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秋雨の下で

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第三章


第三章

「そりゃあきまっていますよ」
 記者の一人が言った。
「陰気で嫌味で打たれ強い、と。悪口ばかりですけれど」
「おい、そりゃあ言い過ぎだろ」
 周りの同僚達が止めたが積極的ではなかった。
「そうか」
 西本はそれを聞くと寂しそうに頷いた。
「わしはあいつはほんまはええ奴なんやと思う。あれでもの凄い繊細な奴なんや」
「嘘でしょ!?」
「阪急だって野村さんにだいぶやられてるじゃないですか」
 それは事実であった。阪急の誇る強力打線は野村のささやき戦術に調子を狂わされトップバッターの福本豊は牽制球をぶつけられている。その時西本は烈火の如く怒った。
「それはそうやけれどな」
 西本は野村を見ながら言った。
「ああ見えて寂しがりなんや。そして困っている者を見棄ててはおけん奴なんや」
 それは事実であった。その時野村はその日の先発江本に何やら話していた。
 江本は野村に拾われた選手である。東映にテスト生で入ったが登板を増やすよう要求しチームを放り出された。野村は彼を南海に入れてこう言った。
「わしがキャッチャーやって御前が投げる。それで十五勝や」
 江本はその言葉に感激した。そして力投し南海の優勝にも貢献した。今でも江本は野村を慕っている。
 彼の他にも多くの選手が野村の手により復活している。ヤクルトの監督をしていた頃は『野村再生工場』とも呼ばれていた。
 こうした人物なのである。自らも苦労してきただけあり人を見捨ててはおけなかった。そして江夏も見捨てなかったのである。
 江夏はストッパーとして見事復活した。そして野村に最後までついて行こうと思った。
 だが野村はここで突如として解任される。理由は女性問題であった。
 江夏はそれを見てチームを出た。そして広島に移ったのである。
 広島でも彼はストッパーであった。そしてチームの優勝に貢献し今日本シリーズの最後のマウンドにいる。
 その江夏が投げた。羽田は振らない、様子を見ると思い甘い球を投げた。
 それが失敗であった。羽田はその打球をセンター前へ弾き返した。
「ヌッ!」
 江夏は打球を見た。打球はセンター前へ跳んでいた。
「最初から打って来たか」
 江夏は思わず一塁ベース上にいる羽田を見た。そして西本を見た。
「流石は西本さんの野球やな」
 彼も南海時代西本の近鉄と戦っていた。その時はまだ今のように強くはなかった。だが今はそこに荒削りな強さがはっきりとあった。
 実際にこのシリーズは両チームがぷり四つに組んだ戦いであった。互いに相譲らず最終戦に持ち込んだことからもそれが窺える。
「ここまで来るのにも一苦労やったしな」
 西本は言った。西本は今迄七回シリーズに監督として出場している。だが今までは敗れてばかりいた。それは彼のこうした言葉に現われえていると言っても過言ではないだろう。
 彼はよく選手達に拳を浴びせた。しかしそれは憎しみからくるものではなく愛情からくるものであった。彼は常に選手達のことを思いその成長を見守ってきた。
『西本さんの拳は鉄やり固く炎より熱い』
 これはよく言われることである。彼はその熱い心をもって選手達に向かっていた。それは大毎でも阪急でも近鉄でも変わらない。常に選手達にとって父親の様に厳しく、そして温かい男であった。
 その為こうした言葉が出るのだ。何処かにここまでやってくれた選手達を褒めたいという気持ちがあった。だからこそそう言うのだ。
 その西本が動いた。そして審判に何か告げた。
「代打か?」
 観客達は一瞬そう思った。だがそれはないだろうとすぐに思いなおした。
 次のバッターはクリス=アーノルド。あまり背は高くはないがパンチ力のある男だ。彼は右打者、替えるとは思えなかった。
「代走か」
 すぐにそう思いなおした。そう、西本は羽田の代走を告げたのであった。
「代走、藤瀬」
「遂に出てきおったか!」
 その名を聞いた時観客達は思わず声をあげた。藤瀬史郎、近鉄が誇る代走の切り札であった。それを見た広島ベンチにも衝撃が走る。
「遂に出て来ましたね」
 コーチの一人が古葉に対して言った。
「ああ」
 古葉は苦い顔をして答えた。
 藤瀬は小柄だがその脚力は群を抜いていた。シーズン代走盗塁記録を持っており西本のここぞという時の隠し玉として他のチームに恐れられていた。
 このシリーズでもその恐ろしさは遺憾なく発揮されていた。
 第二戦。七回裏のことであった。
 無死一塁、終盤に入り広島は江夏を投入してきた。
 
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