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第九章


第九章

「にこりとな」
「そうなのか。笑ってるか」
「ずっと笑ってなかったからな」
 そうなのだった。今の今まで笑ってはいなかった。未樹も今それに気付いたのである。
「それが今な。やっと」
「よく言われるんだよ」
 照れ臭そうに述べる未樹だった。それでも今も笑ってはいる。これまでと違って。
「笑顔がないって。無表情だってね」
「学校でか?」
「何処でもだよ」
 こうも述べる未樹だった。
「言われるんだ。どうしてもね」
「実際今まで表情が変わるとこ見なかったぞ」
「表情出すの苦手なんだよ」
 ここでも表情を変えていた。苦笑いだった。
「どうしても。何も問題ないのにね」
「そうだったのか」
「けれど。今は違うんだよね」
「ああ」
 未樹のその問いに対して頷いて答える。
「そうさ。笑ってるさ」
「笑ってるのか。そうか」
「自分でもわからなかったんだな」
「どうしてもね。気付きもしなかったよ」
 今度は照れ臭そうな笑いだった。微笑みだが笑っているのは確かだった。
「本当にね」
「けれどいい笑顔だな」
 未樹のその微笑みを見ての言葉だ。
「何か見ているこっちまで嬉しくなるようなな」
「それはちょっと褒め過ぎなんじゃないのか?」
「いや、そうは思わないな」
 しかし赤藤は未樹のその言葉は否定した。
「俺だって嘘は言わないさ。それにお世辞だって苦手なんだ」
「だろうね。そんなタイプには全然見えないしね」
「じゃあわかるよな」
 また未樹に対して告げる。
「俺が褒め過ぎでも何でもないのはな」
「わかったよ。じゃあそうなんだよな」
「そうさ。今日はまああれだな」
「あれ?」
「はじまりだし焦らないさ」
 こう言うのだった。その言葉と共に今度は未樹がボールを手に握ってきた。左手はグローブで塞がっている為右手を使ってだ。その彼女に赤藤はまた問う。
「利き腕じゃないけれど大丈夫か?」
「とりあえずやってみるさ」
 右腕を上から掲げながら言葉を返す。
「投げてみる。いいよな」
「ああ、俺は別にな」
 未樹にまた言葉を返す。
「受けられると思うしな」
「いいのかい?本当に」
「俺はただピッチャーのタイトル獲っていたわけじゃないんだけれどな」
 また笑ってみせての言葉だった。
「ちゃんとあれだぜ。守備もできるんだ」
「守備もかい」
「ゴールデンクラブだって獲ってるんだぜ」
 ここでグローブと手をゆっくりと打ち合わせる。意識してその打ち合わせる動作はゆっくりさせている。やはり右手を大事にしているのだった。
「何度もな」
「守備もいいっていうのか」
「そうさ。だから安心してくれ」
「わかったよ。それじゃあ」
 未樹は赤藤のその言葉を聞いてまた微笑む。今度は安心したような笑みだった。こうして見ると意外に表情豊かだと。彼は思うのだった。
「投げるよ」
「ああ、来い」
 赤藤に応えて投げた。投げたボールはゆっくりと放物線を描いている。さっき赤藤が投げたあのボールと同じだった。赤藤もそのボールを見ている。
「ところで」
「何だい?」
「俺はこのまま少しずつ投げていくぜ」
「ああ」
「それでな。復帰は」
 復帰の話を出すのだった。ここで。
「六月に戻るぜ」
「六月なんだね」
「ああ、そのつもりだ」
 それを目指していた。もう決意していたのだった。
「何があってもな」
「そうか。じゃあ頑張るんだね」
「それでな」
 ここでまた赤藤は言う。ボールは高々とあがっていく。
「一つ言いたいことがあるんだけれどな」
「今度は何だい?」
「六月に復帰するだろ」
「それはさっき言ったよ、今さっき」
「だからな。それでだよ」
 未樹に突っ込まれたがまだ言うのだった。
「その復帰戦、来てくれないか」
「私がかい?」
「ああ、そうだよ」
 こう未樹に対して言うのだった。
「チケット用意しておくからな。それでな」
「呼んでくれるんだね」
「いいか?」
「いいよ」
 未樹は今度も笑った。これまで以上に明るい笑顔で。
「是非。行かせてもらうよ」
「そうか。じゃあその時は絶対に勝たなくちゃな」
 赤藤もまた未樹と同じ笑顔になっていた。
「何があってもな」
「復帰でいきなり勝利投手か」
「俺はいざって時には絶対負けないんだよ」
 自信が戻ってきていた。もう投げている時の赤藤になっていた。
「ここ一番の大勝負でも日本シリーズでも。常に勝ってきたんだよ」
「そうだったんだ」
「そうさ。その時のウィニングボール」
 完全に予告だった。
「楽しみにしていろよ」
「そうさせてもらうよ」
 二人は同じ笑顔で頷き合った。二人は誓い合った。これからの野球のことを。そして六月復帰を果たした彼は見事白いボールを未樹に手渡すことができた。誰も知らない復活劇である。


エース   完


                  2008・6・30
 
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