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「ボクサー だいたいみんなノーモーション

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「ボクサー だいたいみんなノーモーション」(1)

 
前書き
ぼくさーもんだよ。 

 
 ローキックのきり方を知らないボクサーあり
 
 前蹴りを喰らってたじろぎ、二発目はそれを払って相手の髪の毛を掴みにゆき、もはやボクサー 
 では無くなったものあり
 
「喧嘩は気合っすよ!」と言って、蹴り足を掴んではひねり散らすボクサーあり
 
「心落ち着かば、すべての攻撃は等しくわが心の中にあり」と、蹴られ続けるボクサーあり

 腹の内、しこりのような度胸を宿したボクサーを、キックボクサーが回転蹴る
 
 夢のような興奮の中、勝ち負けを知らず、魂が夜の街外れに打ちあがる

タノム達は、ボォっと煙を吐き出し、天井の灯りを見ていた。別に涙がこぼれないためでも、「いったい何時から俺たちはこんなイジメに逢っているのか?」という疑問に答えを求めている訳でもなかった。ただ、闘い。その後ボォっとして、また闘う。
「だいたい日々ってそんなもんだろ?」と。
 タノムは今日吸ったタバコの数を頭の中で数えている。
「二十三本か…。ジョーダンだ。神様だ」

『カッコいいものになど手が届かない』から、その諦めで笑うのか。それとも『自らの中にあるカッコよさに符号しない』から笑うのか。『自分が真剣に努力してしまえば、カッコよさが壁に変わってしまう』から、笑っていなすのか。『イジメられっ子が必死にあがく様』をせせら笑うようでもある。
 みんな、マジになる予定があるなら笑わないほうがいいぜ。本当にカッコがつかなくなるから。
 札幌は中心部から徒歩で行ける場所に、『サッポロ・プラチナジム』がある。数年前まではボクシングジムだったが、今はボクシングも出来るフィットネスジムになっている。午後になればプロボクサーも顔を出す。ほとんどの人は筋力トレーニングをしながらそれを眺めている。好奇心旺盛な人は玄人に混ざってボクシングを教わっている。ドアを入って左側に筋トレマシーンがあり、右手にリングとサンドバック。笑っていたのは、大学生くらいの男。筋トレをしている二人組みだった。イースケは彼らの心を見透かそうとして彼らから目線を外した。
「人前でチンポを出すような恥ずかしさだぜ」
 真剣にボクシングをやることである。

「すいません。先日、電話で取材を申し込んだ者です」と、イースケは名刺を出した。恐らくはその人が会長なのだろうと言う人に。その人何も言わなかった。そして指さした。指をさした方にはトレーナーがいた。ミット打ちをしている。小太りである。
「提示したのが『はした金』だったか?」と思うが、そんなに『ウェルカム』ではないよな。別に「このジムからチャンピオンが出る」という話でもないし。

「ハイ! 中村ちゃん! 集中しろ! 一点だ。一点に集中しろ! そしたらその向こうに世界広がるよ! 一点突破だ!」
ミットを叩く音と、激しい息づかい。頭から噴出した汗、あごに滴る。そう、この光景を若い二人は笑っていたのだ。

「ねぇ。カメラ持ってるんでしょ? テレビでしょ? ネットでしょ? 撮ってよ。これ、これ」と、タノムは言う。
 イースケはカメラを急いで準備する。レンズを向けると中村ちゃんは目つきが変わった。少し澱んだ。その向こう、坊主頭のゴツい男がニコニコしてシャドーボクシングをしている。イースケは「カッコよく撮るからね」と、トレーナーの後ろに回って、カメラを上に持ち上げ、ふかんで中村ちゃんをとらえている。
「ミット打ちって、結構 足使うんですね」イースケは後ろを確認しながら後ずさる。横にステップを踏む。
 カメラが大きくぶれるので、少し離れた場所から。
「パンチ打つと、汗が飛び散るんですね。激しいっすね!」イースケはそんなコメントを入れる。ラスト三十秒のブザーが鳴る。カメラでデジタルのタイマーをおさえる。
「ハイ! ラスト!」
 中村ちゃんは、タノムのミットに、ワン・ツーを叩き込み続ける。若い男二人は笑っていないようだ。
「中村ちゃんの中にあった澱みが、気合で若い男二人の中に入ってゆくのです」ラウンドの終わり。イースケはそう思った。
「中村さん。中村さん、でいいですか? プロですか? 何ラウンドのボクサーですか?」イースケの質問に、サンドバックを前に息も絶え絶えの中村ちゃんがうなずいて、グローブを上げた。イースケは指を立てて「3?」と訊いた。中村ちゃんは首を振ってまたグローブを上げた。そのグローブの中で指を立てているのだろう。「4?」と訊くと、「はへ」と答えてくれた。「ああ、プロですか。C級ですか。ありがとうございます」
 イースケは壁にある選手、練習生の名簿を映しながら、会長の顔をとらえたりする。会長は窓を開けてタバコをふかしている。なるべく情報を多くしたい。どこに八百長の情報があるか分らないから。
 インターバルが過ぎて、ブザーが鳴る。三十秒。
「一分じゃないんですか? インターバル」
 中村ちゃんが手を上げて、「あの人、パンチありますよ」と言った。リングでイカツい坊主頭の男が、「お願いします!」と叫ぶ。筋トレをしていた地味な女の子の目が潤った。それもまたカメラで追う。
「腕、折れるんすよ」と、中村ちゃんが言った。「ミットであのパンチ受けたら、折れるんすよ」苦く笑いながら、中村ちゃんはサンドバックを軽く叩く。次第に強くその後、弱く。ハードパンチャーのミットの音が響く。革と革のあたる乾いた音の後に、低い衝撃音。「遠くで大木が倒れました」みたいな音。
 地味な女の子、ミット打ちしないかな。このハードパンチャーと女の子の映像。メリハリあるな。メリハリ。若い男二人はミット打ちを見ながら、力こぶを見せ合って、うなり声を上げて笑っている。
「足は弱いっすよ」と、ハードパンチャーが言う。「動かねぇ相手なんていねぇ。お前のパンチみたら後ずさるべや」トレーナーは、わざと遠い位置にミットをかまえて相手に足を使わせる。これは見ているよりかなりハードかも。
「君、次のラウンド終わったら、ミット。行くからね。名前なんていうの?」と、タノムが言った。
「イースケです。多分、ノー・サンキューです」
「ノー・サンキュー君、行くよ」と、タノムは言う。「ダメだと言ったら、やらせるんだから。ダメだと確認するまでダメじゃないから」
「死ぬわけじゃねぇ。死ぬわけじゃねぇんだ……」と、会長がつぶやく。簡易バンテージとパンチンググローブを用意している。イースケは傍観者の立場から中心部に押し出されるような、「あれ?」という気持ち。この仕事、確かに『世の中の真実を暴く』という趣旨だけれど、ずっと距離を取ろうと思っていたから。
「ありがとうございました!」ハードパンチャーの声が響くときにはもう、イースケは靴下を脱がされて、上半身はタンクトップになっていた。
「バンテージって、包帯のばっかりじゃないんですね」イースケははめられた赤いバンテージを見ながら、「この指を通した所のちょっと上、厚くなってますよ。これクッションですか?」「パンチンググローブって親指、出るんですね」「拳ダコってすぐ出来ます?」
 イースケは、そんなことを上ずりながら喋っている。少々顔が狐っぽくなった。会長は、その行程を「えぁ! えぁ!」と行った。イースケは『と畜』されているみたいだから、抵抗できなかったのかな、と思う。リングに上がる。ロープをまたぐ仕草が、なんだか意気揚々としていた。
 イースケはミットを打つ。打っているうちに、イースケの身体に気が乗って、マッタリとその心を強く、鈍くした。「グローブ上げて。ガード!」と、言われても反応せず、思い通りの速いパンチが出なくても焦ることもない。パンチを打つ度に、頭の中に「えぁっ、えぁっ」という声が響くだけだった。
「カメラはだいたい、赤いボタンを押せば映りますから」イースケは会長に言う。
「ラウンド終わりは、『ありがとうございます』ね」タノムはイースケに言う。
「世界の頂点って、結構 近くない? みんな真面目にジャンプすれば届かない?」イースケは心の内で誰にとも無く問うた。
「汗、かかないっすね」中村ちゃんが、イースケに言う。
「クールだから」とイースケは笑う。
 北海道の夏が暑くなった。これでは避暑とは言えない。『観光大使』の事を思った。日本各地には『観光大使』がいるのだ。心地よい空気、美味しい食事、うっとうしくない人いきれ、楽しい風俗体験。『観光大使』は、その土地に入るものにそれらを提供する。そんな力を持った人間がいるのだそうだ。イースケはそう聞いていた。あの地味な女の子で、勃起するだろうか?
 二ラウンド目に、タノムはイースケの緊張を呼ぶように、パンチの打ち終わりにミットで頭を小突いた。
「打ち終わりに、ガード上げないと打たれるよ」
「ホウッ! タフですね!」と言ったイースケの頭の中に、「こいつより強い自信ある」という言葉が浮かぶ。「殺す」
「これって、ムナ筋無くても強いんですね」と、二ラウンドのミット打ちが終わったイースケは言った。
「こいつは恐らく馬鹿なのだ」と、タノムは思った。「でも、こいつの気力どこから来る? 最後の方、俺の顔にパンチ打ってきたぞ」とも思った。

 イースケは、ボォっとしながらリングを眺めていた。女の子が鏡を見ながらシャドーボクシングをしている。それに付き添うようにトレーナーがフォームを教えている。イースケは自分の想念が世界に開かれている感覚を覚える。自分の脳みそが肥大してすべてを包み込んでいるのだ。「おっぱい揺れるかな」女の子を撮り始める。「汗でシャツが濡れて、胸の谷間がくっきりと……」
 イースケの頭が弛緩している。頭の中の一部に熱く発火したところがあり、それ以外の部分は、その違和感を感じながらボォっとしている。

イースケのボスはネット動画を専門にやっている。初め、『夜の街のディープな潜入』を売りにしていた。それは潜入と銘打った『夜の街の宣伝』だったのだが、そのリアリティーで人気を得た。動画の終わりに必ず女の子のおっぱいをポロリと見せた。人間、少し余裕が出ると高尚な欲が出るらしい。「真実を伝えようよ。俺たちは真実を伝えようよ」その矛先が、このジムだった。『八百長』があるらしい。そんなのいまさら知らない人はいない。でも、生の声を聴くまではその意識が薄い。「はっきりしようよ」それでイースケがこのジムに来た。夜の街に詳しいボスは、「こういうところは噂が飛び交うのよ」と、笑っていた。

 女の子が身体を揺らしながら闘っていた。闘う女に欲情する男がいるそうだ。イースケは何も感じなかった。彼らの中で闘う女の気合がどのように変化して性欲に結びつくのかが分らない。「それは、嫌がる女を征服する感じですか?」と、問う。「男を否定する闘いに、男が欲情するのですか?」

「会長さん。インタビューは誰に……」と訊けば、会長は「タノム」と言った。「タノムくん。あの饅頭」
「彼はこの世界、長いんですか?」イースケの問いに、会長の眠たそうな目が向けられる。彼は何も言わなかった。

「一つ真実を吐けば、十の言葉を失う。それは渦を巻き、諦めと共に奔放な想像をからめ取ってゆく。物事に意味を求めるのは、真実にまとわりつく、十の可能性を恐れるからだ。可能性はいつだって人をおびやかすんだ。じゃぁ、一つの事柄について、語りつくせばどうだ? いや、例え一つの事柄に百の意味を見出しても、その狭間で死にゆく魂があるんだ。あやふやな、はっきりとはしない、言葉にもなった事のない魂さ。でも、人間は、はっきりした意味に惹きつけられて落ち着くんだな。『好き』とか『嫌い』とか『馬鹿』とかな。自分自身の生きる意味を求めるのもそうだ。俺は『強さ』を選んで他の根を枯らした。でもさ、ひとつの真実は、他人の真実を理解する眼鏡になるんだな。自分が真実に近づく道のりを経験したらさぁ、他人の真実も見えるってもんだぁな。『強さ』手に入れて何がどうなったんだろうな? 『あいつは強い』って、誰も手を出すなって。それとも、単なる『ボクシング馬鹿』じゃねぇか、か。『モテないから、体鍛えてんのか?』うん。自分にまつわる億の意味を捨てて、一つの真実を得られれば、他人の目には億の意味が映るのさ。何せその強さって真実は、またしても億の意味をはらんでいるからな。なかなかいいだろ?」
 タノムさんに「自分の人生にとって、ボクシングってどんな意味を持ってますか?」と質問したらこんなディープな答えが返ってきた。「殴り合いさ。男と男の血生臭いど突き合いさ。でも、男である証明だな」ぐらいでよかったのに。そしたら「それを穢されたら、どう思います?」と、八百長の話を切り出せるのに。
 目の前ではもうもうと煙を上げて肉が焼けている。

「ここの飯は体に悪い! 死ぬ前に喰え!」と、サイン色紙がある。

おい! お前、このヤロー! 
肉が体に悪いって誰が言った! 
お前の身体にも肉があるだろう! 
だったら、お前自身も体に悪いだろ!

  肉喰ってみぃ、美味いから

 プロレスラーの名前と共に壁に刻まれている。

「スポーツって服みたいなもんですよね? 『あの人に着てもらって、初めて完成する』みたいに、『あの人がやった偉業』に支えられている所、あるじゃないですか」
 イースケは『偉業』が、もしヤラセだったら、と訊きたくて、質問を投げてみた。
「いや、スポーツは恋だ。ピタリと重なるんだ」
「あの……、服と人間も恋みたいなもんですよ」
「いや、ボクシングに関しては恋だよ。俺、知ってる。『善人の下半身と、鬼の上半身』これを持っていると、ボクシングと恋に堕ちる」
「いや、だから服みたいなもんですよね?」
「君、押すねぇ」タノムはイースケの頭上を眺めて、「今日のパンチ。割と良かったよ」と言った。「何故、ミット打ちで顔、狙ったの?」という言葉が頭の中に残った。
「身体は鍛えると、その本来の姿に変わる。よく『人が変わった』って言うだろ? あれは本来の姿が出たんだ。生来のボクサーは、鍛えて鍛えて身体を空っぽにすると、ボクシングをまとう事が出来る。ボクサーになる事と、服を着る事が同じものか?」と、タノムは訊いた。
 イースケは『身体を空っぽにして、ボクシングをまとう』という意味が分らなかったが、「いや、あの……、お昼の感覚ですか? あの、ちょっとやった、ミット打ちの感覚ですか?」と、訊いたら。タノムが笑っている。なぜ笑うのか分らなかった。タノムの中に、ボクサーの潔さが思い起こされる。それがなんだか、この男によって汚された気分になった。
「マウスピース。初めて使ったとき、ドキドキしてうれしかったな。あれさ、お湯で温めて、柔らかくして自分の歯にフィットさせるんだよな。あれをかじると、男の扉が開くもんな」タノムは肉をかじり、カクテキをかじり、大根サラダをかじる。
「俺、ぼんやり思うのよ。バイオリンでストラディバリ? なんか、そんなのあるだろ? あれ、億するんだろ? その名器の音が聴きたくて客が集まるんだな。そしたら、その名器の存在が、それより大きな、その億より大きな活動を生むんだよな。そしたらボクサー……名ボクサーは名器だな。そう思わんか? ボクサーの身体は名器だわな」
「カメラ回したままでいいですよね?」と、イースケは訊いた。煙が気になったのを、遠まわしにほのめかしたのだ。「これでは八百長の話に持っていけないぞ」と、どうするか思案していた。
「なぁ、野球の危険球って知ってるか?」と、タノムが言う。
「あの、投球がバッターの頭に当たるやつですよね」と、イースケが返す。
「そう、あれだけで退場になるやつな。ところがボクシングってのは、相手の急所をただひたすら打ち抜く競技なんだな。すごくねぇか?」
「もっともです」と、イースケは笑う。タノムも笑っている。
「身体を鍛えると、想像力が無くなるって言いませんか?」とイースケは訊いた。「想像力が無くなるから八百長を受け入れるのでは?」そこに持って行きたい。
「想像力なくなる? あぁ、初体験みたいなもんか? 身体鍛えて無くなる物なら本物じゃねぇよ。この世の人間が全員、体を捨てちまったら、ふらちな想像で、全ての原発が爆発しちまうよ。あ、いや、たとえ話でさ。いや、ふらちな想像で障害者が産まれちまう。これもいけねぇか。難しいわな」
「身体を鍛える事で世の中が良くなる? とかですか?」
「身体鍛えたら、身体つき、顔つき変わるだろ? じゃぁ、世の中も変わるのじゃない?」
「世の中の問題を変える? それとも忘れるんですか?」
「忘れねぇよ。本物掴むんだよ」
「身体を鍛えている事に関してプライドがあったら、他の事がおろそかになるとか、無いですか?」
「ない」と、タノムは言う。「全然ないよ」
「他に強い人がいるから、謙虚に? とか、そうですか?」
「強さ。強さ。今日、強さ見なかった? 俺、感じてるよ。毎日」
「絶対的な強さって無いじゃないですか。どの競技も強さがあるし、弱さがあるし」イースケは「これだ!」と、思った。『絶対的な強さ』が無いから、安易な『八百長』を受けいれる。どうですか。
「手が使えなきゃ足を使う。それがダメなら相手を押さえつける。首を絞めて殺す寸前まで追い詰める。ボクシングから遠ざかるほど、人殺しに近づくような気もしてる」
「ええ」と、イースケは答えた。なんだろう、この人。
「俺は、足を使うのが嫌いな訳じゃないんだよ。足ってのはよ……、あの『歩いてゆく』ってのがあるだろ? つまりさ、自分の意思でコツコツ行こうってやつさ。つまり、意思、未来に向かう心ってのは、足とつながっている。いや、そのものなんだな。でもよ、なんだか足で蹴り上げるってのは、嫌いなんだな。コツコツ行くのが足のはずなのに、ケリ一発で物事どうにかなるって発想がなんだかな……。えっ? キックは互いに蹴り合うから、互いの未来がせめぎ合ってる? いい事言うねぇ」
 イースケは肉をかじりながら、前頭葉に力がみなぎるのを感じていた。肉のせいなのか、目の前の人間のせいなのか分らなかった。「ああ、力が頭蓋骨の中でパンパンじゃないか。今、テレビを見て気合を入れたら、念波が突き通るぜ」
「あのよぅ。俺、雑誌で読んだんだけど。木星ってのは太陽になれなかった惑星なんだな。そしたら地球ってのは『太陽になどはなれません』って、諦めた星ってことになるわな。でもよぅ、地球の核には熱いヤツがあるんだろ? 実は地球は太陽みたいに熱くなる野望を持ちながら『太陽にはなりません』って、嘘をついているんじゃないか?」
「何の話ですか」イースケは顔を背けたくなるほど目の前の人を殴りたい。どういう文脈なんですか。
「いや、人間にも当てはまるんじゃないかってさ」
「誰の事ですか」イースケは「俺の事か?」と、思う。彼らボクサーよりは燃えてはいないし。
「明日のチャンピオンって知ってるか?」と、タノムは言う。
「明日、試合ありますね」イースケは答える。
「あれ、本物か?」
「闘った相手に聞けば分りそうですけど」
「いや、プロは素人にもビンビン来なきゃ意味がねぇ。本物か?」
「本物じゃないって。何か確信があるんですか」これだ! 八百長だ! 来た! 俺の念、通じた!
「人間の勝ち負けってのは、歴史なんだな」
「なるほど」
「いや、つまり、歴史ってのはよぅ。世界の中心に向かうあり様を言うのよ。その方法はあまたあるよ。途方もない数の方法があるよ。でも、結局 自分の芯にどれだけ届いたか、自分の芯がどれほど地球の芯に近い所にあったかって、それに尽きるよな」
「あの勝ち方にピンと来ないからですか」と、イースケは訊いた。
「形而上のつツボを突く」と言って、タノムは酒を一口飲んだ。「心なのさ」
 イースケは「この話には付き合ったほうが良いぞ」と、思い「それなんですか」と訊いた。
「世の中にはツボってもんがある。突いたらみんなが心地よくなるツボだ。自分の本気が素晴らしければツボを突ける。そしたらヒーローさ。でもな、自分自身が心地よくなるツボもある。それはな、自分より高い位置にいる人間の弱みを握って、つっ突いて、そいつからエネルギーを吸い取るのさ。そしたら、自分はエネルギーに溢れた人間になれる。そいつもまたヒーローさ。明日のチャンピオン。どっちだと思う?」
「お嫌いなんですか?」
「嫌い……。そんなんじゃない。醒めねぇか? 大事な所で醒めねぇかなって」タノムが言いにくそうにしているから、「醒めるってなんですか? さむいんですか? あの人」と、イースケは訊いた。
「ピラミッドってのがあるだろ? あの大きな三角形の頂上にいるのが王様な。チャンピオンな。下の者はそこから降りてくる言葉なり、エネルギーなりを受け取ると思うんだ。それによって元気が出たり出なかったり。それがよ……。なんだかよ」
「汚いんですか? あの人」早く八百長って言ってくれ。
「あのよぅ、天皇が死ぬ……崩御? お隠れになる? なんか、それまで背負わせるのはなんかな。命なくなる前にゆっくりして欲しい……? とか」
「何の話ですか? いきなり天皇ですか? えっ」
 タノムは体の中にある『芯』の話をしようとして止めた。かつて、自分がリングで味わったあの感覚のこと。あのときの身体の『芯』はピンとしてゆるぎなかった。固い愛の殻に守られて、殴られても効きやしない。闘争心とも違う。勇敢とも違う。死ぬまで保ち続けられる尊厳? いや、それは言いすぎか。リングを降りた後で、『天皇家です』と、声が聴こえたんだ。タノムはなんとなく知っていた。身体の中に他人を取り込むという現象の事。何故そうなるかは全然知らない。ただ、後年「俺の中に入っていて、その他人は健常でいられるのだろうか?」という疑問が残った。それはそれで恐ろしいから。
「俺は、嫌いだ。あのボクサー」タノムはあえて言い切った。話を打ち切ろうとしたのだ。
「卑怯な手を使うからですか?」
「そんな、証拠ある?」と、タノムは返した。
「それを聴きに来たんです」イースケは白状した。もういいや。
「なるほど。昔、あったよ。うちのジム、弱いから」タノムは言う。「昔さ。もう切ったから。その一人で。それが最後」
 少し長い時間が過ぎた。肉を焼く煙はやさしく、テーブルの脇にある排煙口に吸い込まれてゆく。肉を焼く。肉を喰う。酒を飲む。焼きすぎた肉を見て笑う。タノムが、今 乗っている原付の話をする。二段階右折で捕まった話。イースケのボスがここを紹介した話。夜の商売に詳しいから、と。
「みんな、人生の夢のある『可能性』を追いかけてくる不幸ってやつにビクビクしてんのさ。その男はまさにその通りの男だ。『可能性』とピッタリ出来なかった男だよ」タノムは言う。「世の中には、どんなに何かに打ち込んでも『可能性』が無くならない奴がいる。ひたすら何かに打ち込んだら『可能性』ってやつ、何か悪い悪魔に笑われちまうような可能性が消えるだろ? それに、良い方向の『可能性』の波に乗ったら、もうそんな不確かな『可能性』なんて言葉、考えなくてすむんだ。何せ、自分自身がそれなんだからさ。つまり、『可能性は良いことと悪い事の抱き合わせなんだ』って事なんだな」
「その人に連絡入れてもらっていいですか」イースケはフィニッシュに持ってゆく。少し目が釣りあがった。
「奴には新しい人生があるだろうから……、顔は……ね」

イースケが帰った後、タノムはゆっくり鹿肉を焼いている。「領収書があれば後日処理しますから」なかなかいいね。トレーニングをやめて数年で、タノムの筋肉は5割り増しになった。筋力もスピードも同じである。歳のせいなのだろうか、タノムはその変化を「なかなか箔がついていいな」と、思った。理想の強い人間は二十代の体形を残そうとするのかな? 一度キツキッに鍛えると、そのような意識も薄れてゆく。
後ろの席で親子が肉を焼いている。日々の瑣末な事を、顔を醜くして不満げに話し合う。タノムは日常にまとわり着く垢を自然に受け入れている。「あなたたちは穢れなき貴族なのか?」と、問いたくなる。人を悪く言えば鏡のように自分も映るだろうが。
 フライパン一つとってもそうだ。防汚加工してあるけれども安いそれは、コンロにかけるとバランスが悪く、取っ手の方に傾く。確かに世の中はスマートで素晴らしいものばかりじゃない。ボクサーを育てていると、ある程度みがかれたら、それに納得できる。たとえそれが素晴らしい物ではなくても、自分の中の何かを吸収してくれた充足感があるのだ。俺の教え子が、その傾くフライパン程度ならそれまでだ。そう、その女の子は「職場の上司がクサイ」という不満を語っているのだ。この場合、職場のおっちゃんがフライパンなのだろうか? それとも、一日 給与を貰いながら働いて、その程度の考えしか浮かばない女の子がフライパンなのだろうか? 偶然その悪態を耳にした俺がフライパンなのだろうか? そう、俺らは、ありとあらゆるつながりの中で生み出された『傾くフライパン』なのだよな。

 あの、イースケ君。八百長を追いかけている。そんな事、今の時代みんな知っている。でも、実際 生の話が世の中に流れたらどうなる? みんな醒めるのか? それとも「自分だけは違う。そんな、カモにはならねぇ」と、息巻くのか? 「そんな世の中に巻き込まれるなんて、エキサイティングだぜ!」と、楽しくなるのか? あれ? この膨らんだ体が世の中のたるみを生んでいるような気がしてきたぞ。いけねぇや。肉は終わろう。

 帰り道。タノムはハードパンチャーの事を思っていた。今いるハードパンチャーの前にもう一人いたのだ。
「あいつはツボを突いた」ミットで受けたら、身体の芯に響くような、邪念を吹き飛ばすような、ボクシング以外の何物も似合わぬような。そんな、パンチだった。ハードパンチャーは練習を積むうちに『声』が出るようになって、会長からダメ出しが出たんだ。タノムは知っている。意識の上には強い『力』があって、それに触れると『力』をもらえる。うまくゆけば大きな人間になる。失敗したら『声』が漏れる。そうすると病気になって弱くなるんだ。それは周りも巻き添えにする。
「あれ、『声』が出ても一〇〇%の善人ならOKらしいっすよ」と、中村ちゃんが言っていた。そんな奴、いるだろうか。イースケ君には言わなかった。「明日のチャンピオンの『声』、俺には聴こえるときがあるんだ」と。さて、明日はどちらに転がるのだろう?


「大丈夫。メシ。美味いメシ」
「イジメに逢わないように、頭下げるのも生き方よ」
「大きいオッパイ! 大きいオッパイ!」
「後でバラして笑おうや」
 どんな、くどき文句? どんな、くどき文句だったんだろう?

「いや、あれだよ。俺とタノムさんタメだよ。よく知ってるよ、タメだよ。俺が十八でジム入って、タノムさん二十歳。今のタノムさん所の会長が、東京の俺らが通ってた会長の甥。タノムさんの所、叩かれてるでしょ? あれ、東京の叔父さんが八百長断ったから。二人とも真面目で弱いの。二人とも突かれてんだ。ん? 叩かれるって何? って。いや、叩かれてるよ。いや、これ以上言わないけど」八百長ボクサーは、「言うこと聞かないと、弱くなる薬とか、メシに混ぜられるんだぜ」と、言いかけて止めた。
「俺に、話 訊きたいの? いいよ。その時の相手、もう引退して名前も忘れられてるから」
「すんなり行くね」と、イースケは思った。これなら『明日のチャンピオン』の試合の前にネットにアップできる。「金だな。いくらか、だな。あと、女だな。誰と寝たかだな」

     ※

「そこから一歩も動けねぇ感じ。何かしなくちゃいけない。何か言わなきゃいけない。そう思うんだけど、動いたら死んじゃうの。そんな感じだよ。殺されるとかじゃないよ。まぁ、つまり、その道しかないんだって。もう、一本道なのよ。その道を行かなければ、もっと酷い茨の道が待ってる。そんな感じよ」八百長ボクサーが言う。
 この人も何か哲学的というか、詩的というか。イースケはこういう人にあからさまな質問をしたら、激怒するんじゃないか? と、警戒している。
「人間、色々厳しい体験をすると奥深くなるんですねぇ。大人だなぁ」とだけ言っておいた。
「どんな、試合だったんですか? 相手すごかったんですか?」
「サンドバックを叩いた事ある? ない? パンチが突き抜けなきゃいいのよ。ボクサーのパンチ、向こうまで、サンドバックの向こうまで突き抜けるのよ、衝撃。それをやらなきゃ相手は倒れない。それだけ。ん? 俺の負け方? 訊きたい?」そういって八百長ボクサーはにっこりした。
 頭の中でその光景が、幾分乾いていてはいたけれど、幻想のように浮かぶ。パンチをもらって、ふらふらと後ずさり、左足を下から一番目のロープと二番目のロープの間に入れて、かがみながら尻を二番目のロープと三番目のロープの間から突き出す。後は上半身をリングの下に放り出せば、あや取りに引っかかった間抜けな敗北者として笑われるだけ。完璧なあて馬として笑われて多少金持ちになる。その代わりに「ボクサーは強い」と、言えなくなる。八百長ボクサーはこの過程を語った。わりと熱が入った。まるでナンパした女の子が極上で、スゲェいい思いをした事を語るみたいに。八百長ボクサーは、「逆さまにぶら下がって、天地を逆に観衆の笑い顔を見たとき、何かが切れたこと」を思い出した。「何が切れたのだろう?」
「うんうん。なるほど」と、イースケは相槌を打った。このコメントなら使える。ウケる。「具体的な話。もっと、あります?」と、訊いた。
 八百長ボクサーは、人差し指と親指を擦り合わせて「もうちょっといい?」と、返してきた。お金の話である。イースケはうなずいた。
「あれ、やるとき。ジムの名前、出さないの。架空の名前でやるの。そしたら看板、守れるでしょ? ちょっとした抵抗。あて馬、かませ犬の名前なんて、誰も覚えてないけど、リングネームも変える。この話ダメ?」
「いや、いいですよ。名前、なんていう名前で……」
「言うの? それ、顔 映ってる?」八百長ボクサーはテーブルの上のカメラを指差した。イースケは考える風をして天井の灯りをみていた。タバコの煙がその中を泳いでいる。
「名前と顔。一致したらやばい話ですか?」
「そう思わない? とんでもない金を動かす為に色々細工する人たちだよ? 違う? 怖くない?」
「すいません。モザイク入れます。すいません」と、イースケは言った。
「笑顔の素敵なヒットマン。イーモン・ボーイズ・山花。ですよ」八百長ボクサーはかなり激しく笑っている。イースケは乗ってきたのかな? と思う。「イーモン?」とは思ったが。
「いくらで。あの、その仕事。どのくらいのお礼、というか」
「ああ、もらった金? その話の方がウケる? 『ピッタリ』分る? 札束一つ」
「女はどうですか? 女の子とか……」
「彼女と寝たよ。『いいじゃん、そんな世界捨てちゃいなよ』って」真面目顔で語る八百長ボクサーが笑い出した。「あのさ……口座に金、入ったとき。『カミサマ』って書いてあるの。入金した人の名前『カミサマ』って」
「すごいですね『カミサマ』からお金もらったんですか。僕も欲しいですね。知らぬ間に人助けとかした後、口座に『カミサマ』欲しいですね」そう言うイースケを見て、八百長ボクサーはちょっと醒める。
「奴は金の力で愛を買ったんだ。本当の勝負で得られる、神様からの愛じゃなく、それには数段劣る愛らしきものをね。そう思ったら何だか自分の人生がやわらかく許せるようになった。俺は奴を堕とすためにボクサーになったんだって。『神の命を受けて』ってやつだ。だもたまに怖いんだ。俺は誰よりも弱い人間なのじゃないかって怖くなる。だから今日も飲むの。なぁ、俺は何に負けたと思う? ちなみにチンポはデカいぜ?」
「運あって善人になり、運あって悪人になる」と、イースケは返した。「それどういう意味?」と訊き返された。「運が無ければ善も悪も寄り付かないのだ」という意味だと説明した。
「あんた、頭いいね」と、八百長ボクサーは言った。「なぁ、俺がとてつもなく強かったらこの世から八百長は消えたかな。提示された金額は、俺にとってはした金で笑っちまった。でも、現実を見たらかなりの大金。自分の物差しを、世間に照らし合わせて縮めるってのは、小人物かね? そうかね?」言い終わった後、八百長ボクサーは個室を仕切る、すだれの向こうを見た。女の子が楽しそうに飲んでいる。酒がさめるのを感じながら、そこかしこに敵意があるような気がした。意識をそらしてしまえば、そんなあやふやな敵意なんてものは消える。しかしながら、そこから逃げてしまえば意識の一部が死ぬ。「ああ、なるほど。俺は百万円の男になったんだ」溢れるような大金の渦に巻き込まれて、小さな船につかまり、ようやっとたどり着いたのが、百万円の無人島よ。そこにたどり着いたら、もう、行き場所なんて考える余地もないや。
「最後なんですけど。あなたにとってボクシングとはなんですか?」イースケが訊く。
「チョコバナナみたいなもんだよ。バナナだけじゃなく、チョコも付いてる。バナナよりもうちょっと美味しいよ。くらいだよ。なぁ、自分より弱い奴をぶちのめすのは好きか?」
「分りません。強い奴はぶちのめせないような気がしますけど」
「負けると思ったら、逃げるの?」
「一矢報いるとかですか? それ、かっこ悪いような……」
「どうして?」
「一矢報いるって心がある限り、大人物にはなれないからじゃないですか」
「そうだね」と、八百長ボクサーは言った。「勝負はあらかじめ決まってるのか」
「逃げたら死ぬって、どういう意味ですか? さっき、何か言ってたじゃないですか」
「動いたら死ぬね。分らねぇけど、意識ってものがあるだろ? 自分の意識な。その周りには、何十、何百っていう可能性があるわけよ。それにいちいち手を出しちまったら、命ないわ。そのほとんどが死ぬ可能性に思えるんだ。そういう時があるんだよ。分る? いいこと言ったでしょ」
 イースケが礼を言う。「色々体験すると、深くなりますね。すごいですね」そう言うイースケの顔は目がつり上がっている。もしかすると、イースケの意識の周りにも『死ぬ可能性』が満ちているのかもしれない。

 一人ぼっちが、癒えない傷に触れないように包んでくれる。いつか癒したい。いつかは癒える。そんな想いがまた一人ぼっちを呼んでくる。俺は責任感のある男だろうか。汚れをまとったまま、愛されたくはない、という感覚。キレイな体で愛されたいなんて、乙女みたいじゃないか。八百長ボクサーはクスクス笑った。

     ※

 男から、「ボクサー? たいした事ねぇよ」と、気が飛んでくる。タノムの内側に入らんとするから、「たいした事ある」と、押し返す。せめぎ合いの境界線が胸の中で震える。タノムは何だか若い頃を思い出す。都会に入れば、漠然と心満ちて、郊外に帰れば、自分が大人になったことに気が付く。熱して冷ます、の繰り返しで大人になるのだ。ボクシングジムは『都会』のようで、そこから一歩出ると「本当に俺には何かあるのか?」と思える。そして次の日も熱くなりに行くのだ。「何もありゃしない」と捨てる心に敵愾心などそよぐ風なのに、今日は何だか気になった。そう、すべてを出し切った心に、いちいち何の反抗がある? それは、一生懸命出来なかった奴だぜ。「もしかすると、まだ何か燃え残っている?」自分の心の隅々まで、脳の中に光を走らせて探している。そこには「不満」や「うっ憤」は見当たらないけれど、「若干の未来」があった。明日のチャンピオン。あれは『未来』か? 明日、感じよう。
タノムはふと思う。ガラスの向こうに見える花屋。そこには知らない世界が溢れている。タノムは花の世界をかっちり護っている女の子に共感を感じたい。俺だって世界を護っているんだって。

「俺みたいなもんにボクサーが務まるか?」そんなんで始めたものの中に、幾分あやふやなゆるさを見たんだ。そしたら安心した。安心して慢心した。そのときバネがゆるんだ。
「もっと高く跳べるんじゃないのか?」そう思ったのは、昔より汗をかかなくなったつい最近の事だ。たくさん汗をかいていたら何故だか日々が、意識がゆるりと平和だったんだな。
「未来が無かったのかも知れない」そこには、そのジムのつながりには未来というものが無かったのかな。もし、そのつながりに未来が、自分自身に未来があれば、鮮やかな明日を夢見れたはずだろ? いや、鮮やかじゃなくリアルな、キリリとしたリアルな夢だ。
 ボクシングを刺青みたいに考えている若い男を、先輩面してたしなめたり、自身のある右ストレートで威圧してみたりしているうちに、少しずれた心にどう落としどころを見つけるか思案していた日々。その、刺青ボクサーの二人。ジムに女を呼んで、笑いながら、楽しそうに練習していた。
「燃えるのはいいが、あちこちに矢印を向けると大成しないぜ」若い俺、思う。今なら「それもありね」と言うだろう。
 俺の愛するボクシング。それはちゃんと人々を燃やしているだろうか? 俺、ボクシングはかりそめの太陽だと思うんだな。
 この世から追放された霊魂は、太陽に放り込まれる。太陽は『想い』まで燃やす。植物は素晴らしい。太陽。消え逝く者の最後の熱。それを内に秘め、形を変えて人々に与える。良き植物は、人々に過去に在った物を知らせ、違う形になるように促す。すなわち太陽在りて人間進化す。

コーヒーを飲み終えて、原付を走らす。警備員の青いジャケットに、白い太目のベルトを着けて、足には安全靴。郊外のスーパー。閉店後の清掃。一月に一回あるらしい。控え室に入るとタノムは「現場入りました」と管制に連絡する。「ゆるい仕事をありがとう」控え室に雑誌が積まれている。これから出すものなのか、それとも返品か。こういうシチュエーションで見るなら女性誌。人目のあるところでは立ち読みも出来ないから。袋とじをのぞけば、エロスが溢れている。

「彼、一生懸命キスしながら自分の股間をいじってました。そういうのが普通なのかな? って思ったんですけど、後で聞いたら、『女の子の前で皮かむりチンコなんて見せられないから』って、言ってたからすごく愛おしくなったんです。『ちっちゃい時も見せてよ』って言ったら、恥ずかしがってまた、皮をむいておっきくしようとするんです。『赤い先っちょが膨らまないと落ち着かない』って。それが、彼。私のオッパイを見ると萎えるんだそうです。もう、その時から『射精が早かったらどうしよう?』って心配になるみたいで。そしたら私、思いついたんです。もう、勃ったらすぐ出し続けてあげようって。何だか彼が好きなのか、何かの競技にチャレンジしているだけなのか。フェラチオマシーンになっちゃいました」

うん、相性の悪い相手とのセックスは単なる競技だ。タノムは雑誌を置いた。ブラインドから店内をのぞけば、清掃員が機械を操って暗い顔をしている。「堕ちたのか? 人生からこぼれ落ちたのか?」人生ちゅうのはね貯金が大事よ。何も徳を積めとかそんな話じゃねぇ。出口だ。自分の人生でちゃんと出口を求めなきゃいけねぇ。コツコツ階段を昇るんだ。それがないと世の中のすべてのものが太陽を覆い隠す雲になっちまうんだ。
 タバコをふかす。雑な想念が寄ってくる。ジャケットを脱いでシャドーボクシングをする。想念燃えておでこを熱し、体冷えると燃えた部分固まる。

スネ毛が抜けてツルツルに。
「俺はキックボクサーとシンクロしているだなぁ」
 ビタミンCを多めにとる。
「誰か若い女がツヤツヤになっているべぁ」
 何だか体が揺れている気がする。
「地震の予兆だぁな」
 タノムはタバコをくゆらす。
「知恵の煙とは言ったものだ。今頃、誰かが小説書いてるぜ」
 次のW杯はどうなるかな。
「日本代表のN君を見ていると『サル!』と、頭の中に声が響くんだな」

 タノムは昔、シンクロニシティーの話を聞いた後、怖くなった。「自分のサンドバックを叩く、殺意にも似たものが、何か世の中に悪い影響を与えてはいまいか?」と。次第にタノムの意識は弛緩していった。生きている事への罪悪感がそうさせたのだ。それでも抗うようにサンドバックを叩き続けた。続けるうちに『無』に近づく気がしたのだ。『ゆるい無』より『濃密な無』を求めた。
 タノムは大金が動くところを想像している。「彼らは金が動く事に快感を覚えるのか? それとも、金にまつわる快楽を愛しているのか? シンクロニシティー。大金が動くと心も動く。それは俺にどのように働くのだろうか? 今日は和牛を食べよう? それとも女を買おう? さもなくば不意な事故で指を失うのか? いや、何故俺の指が」風が吹いている。みなの意識に。それはあまりに複雑すぎて苦痛を伴うばかり。「今、私 何かを失った?」そう、世の中が何かを失ったのだ。
タノムの頭に「大人買い」という言葉が浮かんだ。金があると大人なのか。それでは金を取り上げると子供に戻るのか。恐い人達から金を取り上げるところを考えたらチンチンが縮んだ。「切り取られちまうよ。こっちが子供になるどころか女の子になっちまうぜ」
 明日のチャンピオン。この金欲が生み出す荒波の中で、必死に本当のチャンピオンになるために泳いでいる。その中で本当の善悪なんて、判断でないだろう。才能があるのは大変だ。タノムはゆっくりタバコをふかしていた。
「才能が無いから平和か」自嘲気味に笑った。
 キレイなボクサーが好きだぁ。胸のすくようなキレイなボクサーの闘争心と根性が好きだぁ。汚いボクサーは勝って納得だぁ。だって汚いんだもんなぁ。
 タノムは『汚い』は『キレイ』を引き締めるためにあるんじゃないかと思っている。まだ純な『キレイ』が『汚い』に研磨されてだんだんその核心に迫り、『キレイ』の真髄が顕れるんだと。『汚い』があるから世の中の『キレイ』が輝く。もしかすると『汚い』者の放つプレッシャーで『キレイ』が輝いているのか。それと同時に、『キレイ』と『汚い』をあわせもったボクサーを想う。彼はどっちの力で勝っているのだろう? 『汚い』のプレッシャーで『キレイ』が輝く? では『勝ち』は『キレイ』なのか? 
『汚い』勝ち方もあるだろ? では『キレイ』は『汚い』に負ける事もあるのか? いやそれは『キレイ』ではないのだ。『キレイ』ではないのだよ。そうなのだよ。
「価値のあるものを磨くのは苦痛が伴うものだ。一生懸命磨き始めると、一度くすむ事があるからさ。そしたら自分がダメにしちまったのかなって。罪悪感よな」タノムは昔のハードパンチャーを想っていた。天井の照明を見た。「自分の事だ」と、思った。「自分がくすんだのだ。それが、彼にも伝染ったんだよな」
 ブラインドの向こうで清掃員が機械を回して床を磨いている。何も考えてはいないだろう。その代わりにタノムが考えたのだ。「ありがとう清掃員」と、タノムは思った。
 時間がボォッと過ぎてゆく。自分が動かないぶんだけ過ぎてゆく。
「人間は時間を止める力を持っているのではないか?」と、タノムは思う。「どうやって止めるかは分らないなぁ――。時を止めるのではなく時と共に、いや時を肉に、力に変える? 違うか……。自分が動くとき他人は止まっているのか? 他人が動いているとき自分が止まるのか。他人が激しく動き続けると、自分は永遠に止まり続け、終いには時間だけが過ぎ行く……。いまいちピンと来ないな」
 一つの時の中で動きあう幾多の魂。触れあい、傷つけ、または癒しながら混沌を創り出す。人々の中で我行かんと競い合う魂は、この世にありながら人間の肉体に護られ、発現の時を待っている。人間その事を知らぬまま時を過ごし、人と交わり、次第に元の形から離れてゆく。それ、夢の終わり。信念を貫けば届くものも、それを信じるにはあまりにも複雑に絡み合う魂のつながり。我行かんとする魂に誘われ、前に出る。広がるのは井の外の世界。混沌が創り出すのは怒りか諦めか。それに抗うのは、強靭な精神。この一つの時の中で生きるという難しさよ。
「明日のチャンピオン。本物のチャンピオンになったら、なんて呼ばれるんだろうな」タノムがつぶやく。空が白む前に仕事が終わる。八千円頂きます。

 何度目の間違いだろう。味付け牛カルビ(アメリカ産)を買ってしまった。タノムはフライパンに湯を沸かし、チューブ生姜を搾り、肉の臭みを取らんと湯がく。
「この安い肉は、カウンターパンチのようだね。よけられないね」
 タノムは低いテーブルで、前かがみに、上半身と下半身で腹を挟むように肉を食べながらイースケ君に電話をしようかと考えている。
「昨日の画。もうネットに流れているの?」と、聴きたかった。誰だって自分の裸が人目にさらされるのは気になるものだ。どんな反応があるのだろうかと。体には電気があった。心地よさと嫌悪感が混じるようなもの。ネットで、彼らの番組を観た。オッパイが売りの画像から、射精大会、包茎チンチンの亀頭と包皮の癒着を剥がす、ヤリチンの経験談まで幅広く下ネタだった。薄いカーテンの向こうで本番行為が行われている。『声だけでイってね』と、テロップが入る。
甘いものを口にしたかったので、トーストにシナモンアップルジャムを塗って食べる。牛乳を口に含んでタバコに火をつけたら、ラーメンが食べたくなった。豚骨スープの匂いが広がったから。

 タノムはベッドに入り、腕を動かして左肩の筋肉の一番盛り上がった所を右の手の平で揉んだ。筋肉を硬くしたり弛めたりしながら、そのボリュームを確かめている。あのロープをまたいだとき。自分の脚の短さを感じたから負けたのかな。滑り止めの松ヤニを、相手がしっかりと付けているのを見て、自分もって付けすぎたからかな。ゴングの後、右アゴに違和感があったな。あれは「左フックをくれ」って事だったのかな。あの時マウスピースがうっとおしかったな。「苦しいときは笑え」ムエタイ選手は言われるらしい。その時タノムは笑った。本当に愉快だったのだ。眠りに落ちる前。「左アゴの噛み合わせが悪いので、25%のパワーダウン。これより時速80㎞の巡航で高速を抜ける」と、誰かが言った。

     ※

「だったらお前。そいつが本物のボクサーだったって確証あるのか?」
「いや、だって。本物だったら追われますよ、やられますよ?」
「ボクサーって確証なかったら、この画も偽者のエンターテインメントだって言えるだろ!」
「いや、だから。本物だったら噂 広まって、これ以降取材、いろんな所で難しくなりますよ?」
「だったら、またエロに戻りぁいいんだよ」
 イースケのボス。八百長ボクサーの顔を出してしまったのだ。
「ケツ穴ぶち込み十連発よ」
 イースケはベッドの掛け布団を丸めて腰をあてがい、無我夢中でこすり上げた。
「エロスの女神は俺に屈服するぞ。ヒーヒー言ってるぜ」
 イースケの日課である。これをやるとき、性的興奮が現実のセックスより昂るのだ。エロスの女神のエクスタシーに感応して、イースケもピクピク体を震わす。これが、かりそめながらも、脳天からエネルギーが突き抜けるのだ。
「あの男は本当のエロスを知らないな。でも、これを配信しても、単なる間抜けだからな。教えてやりてぇな。教えない方がいいな。俺だけのものだな」

 豊平川の河川敷を歩く。川原を見れば、張りのある中年太りの男が8月の太陽に焼かれている。段々になった腹をめくり上げる。隠れていた所が焼きムラになっている。河川敷を走る何かを求めている中年女性。カモは群れをなして可愛く、釣り人は個の世界に入る。広場で中学生がサッカーボールを蹴っている。
「俺、リフティング三十回出来たら、女ヤルから」
 少年は友人の邪魔が入ったと、笑っている。
「お前の目線。めちゃプレッシャー」
 この少年は『男になる』というハードルをどこに持ってゆけばいいのか分らないようだ。
「東中には吉ちゃんいんだぞ! ビビッて逃げる前に挨拶しとけよ! 東中の吉ちゃん知らねぇ奴もぐりだぞ! 東中の吉ちゃん石のパンチで風穴開けるぞ! 東中の吉ちゃんもうすでに天井超えたぞ! 常識超えたぞ!」そう叫びながら制服姿の中学男子が通り過ぎる。イースケは「俺に言ってるのか?」と、周りを見渡したが誰もいなかった。「吉ちゃんは大きな傘を持っているの? みんなを守ってくれるの? そう? そうなの。良かったねぇ」
 イースケの青春時代。
『絶対』と信じた後の、あの不安感。恋のけだるさとも言う。大きな傘? そう。でもさ、何かが漏れている気がした。マッタリと、とろけるような倦怠感。恋が大きな傘? それとも俺が大きな傘になる? 「このまま日々が続けば良い」そんな歌に巻き込まれずに、すぐやめちまった。強い奴を推す、持ち上げる。その後おとずれる劣等感。「俺ごとき半端者に応援されても、いい気持ちにはならんだろ」と、堕ちる。「俺は強い奴と肩を組んで『お前の事、応援しているからよ』と、フランクに付き合いたいんだよ」
 イースケは「水管橋」の下に腰を下ろして、タバコをふかしている。その二本の太いパイプが向こう岸、遠い世界へ突き抜けてゆく様を眺めていた。
「これ、あれだな。でっかい圧をかけて水を送り出してるんだな」
「圧をかけなきゃ遠くまで届かない……」
 この水管橋カッコいい、と思う。遠くから集められた水が圧をかけられて人々に届く? 命を支えているのだね。「ん?」ボクサーも一緒ではないか。「どこが?」人より優れた闘争心で夢をかき集め、魂に圧をかけ、リングに注がれる視線を通して観る者に力を届ける? 「うん」
イースケは、たまに真面目な事を考える。それは脳の外側にある、普段使わない所にゴミみたいに溜まっていた物を、上手く整理して取り出す。みたいな事。イースケは、それが本心であるか否かなど意にも留めない。「俺はそれが出来るのだ」それだけである。「ここらへんほっつき歩いてる奴に圧をかけたら何が出る? ゲロが出るのかな?」

「ボクシングってね。チャンピオンにならなきゃお金にならないわよね? 知っているでしょ? 日本。お金持ちよね? 南の国。貧乏よね? チャンピオンになれなくても、このつらい競技やっている人。偉いわよね? 再起不能になるかもしれないのよ? チャンピオンにならなくても、幸せになっていいわよね? 分るでしょ?」
――筋肉一つ動かしたらば、世の中ちょっと変わってくる。筋肉一つ鍛えたらば、世の中ちょっと強くなる。筋肉一つ優れたらば、落ち着き払って平和来る。筋肉一つ愛したらば、つたない愛が大人になる――
 目を覚ましたタノムは「八百長ってある意味、正義だな」と、思えてきた。はて? 何の夢を見たのだろう? 最後の方で「私は特別な女なのよー。あーれぇー」と、叫び声が聴こえたのを憶えていた。

 近所の豚骨ラーメンを喰らった後。一度、家に帰り、シャワーで匂いを流す。その鏡に映る身体が「もう、ボクサーではなくていいんだ」と、告げている。闘わなくてもよいといわれて安どするのかと思いきや、闘わなければならないものが、過去の日にあったのではないかと不安になる。「闘い尽くさなきゃいけねぇ」そんな言葉をトレーナーとして吐いたことを思い出している。身体に付きまとう贅肉と、加齢から来る落ち着きが、無理やりに不安を押しのけてぼんやりとさせている。
「今日は、ハードパンチャーにボディー打ってもらおうか?」出勤は二時である。

「お前のパンチは一発喰らうと、闘志が50%ぐらいもってかれるねぇ」
「二発でK.O.ですか?」
「その後は根性だ」
「プロテクターの上からでも、悶絶すると思うんですよね」
「それは、言いすぎだべ」
「タノムさん。何で今日、ボディー打ち多いんですか」とシャドウをする中村ちゃんが訊いた。
「ハードなパンチ受けてみたいから」
 ゴングが鳴る。
「中村ちゃん!」
「よろしくお願いします!」
 中村ちゃんがミット打ちをしている。
「ああ、ダメ。教科書通りって思っちゃダメ。自分が一番 心入る形で出さなきゃ。その後直すから。初めからコントロールしちゃダメ」ハードパンチャーが地味な女の子に指導している。

「平和だとか、平等だとか、博愛とか言って、お前あんな人間愛せるか? 愛せないだろ?」
「違う。それは恐怖だよ。彼女の悲しみに共感する事を恐れてんだ」
「じゃぁ、お前の博愛ってやつで、その悲しみをさ、癒してみろよ。所詮目くらましだろが」
「お前、勢いだけで欠点に目を背けることあるだろ? だったら、彼女も一緒に勢い良く打ち上げてみりぁ良いんじゃねぇか。そしたら何かが消えるんだろ?」
「いつ、俺が目ぇ背けた?」
「今だって息巻いてるじゃない。息巻いて我を忘れてるじゃない。彼女の気持ちに触れるの恐くて興奮してるじゃない。愛って、勢いだろ? オナニ介」
「甘ったるい愛っちゅうのは、生きる気力奪うぜ。死ねや!」
 高校時代。タノムはこの怒っている人間を信じる事が出来た。実は怒っている彼の方がわかっていたのだ。彼女の悲しみを『ズビズビ』と心の奥で感じていたんだ。
善良な彼は言っていた。「もし、自分自身が信じられるなら、許容は醜さを無力化して、将来それを美しさに導くんだよ。たとえ現実的に恋愛関係にならなくてもさ」ホントかよ。タノムは、その世界でも苦しみはあり続けると思うぜ、と思う。彼女の外見から心の奥に流れ込む灰色の諦めは、今、俺にも染み込まんとしているからな。強さを求めるという弱さ。生きることを求めるから引き立つ醜さ。望みと諦めが同時にやってくる36歳。あの時、彼女の肩を抱いた善良な彼の中に冷たさを覚える。「絶対、俺には届かないよ」ちょっとうがった。
 ハードパンチャーを好いている地味な女の子を見て、思い出してしまったんだ。

「左フック上手く打てるか?」
「思ったより上手く打てないでしょ?」
「これで相手が倒れるとは思えないでしょ?」
「ふくらはぎ。ふくらはぎにくるくらい下半身を使わなきゃ強く打てないよ」
「えっ? カウンターパンチ? 分ると同時に打つの。分ってから打ったら遅いの。シンクロだよ。相手の左と自分の右のシンクロ。俺はそいつのことニセモノパンチって呼んでるから。ニセモノパンチには本物パンチが入るんですよ、これが」
「全力で連打したら、四、五発くらいで意識弱くなるでしょ。問題その後っすね。気合が抜けた後、どうやって前に進めるか。そこっすよね。歳取ると魂に引っかかりが無くなって、『スルリ』と気合抜けていきますから」
「ヒット・アンド・アウェー? 意味あるよ。ズルじゃないよ。自分、全力で打つでしょ? その後、上体が柔らかくいられる? 固くなるでしょ? それがよく言う『打ち終わりを狙え』ってやつ。だから自分が打った後、後ろに引くの」

 中村ちゃんのミット打ちが終わる。タノムの耳が次第にハードパンチャーと地味な女の子に寄っていった。「時は激しく動くものに味方し、留まるものに嫉妬をすえる」か。
「愛はたまに言葉に乗る。体温にも乗る。指先にも乗るんだ。もちろん拳にもね」中村ちゃんが「ハァハァ」言いながら口を挟んだ。ハードパンチャーは笑いながら中村ちゃんを抱えてロープ際に追い詰め、後ろから腰をあてがい、激しく突っついた。地味な女の子がうれしさのあまり驚嘆の声をあげている。電気が溜まっていたんだ。タノムは「これはあるな」と思う。女の子の表情がアノ時のうれしさを現しているようで。
「なぁ。今晩ウチ来てな。テレビ観るから」タノムは地味な女の子と三人の男が一つの部屋に、と思うと足が震えた。「来る?」と据わった目で地味な女の子に問う。「いや、いいです」と返された。タノムは思う。「俺なんか悪い汁出た? 出たよな。明らかだよ」

     ※

「入っていいかい?」とタノムは言う。
「ハイどうぞ」と店員は言う。
 客は一人。弁当を待っている。タノムは「いかにも責任者である風」を装って奥に入ってゆく。
「カツカレー大盛り。カツカレー、ギョウザ付き。牛卵とじ丼。いい?」
 タノムはそれぞれを作りながら、「誰がこの手持ち鍋こんなガタガタにしたの? これ火の通りムラになるじゃん」と言う。「牛卵とじ丼の卵は半熟に。サルモネラ菌は情熱で殺せ」と念じる。タノムは奥から弁当待ちの客を見た。何も反応は無い。「今日は明日のチャンピオンの声、聴こえるのかな?」
「カツは揚げたてじゃなくていいの?」と店員が訊く。
 タノムの中で生焼けのカツが目に浮かぶ。
「いいよ、ストックで」
「サクサクと切られるカツは誰の物? カリカリの揚げギョウザは君のもの?」タノムは飯が好きだから、とてもテンションが上がってしまう。
 客は「特製海苔弁」を持ってすでに帰っている。タノムは「彼の中に俺が残したもの」をぼんやり考えている。「俺は何? 明日のチャンピオンは俺に何かくれるの? それとも持ってゆくの? 恐いねぇ。恐いねぇ」
「今晩よろしくです」と、店員が言った。この店は二十四時間営業。タノムは深夜から早朝に働いているのだ。

 マンションをエレベーターで上がるとき、タノムは意識の階層のことを考えていた。初めはボクシングの階級のことを思ったのだが、ちょっとずれる。この場合、意識と肉体とのつながりをどう説明したらいいのだろうかと。「あいつは軽量級のチャンプだろ? デカイ素人に負けるべや」そう簡単に済まされない何かを考えるが、もう8階に着いてしまった。

「左足を軸にして体をクルリと時計回りに。俺、この動きが好きだ。左アッパーを突き上げる時の広背筋。ありがとう。上半身を柔らかくするための鍛えられた下半身。その事を説明すると、輝く君の瞳。潤ってるね。『お前の右フックは当たらねぇ』と言った会長さん。ごめんよ、今晩も打ちますから。フィニッシュブローの手ごたえの無さ。すべての力が相手に伝わった。闇は君に」
 タノムはその『声』を聴いていた。この声に勇気付けられる? 導かれる? それとも脚を引っぱられる? タノムはじっと心を見る。「一部死んでる」そう、心の一部が死んでいるのだ。

 イースケは、明日のチャンピオンを見ながら、「アアッ! あれ、俺が昨日打ったボディーブローだろ? 違う? アアッ! これ俺の右ストレート!」などと言う。本気で言う。お馬鹿さんなのである。「俺の造った記憶。俺の体の造った高次元の記憶! ホーッ!」と、叫ぶ。明日のチャンピオンが劣勢の時、「腕立てパワーで勝つんだよ! 俺の生命エネルギーで突き抜けるよ!」と、腕立て伏せをする。たまにチンチンを勃起させる。相手選手に向かって「昔、ヤッた女。今、お前みながら自慢げに巨根と交わってるぜ」と、言ったりする。そんな風にイースケの試合が終わる。

「チャンピオン! いや、明日のチャンピオン。今夜もノック・アウト。素晴らしいですね」
「LOVE YOURSELF! LOVE YOURSELF! もうすでにチャンピオンです」
「今夜もフィニッシュは右三発。その前のボディーブロー。効きましたね」
「喧嘩とボクシングの狭間で、この世とあの世のはしごを造る。これ俺の仕事」
「多分、今度の相手はいま、リングサイドで見つめていますよ。相手は生粋のボクサーです。どうですか?」
「俺たちはしょうがなく生まれてきたんじゃない。人間は原始生まれたがっていたんじゃ。人間は両足で立ち、手を自由にした。今、自由になった手が地球の常識を離れて宇宙をつかまんとす。俺は産まれる前から闘っていた。この手につかむのはベルトと決まっているのじゃ!」
「やはり明日のチャンピオン次元が違いますね。時計に追われてボクシングをするのではなく、明日のチャンピオンのパンチ、一発一発で時計が動くという感じでしたよ。どうですか?」
「それは何ですか?」
「いやつまり、あの、時間を忘れるという事です」
「うん。みんな、時間なんて憶えてるの?」会場の笑いを誘う。ややあって明日のチャンピオンにスイッチが入った。
「時間3分。その時を完璧に使い切り鍛え上げれば『時、止まる』と言う。身体、意識にこの全宇宙、全次元のエネルギーを吸い込み、一滴も漏らさずコントロール出来るならば、時、もはや自分の中にあるという事。古、地球がまだ火の玉だった頃から、今に向かって時は進んだ。この平穏を得たければ、熱をもって身体、意識を鍛えよ。さすればこの星の森の豊かさを内に秘めた、濃密な人間になれるであろう」
「ああああああ、ありがとうございます。明日のチャンピオンでした!」

 ハードパンチャーは、大盛りのカツカレーを食って満足し、とてもキレイに澱んだ目でテレビを観ている。その向こうのヤクザな男に目線を送る。「こいつ強い? こいつ単なるかまし?」そんな言葉が頭をよぎりる。「明日のチャンピオンのスポンサーって誰? タニマチとかいるの?」そんな事を考えながら世界一ゆったりとテレビを観る。頭の中にボクサーの記憶などカケラも無く。

「明日のチャンピオン。そんな所打ったら危ないよ。ちゃんとアゴ。アゴ、アゴ。アゴの先でいいよ。脳震盪でダウンなんだからさ」明日のチャンピオンのパンチが、相手の胸を突いた。中村ちゃんは「ああ、俺と同じ。マスタツ? 大山倍達? マスタツ入った?」
 米神をなでながら、不快を吹き飛ばそうとする中村ちゃんは、その不快がどこからやってくるのか知らぬまま、チャンピオンのヒーローインタビューを聞いて笑っていた。

 花道を歩く明日のチャンピオンに群がる若い人々。タノムは中学時代の『棒倒し』を思い出した。あの競技、性格が出る。敵方の守りの上に登る好戦的なやつ。これは分りやすい個性だ。それにしても、ありとあらゆる物は個性を引き出すのに、子供の没個性とは何だろう? ボクシングなんか、パンチ一つにも個性があるのに。「なぁ?」と訊いたら、「全力を出すにはコツがいるんですよ」と、ハードパンチャーが返した。明日のチャンピオンの『声』を聴きながら、「音を出す方は、受け取る側より、確実に気持ちいい」と思った。

 寝そべりながら、空っぽの頭の中にもやもやしたうずきがあるのを感じている男達。明日のチャンピオンがノックアウトした後に、その意識の薄いあほんだらは、やおら立ち上がり、チンコ踊りをし始める。
「俺、ヤリチンになれる!」
何故かそう思ったのだ。

「タノムさんこのカツカレーいくらですか?」ハードパンチャーが訊く。
「払うの?」
「いくらですか?」
「650円くらい?」
「ああ」と、ハードパンチャーは天井を見て考えるふりをした。「ご馳走様でした!」何も考えていなかったようだ。

     ※

「いわゆる豪傑ですよね?」明日のチャンピオンが言う。
「よく知ってるねぇ」と言って豪傑がケツを叩いた。みんな結構笑っている。
「酒はなんだ? こういう時はシャンパン? 何? 何でもあるよ」
「響あります?」
「いいねぇ」そんな話の席にキックボクサーがいる。
「キックは強いんじゃないの?」そう言って笑う明日のチャンピオンの顔は可愛くもあり、急所を突く心構えも匂わせている。
「チャンピオンのパンチは強いっすよ。観ててわかりますよ。ケンカに使えますよ。あれ。キックとボクサー。どっちが強いって、愚問っすよ。ようは魂の強さですよ。魂が強いと相手固まりますから」キックはへつらう。
「お前でもびびるか? そう?」豪傑は言う。
「チャンピオンのパンチは大いなる力っすよ」
 キックボクサーは、これまで生きてこられたのは「きちんと噛み合う人間」としかケンカをしなかったからだと思う。キックボクサーはタノムのことをぼんやり思い出している。そこに敵がい心は無かった。「あの男、強くはねぇが、やりあいたくはねぇな」明日のチャンピオンを見たキックボクサーは「こいつ噛み合うな。やべぇな」そう思った。「噛み合うってことは、白黒、順位がはっきりつく。大きな人がこいつの背中を押しているから、ここは自分が下位だと装っておけば金運」世の中は、あやふやな所があるから自由があると知っているのだ。キックボクサーは敵がい心を隠してクスクス笑っている。このネタで何人の女が抱けるか想像している。自然と腹は立たない。
「殴り合いってのは、相手をぶちのめすんじゃないんですよ。相手にプライドを与えるんですよ。『お前を倒す為にここまでやったぜ』ですよ。だから全力でトレーニングするんですよ」明日のチャンピオンの男前ぶりがヤクザな男達を温めている。

 会長とタノム、中村ちゃんが店に入ってきたところで、キックボクサーは舎弟を連れてボックス席を離れた。会長はなかなかの堂々を装い、タノムはボォッと店を眺める。中村ちゃんは神経が過敏。目がおかしい。
「私、あなたのファンなんすよ」と、女が言った。
「知ってます」と、明日のボクサーが返す。
 周りを見渡せば、その言葉に吸い寄せられるように視線が集まっている。それぞれの視線の先には、太ももがあり、胸があり、唇があり股間がある。
 キックボクサーは今まで七万回は唱えた台詞を思い出していた。「自分ならいけますよ」そう、この言葉を唱える事で弱さが麻痺するのだ。明日のチャンピオンのファンの女の子を『味見』した。部屋から出てきたキックボクサーは「あんま、色気ないすよ」と言った。ものすごく感じやすいけれど、ものすごく固い殻に包まれて、ほとんどSEXをした実感がなかったから。あの女はいい女なのか? これは一人、女を抱いたと考えていいのか? でもあの手の女の中に入った喜びはあるけど。何だかクールにいきたいな。どうだろう? と、考えている。
仕切りの向こうの豪傑を感じながら、「彼らはもう闘わない。闘わないことでプライドは守られる。まぁつまり、若い時代をタフに生きて、上手いこと引き際を決めて、あるべき椅子に座るのだ」

「タノム君。汁かけて来い。汁。顔とか胸にさ。楽しいから」会長が言う。
 タノムは「汁かけていいんだ」と思い、奥の部屋へ入っていった。
「ゆっくり染まるだろ」と、小声で誰かが言った。
「世の中には強い念を持ったものがいる。その念は人を介して広まり、世間はその人々の意に染まっていく。何せそれはセックスに深く入り込むのだ。タノムよ」
 会長の体が温かくなった。ソファーにもたれて、前頭葉から背中に重荷が抜けて、地中深く消えてゆく。ふと「タノム君が背負ったのか」と思う。頭の片隅で世の中が腐敗してゆく。「いつか誰かが止めるだろう」これまで十分人間に幸せな夢を届ける努力をしてきたのだ。トランポリンで飛び跳ねる二人の若者が見える。二人は交互に高く跳ぶ。「それでいい。それでいいんだ」

「ノーモーション。ノーモーションって言ってるけど、俺のノーモーションは心だから。心が動いてないのに右、出るから。相手は『捨てパンチか?』って思ったら、メチャ強い右だったって、倒れてから気づくから」明日のチャンピオンは腰を振りながら「動いているようで動いてないよ。動いていないようで動いているよ」と言う。「ノーモーションだから」
 みんなホクホク笑っている。キックボクサーは思う。「けりてぇ」

「涼しいよね? 涼しいの?」明日のチャンピオンは体が火照っているから分らない。目の前にあるものが非日常であることだけは気が付く。たくさん人がいるね。こちらを向いているね。背中を見せながら振り返っているね。何だろう? 大きい男がいるね。その前にイカツい男もいるね。何だろうね。
明日のチャンピオンは「俺にもバックついてるよな?」と計算して、剣呑な雰囲気で前に進む。イカツい男の度胸が滲むその空気を切って、明日のチャンピオンが胸ぐらを「チョイ」と押す。目線を合わせてはいても、通じ合う事を避ける。尊大な態度で横をすり抜け、一九〇の男を吟味しながら歩を進める。一九〇の男は「あれ? 俺、殴られるの?」と、思う。「ここは俺が間に入って収まるって展開じゃねぇの? 俺の株が上がって女にモテるんじゃないの?」彼の周りには野次馬がたくさんいて、誰が味方かわからなくなっている。当然ここは、誰かの武勇伝になるのを知っているけれど、それが自分の友人ものになるのか、この明日のチャンピオンのものになるのかは知らなかった。明日のチャンピオンが八百長だとか、いい女を抱きすぎて非難を買っているとか、その女を使って何か大きな力を懐柔しているとか。話の大小はあれど好ましくない事だった。
 建物の脇っちょで男が一人。ビデオカメラを構えて「面白くなれ! 面白くなれ!」と、念じる。
「お前、汚ねぇな」と明日のチャンピオンが言う。
「すぐ、帰りますから」と、イースケは三回繰り返して言う。明日のチャンピオンをカメラでとらえているうちは、ドキドキくらいで済んだ。こちらに注意がはらわれた瞬間、イースケは動けなかった。動いてしまえば、己の卑劣な魂がばれてしまうから。
「お前、目が汚ねぇよ」と、明日のチャンピオンは目を通して、イースケにプレッシャーを流し込んだ。イースケはどれだけ自分が醜くて惨めでも、走るしかなかった。「なるほどこれが負けるという事か」そんな言葉が浮かんでいる。その心の中で、弱い自分と、人間としてのプライドが分裂していた。

「ダメですよ。シコシコ一回ぐらいで、それはダメですよ。その話を飲むときは世界の価値観がひっくり返る時ですよ。その為ならやったっていいですけど」と、タノムは言う。
「世界がひっくり返るって何よ?」と、豪傑が返す。
「それは、お前が死ぬって事だ」とは口に出来ないから「何ですかね?」と、とぼける。タノムの体から熱が消える。
「俺たちのやっている事ってのはさ。カッコいい本物の男を、世界中に広めようって事なんだな。分るかい?」
「ワルでもいいんですか?」
「ワルのカッコよさ知らんべ」
「どんなワルがカッコいいんですか?」
 豪傑は少し考えた。勢いあまって口にしそうな物事を、意識の奥底に沈める。
「中学時代よ。中古CDショップでよ、店員の目もはばからず、盗みよ。そのCD持って他の店に売りに行くのよ。その金でタバコ買うべ? 喫茶店行くべ? そこでナポリタン食っていっぷくよ。悪いべや」
 何気ない話。タノムと中村ちゃんがしおれている。豪傑の醸し出す雰囲気に、「この話ぐらいで納得しなければ何が起きても知らんからな」が、含まれていたから。
「金ですか? 金を動かすのがカッコいいんですか?」と、中村ちゃんが訊いた。
「カッコいいが金を動かすのがこの世の常識だろが? 違うか? カッコいい車。カッコいい顔。カッコいいデザインあれこれだろ? 違うか? それでメシを喰うって恥ずかしいか?」
 この男はずいぶん密度の濃い「もや」みたいなものを与えやがる。その口から出た、正論に耳をかたむけた。中村ちゃんがボクシングで「無我の境地を見たいんです」と、言ったから、豪傑は「試合の後には金を使って女を抱くもんだ」と笑った。「諦めたのか、あの、中村君。金が無いから車や女をあきらめる? 逆だよ。あきらめたから金が無いのさ。もしくは、今、この世は夢より金の方が重くなっちまってるんだよ。違うか? 『金が無いから無理でしょ?』だろ? 金のほうが重いだろ? じゃあ、重みのある金を使って何をする? 夢を描くのさ」豪傑は指を鳴らす。「金の集まる所に、金の無い所からエネルギーが流れる。心のエネルギーだよ。金を配れば話は早いが、金が切り拓く道にみんな乗っけてやったら、夢見るエネルギー湧くだろ?」豪傑は指を弾いた。「そして、ある程度ならされたら、エネルギーが止まる」豪傑は小声で「夢と現実のバランスがとれるのさ」と言った。
 ぼぉっと照明に視線をあずけ長考した中村ちゃんが言う。
「歴史作れるんすか。カッコいい男こしらえて、何ができるんすか。歴史になるほど大きな山を作るんですか。その山に豊かな森はあるんですか。歴史を見ればみんな、強い奴に嘘と虚構が寄ってきて、知らない間に大きくなって、本人もそれに負けじと大きな態度で、やはり海に沈むのではないですか。それでは歴史の恥ずかしい部分、受け継ぐだけではないですか」
「ん、じゃぁよ」と、豪傑がすかさず言う。「本当の歴史は、海の底のように静かで冷え冷えしてんのかい? それともマグマのように熱いのかい?」
 またもや長考した中村ちゃんが言う。
「お前らよ! ホントの強さとか知らんべ! 心の奥底から湧き出るような、あの強さの源を知らんべ!」
 店の中にある、澱んだ空気が中村ちゃんに吸い込まれ、中村ちゃんの顔が頬白んだ。緊張と興奮が中村ちゃんにすべて吸い込まれて、その、放たれる空気がそれぞれに馴染んだ所で豪傑がこう言う。
「やるかい?」豪傑が拳を握っている。「やれるのかい?」

 タノムはしたたかに打ちのめされている。金属の棒が背中に打ち付けられている。まだ筋肉の厚いところなら「うん、ふぅっ!」程で済んだものの、原付のスロットル回そうとして腕を伸ばせば、脇腹に硬いものが打ち付けられる。痛みが臨界を越えれば、今まで見たことのない意識世界で「はぁぁぁぁ……ぇちょれさんびっ」と、声を漏らす。横をすり抜けてゆく車の、ガラスの向こう。結構な緊張感で走り去るのを見れば、タノムもこの出来事のもたらす凄惨を知る。スロットルを回す。大きめに回したから、ウィリーして、タノムの背中はアスファルトに打ち付けられた。痛む身体から、汚れを吐き出すように「俺はチャンピオンになれた器だぞ! 半端モンは消えてなくなれ!」と叫んだ。人の目など気にならないほど、自意識が飛んでいた。
 暗闇の中。アスファルトの上を滑ってゆく人々。とても静かに。その中でタノム一人が熱く沸騰している。いや、もしかして、ほとんどの人は、その胸の奥に沸騰する何かを抱えているのかもしれない。タノムの熱さは、意識されずに放熱。誰だって、自分の熱さには違和感など感じないのだ。

「折れてるの? 折れてるのかい?」タノムは鏡の前で、背中、脇腹の部分。肋骨を押さえながらつぶやく。「初めてだかんな。折れてるのか?」手をあてている部分、まだ色が変わらぬくらい新鮮。「骨が折れている痛みって、何でしょう? 触っただけで痛いしな」息をしただけで苦しくなる様子がある。タバコに火をつける。すべての痛みを誤魔化すように、少しワルに、投げやりになる。クスクス笑う。それにしてもたたきつけれらる人生だ。自分に何も無いときは、顔の悪さで悪意をたたきつけられ、ボクシングを始めれば、キックボクサーにスネをたたきつけられる。今日は金属バットと、アスファルトにたたきつけられた。その事についてタノムはじっと考える。考えたふりをした。考えたとしても答えも無ければ悲しみも無いのだ。すべて自分の人生の一部なのだ。遠く離れた昔の友人の思い出のように、親密に夜がふけていった。

     ※

 中村ちゃんが吠えた。
「おい、お前ら。強い人間、カッコいい人間にくっついて歩いて、何から守ってもらうんだ? まさか『自分の傘になってくれ』っていう情けない根性じゃねぇだろうな? 強い人間みたらビビれよ。ビビって自分を鍛えろよ。拝んでたてまつるもんじゃねぇからよ。自分もリングに上がらなきゃいけねぇんだよ。その方が世の中に強いモンが産まれた意味があるだろうが。みんな強くてカッコよくならなきゃいけないだろうが。違うか?」

「大丈夫なんですよね?」と、少年が言う。
「大丈夫だから」と、キックボクサーが言う。
「後ろに誰かいるから安心って事は、これからずっと言うことを聞けってことですよね?」と、少年が言う。
「いらん事考えると生きていけねぇ。それに、後ろにいるのは俺なんだよ? 誰の言う事も聞きたくない俺なんだよ?」と、キックボクサーは言う。
 少年の目に映る世界が、おぼろげに『無頼漢』の男臭さに染まり、その後、現実のだるさに落ち着いた。「腹が据われば、男前」そう思ってボクシングジムの入り口に立ったのだ。

 中村ちゃんがミットを叩く。中村ちゃんの脳裏に憎い顔が浮かぶから、中村ちゃんは唇を歪めて、それを拭い去る。ボクシングは人を恨んでするもんじゃないんだ、と。一つ一つのパンチに込められた思いは、少しだけずれた方向に中村ちゃんを導く。「ライバルって、いらないっすよね」と、タノムに言う。「ライバルいたら、自分の方向性間違えますよ」中村ちゃんは、ヤクザな男にケンカを売られて、それを買ってしまったのだ。心の奥にある、極道に近い部分に火がついて、抑えられなくなってしまったのだ。
「中村ちゃん良い奴ですよ」と、ハードパンチャーが言う。「中村ちゃんに追いかけられるの嫌いじゃないっすよ」中村ちゃんがサンドバックを殴るのを見て言った。中村ちゃんの心の奥で、「こいつに張り合うとまた、自分が歪む。でも、思い切りいかないと、試合で無様をさらす」いま、触れているこの気持ち。従うべきか考えるが、男である以上、走らなくてはならなかった。サンドバックを叩く音が低く響けば、男が上がり、腹は据わる。確かな事だった。

 狸小路にいる。『パスタ・デ・スカ』意味の分らない店名に、意識をぼかされながらタノムは入ってゆく。俺がたんぱく質を取れば、中村ちゃんの肉になるのではないか? 中村ちゃんのパワーになるのではないか? なるわけはないのだ。分っている事だけれど、いたずらに、また、本気に思う。この想いは愛なのではないか? そう思う。半分にやけ顔で思えば冗談の上手い男。本気で思えば変態だ。その心のあり様に、タノムは、境界線の曖昧になった自分を思う。天からの誘いに、断りきれない魅力があって、自分の身体、精神の溶解を認めざるをえない感じ。何も知らない事は、感受性で分らなければならないとは、厳しい世界だね。
「平打ち生パスタ。肉味噌。温玉のせ」もはや、身体が膨れ上がる事に恐怖などないよね。
 タノムはタバコを我慢している。我慢しているその意識の上に、厚い雲が広がる。それをはねのける様に、かわいい女の子が男を連れて入ってくる。嫉妬。分離していたはずの意識が混ざりに混ざる。この場合、雨が降ったと言うのか。
 女の子がタノムと同じメニューを頼む。初めての店で頼むものに間違えがないことを可愛く主張するものだから、タノムは緊張する。この場合、俺と同じメニューを頼んだから、もし不味かったら、俺のせいになるのではないか? 
 パスタの脇に水菜があしらってある。タノムはそれをじっと見つめて、愛そうと試みたが無理だった。別皿のサラダから手をつけた。トマト、モッツアレラチーズ、オリーブの塩漬け。この温玉を崩すと、肉味噌の辛さを調和してくれる。女の子好みのまろやかにしてくれる。この肉味噌は、かなり歯に挟まる。水菜も挟まる。パスタは歯にくっ付く。どうにかしてくれ。
 やけにトロ味のある心持から開放されて見上げれば、月がない。疑わしい事だ。タノムは、月がなんどき上がって、なんどき沈むのか、満ち欠けがどのように行われるのかを、まったく想像できなかった。そう、月がないことを疑わしく思ったのではなく、月に関して知らない自分が、不意に何かを疑ったのだ。

 太陽のことを知るならば
 月に聞けばよい
 太陽を直接知るならば
 その目は焼けてしまう
 月はいつもやさしく
 あなたに太陽の心を教えてくれる
 いますれ違った女の子
 あなたから目を背けた
 どういう事かわかるかしら?

「月になりてぇわなぁ」タノムがつぶやくと、「ボクサーはみんな太陽だぜ?」と、誰かがささやいた。

 中村ちゃんの「伸び」が止まった。タノムは少しずつ楽になった。日常を取り戻したのだ。伸びているうちは、「何とかしなくちゃ」があるのだが、それが止まると同時に、タノムの心も萎える。「自分ってこんなもん? 俺が教えられるすべてはこんなもん?」という心持と、「ハードパンチャーは良いね」という逃げの気持ち。エネルギーが移動している。情熱がはみ出して燃えていた中村ちゃんから、鈍いながらも自信たっぷりのハードパンチャーへ。

 中村ちゃんが窓の外を見ている。ボクシングジムのガラスを開け放って見える景色を、ぼおっと見ている。この景色の大半を占めるコンクリートの灰色に何の感動もなく。ただ、ぼおっと。その姿は、このジムに馴染んでいる。誰も冷やかさない代わりに、何の敬いも無い。すべて物はこの空気を壊さないようにある。そのまま、黒人ボクサーとの闘いに入って、何も問題を起こさないまま終わることを想像している。ジムの壁に対戦表が貼ってある。中村ちゃんの相手の名前。その上に(黒人)と、書いてある。

 中村ちゃんが言う。その頭の上に、「お前が負けて、俺たち言いなりかよ」という言葉が降りそうなのを、必死にこらえて言う。
「俺、マンガみたいに強くなること夢見たんですよ。でも、実際なれないじゃないですか。でも、それでも、夢見た、その夢の一部は自分のものじゃないですか。ホントは百万人に一人のエンターテインメントやる人になりたかったんですよ。つまりあの……、学校で一生懸命勉強した百万人に一人、天才学者、天才発明家がいるみたいに。それに自分がなれなくても、『俺、あいつのスゴさ知ってるぜ』って。同じステージで踊る事は恥ずかしい事じゃないって、思えるし、言いたいんですよね。多分夢を見るって、夢みたいな人の一部になるって事なんすよ」
 タノムは携帯を耳にあてて考えていた。「中村ちゃん。キンチョーが途切れたな」この話、すでに負けたのだ。
「中村ちゃん。エンターテインメントって、人間の本質だよ。人間の本質を見て、『こいつは面白い』って、言われる事だよ。人の後追いしている最中はまだまだだよ」そう言ったタノムの頭の中に、中村ちゃんの落胆が染み込んで、その後は黙った。「何か悪い事でも言ったか? もしや、中村ちゃん。負けてもエンタメなんだって、そう聴こえた?」
 中村ちゃんは黙って、「俺、白旗、揚げた?」と、確認している。「揚げてないよな? 夢の一部になるって、宣言したもんな」と、眉をしかめて、腹の奥から力が抜け落ちるのをこらえていた。「ん? 後追いなわけ無いじゃん。俺が夢の一部になるって。それ、後追い?」
「頑張りますよ」と、中村ちゃんが言った。
「あたりめぇだろボケ!」タノムが笑った。「チンポで負けても、根性で負けるか、日本人」
「ああ、チンポと根性。両方根っこですよね」と、中村ちゃんが言う。
どこにも力なんて無かった。どうしようもなく空虚だったから、「明日も絞るから。安心して」と、タノムは断ち切った。その後「サバを食おう」と、つぶやいた。

「跳び箱を越えるような恐怖」中村ちゃんが言った。「そのくらいっすよ」スパーリングをこなす。「最初が一番恐くてさ」パンチの後に顔が引きつる。「その後は、気の利いた台詞を言えるような。そんな男女関係みたいっすよ」もらったパンチが利いた後に顔が固くなる。その事にひどく動揺して「利いてなかったのか?」と言う。「俺のパンチ」一発もまともに入らないこともある。「恐さがあると人間大人になるって言いたいっすね。あのガキども」すべての行為がタノムの頭の上を通り過ぎてゆく。誰もクラッチをつなげなかった。「こんなに燃えないのか」タノムは自分自身がが悪いのかと思ったけれど、それほど罪悪感は無かった。

 小豆を炊く。タバコを吸う。小豆を食べると、タバコの毒味がよく分った。小豆もやめず、タバコもやめず、タノムはぼぉっと毒が染み入るのを感じていた。タバコの煙は空気の境目を見せてくれる。興味深い。中村ちゃんはきっと野菜スープを飲んでいる。

「中村。野菜スープは美味いか? 野菜は肉より劣るか? 昔の人は、位の低い人は、野菜を沢山食べたってよ。そしたら、えらい人より賢く、強くなったってよ。俺は思う。数ある穢れた魂は、肉体を離れたときに、太陽に葬り去られる。そして熱として燃えるんだ。そのエネルギーが地球に降りそそぎ、野菜が育つ。つまりな、野菜ってのは、人間に罪の味を知らせてくれる大事なもんだ。よく食え。中村。お前が、あのリングに立って、激しく興奮して、ひたすら殴り合って、なおかつ、邪心が、穢れた心が漏れなかったら、お前を、真のボクサーって呼んでやろう。いいか? 全部飲め」
 会長の目が澱んでいる。その向こうに、何故か、真実が、あるような気がした。中村ちゃんはいい奴だ。その澱みが、未熟な感性が生み出した冷たい不理解、ともすると辛辣な現実によって作られたものだと知る。そのわずかな目の光にかけてみようと、思うほど、中村ちゃんは善人なのだ。

「中村ちゃん。肉体って世界なんだな。大きいのも、小さいのも、世界の現われなんだ。イケメンも不細工も、その魂が、どこに触れているかの現われなんだよなぁ。でもなぁ、中村ちゃん。俺、思うんだ。階級って平等のようで『かき回す』って事だと思うんだよ。それは、言い換えれば、時代って事かもしれない。ありとあらゆる意味で人間は世界を『かき回している』んだと思うんだよ。ああ、ボクサーは身体を絞っていろんな世界に行く。そして、その世界を体現しているのかもな。分らない? つまりさ、62㌔の身体ならさ、その62㌔の世界を濃密に表現したのがボクサーの身体な訳だよ。その世界の中で、繰り出されるひとつひとつの行為が、何かしらの、言ってみたら、本当の、『ホンマもん』の62㌔の世界な訳よ。『時代』? それが納得いかない? いわゆるさ、『縛り』よ。どうあがいても変えられない『縛り』よ。おそらくは変える事のできない、肉体の本性と、絶対に変えることの出来ない『生れ落ちた時代』その一点で生きる人々。その集まりが俺ら。何故か俺たちはその不自由の中であがくんだ。大きくなって誤魔化すか? 絞りに絞って突き抜けるか? なんかよう、身体が締まってこねぇか? ここで頑張らなきゃ、突破口がない。そんな気にならない? この身体で生み出したもんに、誰も首を縦に振らなかったら、腹切るぜ? みたいな。中村ちゃん。いろんな世界が見えないか? ほんの一口で意識を変える美味な喰いもんみたいに、ボクサーが何かを変えてはいないか? どう? ん? 不細工は本気のときが一番 不細工だ? まぁ……。言うなや。不細工がカッコいいときもあるだろ? それで価値観を『かき回す』だろ? 違う?」
 タノムは天井を向きながら、宙を見つめていた。中村ちゃんは、布団の中で丸まっている。中村ちゃんは「ボクシングという枠の中、階級に縛られながら、一つの壷の中で、混沌とも言うべき、様々な個性の世界」を想った。
『かき回す』
「それは神様のヘラで混ぜられる、濃密なスープのようだね」そう想った。
 タノムは鮭を焼き。中村ちゃんはペニスをいじった。鮭は紅鮭。身離れがよく
美味だった。ペニスはゆるりと長く、現実的な未来を、しかと見つめることの邪魔にはならなかった。

 意地悪な日本人がいた。彼らは負けたボクサーをあざ笑う。やさしい日本人がいた。彼らはなぐさめた。そして、弱い人間がいることに安心した。どちらも、ボクサーより高い位置にいるようだった。彼らは負けたボクサーにすべての荷物を預けて去っていった。負けたボクサーは、「なるほど。勝たなきゃいけないんだ」と、悟った。目の前には以前より高い壁があって、後ろには冷笑がある。ボクサー。何だかのっぴきならないな。

「甘みがきてねぇ」中村ちゃんが大きなイチゴをかじっている。「大丈夫っすよ。軍用毛布二十枚ぐらいのプレッシャーですよ」中村ちゃんは考える。この緊張感。捨てるべきかまとうべきか。「ヤツ。そんなに大きくないすよ」

つづく

 
 

 
後書き
つづくよん♪ 
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