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楽しみ

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第三章


第三章

「そうやからや。巨人は負けなあかん」
「今みたいに」
「昔はどれだけ勝ってもなあ」
 少し寂しい顔になった。
「結局最後は巨人が勝つって。サカサマやろが」 
 巨人が悪役ならば負けなくてはならない。そういうことだ。
「その巨人が負ける」
 また言う。
「今はええ時代になったな」
「じゃあ昔は」
「昔は昔で滅茶苦茶面白かったわ」
 かといって昔を否定するわけではない。かつての阪神もそれはそれでかなり魅力のあるチームである。いま実際にそれを語っているからでもある言葉だった。
「さっき出した小山にバッキー」
「はい」
「この二人に権藤とかな。若林は古いか」
「七色の変化球の」
「そや、それや」
 その名前を聞くとさらに機嫌がよくなった。
「よお知っとる、関心したで」
「名前だけはまあ聞いたことが」
「あれも凄いピッチャーやったんや。阪神はまずピッチャーやからな」
 投手の阪神の伝統は本当にかなりのものだ。今もそうだがとにかくピッチャーに困ることが少ないのはファンにとっては嬉しい伝統だろう。少なくとも僕も記憶にある限りピッチャーが悪かった記憶はない。何故かそれなりに投げてくれるのだ。しかしここぞという時はそれなり以上に打たれてしまうが。
「阪神のピッチャーは速球だけやない」
 それだけがピッチャーではない。それはわかっているつもりだ。
「変化球上手いのも多いからな」
「若林にしろさっきの小山にしろ」
「権藤はドロップやったな」
「ええ」
 その言葉にも答える。中々勝ち運に恵まれない苦労人だったが左腕から繰り出すそのドロップは伝説的だったと聞いている。
「上田も古沢もな」
 ここで年代が少し飛んだ。
「ええ味があった」
「そうですね。けれど」
 ここで今度は僕が話を振ってみせた。いい頃合いだと思ったからだ。
「あの二人が阪神のピッチャーといえば」
「おお」
 中沢さんもそれを聞いて顔をこれまでよりさらに上機嫌なものにさせてきた。そのうえで言うのだった。
「あの二人か」
「はい」
 僕も頷く。今甲子園の入り口に来た。緑の蔦を見ていつもまた来たな、と思ってしまう。この蔦には蛇が一杯棲み中々厄介なのだがそれでも甲子園の象徴であり見ているだけで嬉しくなる。この球場は他にも蚯蚓が多くてそれに悩まされていたりもする。
「やっぱり彼等でしょう」
「どうも」
 入り口でチケットを見せて中に入る。中沢さんはここで入り口の人に挨拶をする。
「お疲れさん」
「どうも。今日も来られたんですね」
「そや」
 入り口の人は若い人だがもう中沢さんのことを知っていた。中沢さんはもう球場で知らない者のいない有名人なのだ。伊達に阪神創設以来のファンではないということだ。
「元気でやっとるな」
「ええ、今日もね」
 入り口の係員のお兄さんはそう答えて笑みを向けてきた。
「感心なことや。ほれ」
 中沢さんもチケットを出してきた。係員さんがそれを受けて中に入るのであった。
「あの兄ちゃんも頑張っとるな」
 彼の見送りを振り向いて受けながら述べる。
「ええことや」
「そうですね。それで」
 僕はまた話を戻す。廊下を進みながら話をする。
「あの二人は」
「江夏、村山」
 その名を語る中沢さんの顔がまるでビールを前にしたようになった。
「あの二人はなあ。今でも目にはっきりと焼きついてるで」
「忘れませんか」
「天覧試合なんかあれやで」
 昭和の懐かしい時代の話である。昭和帝と皇后両陛下をお招きした伝説の一戦である。この時村山は小山の後で登板して長嶋と戦い、そして敗れている。
「あれはホームランやったやろな」
 そう言う。
「けれどな、それでもええんや」
 そのうえで言うのだった。
「長嶋との勝負はそれからもずっと続いたしな」
「巨人との戦いも」
「その通りや。巨人との戦いはどれも立派やった」
 村山は常に正々堂々と戦っていた。退くことはなかった。真っ向勝負を挑み、勝ちもすれば敗れもする。そこには卑怯というものは微塵もなかった。
「長嶋に対しては一番凄かったな」
 その村山の最大のライバルこそが長嶋だった。彼はミスタープロ野球を永遠のライバルと定め速球とフォークで立ち向かったのだった。
「村山がおるマウンドこそが絶対やった。マウンドは村山の為にあったんや」
「村山の為に」
「そう、村山も江夏も特別やったんや」
 話しているうちに廊下を出た。グラウンドが下に見える。
「ほら、あそこやな」
「あそこですね」
「あそこではホンマに色々なことがあったで」
 僕達は一塁側からそのマウンドを見ていた。
「村山が仁王立ちして江夏が相手を睨み据えてな」
「睨み据えて、ですか」
「あの左腕が唸って見たこともない剛速球が放たれる」
 話は江夏に移っていた。彼は左腕から投げられる剛速球の速度は異常なまでだったのだ。
 
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