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無慈悲な時の流れ

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第四章


第四章

「来たボールを打ってやる」
 それだけであった。だがある程度は狙いを定めていた。
「外角の変化球や」
 牛島がモーションに入った。そしてボールを放ってきた。
 それは内角へのシュートだった。狙いが外れた。
 だがバットが出た。そしてそれはセンターに上がった。
 そしてそれはセンター前に落ちた。誰も追いつけなかった。
「やった!」
 鈴木は懸命に走る。三塁ベースを回った。
 ツーアウトだ。もう怯むことはない、前に立ち塞がる者がいても吹き飛ばすつもりだった。
 鈴木はそのままホームへ突入した。そしてそのままホームへ転がり込んだ。
「やった、やったでぇ!」
 真っ先に中西が飛び出して来た。そして鈴木を抱き締める。
「ようやった、ようやったぞぉ!」
 これ程嬉しそうな中西は今まで誰も見たことがなかった。ナインがそれに続く。
 梨田は一塁ベース上でガッツポーズをしていた。彼もまたガッツポーズをしたのははじめてであった。
 試合はこれでほぼ決まりであった。仰木は梨田をそのままキャッチャーに送りピッチャーには切り札を投入した。
「ここでもか・・・・・・」
 皆彼のその采配に驚愕させられた。何とここでエース阿波野秀幸を投入してきたのである。
 この時阿波野は押しも押されぬ近鉄の看板であった。一年を通して投げ続けチームをここまで引っ張ってきた一人である。
 そのノビのある直球とスクリューが武器だった。そしてそれはこの試合でも冴えた。
 彼は一回を無事に抑えた。こうして近鉄はマジック1、最後まで望みを繋いだ。
「良かった・・・・・・」
 それを見て大粒の涙を流す者がいた。先程ホームで死んだ佐藤であった。
 彼は自分が刺された時全てが終わったと思った。だがこうしてチームは何とか最後の最後まで生き残ることができたのであった。
 この時阿波野が最後に投げたのはスクリューであった。彼は梨田のリードに忠実に従い一回を抑えたのであった。そう、この日の阿波野はスクリューが特に冴えていた。
「よし、次や!」
 中西がナインに声をっかえる。こうした時の彼は実に頼りがいがある。
 両軍は素早く軽食を腹に入れ次の試合に向かった。ここで両軍ははじめてこの試合がテレビで中継されていることを知ったのである。
「野球の神様のくれた配剤かな」
 この時番組の準備をしていた久米宏はこう言ったという。普段は嫌味に満ちたコメントを得意とする彼が珍しくその本音を漏らしたのであった。
「こうしたチームが負けると残念だよな」
 そしてスタッフの一人に対して声をかけた。
「はい」
 それは彼も同意見であった。皆近鉄の勝利を心から願って試合がはじまるのを見守っていた。
 所沢においてもそれは同じであった。
「これはまた凄い試合だな」
 西武ナインはテレビを観ながら口々にそう言った。
「ああ、俺達も今ここにいなかったら近鉄を応援したいな」
 彼等は近鉄が負けるか引き分ければそれで優勝である。その胴上げの為に今こうして西武球場に集まっているのだ。
 「最後の試合で、か」
 それを見る森は思わず呟いた。
「あの時みたいにならなかればいいがな」
 彼は現役時代のことを思い出していた。
 昭和四八年、このシーズン阪神が異様な強さを見せていた。そして阪神と巨人は甲子園の最終戦でぶつかり合った。勝った方が優勝である。
 だがここで阪神は敗れた。何故か巨人に対しては異様な強さと気迫を見せるエース江夏豊をこの日に登板させずに、である。これには優勝すると金がかかる、と考えた阪神のフロントの幹部である久万俊二郎の薄汚い思惑もあったという。この男をよく言う者は野球を愛する者ではいない。こうした下劣な輩が永久追放もされず大手を振って歩けるという異常事態は我が国だけに起こることであろう。
 九対零、これ以上はない程の惨敗であった。それに憤ったファンが敗戦の瞬間グラウンドに雪崩れ込んだ。
「何負けさらしとんじゃ!」
「こんな無様な結末があるかい!」
 今も球史に伝わる事件である。これ以前から阪神ファンには定評があったがこれによりそれは確固たるものとなった。そうしたファンだからこそ優勝した時の狂騒は凄まじいものとなる。この時巨人は胴上げどころではなかった。すぐさま暴徒と化した阪神ファンから逃げなければならなかった。
 森はあの時のことを思い出していた。だからこそそうした一抹の不安が脳裏をよぎったのである。
「まあ川崎球場だとそんなに暴れる観客もいないだろうがな、しかし」
 彼はここで目を光らせた。
「波乱は絶対ある。こうした試合ではな」
 彼はそう言うとテレビに視線を戻した。そして試合開始を見守った。
 近鉄の先発はルーキー高柳出巳。新人ながら肝が座っておりここまで四連勝と絶好調であった。
 だが二回、ロッテの助っ人マドロックに一発を浴びる。
 かってメジャーで何度も首位打者を獲得した男だ。だが流石に高齢であり日本の野球にも馴染めなかった。今シーズンで退団することが決定している男である。川崎球場には『マドロックお断り』という書き込みや看板まで出る始末であった。それ程期待されていない男であった。
 その男が打った。そして先制点を挙げたのだ。
「まさかこんな場面で打つなんてな・・・・・・」
 観客達も思わず言葉を失った。それは彼が日本で見せた最後の意地であった。
 だが勢いは近鉄にあった。五回、大石が出塁すると新井が送る。ブライアントは四球であった。
 
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