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エース

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第一章


第一章

                   エース
 かつては最多勝を何度も獲得した。最優秀防御率も奪三振もタイトルを手に入れてきた。球界で最高のエースとまで謳われ自分もその気になっていた。
 赤藤雅夫。黄金の左腕とまで言われてきた。高校卒業と共にプロ入りし一年目から大活躍だった。チームを日本一に導いたこともあった。しかしだった。
 二十九歳の時だった。ペナントが終わった直後だった。彼の肩に異変が起こった。最初は何でもないものと思っていた。だがそれは残念なことに大きな間違いだった。
「手術が必要!?」
「はい」
 医者にはっきりと言われたのだった。
「このままでは血が流れなくなってそれで」
「投げられなくなるのか」
「それどころではありません」
 診察室での話が続く。二人向かい合ったうえで。
「このままではその右腕が」
「右腕が」
「はい。おわかりですね」
「ええ」
 医者の言葉にこくりと頷いた。もうそれで話がわかる。
「ですから是非手術を」
「けれど腕にメスを入れると」
 赤藤は顔を強張らせて言う。右腕は精密機械だ。ピッチャーにとってはそれ以外の何者でもない。だからこそそれを受け入れるわけにはいかなかったのだ。
「俺は」
「それでもです」
 だが医者は言うのだった。
「このままでは右腕は」
「わかっています」
 もうそれはわかっている。わからない筈もない。
「ですが下手をすれば」
「安心して下さい」
 だが医者の返事はしっかりしたものだった。はっきりとした声で彼に言うのである。
「貴方の腕は何があっても」
「治してくれるんですね」
「私は医者です」
 次の言葉はこれであった。
「貴方がピッチャーであるのと同じく」
「同じですか」
「貴方は投げてチームに勝利をもたらすのが仕事ですね」
「その通りです」
 強い声での返事になっていた。それが自分でもわかる。
「それと同じく私の仕事は」
「貴方の仕事は」
「患者を治すことです」
 そのことをはっきりと語るのだった。
「ですから。是非共」
「そうですか。それじゃあ」
「はい、私を信じて下さい」
 言葉だけではなかった。声もまたはっきりとしたものになっていた。
「ですから。宜しいですね」
「わかりました。それでは」
 ここまで言われては彼も覚悟ができる。伊達に球界で最高のエースとまで言われてきているわけではない。医者の言葉にすぐに頷いてみせた。
「御願いします」
「はい。では手術の日は後程」
 こうして彼は手術を受けることになった。話はこれで纏まった。程なくして手術となり彼の右腕にメスが入れられた。スポーツ新聞の記事では大した内容ではなかった。
「こうしたことはよくありますからね」
「はい」
 赤藤はベッドに寝ていた。そこで医者と話をしている。医者は彼の枕元に立ってそこで赤藤が広げているスポーツ新聞を見ながら話をしているのである。
「実際のことは秘密です」
「貴方もそうですね」
「まさか自分がこうなるとは思いませんでした」
 言いながらここで自分の右腕をチラリと見るのだった。
「全く」
「とりあえず手術は成功です」
 医者はこのことを告げた。
「後は時間が経てば」
「何時から復帰できますか?」
 赤藤にとって最大の関心はそれであった。何時復帰できるか。だからそれを聞かないわけにはいかなかったのだ。実際にそれを聞いてきた。
「俺は。何時」
「手術は成功しましたがやはり右腕がなくなりかねない程でしたので」
「かなりかかりますか」
「申し訳ありません」
 頭を垂れて赤藤に告げてきた。
「少なくとも六月には」
「そうですか。かなり長いですね」
「腕以外のトレーニングはいいです」
 それは保障するのだった。
「ですからランニング等は」
「ええ、それは助かります」
 それを聞いてまずは安心する赤藤だった。ピッチャーは下半身も重要である。彼とて例外ではなくその足腰はかなりのものだ。毎日何十キロも走り込んでもいる。トレーニングは欠かしていないのだ。
「少しでもそうしてトレーニングを積んでおかないとね」
「はい。ですから退院後は」
「わかりました。まずは下半身を」
 その話はすぐに決まった。しかしであった。
「けれど。それでも」
「無理はなさらずに」
 何はともあれ退院後早速赤藤のトレーニングは再開された。言うまでもなく復帰の為でありランニングを中心として日々続けられた。だが右腕だけは動かなかった。
「もう復帰しているのか」
「案外早いな」
 チームメイトもマスコミもそんな彼を見てこう言い合っていた。彼等は何も知らなかった。赤藤の右腕が本当はどういった状況なのかを。
「まだか」
 時折己の右腕を見て呟くのだった。
「動かない。まだ動かせないか」
「足腰は健在だな」
「後は待っていればいいな」
 周りは無責任な楽観論を述べるだけだ。しかし彼は違っていた。
 やはり右腕は治ったと実感できない。それでもそれを心に押し隠してトレーニングを続ける。来る日も来る日も走り続ける。ただひたすら走っていた。
 その彼が走る川辺で。ふと自転車と擦れ違った。そこに乗っていたのは黒く長い髪を持つ少女だった。大人びた顔立ちの背の高い少女だった。
「奇麗な娘だな」
 赤藤のその娘の横顔を見ての最初の感想だった。
「モデルかな。違うか」
 すぐにその可能性は否定した。
「高校生かな。まあいいさ」
 すぐに考えをそこから移した。そしてまた走りはじめる。何キロも何キロも走る。まるでそれで生きているかのように。彼は走り続けていた。
 ある日病院に行った。そこでまたあの医者と話をする。話すことは一つだった。己の右腕のこと、それしかなかった。それ意外話すことはなかった。
「順調かな」
「そうですかね」
 医者の言葉に対して赤藤は懐疑的な顔だった。
「だといいんですけれど」
「何だ、あまり期待していないみたいだな」
「正直のところ不安です」
 率直に己の感情を告げたのだった。
「本当に治るのかどうか」
「治るよ」
 彼に対する医者の言葉はしっかりとしたものだった。実に医者らしい言葉だった。
「絶対に。六月には」
「今二月です」
 彼の頭の中ではもう月日のことも完全に入っていた。復帰したい、そのことだけが頭の中にある。しかしそれと共に不安も沸き起こって仕方がなかったのだ。
 
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