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所謂従軍慰安婦なるもの

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第三章

 この主婦はやがて韓国を訪れ自分達の主張を韓国の報道機関等に宣伝して帰国しています。この訪韓は自分達の行動に同調して動いてくれる韓国人、特に日本政府相手に朝鮮人問題での裁判を起こす際の原告を探しに行っていたものです。
 当初この訪韓から得られるものはなかったのですが数週間後主婦のところにソウルにある『太平洋戦争犠牲者遺族会』という組織から電話がかかってきました。主婦が宣伝した主張が遺族会の目に止まり協力を申し出てきたのです。
 この遺族会という組織は韓国政府が補償を行う為に戦争犠牲者の遺族からの届けでを受け付けていた組織であります。家族の生死確認や遺骨の調査、援護の拡充等を求めることがその活動の目的です。八十九年には今上陛下に昭和天皇の跡を継いだからには戦争責任を取れというメッセージを送っていたとのことです。この遺族会の申し入れがこの件で大きなターニングポイントの一つとなった様です。
 この申し出を受けて主婦は裁判の具体的説明を行う為に再度訪韓しました。そのうえで日程三十六年と呼ばれる日本統治時代での朝鮮半島にいた当時のルーツが朝鮮半島にある日本人、今の韓国人に対しての補償の件が説明されました。そしてその話の後でこの話が行われた説明会の参加者達は説明会が行われた韓国日報ビルの横にある日本大使館に向けてデモ行進を行うことになりました。
 今現在も何かあると行われている反日デモはこのデモがはじまりだったと言われています、ネットを見ているとソウルの日本大使館前は壮絶なデモのことが何かと出てきますがそれをはじめた仕掛け人は他ならぬ日本人であったということは奇怪と言えば奇怪でしょうか。
 そして当時の韓国大統領であった盧泰愚大統領盧訪日に合わせて遺族会jは二週間の座り込みを行い釜山の日本領事館からソウルの日本大使館まで先の戦争の犠牲者の遺影を掲げた徒歩更新も行いました。
 そして東京地裁に二十二人の韓国人遺族等が日本政府を相手に公式陳謝と賠償を求める裁判を起こしました。
 まず日本人の活動家が動き韓国人が呼応する、そのことによりはじまったことでありますがさらにだったのです。
 遺族会は主婦と袂を分かちました、その理由は主婦が一介の活動家に過ぎないので裁判を行うのならば裁判の専門家である弁護士、それに宣伝をしてくれるマスコミの力を利用したと考えたからだというのです。ここで問題はかなり厄介な、今にまで至る流れになってきます。
 この件に関して九十年六月頃から取材を続けていたK・Uというフリージャーナリストが『日本の戦後責任をハッキリさせる会』という組織を立ち上げます。この組織はすぐに遺族会と提携していきます。そこに以前からサハリン残留韓国人問題等に関係していたK・T弁護士と遺族会が接触したのです。
 このK・T弁護士はイニシャルにしていますがご存知の方も多いでしょう、この問題における中心人物の一人だからです。この人物が中心となり九十一年八月に『戦後補償国際フォーラム』というものが東京で開催されこれに遺族会から五十三人も参加しました。我が国のマスコミが戦後補償問題を大きく扱う様になったのもこの頃からだとのことです。
 そしてこのT・K弁護士が主任弁護人となって遺族会から三十五人が原告となり『アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求』の提訴が東京地裁に為されました。この提訴は先の主婦が行った提訴とはまた違うものです。
 なぜならこの提訴には元従軍慰安婦だったと主張する女性三人が原告として加わっているからです、このことが騒ぎのターニングポイントの一つになりました。
 従軍慰安婦はいたのか、結論で言うといました。しかし問題はそれがどういったものであるのです。
 よく慰安婦は強制的に、憲兵なり官僚なりが村々から若い女性を強制的に徴発するなり拉致するなりして慰安婦として軍の性欲処理係、あえてこうした際どい表現を使わせて頂きますがそれが実際にあったのかどうかという問題になります。
 慰安婦はいました、そして挺身隊もいました。しかしそれは我が国の左翼勢力や韓国側が主張するものとは全く違うのです。
 まず挺身隊、韓国ではこれを慰安婦と同義語としています。講談社現代新書から出ていた『反日感情
』という本でもその様に書かれていました。しかしこれはまた違うものです。
 挺身隊は通常の労働者として働いていた女性達です、第二次世界大戦のまさに国家の総力を動員していた時代誰もが国家の命令で戦場に赴き内地で働いていました。国家総動員法がありそれに基づき誰もが戦争の下に生きていました。
 それ自体を悪とすることは至極簡単ですがそうした時代だったのです、それこそ当時生きてきた日本人は誰もが戦争に協力していましたしそうでなければ日本自体が生きていられなかった、そうした時代でありました。その頃に戦争に協力をしていたことは汚点でも恥でもありません、そうした時代であっただけです。挺身隊もまた然りであり女性達は工場で働いていました。それだけのことでした。つまり挺身隊とは国家の為に働く女性であり慰安婦、即ち娼婦とはまた違うものなのです。この挺身隊に十三歳の女性が入っていたことから従軍慰安婦に十三歳の少女も入っていて犠牲になっていたと日本人の中にも信じていた人がいました。今もいるかも知れません。ですが上記の通り挺身隊と慰安婦はまた別なのです。
 慰安婦という言葉は千田夏光氏の『従軍慰安婦』という本からはじまっています、この本は発刊から暫くそれ程話題にならなかったのですがこの本から生まれた言葉であることはここでお話させて頂きます。 
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