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もう一人の自分

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第一章


第一章

                    もう一人の自分
「スギ、ちょっといいか」
 立教大学の寮で眼鏡をかけた男に顎の割れた太い眉毛の男が尋ねてきた。
「どうした、シゲ」
 スギと呼ばれた男は彼の仇名を呼んで応えた。
「いや、実はな」
 シゲは少し照れ臭そうに言葉を出してきた。
「御前に会って欲しい人がいるんだよ」
「僕にか!?」
 彼はそれを聞き思わず声をあげた。
「そうなんだ。その人は御前にとても会いたがっているんだ。頼むよ」
「ううん」
 彼はそれを聞き少し考え込んだ。だが元々気がいい彼はそれを承諾することにした。
「わかった、会うよ。シゲの頼みだしな」
 彼は笑顔になりそう言って頷いた。
「済まないな、じゃあ今度ここに行ってくれ」
 彼は一枚のメモを手渡した。
「わかった、ここにその日に行けばいいんだな」
「ああ」
 こうして彼はとある人物に会うことになった。
「君が杉浦忠君やな」
 その人は彼に会うとまず彼の名を呼んだ。
「はい」
 杉浦はここで顔をあげた。その人を見て杉浦は言葉を失った。
「あいつ・・・・・・」
 まず出た言葉はこれだった。
「どないしたんや?」
 その人はそれを聞いて彼に尋ねた。
「いえ、何も」
 杉浦は慌ててその言葉を打ち消した。
「話は長嶋君から聞いとると思うけれどな」
 その人はゆっくりとした口調で話しはじめた。
「はい」
 杉浦は真摯な顔で頷いた。だが内心はいささか複雑であった。
(あいつ、また肝心なところ忘れやがって)
 彼は長嶋に対して舌打ちしていた。
(まさか鶴岡さんだとは誰も思わないだろうが。全く何処までボケれば気が済むんだ)
 杉浦は同期の長嶋茂雄のそうした物忘れの激しさをここにきてようやく思い出した。彼はいつもこうしたことをする。
(まあ仕方ない)
 杉浦はここで腹をくくることにした。
(話は聞かないとな。鶴岡さんは僕に何をお話しにここまで来られたのかわからないし)
 これが南海のエース杉浦忠と南海の監督であり関西球界のドンとまで言われた鶴岡一人との出会いであった。これが後の奇跡的な偉業のプロローグとなるのである。
 杉浦忠、立教大学のエースである。アンダースローから繰り出される速球を武器に快刀乱麻の活躍をしていた。
 武器は速球の他にはカーブとシュートしかなかった。だがそのどちらも常識外れのものであった。
 ノーヒットノーランも達成している。それに目をつけたのが南海の監督鶴岡だったのだ。
「これはいけるで」
 当時彼は人材を欲していた。南海を優勝させる人材をだ。
 南海はこの時強敵と対峙していた。知将三原脩が率いる西鉄、そして球界の盟主を自称する巨人である。
 そのどちらにも力及ばず敗れてきた。特に巨人には日本シリーズで四度も苦汁を飲まされていた。
「この二人はいける」
 その指揮官鶴岡は長嶋と杉浦を見て言った。
「打つのは長嶋、そして投げるのは」
 目の前で杉浦が投げていた。あっさりと完封で勝利を収めている。
「この男や。これで南海は日本一になるで」
 そして立教の先輩大沢啓二を通じて彼等の獲得に動いたのだ。ドラフトのない時代こうしたことはどの球団でもやっていた。半ば無法地帯のようなものであった。
 だからこそ一瞬の隙も見せてはいかなかった。油断していてはその人材を横から掠め取られてしまう。この時の彼もそうであった。
 長嶋は巨人に獲られてしまった。一説によると巨人は彼の身辺からの切り崩しにより獲得したらしい。今も巨人が得意とすることである。実に清潔な球界の盟主だ。黒い正義である。
 これに鶴岡が激怒したのは言うまでもない。彼は杉浦を呼びつけるとこう問い詰めた。
「長嶋は裏切ったぞ!杉浦君、君はどうなんや!」
 怖ろしい剣幕であった。鶴岡の怒声は並の人間とは思えぬものがあった。
 彼は広島商で甲子園に出場したのを皮切りとしてその野球人生をはじめた。法政大学では好打堅守のサードとして知られ南海に鳴り物入りで入団するとすぐに本塁打王となった。
「グラウンドには銭が落ちとる」
「見送りの三振だけはするな」
 彼はよくこう言った。振ればもしかしたらバットに当たるかも知れない、だから諦めるな、彼はこう言ったのである。
 そしてプロはこれで飯を食っているのだ、彼はそれを選手の頃から言っていたのだ。
 戦争では機関砲部隊の中隊長であった。陸軍将校としてもその優れた統率力を見せつけた。そして戦後復員すると僅か二九歳で選手権任の監督に就任した。
 この時は食糧難に悩まされていた。彼の仕事はまず選手達の食べ物を確保することだった。
「ナッパの味しか知らん選手達にビフテキの味を教えてやりたい」
 これは当時熊谷組で選手権監督となり後に大毎、阪急、近鉄を優勝させた西本幸雄の言葉である。彼もまた選手を食べさせるのに必死であった。そのナッパですら碌に手に入らないのだ。
 鶴岡もそれは同じだ。当時は食べるものもなく空きっ腹で野球をしていたのだ。だが彼は必死に食べ物を調達した。
 時には闇市を仕切る裏の世界の親分連中ともやりあった。しかし彼は一歩も引かなかった。彼には戦争で身に着けた凄みがあった。そして選手達のことを心から思っていた。それが親分連中をも従わせたのだ。
 後に選手獲得にもその手腕を発揮する。ここで彼はその親分連中の力を借りることもあった。この時代では普通であった。裏で金が動く。そこでそうした世界との付き合いがものを言うのだ。これは三原や水原も同じであった。そうでなくては監督なぞ務まらなかった。特に彼と三原、水原はその裏の世界の親分連中ですら逆らえぬ凄みと力量があった。だからこそ大監督たりえたのだ。
 その鶴岡が杉浦に対し怖ろしい剣幕で迫ってきたのだ。普通の人間なら蒼白になるところだ。
 余談であるが長嶋は鶴岡が激怒していると聞き心底震え上がったという。もしかしたら彼の下にいる裏の人間に何かされるかも、と本気で怖れたのだ。
「もう野球ができないかも」
 彼はそう言って震えていた。だがここで彼等の先輩である大沢があちこちに頭を下げて事なきを得た。長嶋はこのことで今だに大沢に頭が上がらないという。
 大沢はこのことから長嶋に対して色々と言う。とあるテレビ番組で嘘発見器にかけられながらこう問われた。
「長嶋さんがお嫌いですね?」
 彼は笑ってそれを否定した。だが嘘発見器は急激に上がっていった。
 他にも長嶋を許したのはつい最近の話だ、と語ったこともある。ある時は長嶋の悪口を飽きる程まくしたてた。しかし最後にニヤリ、と笑ってこう言った。
「しかしあいつには巨人のユニフォームが一番似合うだろうな」
 これが大沢であった。彼らしい男気に満ちたエピソードである。なお長嶋は彼を通じてもらっていた『小遣い』を無視する鶴岡の背広のポケットに無理矢理押し込んだという。彼もまた悪いことをしたと思っていたのだ。
 
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