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もう一人の自分

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第九章


第九章

「監督、これ・・・・・・」
 そのコーチはそれを見て顔を強張らせた。
「ええから」
 彼は急かすように言った。そしてそのコーチを追い立てるようにしてマウンドに送った。
「スギ、御前に全部預けさせてもらうで」
 鶴岡は最後の腹をくくった。もうそこから一歩も引かないつもりであった。
「かって何度も死線を潜り抜けてきたが今みたいな気持ちになったのははじめてやな」
 ニヤリ、と笑って言った。
「ここで負けたら腹でも切ったるわい」
 伊達にあの陸軍で将校をしていたわけではない。いざという時には覚悟も決めている。
 コーチが杉浦のもとにやって来た。そして鶴岡から授けられたそれを手渡した。
「監督からや」
 見ればそれは白い布に覆われている。杉浦はそれを黙って広げた。
「これは・・・・・・」
 彼はそれを見て思わずベンチにいる鶴岡に目をやった。
「何も言うなや」
 野村が言った。
「ああ」
 杉浦はそれに頷いた。彼は鶴岡が何を言いたいのか理解した。
「じゃあわしはこれでな」
 コーチはベンチに戻っていった。
「監督、まさかこんなものまで」
 それは厳島神社の御守りであった。鶴岡の故郷広島の守り神であり彼が常にその身に着けているものだ。
「わかりました」
 杉浦はそれを右手に握って言った。
「この試合、必ず勝ちます。監督の御心に絶対報います」
 彼は今鶴岡の心をその胸に宿した。もう血マメなぞ関係なかった。
「ノムやったるで」
「あ、ああ」
 普段と変わらないもの静かさの中に燃え盛る闘志があった。普段の彼とは明らかに違っていた。
「今日の投球は全部僕に任せてくれ。そのかわり絶対に勝ったる」
「わかった」
 野村はその言葉に頷いた。
「思いきり投げたらええ。わしが全部受けたるわ」
「頼む」
 二人はここで頷き合った。そして野村はキャッチャーボックスに戻った。
「さあ来い」
 野村は黙ってミットを差し出した。サインは出さない。全て杉浦に任せた。
 杉浦は投げた。その時音が鳴った。
 ビシッ
 彼の手首が鳴る音だ。あまりものスローイングの速さにその手首が鳴ったのだ。
 放たれたボールは一直線にバッターに向かっていく。デッドボールか、巨人ベンチは一瞬ざわめきだった。
 だがそれは違っていた。それは信じられない角度でベースに食い込んでいった。
「な・・・・・・」
 それはカーブだった。杉浦の最大の武器である大きく曲がるカーブだった。
「ストライク!」
 審判の声が高らかに響く。コントロールも信じられない程よかった。
 続けて投げる。外角へのボール球だ。
「一球外すか」
 しかしそれも違っていた。それは少し沈みながらバッターの胸元に襲い掛かるようにして向かってきた。
「シュートか!」
 確かにそれはシュートであった。しかしこれも普通のシュートではなかった。
 打てるものではなかった。バットは空しく空を切った。
 またストライクの声が響き渡った。瞬く間にツーナッシングに追い込まれてしまった。
 三球目。杉浦のあまりのスローイングのスピードに砂塵が舞った。そしてまたあの音がした。
 今度はストライクゾーンにまっすぐに向かってくる。
「ストレートなら何とか」
 打とうとする、しかしそれは手元で大きく浮き上がった。
「まさか!」
 確かにそれはホップした。恐るべきボールのノビだった。
 またしても空振りだった。あえなく三振となった。
 杉浦の投球はそれだけではなかった。次々と巨人のバッターを屠っていく。そこにはもう何の雑念もなかった。そう、無心の投球であった。
 五回には遂に血マメが潰れた。だがそれももう苦にはならなかった。
「だったら指のハラで押し出すだけだ」
 そうやって投げた。目の前にいる筈のバッターも見えなかった。
 マウンドで砂塵が舞う。杉浦はそれも意に介さず投げる。
 何時しか自分がマウンドに投げる自分を見ているような気分になった。いや、彼は確かにそれを見ていた。
 長嶋も他のバッターももう関係はなかった。ただマウンドにいて投げる、それだけであった。
 ベンチにいる記憶はなかった。不思議なことだが彼はもうマウンドにいる自分だけが見えていたのだ。
 観客の声も聞こえなかった。審判の判定も。自分でそのボールがストライクがボールか、そして打たれるか打たれないかわかっていた。投げた瞬間にわかる、だが絶対に勝つ確信があった。
 気付いた時にはもう全てが終わっていた。そう、最後のバッターが倒れていたのだ。
「スギ、よおやった!」
 見ればナインがマウンドに駆け寄って来る。
「え!?」
 彼はその言葉にハッとした。
「勝ったで、日本一や!」
「勝ったんですか!?」
 彼はまだ状況が掴めていなかった。
「勝ったんや、わし等は遂に巨人を倒したんや!」
 皆口々に言う。
「そうですか、勝ったんですか」
 南海は三対〇で勝ったのだ。杉浦も打席に立った筈だがその記憶はなかった。
「そうや、御前が勝ったんや」
 見ればそこに野村がいた。
「ノム」
 杉浦は彼の姿を認めた。だがまだ信じられない。
「これは御前にやる。ウィニングボールや」
「ボールか」
「そうや、御前の勲章や」
 野村はそう言うと杉浦にミットの中の白球を手渡した。
 
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