| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

奇策

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第七章


第七章

「くっ!」
 何とそのカーブの握りのままウエストしたのだ。咄嗟にである。
「外に外せば何とかなる!」
 外した。そしてスクイズは失敗に終わった。
「カーブの握りのままウエストができるのかどうか私は知らない」
「私もそれは無理だと思いますが」
「ただ一つ言えることがある」
「はい」
「江夏はスクイズがくることを察知していたのだ。勘でな。それが重要だ」
 普通では思いもつかない。広岡も森をそれを言ったのだ。
 思いもつかない作戦は行動に移せない。知略で知られるこの二人ですらそうなのだ。
 だが江夏はそれを感じていた。勘で、である。
「あの勘は怖ろしいぞ」
「はい、人間業ではありません」
 長い間戦いの世界で生きてきた。だからその勘の怖ろしさもわかっていた。
「とにかく少しでも勘付かれたらそれで終わりだ。江夏は必ず対処してくる」
「それはわかっています。ですが江夏にはやはりバントが効果的です」
「そうだな。あの体格を考えると」
「はい」
 二人はまた考え込んだ。
 やがて広岡が口を開いた。
「練習しかないな」
「私もそう思います」
 二人はほぼ同時に顔を上げていた。
「ナインに伝えよう。これから毎日バント練習だと」
「クリーンアップにもですね」
「当然だ。誰の場面でもないとできなければ意味がない」
 かってスラッガーマニエルにバントさせた男の言葉である。彼は相手が誰だろうが躊躇しない。例えチームの主砲である田淵であっても。
「参ったな」
 田淵は閉口してしまった。
「バントの練習なんてプロになってはじめてだよ」
「そうか」
 広岡は表情も変えずにそれを聞いた。
「では丁寧にやるんだ。バントは簡単そうに見えて案外難しいものだ」
「わかりました」
 かって阪神でホームランアーチストとまで呼ばれた男がバントの練習をする。これだけでナインは目が点になった。
「いいか」
 広岡は彼等をよそに説明をはじめた。
「まずはこれを見てくれ」
 見れば練習場の内野に二本の線が引かれている。ホームベースから一本はセカンドの定位置、もう一本はショートの。
「右バッターはショートの方に、左バッターはセカンドの方にだ」
「プッシュバントですか」
 選手の一人が尋ねた。
「そうだ」
 広岡は頷いた。
「いいか、これは江夏対策だ」
「江夏のですか!?」
「その通り、あの男の体格を見ろ」
 広岡はここで江夏の体格について言った。
「あの体型ではバントの処理は苦手だ。そこを衝く」
 彼は選手達を一瞥して言った。
「心配するな。絶対に成功する」
 広岡は選手達が不安を口にする前に先んじて言った。
「私を信じるんだ。これでプレーオフで日本ハムに勝てる」
 その口調は有無を言わせぬ程強いものであった。
「だがこれから毎日練習してもらう」
「毎日ですか」
「そうだ」
 また有無を言わせぬ口調であった。
「江夏に悟られない為にな。悟られたら何もならん」
 広岡は奇策を用いる時は徹底的にそれを隠蔽するのがここでも発揮された。
「奇策は見た目にはいい。お客さんも喜ぶ。だがな」
 彼はここで釘を刺した。
「見破られては何にもならないんだ」
 策が見破られた時のダメージの大きさは誰よりもわかっていた。
 余談であるが森はそれを後に嫌という程思い知らされることになる。
 彼が横浜ベイスターズの監督に就任した時だ。この時ヤクルトには古田敦也がいた。
「確かに素晴らしいキャッチャーだ」
 森はそれは正当に評価した。
「だが力だけで攻める必要はない。策で攻めればいい」
 彼は古田とヤクルトを知略で攻めることにした。
 結果は大失敗であった。森の策はことごとく古田に破られてしまったのだ。
「まさかこれ以上とは」
 野村と並び称される知将が一敗地にまみれたのだ。見れば野村が率いる阪神もだった。
 機動戦も投げるコースも攻撃における戦術も全て見破られていた。横浜はヤクルトに歯が立たなかった。
「戦力の問題じゃない」
 森は首を横に振った。
「知略には一つの弱点がある。見破られては何にもならない。そして」
 彼は青い顔で言葉を続けた。
「それ以上の知略の持ち主に出会ったら倍にして返される」
 それが古田であった。森も野村も自分達以上の知略の持ち主に遂に勝てなかったのだ。
 だがそれはかなり後の話である。今の話ではない。
「やるぞ」
 反対は許さなかった。
「わかりました」
 広岡も森も付き添っていた。そして毎日プッシュバントの練習をしたのだ。
「遂にあの練習の成果が出てきましたね」
「ああ」 
 二人はそれを見ながら言った。
「ここまでくるのにどれだけ練習したか。だが」
 広岡は釈然としない面持ちの江夏を見ながら言葉を続ける。
「野球は一瞬の為に全てを賭けるものだ。そして今がその時だったのだ」
 哲学めいた言葉であった。だがそれは真理でもあった。
「江夏はまだ落ち着いていない。ここを攻めるぞ」
「わかりました」
 ここから西武の攻勢がはじまった。江夏は打ち崩され日本ハムは敗北した。
 それでプレーオフは決まった。日本ハムは工藤で一勝はしたものの、第一戦で江夏を攻略されたこといより流れを完全に掴まれてしまった。西武は見事リーグ制覇を果した。
「無念だな」
 大沢は宙を舞う広岡を見て呟いた。
「こっちよりすげえ奇策を用意していたなんてな」
 不思議とさばさばした声であった。
「すいません」
 隣にいた江夏は申し訳なさそうに頭を下げた。
「謝る必要はねえよ。おめえはよくやったよ」
 彼は江夏をそう言って宥めた。
 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧