔になっていた。彼は心からそのことを願っていた。しかしであった。残念なことに彼の考えは悪い意味で当たってしまった。法善は亡くなり葬儀となった。その時だった。
「法宝・・・・・・」
「むっ!?」
「誰だ」
 参列していた者達は今の言葉を聞いて思わず周囲を見回した。
「誰か何か言ったか」
「法宝だと!?」
「法宝よ」
 また声がした。今度の声で誰もがその主を察したのだった。
「まさか今の声は」
「いや、そんな馬鹿な」
 葬儀の場所は法善の寺だった。生前の彼の徳を指し示すかのように大きく立派な場所だった。そこに多くの高僧達が集まっている。皆法善の弟子や知り合いの僧侶達である。その僧達が皆聞いたのだ。その声が誰が出したのか。それすらもわかったのだった。
「亡くなられた筈」
「それがどうして今」
「まさか・・・・・・」
 彼等の中に次第に恐怖が走っていく。そしてそれが次第に彼等の中で大きくなっていき。その場を支配してしまった時。彼は出て来た。
「法宝よ・・・・・・」
 棺が起き上がった。開かれたのだ。
 そしてそこから出て来たのは。彼だった。彼が姿を現わしたのだった。
「法宝、何処だ」
「ま、迷われたか」
「僧正、どうして・・・・・・」
 蒼白の顔で目は血走り痩せこけた身体中に青いものが浮き出ていた。それは血管だろうか。死している為にその血管は青い。死人の着物ではなく僧服と袈裟を着ている。しかしそれがかえって禍々しい雰囲気を醸し出していた。今の彼の妖気と合わさって。
「生き返られた!?」
「いや、違う」
 彼等は棺から出て彷徨うようにして歩きだした法善を見て言い合う。
「亡くなられている。間違いなく」
「ではどうして」
「鬼だ」
 弟子の一人が言った。長い間法善を慕っている弟子が無念の声を出した。
「鬼になられたのだ」
「鬼にですか」
「そうだ・・・・・・」
 沈痛な声で語るのだった。
「それ程法宝の死に打ちのめされていたのだ。そうして」
「そんな・・・・・・法善様が」
「あれ程素晴らしい徳を持たれた方が」
「だが。事実だ」
 皆呆然として動けない。身体がすくんでいる。死者でありながら彷徨い歩き部屋を出ようとする法善に対して何もできなかったのだ。
「今こうして僧正様は鬼になられたのだ」
「鬼に」
「それではもう」
「どうしようもない」
 思いを必死に振り切るようにしての言葉だった。
「鬼になられたのだ。最早そうなってはもう」
 どうしようもないと言うばかりだった。法善は寺を出てそのまま法宝の前に至った。そこの前にずっと立ち人が来たならば恐ろしい目で見据えて言うのだった。
「法宝は誰にも渡さん」
 こう言うのだった。
「わしが育て慈しんできたのじゃ。その法宝は誰にも」 
 渡さないというのだった。生前の嘆きがそのまま妄執になり法宝の墓の前で留まるのだった。近寄ればそれだけで恐ろしい祟りがあり多くの者が病に倒れるようになった。この話もまた江戸にまで伝わり自然と信綱の耳にも入ったのだった。そして将軍の耳にも。
「伊豆よ」
「はい」
 この時の将軍は三代将軍家光である。家康の孫であり幼名は彼と同じ竹千代であった。弟との間で後味の悪い家督争いもあったが今ではこうして将軍になっている。その彼が信綱に対して声をかけたのである。今二人は小姓が側に控える将軍の間にいる。
「信濃の話だが」
「上様の耳にも届いていましたか」
「恐ろしいことになっておるそうだな」
「はい」
 家光に対して一礼してから述べる。今彼は家光の前に控えている。
「法善殿が。亡くなられ」
「鬼となって弟子の墓を守っているのだな」
「その通りです。そして近寄る者に祟りを与え害を為しております」
「僧正のことは余も聞いていた」
 家光はゆっくりと口を開いて述べた。
「素晴らしい学識と人徳を併せ持っていたそうだが」
「ですが愛弟子を失いその嘆きで」
「で、あるか」
 家光はそこまで話を聞き祖父や父よりもむしろ織田信長の姪である母のそれを思わせる細面で秀麗な顔を頷かせた。髭も薄く実に整った顔である。
「人とは。わからんものだな」
「左様で」
「高僧が死して鬼になるとはな」
「それが為に民の多くが祟りで病に臥せっております」
「それこそ見過ごすわけにはいかんな」
 ここで家光は言った。将軍としての責務が彼をしてこう言わせたのであった。
「早速手を打とう。伊豆よ」
「はっ」
 信綱は鋭い声で家光の言葉に応えた。
「いつものそなたの知恵を借りたい。何かあるか」
「鬼を成仏させるべきかと」
「鬼をであるか」
「左様です」
 こう家光に対して述べたのであった。
「鬼となったのならば。やはりそれしかありませぬ」
「わかった。しかしだ」
 家光は信綱の話を聞いたうえでまた言ってきたのだった。
「僧正だ」
「はい」
 問題はここであった。
「普通の僧では敵うまい。伊達に徳を積んできたわけではないからな」
「徳は時としてそのまま魔となります」
「魔となるか」
「そうです。嘆きや恨みが強ければそれだけ変わるものなのです」
 こう家光に述べるのだった。
「業となり」
「では普通の僧では成仏させるのは無理だな」
「そう考えまする」
 信綱は頭を垂れて述べたのだった。
「ですから僧は」
「神職でも駄目だな」
「同じことです」
 僧侶も神主も同じものだと考えられている。これは日本独自の発想であり彼等もまた同じであった。
「ですからそれもまた」
「では。どうすればよいのじゃ」
 ここまで話を聞いたうえでまた信綱に対して問うたのだった。
「何としても成仏させ民の不安を取り除かねばならんが」
「一つ。考えがあります」
 ここで信綱が家光に対して述べてきた。
「考えとな」
「はい、僧正は魔となっておられます」
 同時にこのこともまた述べられる。
「魔は断ち切られるべきもの」
「確かにな」
 家光もこの言葉には頷く。彼もこれは承知しているのだ。
「だからこそここは」
「伊豆よ」
 家光は真剣な顔で信綱の朝廷から与えられている官職を呼んだ。彼はいつも信綱をこう呼んでいるのである。実に親しい仲でもある。
「その話、しかと聞かせてくれ」
「喜んで」
 信綱の目が光る。そのうえで家光に対して囁く。二人の話が終わってから数日後。江戸から一人の男が中山道を上っていた。旅装束で頭には深々と傘を被っている。その為顔はよく見えない。腰には二本の刀がある。それを見ると彼が武士であることがわかる。彼は道を進みながら頭の中であることを思い出していた。それは。
 
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