| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

誰が為に球は飛ぶ

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
次ページ > 目次
 

夢のあとさき
  参拾伍 一生分の夏

第三十五話



人生。
人が生きると書いて、人生。
生命が尽きない限り、それは続いていく。
生きていく上で、必ず、経験しなければならなくなる事がある。

「衰退」

今できる事、それが全て、
50年後もできるとは限らない。
人は、老い衰えていく事を、義務付けられているんだもの。

そうして衰えた時、
人は、若かりし時を、
自らの人生の頂点を、
どう振り返るのだろう?

本来の自分をそこに見るのだろうか?
それとも、その頂点、そこから見えた景色こそを、夢幻と思うのだろうか?

私には、分からないわ。
多分、これから生きていく中で、
知っていくのでしょうね。



ーーーーーーーーーーーーーー



「………碇君」
「あっ、綾波」

秩父地方である、第三新東京市の冬はかなり厳しい。この日は、雪が降っていた。車で出勤している教員が朝から愚痴っていたくらいだ。
そんな日に、真司は学校に姿を現した。

「…もう、大丈夫なの?」
「あっ、平気だよ。少し鼻は詰まってるけどね」

玲はと言うと、朝早く学校に来て勉強し、始業前に外のベンチで缶コーヒーを飲んでいた。
そこに真司が現れたのである。

2人は、同じ教室に向かって歩きだした。



ーーーーーーーーーーーーーー



(……ああ、どうしてもベクトルができないなぁ)

真司は頭を抱えていた。
文系クラスの数学は、12月になると受験用問題集を個人で解く時間に切り替わる。
そして真司は数学が不得手だった。
だからこそ、ネルフ学園でも一つしかない文系クラスなのだが。
しかし、同じ文系でも、玲の様子を見てみると、スイスイ問題を解けている事がペンの動きから見てとれる。

(藤次や健介はどうなんだろう…理系だから、苦にしないんだろうなあ)

真司はボーッと思った。
藤次も、健介も、技術者の息子らしく理系クラスである。健介は学業優秀だ。最後の夏が終わり、相手校の分析の時間がそっくりそのまま勉強時間になってからは驚くほどに成績が伸びた。藤次が賢いという話は聞いた事は無いが、理系であるからには自分ほど数学ができない事はないのだろう。

真司はため息をついて、窓の外を見た。
空は不機嫌に、どんよりと曇っている。
粒の細かい雪がゆっくりと、灰色の雲のカーテンから落ちてきている。
真司の視線は、4ヶ月ほど前まで自分が毎日通っていた、球場へと向いた。
グランドにうっすらと、白い幕がかかっていた。
そこを窓際の自分の席から見るたび、一ヶ月と少し前の事が真司には思い出されるのであった。




ーーーーーーーーーーーーーー




「おお、碇!」

青色が鮮やかな観客席、緑一面の人工芝に、ダイヤモンドとマウンドだけがアンツーカー。
甲子園とはまた違った趣が明治神宮球場にはある。

10月の下旬、その神宮球場の観客席最前列に真司は居た。一人でポツンと座っている真司に、グランドの方から声をかけてきたのは剣崎である。
白地に黒のストライプのユニフォームに身を包み、胸には「RIKKIO」のロゴ。
両手首には赤のリストバンドをつけ、スパイクが白というのが、また高校野球とは違った味わいを持たせている。
スコアボードに発表されたスターティングメンバーには、「3番ライト」に剣崎の名前があった。

「剣崎さん、お久しぶりです」

真司は立ち上がってペコリと頭を下げた。
すると、もう1人の選手が真司のもとに駆け寄ってくる。

「碇?碇だってェ!?」

剣崎と同じピンストライプのユニフォームに身を包んだこの選手は、リストバンドの色合いといい、帽子をとった頭の髪型といい、剣崎より随分と垢抜けていた。

「碇?この人覚えてるか?」
「もちろん。是礼の伊吹さんですよね?」

剣崎の隣に来た琢磨は、「その通り!」とおどけた顔で真司をビシッと指差した。
スコアボードには、琢磨の名前も「2番ショート」として表示されている。

「伊吹さん、母校がこの夏優勝されましたよね。おめでとうございます。伊吹さん自身もこの秋からレギュラーになるし…」
「おいおい、やけに褒めてくれるじゃねぇの。剣崎、ネルフって先輩へのおべっか教育してんの?」
「後輩の優勝はお前を褒めたんじゃないだろ」
「違いねぇな!」

3人の間に笑いが起こった。
昨年の夏を戦った剣崎と琢磨がこうやって今はチームメイトになっているのも、面白い所である。

真司の言った通り、今年の夏の埼玉を勝ち上がったのは是礼学館だった。そしてそのまま、是礼は全国の頂点に立った。昨年からレギュラーの主将・浦風が優勝インタビューで見せた涙は、熱闘甲子園のラストを飾った名シーンだった。
剣崎と琢磨は1年の秋から東京六大学リーグの古豪・律教大でレギュラーを奪った。2人ともリーグ戦終盤に入っても3割以上の打率をマークし、ベストナインも視野に入っている。

「いや〜、でもお前がちゃんとしてりゃあ、是礼の全国制覇も無かったかもしれねえのにな」
「いや、それは…」
「俺の今までの野球人生ん中で、1番速かったぜ?去年の決勝の最後の球。いや、マジで今やっても打てないと思うわ。そこらの真っ直ぐとは全然違うんだよな、何が違うのかわかんねぇんだけど!」
「……」

琢磨の賛辞に、真司の笑顔が微妙に翳る。

「碇、大学からの誘いは来てないのか?」
「いや、来てはいるんですけど…今の僕には勿体無いかなって……」

剣崎の問いにも、真司は今ひとつ煮え切らない。
そうしてるうちに、律教のベンチに円陣ができつつあった。

「おい、剣崎」
「ああ。碇!よく見といてくれ!そしてまた、チャンスがあれば一緒に野球やろうじゃないか!」

そう言い残して剣崎と琢磨は真司のもとから離れていった。真司はその2人の大きな背中を見送った。

「ピッチャーらしくねぇな〜思ったよりナヨいじゃん」

琢磨が剣崎に言うと、剣崎は苦笑した。

「繊細な奴だよ。マウンド以外じゃ、ずっとあんな感じさ。ただ…」

一度、剣崎は真司が居た方を振り返る。

「そんな奴が、マウンドでは打者を恐れない。自分の球を信じるんだから、不思議なものさ」

琢磨はフン、と鼻を鳴らして「確かにな」と頷いた。



ーーーーーーーーーーーーーー




パカッ!

金属バットの高音とは違った、木製バットの乾いた弾けるような音が響いた。
打球は無人のライトスタンドへポーンと跳ねる。
応援団が一気に湧き上がる。

打った剣崎は大きくガッツポーズをしてダイヤモンドを回る。試合を観戦に来た真司の目の前で、自身大学初本塁打を放って見せた。

「ナイスバッチ。」
「情けない姿見せられんからな」

自分の前に出塁していた琢磨とホームイン後、ハイタッチして2人はベンチへと帰っていく。

(……相変わらず、スイングスピードといい、狙い球を見逃さない鋭さといい、凄いな剣崎さんは)

客席でその様子を見ている真司は、自分の先輩のプレーにため息をついた。

(…大学野球か)

その胸中には、今年の夏の大会が終わった時の事が去来していた。




ーーーーーーーーーーーーーー



今年の夏も暑かった。
その猛暑の中、ネルフ学園は2年連続の準々決勝へと駒を進めていた。
準々決勝の相手は、昨年夏初戦で下した八潮一高だった。
「この相手にだけは負けられない」という、凄まじいまでの執念が感じられた。終盤までリードしていたが、結局試合をひっくり返され、おしくも4-5でネルフ学園野球部二度目の夏、そして真司達の最後の夏は終わった。

「すまん……みんなすまん…ワイの力が、足りへんかった……」

試合後、藤次は泣き崩れた。その背中には、背番号1がついていた。藤次は3年生になってから急成長し、県の上位で十分勝負できる左腕になった。1年秋の制球難は影を潜め、140キロ近い真っ直ぐとスライダーを武器にした好投手になった。

「いや、よくやったよ、よくやった…頑張ったよ、俺たち…」

藤次を慰めながらも、自分も眼鏡の奥の目を真っ赤に泣き腫らしているのは健介。プロテクターとレガースを付け、背中には背番号2。捕手にコンバートしても堅守は変わらず、主将としてチームを引っ張った。

「…………」

真司は、ぼんやりと虚空を見上げるだけ。
そんな真司に、薫が声をかける。

「…もう一度、バッテリーを組みたかったね…」

感情を押し殺したような薫の声に、真司は頷く。真司の背番号は3、薫の背番号は8。

昨年夏の甲子園以降、真司は肘と腰を壊した。
全く球が投げられなくなり、結局手術を行わざるを得なかった。懸命にリハビリしたが、最後までピッチングができるほどにはその状態は戻らなかった。薫はそんな真司を見て、捕手を辞めた。藤次との噛み合わせもあり、捕手を健介に譲って自身は3番センターとして打線の柱になった。薫としてはどうやら、真司以外の球を捕りたくなかったようだ。

「負けた……」

真司はつぶやく。

「負ける時は、こんなに、あっという間なんだ……」




ーーーーーーーーーーーーーーー



キ〜ンコ〜ンカ〜ンコ〜ン♪

チャイムが鳴って、真司は我に返った。
気がついたら授業が終わっていた。
担任が入ってきて、帰りのホームルームが始まる。

「みんな、模試の結果が返ってきたわよォ〜。はい、まずはシンちゃん!」

3年になった真司の担任も美里だった。
大学受験を控えて殺伐としがちなクラスの中で、この美里が1番元気である。
それは空気が読めていないのではなく、意識的にそう振舞ってのものだった。

「……あぁ…」
「また上がったじゃな〜い。頑張ってるわね」
「…元々が低いですからね」
「上がったのは事実よ!はい、伊藤く〜ん!」

模試の結果のプリントを眺めて、真司は神妙な顔を作る。野球が終わってからそれなりに勉強はしていた。勉強した分だけ成績も伸びたが、だがやはり、それなりという感は拭えない。

「碇君、今日、一緒に帰る?」

席に戻ってため息をついていた真司に、自分のプリントを受け取った玲が声をかける。

「あっ……いや、ちょっと今日は行きたい所があるんだ」
「……グランド?」
「………」

玲の返しに、真司はギクッとした。
最近、何を考えているかまで、ピタリと当ててきたりする。
玲は薄い笑みを浮かべた。

「終わるまで、教室で待ってるわ」
「えっ?悪いよそれは」
「いいの」

言い残して、玲は自分の席に戻っていった。




ーーーーーーーーーーーーーー




「…!碇さん、こんにちはっ!」
「「「こんにちはっ!」」」

雪が積もってしまった為、グランドを諦めて室内運動場でウォーミングアップしていた野球部。
青葉が真司に気づいてすぐ立ち上がり一礼すると、残りの40人近い現役部員も同じように頭を下げた。
昨年夏の甲子園出場を受けて、この春に新入部員は30人を越えた。国立高校、頭も悪くない、生徒中心の運営…中学球児に人気の出る要素が詰まっている。第三新東京市がどんどん人口を増やしているのも、急激な部員の増加に関わったかもしれない。

「あ、こんにちは」

真司は後輩達に頭を下げる。
ロッカーに入れっぱなしのヨレヨレの体操服は、まるで初めてこの室内運動場を訪れた時と同じ服装である。

「おぉ、センセェ!生きとったんやなァ!」

現役の中に、運動量が減って少し大きくなった体をした選手が1人居た。
藤次である。
夏の大会から月日が経ち、微妙に伸ばそうとしている髪が何ともだらしない。

「藤次じゃないか!どうしたのさユニフォームまで着込んで」
「センセェこそ、勉強はせんでええんかいな!センターまであと一ヶ月ちょっとやで!」

真司と藤次はクラスも違い、部活を引退するとめっきり会う機会が少なくなっていた。同じ学校に通っているのにも関わらず、である。
それは真司がいつも教室に引きこもっているような人間だからだが。

「ワイな、センセェに面と向かって言いたい事あんねん」
「へぇ、何?」
「スポーツ推薦で仙宗(せんしゅう)大に受かったんや!今は東都の2部やけどな、まあまあな所とちゃうか!?」
「えっ!?仙宗!?凄いじゃないか!おめでとう!」

真司は目を丸くした。
仙宗といえば、目立ちはしないものの、プロ野球選手も輩出する強豪である。こんな国立高校から2年続けて名のある大学に推薦進学するとは。
準々決勝止まりとはいえ、藤次の実力が認められたという事だ。
真司は心から祝福した。

「セレクションから、あんま体動かしてないからな。仙宗に入ってから、あんまりウチの評判下げられたら困るんでな、昨日から現役同様バリバリ練習してもらってるよ。」
「あ、加持先生。こんにちは。」
「チワッス!」

そこに加持もやってきた。
真司と藤次は2人とも、立ち上がって挨拶する。

「碇、お前推薦の話全部断ったって事は、普通に受験だろ?こんな所で油売ってていいのか?」
「いやぁ…たまには体動かしたくなっちゃって……」

真司は頭をかく。
加持はそんな真司に笑みを見せた。

「ま、そうだよな。18歳の高校生が部屋の中でずっとカリカリやってちゃいけないな。今日は気の済むまでやってけよ。」
「はい。」

真司は頷いて、練習に参加した。




ーーーーーーーーーーーーーー



「……藤次は凄いなぁ…僕なんかこんなにナマってるのに……」
「わんこ先輩も思ったより悪くはないですよ〜。あの人がおかしいんですよ〜。」

腹筋背筋、ウェートトレーニングなどの冬季の体力増強メニューをこなし、一通りついていくのもギリギリな真司はヒィヒィと息を切らしていた。
ウェートの重さ以外はほぼ同じメニューをこなしている真理が、涼しい顔で真司を見た。
真理は1年の夏以降、週に一回、第三新東京市の女子野球チームに参加している。4番ショートで、かなり上手いそうだ。普段はマネージャーをしているが、このように体力トレーニングには参加して、自身の体を鍛えている。

「受験勉強も少しはやったみたいですけど、結局、トラ先輩は野球しか考えてないんですよ〜ずっと練習してなきゃ、あんなに動けないですって〜」
「…確かになぁ」

室内運動場にできた打撃練習場で、トレーニング後にも関わらず打撃投手として後輩達に投げる藤次を、真司は眩しそうに見た。

「…わんこ先輩、キャッチボールしません?」
「えっ?」
「私、前からずっとわんこ先輩とキャッチボールしたかったんですよ〜」
「あ、ああ、良いけど」
「やったー!じゃ、これ使って下さいにゃ〜」
「え?これ、青葉のグラブ…」
「キツネくん今トレーニング中ですにゃ〜。大丈夫大丈夫」

半ば強引に青葉のグラブを押し付けられ、真司は真理に連れ出された。



ーーーーーーーーーーーーーー



パシッ

グラブの乾いた音がする。
この寒い中では、軽く投げた球でもグラブの中での手がジンジンと痺れた。

真理が選んだ場所は駐車場。
グランドを荒らさない為だ。
積もりつつある雪を踏みしめ、足場に気をつけながらキャッチボールを続ける。

「にゃはっ、ホントにわんこ先輩、構えたグラブを外しませんねっ」

真司とキャッチボールする真理の目は楽しそうにキラキラと輝いている。

「ま、塁間くらいだからね。力入れて投げてないし。」

真司は慎重に、一度壊れてしまったその右腕を振る。指先から放たれた球はゆっくりと、しかしスーッと糸を引くように真理のグラブへと吸い込まれる。

「あっ、こんな所に居た」

そこに青葉が走ってくる。
どうやら、自分のグラブの在りかを探していたようだ。

「ああ、ごめんごめん。使わせてもらってた」
「いえっ、それは全然、大丈夫ですよ」

真司はグラブを青葉に返す。
真理とのキャッチボールは唐突にその終わりがきた。

「…どうです?肘の調子。大学で野球、やれそうですか?」
「う〜ん、どうだろう。良くはなってると思うけど……」

青葉に尋ねられた真司は、渋い顔をした。
野球ができるかと言われれば、今年の夏みたいに一塁を守るくらいなら問題はないだろう。
ただ、ピッチャーとしてもう一度全力投球できるかと言えば、これは中々難しいのではないかと感じられた。

「…剣崎さんも律教で頑張ってるし、藤次も仙宗で頑張るのにね……いや、情けないなぁ……」

真司は自分の肘を見つめて、唇を噛んだ。
剣崎の試合を見てからというもの、まるで自分が取り残されてしまったような気がしていた。
そして今日、藤次の話を聞いて、その感覚は更に強まる。こんな自分が、歯痒い。

「やめて下さいにゃ!そんな風に自分を駄目だと思うのは!」

真理がそんな真司に突然詰め寄った。
強い口調に、真司はギクっとする。

「オオカミ先輩が律教に行けたのは、甲子園まで行って、なおかつそこでホームランも打ったからです!でなきゃ、こんな高校の選手に律教からの誘いなんて来るはずないにゃ!トラ先輩がここまで良いピッチャーになったのは、それは去年のわんこ先輩を目指して、それに追いつこうと努力したから!2人とも、わんこ先輩のおかげで今があるようなものなんです!」

真理は怒っていた。
真司が平気で自分を貶める事に。

「…ま、それはあると思いますよ。鈴原さん、仙宗に受かったって話、誰より碇さんにしたがってましたからね。あの人は、碇さんには絶対言いませんけど、相当感謝してますよ。
“あいつがおらなんだら、ただ適当に野球して終わってたわ。こないして野球で大学は行けんかったやろな”
これ、グランドに合格報告に来た日に言ってた言葉です」
「…………」

青葉が真理に続けて言う。
真司は、何も言えない。

「……正直、僕も鈴原さんと同じです。僕は最初は全然、真面目に高校野球やる気は無かったんですけど、去年の夏に碇さんに甲子園に連れていってもらって、本当に考え変わりました。碇さんが居たからここまでガチになれました。今は剣崎さんみたく六大学で活躍するのが夢です。僕が野球に夢を見れるようになったのは、碇さんがまず、夢を見せてくれたからです。」
「……僕だけの力じゃ無かったよ、あの夏は」
「でも碇さんが居なければ絶対に甲子園には行けませんでした!」

真司の目を見てキッパリと言い切った青葉。
その強い視線に、真司は息を呑む。

「僕らみんな、碇さんに感謝してます。だから、あんまり卑屈にならないで下さい。例え今、100キロも出なかったとして、あの夏の碇さんの姿は否定されません。身を削ってでも投げてくれたあの姿を、僕らみんな、絶対に忘れませんから。」

最後まで聞くと、真司は何故かやたらと腹の底が熱くなった。その熱はどんどん頭の方に上がってきて、気がついたら、目から雫となって溢れ出した。

真司は泣いた。
最後の夏に負けた後でも涙は出なかったのに、
この時ばかりは涙が止まらなかった。



ーーーーーーーーーーーーーーー




「……終わった?」
「うん、帰ろう。」

真司が充血した目で教室に戻ると、残っているのは玲だけだった。
玲は真司が帰ってくるとすぐ、荷物を鞄に詰め込んだ。普段よりその動作が乱暴なのは、気がはやってるからだろうか。
交際してそれなりに長いが、最近はあまり、2人で帰る事が無かった。
今晩は久しぶりである。

校舎を出ると、冷たい風が吹き付けてくる。
歩くたび、雪がザクザクと音を立てる。
2人は身を寄せ合って歩く。
そうしないと、たまらなく寒い。

「…ねぇ、碇君?」
「何?」

黙って歩いていると、玲が口を開いた。

「これからの事、何か決めた?」
「これからの事って、例えば?」
「どんな事でも」

真司は夜空を見上げた。
空は相変わらず曇ってるようだ。
黒く、もやがかかっている。

「…決めてないなぁ、全然。大学には行こうと思ってるけど」
「…そう。大学でしたい事は?」

真司はフッと笑った。

「…その時したい事をやる、それが一番かな。野球がしたければやるし、したくなければやらない。チェロを弾くのも良いし、全く今までと違う事をやるのも良いよね。」
「…そうね」

玲は更に、真司に体を寄せた。
華奢なその体を真司はしっかり受け止める。

「良かった。少し、元気になったみたい。碇君が、自分を取り戻したみたい。」
「…去年の夏から、どこか囚われてたような気がするんだ。あの夏の自分に。でも、自分自身の残像に縛られるのって、ちょっとバカバカしいよね。それに……」

真司は玲の顔を覗き込んだ。

「今の僕を受け入れてくれる人も居るからね。あの夏の僕は今も大勢の人達の中で生きてる。今この場所に生きてる僕も居る。どちらも僕だよ。どちらかを否定する必要は、ないかなって思うんだ。」

玲はにっこりと笑った。
これまで真司に見せた笑みの中で、一番の笑みだった。真司も同じように笑った。
2人に笑顔が溢れた。



ーーーーーーーーーーーーーーー



あの夏の僕が守りたかった物は何だろう?
多分、それは成績とか名誉とかそんなのじゃなくて、

周りの人の気持ちだった。
僕に期待してくれる大勢の人の、
まるで祈りにも似たその気持ちを、
裏切りたく無かったんだ。


今はもう、ピッチャーはできないけど。
でも、周りの気持ちにだけは。
特に、側に居る人の気持ちにだけは。


誠実で居たい。
ずっと。


それが、何よりも。



大切な事だと思うから。




























「誰が為に球は飛ぶ」完







 
 

 
後書き
僕はこの話を「夢破れる話」として書こうと思ってきました。
正直夏の大会で描かれるチームの中で、主人公チームほど、
負けられない理由の無いチームはありません。
それが、負けられない理由を持ったチーム、少なくとも、ネルフ以上に励んできたチームを
倒していく。主人公チームが夢を叶える話というよりかは、
相手チームの夢が破れていく話を意識して書きました。

高校野球は、人生の一部分です。
その中での夏の大会など、ほんの僅かな期間です。
野球を学んではいけない、野球を通じて何かを学ばねば。
自分でもその実態がよく分からない、学んだはずのその何かを、
この物語に詰め込みたいと思ってこれまで書いてきました。
足りない所だらけです。
でも今はすっきりしています。 
次ページ > 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧