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港町の闇

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第二十六章


第二十六章

「我々は明日からの方が大変だぞ。それはわかってるだろうな」
「あ、そうでした」
 警察もまた役所である。書類仕事が多い。これは役所ならば何処でも変わらないことである。
「じゃあ仕方ないか」
「そういうことだな」
「いや、そうでもないぞ」
 だがここで署長が助け舟を出してきた。
「署長」
「書類のことは全部私がやっておくよ。君達は何処かで派手にやったらいい」
「いいんですか!?」
「いいとも。署長の私が許可するんだからな。文句はないだろう」
「ええ、それじゃあ」
「本郷さん達も勿論来られますよね」
「呼んで頂ければ」
「神戸の食べ物を最後にふんだんに食べたいですからね」
 特に本郷が楽しみにしているようだった。にこりと笑う。
「何がいいかな」
「明石焼きなんかいいですね」
「明石焼きとは何ですか」
 神父がそれを聞いて不思議そうな顔をした。
「一体どんなものでしょうか」
「一言で言うと蛸焼きを汁に漬けたものですね」
「蛸焼き?」
 どうやらそれも知らないようであった。さらに今度は首も傾げた。
「それもちょっと知らないのですが」
「蛸を小さく切って小麦の小さい玉に入れて焼いたものです」
 役がそう説明した。
「日本ではかなり一般的な食べ物ですよ」
「特にこの関西ではね」
「そうなのですか」
 だが彼はまだよく把握していないようであった。
「蛸は食べられるのですか」
「えっ」
 皆それを聞いて驚きの声をあげた。
「あの、今何と」
「蛸が食べられるのかと」
 神父は当然のようにそう答えた。
「初耳です。あんな無気味な生き物を食べるとは。美味しいのですか」
「え、ええまあ」
 本郷は面くらいながらもそう答えた。
 蛸を食べない国も多い。欧州の一部の国では特にそうである。そもそも海の幸自体を食べない国も多いのだ。これは地理的な条件から当然でもあった。
 彼はドイツにいた。ドイツでは海の幸はあまり食べない。それも当然であるかと思われた。
「では烏賊も食べられませんね」
「あれも食べられるのですか」
 逆にこう問うてきた。
「勿論ですよ。美味しいですけれど」
「そうなのですか。イタリアにいた時にあちらの人が食べるのを見ていましたが」
「でも召し上がられなかったのですね」
「はい。どうにも抵抗がありまして。残念ですが」
「では仕方ないですね」
 本郷は腕を組み考えながらそう言った。
「他のものがいいですかね」
 大森巡査があらためてそう言う。
「何がいいやら」
「牛なんかは」
 警官の一人がボツリと呟いた。神戸は牛で有名である。
「おい、あれは高いぞ」
 七尾刑事がクレームをつける。神戸牛は味はいいが非常に高価なのである。
「最近何かとうるさいからな。別のものにしろ」
「じゃあどれがいいかな」
「中華街」
「それもなあ」
 こんな話をしているうちに適当なことろで話がついた。とりあえずスキヤキで、ということになった。一向は派手に飲み食いした後でお別れとなった。朝になり阪急線に向かった。
「それじゃあこれで」
「はい」
 本郷と役、そして神父が警官達に別れを告げる。署長が彼等の先頭にいた。
「お別れですね。何か長いようで短かったです」
「ですん。その間色々とありましたが」
 一同の脳裏にアルノルトとの死闘が思い起こされる。激しく、そして熾烈な戦いであった。
 だがそれが終わればもう懐かしいものになりつつあった。遠い記憶となろうとしている。
「またご一緒に、とはいきたくはないですが」
「はい」
 役は署長の言葉に苦笑いした。こうした魔物を相手にすることは本来あってはならないことであるからだ。
「機会があれば御会いしましょう。今度は」
「神戸牛のステーキを」
 本郷がそう口を挟んできた。
「たっぷりと頂きたいですね」
「ははは、そうですね」
 署長は顔を崩して笑ってそれに頷いた。
「あれは確かに美味いですから」
「あとワインと」 
 役が合わせる。
「赤でね。それも神戸ワインで」
「お、いいですな」
 署長はそれを聞いてさらに機嫌をよくした。
「私も神戸のワインは好きですよ。あれはなかなかいけます」
「ワインですか」
 それを聞いて神父も話に入ってきた。
「是非共それを飲ませて頂きたいですね」
「神父さんもワインはお好きですか」
「キリストの血ですから」
 彼は微笑んでそれに答えた。
「謹んで飲ませて頂きたいです」
「そういうことなら」
 役がそれに応えた。
「神戸には幾らでも売っていますけれど。どうですか、ドイツへのおみやげに」
「おみやげなぞとんでもない」
「ではどうなさるのですか」
「日本で飲みたいですね。帰路で」
「ははは、そうですか」
 どうやらこの神父は見かけによらずかなりいける口であるらしい。
「それでは神戸駅でたっぷりと買いますか」
「そうですね。駅でも売っているのであれば」
「丁度大きな店もありまして。百貨店とか。そこで買いましょう」
「はい」
「いいですな。何だか羨ましい」
 署長はそれを聞いて三人に対して言った。
「仕事を終えて酒を楽しまれるとは。私はこれから仕事の山ですぞ」
「まあまあ」
「署長さんもそれが終われば一杯できますよ」
「だといいですけれどね」
 本郷と役の言葉に苦笑いで応える。
「最近は家でもあまり飲めなくて。うちのやつが家で飲むなと」
「何でですか」
「子供の教育に影響があるとか。困ったものです」
 どうやらこの署長も妻には弱いようであった。
「結婚した時は優しかったのに今では鬼のようですよ」
「鬼、ですか」
「ええ。それが何か」
「いえね、今まで仕事で鬼退治をしたこともありまして」
 本郷が応えた。
「鬼女と戦ったことがありますが」
「鬼女ですか」
「はい。署長さんの奥さんもまさか」
「とんでもない」
 署長は口を尖らせてそれを否定した。
「私には鬼でも子供達にとっては仏様なのですから。そんなことはしないで下さいよ。頼みますよ」
「なら仕方ない」
 本郷はおどけてみせた。
「それじゃあそっちはなしということで」
「はい」
 丁度そこに電車の到来を告げる放送があった。三人はそれに反応した。
「では名残惜しいですが」
「また御会いしましょう」
「ええ」
 こうして一同は別れた。三人は礼を済ませた後電車の中に消えていく。
 扉が閉まり電車が発進する。そして神戸での戦いは完全に幕を降ろしたのであった。主役達が舞台を降りたことも以って。


港町の闇   完


                  2005・6・5
 
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