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知と知の死闘

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第四章


第四章

 第六戦がはじまろうとしていた。森はそこで頭を抱えていた。
 先発がいないのだ。郭はいない。渡辺は第五戦で使った。石井は翌日の為に置いておかなければならない。かといって第四戦の時のような奇策も使えない。鹿取と潮崎の無駄遣いは出来ない。
「あの男しかないか・・・・・・」
 森は呟いた。このシリーズ出したくても出せなかった男。監督室にその男を呼んだ。
「いけるか?」
 森は男に対して言った。
「いかせて下さい」
 男は言った。森はその言葉に頷いた。
「頼むぞ」
 だが彼はわかっていた。今の彼にヤクルトを抑える事は出来ないと。
 ヤクルトの先発は荒木、そして西武の先発が発表される。
 工藤だった。怪我の為出番の無かった彼がシリーズ第六戦で遂に姿を現わしたのだ。
「・・・・・・・・・」
 森は彼を見て何も言わなかった。ただ沈黙を守っていた。
 対するヤクルトはその前の試合から布陣を少し変えていた。橋上秀樹やパリデスがグラウンドにいた。
「わしが動くと碌なことが無いからのう。ここはあいつ等に任せたわ」
 野村は言った。そして選手達はそれに応えたのだ。
 試合が始まった。そして再び血戦が幕を開いた。
 まず先制したのは西武だった。工藤の併殺崩れの間に一点先制。
 だがヤクルトは三回に取り返す。前の試合から入っていた橋上が工藤からソロアーチを放つ。
 それで終わりではなかった。飯田がスリーベースを放つ。ヤクルトは逆転に成功した。神宮のライトスタンドに緑の傘が乱舞し東京音頭が鳴り響く。
 しかし四回に西武はすぐに反撃に出た。石毛がツーランを放ったのだ。これで形勢は再び西武に傾いた。
 この時森は工藤に見切りをつけていた。やはり怪我の影響か投球にいつものキレが無い。渡辺久信をマウンドに送った。
 しかしそれが裏目に出た。彼は前日先発をしている。疲れが残っている。しかも昨日打ち崩されている。決死の覚悟で向かって来る今のヤクルト打線を抑えられは出来なかった。
 その裏池山のバットが一閃した。ツーランだった。ヤクルトは再度逆転した。
 だが六回、西武は再度チャンスを掴む。ランナー二人、森はここで代打を送った。
「代打、鈴木健」
 かって西武の人事を一手に握り『球界一の寝業師』と言われた根本陸夫が得意の囲い込みで獲得した選手である。その打撃センスには定評がある。
 ヤクルトの投手は金沢。古田とのバッテリーとの間に緊張が走る。
 鈴木は打った。打球はそのまま飛んでいく。そしてスタンドに吸い込まれていった。
 逆転スリーランだった。西武はまたもや試合をひっくり返したのだ。
「流石やの。こんな強い奴等見た事ないわ」
 野村は忌々しげに呟いた。二点差、この差は大きかった。
 しかしその裏ヤクルトは再び攻め立てる。満塁の絶好のチャンスを作る。
 ここで野村は動いた。主審に代打を告げる。
「代打、杉浦」
 その名を聞いた観衆が沸き返る。第一戦でのあの代打サヨナラ満塁アーチが彼らの脳裏に甦る。
 しかしここでの結果は少し拍子抜けするものであった。彼はボールを慎重に見極め四球を選んだ。これで一点差となった。
 西武はここで踏ん張りそれ以上の得点を許さなかった。試合は終盤に入った。
 七回裏、パウエルが打った。ソロアーチだった。ヤクルトは二点差を追いついたのだ。
 それだけでヤクルトは満足しない。パリデスがタイムリーを放つ。何とまたもや逆転したのだ。これで両チーム合わせて五回目の逆転である。
 試合はヤクルトのものになりつつあった。流石に西武ファンも諦めた。選手達も次の試合を考え出していた。
 しかし終盤で驚異的な粘りを見せるのが西武であった。そしてこの時もそうであった。
 西武には一人の策士がいた。伊原春樹。西武の守備走塁コーチであり三塁コーチボックスで現場の作戦指揮を執る走塁のスペシャリストである。西武の機動戦はよく知られていたがそれは彼の力によるところが大きかった。
 九回表、既にツーアウトとなっていた。打者は二番の大塚。俊足で知られる若手である。彼は必死に粘って四球を選んだ。
 ここで伊原の目が光った。バッターボックスにいるのは秋山。ここぞという時に頼りになる男である。
 しかし彼は秋山を見てはいなかった。彼が見ていたのは一塁にいる大塚、そしてヤクルトの外野陣だった。
 ヤクルトのセンターは飯田。俊足を生かしたその守備は最早職人の域であり捕手出身であることから肩も抜群に強い。
 だがライトの秦は違う。肩はともかく守備はお世辞にもいいとは言えない。彼はその二つから一つの策を思いついた。
 大塚を走らせようとの考えはこの場では止めた。ヤクルトのキャッチャーは古田、スチールを仕掛けてもそう容易に塁を奪える男ではない。下手に気付かれては全ては水の泡だ。伊原は慎重に気を窺っていた。
 秋山が打った。打球は伊原の願い通りライト前に落ちた。予想通り秦の動きは悪い。
「今だ!」
 俊足大塚は二塁を回って三塁へ進む。そこで止まると誰もが思った。次は主砲清原である。絶好のチャンスだ。
 だが伊原はその右手を大きく振り回した。大塚は一瞬戸惑う顔をしたが脚を止めることはなかった。そのまま三塁を回った。
 ヤクルトナインは驚愕した。秦が慌てて送球し中継を経てホームへ投げられる。古田が大塚を食い止めんとする。
 大塚も必死に走る、駆ける。ここで死んでは全てが終わる。もう後が無いのだ。
 ホームで両者が激突した。観衆も両方のナインも監督も静まり返った。主審がその手をゆっくりと動かす。
「セーーフッ!」
 その右手が横に切られる。西武ナインが、三塁側スタンドが喜びに沸き返る。
 伊原はかって八七年の巨人戦で当時の巨人のセンタークロマティの緩慢な守備を衝き一塁の辻にホームまで突入させたことがある。シリーズの流れを決定付けた有名な進塁だ。
 そして今度もそれをやった。策士、走塁のスペシャリスト伊原の面目躍如であった。
 試合はこれで再び振り出しに戻った。このシリーズ三度目の延長戦に入った。
 十回裏ワンアウトランナーなし。バッターボックスには先程大塚にホームインを許した秦がいた。
 実は彼は肘に遊離軟骨を抱えており痛み止めの注射を打ちながら試合をしていた。しかも彼は内角の変化球に弱くそれがいつも意識下にある為ストレートに凡打する事も多かった。当然それは西武バッテリーにも知られていた。しかもマウンドにいるのは潮崎。彼のスライダーは左打者である秦に対してはとっておきの武器だった。
 西武バッテリーは主にストレートで彼を釣ろうとする。それは全てボールだった。彼は動かない。
「・・・・・・・・・」
 その彼の顔を西武の捕手伊東はチラリ、と見た。そしてサインを出す。それは切り札、内角へのスライダーであった。
 潮崎は頷いた。そして投球モーションに入った。
 秦はこの時確信していた。西武バッテリーは必ず自分の弱点である内角に変化球を放ってくると。だがそれが何時なのかはわからない。彼はじっとそれを待っていた。
 彼はそのスライダーにバットを乗せた。ボールはそのまま高く飛んだ。
「行けーーーーーッ!」
 秦だけではない。ヤクルトナインも、一塁のヤクルトファン達もボールに叫んだ。ボールは彼等の願いを乗せて空高く飛んでいく。
 勝利の女神がそれに応えたか。ボールはライトスタンド、ヤクルトファン達がいるその場に飛び込んだ。四時間を越える死闘はここに幕を降ろした。
 緑の傘とヤクルトナインに迎えられる秦。彼はホームベースを踏んだ時には泣いていた。
 ヤクルトは絶体絶命の状況から遂に逆王手をかけた。野村は押しかける報道陣に対して言った。
「ここまで来たら結果はどうでもええ。野球をやっていて良かったっちゅうゲームをしたいわ。今夜のミーティングで言うわ」
 普段の憮然として嫌味な言い方を好む彼とは違った言葉だった。その言葉は弾んでいた。流れが自分達に来ている事を確信していた。だからこそ言ったのだ。
 対する森の顔は暗かった。主砲清原も不振に陥っている。潮崎が二日連続で決勝アーチを浴びたのも痛かった。残るカードは少ない。
 だが彼は最後のカードをこの時の為に置いていた。そしてそのカードを引いた。
「・・・・・・頼むぞ」
 森は彼に対し言った。
 「・・・・・・はい」
 彼は静かに頷いた。彼もまた腹をくくった。
 
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