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無明のささやき

作者:ミジンコ
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第八章

 石倉は、今起こりつつある事態が何を意味するのか、また、それにどう対処したら良いのか分からず、ただ呆然と常務室前で佇んでいた。頭の中は、混乱した思考が目まぐるしく動き回り、まるで冷静になろうとする石倉をからかっているかのようだ。
 胸の奥から湧きあがる不安が、細かく振動しながら喉にまでせり上がってくる。唾をごくりと飲み込むと、多少とも落ち着きを取り戻したような気持ちになり、ゆっくりと歩き出したが、胸の震えまだはおさまってはいなかった。
 今朝、南常務から飯島に会いたいと内線で連絡があった。すぐさま、飯島を電話口に呼び出し、至急本社に来るように指示した。しかし、飯島の返事は意外だった。坂本の葬式に行くので、無理だと言う。石倉はいつもの調子で飯島を怒鳴りつけた。当然、前言を翻すと思ったからだ。
 しかし、その後の反応も予想外だった。飯島は平然と言ってのけたのだ。「首にするなら、早くすればいいだろう」と。そして最後には石倉に対し「いつかぶん殴ってやるよ。首を洗って待っていろよ、このゲス野郎。」と凄んだのだ。
 石倉は、すぐさま南に内線を入れた。南が烈火のごとく怒るだろうと踏んで、ごく冷静にありのままを伝えた。石倉は返事を待った。頬が少し緩んだ。いよいよ飯島の最後だと思い、息を飲んだ。しかし南の反応も予想に反した。
「そうか、ふーむ。それじゃ、飯島が、名古屋からもどったら、直接連絡をくれるよう伝えてくれ。」
電話はそれで切れた。石倉は、狐につままれたような気分で受話器を置いた。しばらくして気を取り直し、急いで飯島に連絡を入れた。しかし、既に飯島は名古屋に立った後だったのだ。
 石倉は、小一時間ほどしてから、つまらぬ用事にかこつけ南の部屋を訪ねた。どうしても真相を確かめたかったのだ。いつもなら、応接に座るように誘われ、今後の戦略を一緒に練ったりするのだが、南は用件だけを聞いて、何の誘いも掛けない。
 石倉は、言葉に詰まり、南をただ見つめていた。南は押し黙り、石倉に話掛ける素振りもみせない。南は深くため息をつき、いつまでも佇む石倉に冷たい視線を浴びせ、出て行くよう顎で示した。石倉は踵を返すしかなかったのである。
  
 その頃、飯島は斎藤と新幹線で名古屋に向かっていた。飯島は一人で行くつもりだったのだが、斎藤は二人分のチケットを用意していた。斎藤にしてみれば、あれこれ飯島から情報を探り出し、今後の対策を練りたいのだろう。
 日経新聞を広げ、ちらちらと飯島を盗み見している。しかし、飯島は昨夜の電話のことを考えるためにじっと目を閉じ、話のきっかけを探る斎藤を無視していた。あれでよかったのか、自分が吐いてしまった言葉に、深い悔恨の情を抱いた。
 昨夜はいつものように、ウイスキーをがぶ飲みし、ふらふらになりながらベッドに潜り込んだ。吐きそうになるのを、必死で堪えながら、酔いが睡魔に変わるのを待った。少し眠りかけた時、けたたましく電話のベルが鳴り響いた。
和子かもしれないと思った。何故そう思ったのか、自分でも不思議だった。きっぱりと諦めて別れたはずなのだから。飯島は、胸の高鳴りに我ながら舌打ちし、いそいそと起き上がり、受話器をとった。
「もしもし、飯島です。」
「もしもし、私、章子。」
飯島は、落胆とともに押し黙った。かなり動揺している。和子が襲われて以来、章子には連絡していなかったのだ。沈黙に耐えかねたように、章子が重い口を開いた。
「どうしたの、なに黙っているの。」
飯島は章子の声が震えているのに気付いた。
「どうした。声が震えているぞ。」
「だって、携帯に電話しても出ないし。しかたなくあなたの家に電話することにしたの。奥さんが出たらどうしようと思って。今、大丈夫なの?」
声の震えから、章子が飯島の離婚を聞きつけ電話してきたわけではないことは分かった。しかし、そのことはいずれ章子も知ることになるだろう。そう思うと、気持ちが暗くなる。飯島はまた押し黙った。
「ねえ、何故黙っているの。」
「いや、別に、何でもない。」
「ずっと連絡もくれないんだもの。」
飯島は何をどう話したらいいのか分からず言葉を探した。章子がもう一度聞いた。
「ねえ、何か言って、いったい何があったの。」
「いや、本当に何もない。ただ、気が滅入っているだけだ。」
またしても静寂が二人を包んだ。そして唐突に、章子がきっぱりと言った。
「分かったわ。何もなかった。そういうことね、そうなんでしょ?」
 飯島は、離婚のことを、今、章子に言う気になれなかった。章子のイメージは佐久間の暗い影と重なる。まして関係を続ければ更に佐久間を刺激することになる。和子のことを思うと、それは避けたかった。
 それに章子の影にちらつく佐久間への嫌悪感が、気持ちを萎えさせていた。章子の上ずった声が響いた。その声には、恥じらい、愛執、期待、打算、全てが含まれていた。
「でも、聞いて。私どうしたらいいの。あれが、ないの。ずっとよ。」
「あれって、なんだ。」
「あれはあれよ。女の月のものよ。」
 飯島の脳細胞を満たしている血液が一瞬にして沸騰した。離婚の原因は、章子との浮気だった。そして、今、章子は平気で嘘を言っている。飯島が切れた。
「ふざけるな、嘘を言うのもたいがいにしろ。俺には種が無いんだ。病院で検査してもらった。俺には種がない。」
 怒鳴り声が尋常ではない。急激な感情の高まりに飯島自身が驚いた。一瞬、逡巡する自分を意識した。頭を冷やそうか、それとも激情に自らを委ねるか?ふと、若かりし頃の苦い思いが脳裏を過った。次ぎの瞬間、怒りは爆発していた。
「お前は、またしても俺を騙そうというのか。あの時だって、お前は、俺と佐久間さんと二股をかけていた。章子、いい加減にしろよ。お前が全部ぶち壊した。お前が俺から全てを奪ったんだ。」
唐突に電話が切れた。ツーツーという音だけが耳に残った。
 ウイスキーの瓶を引き寄せ、蓋を開けると、直接口にあてがった。瓶を逆さまにしたが、僅かな滴りが舌先を濡らしただけだ。飯島は、その瓶をテレビに投げつけた。ボンとくぐもった音が耳に残った。何もかも、どうでもよかった。
 冷静になるに従い、飯島は章子を傷つけてしまったことを、後悔していた。考えてみれば、章子を誘ったのは飯島なのだから。章子とのセックスを散々堪能しておきながら、それが原因で家庭崩壊を招いたなどという理不尽な感情を爆発させたのだ。酔っていたとはいえ、その理不尽さは常軌を逸していた。
しかし、章子の妊娠したという嘘を考えると、自分の態度は当然だったような気もする。まして、嘘でないとするなら、章子は飯島以外の男とも関係を結んでいることになる。飯島の酔って充血した瞼には、かつて第一営業部の誰もが憧れた章子の面影が浮かんでいた。溌剌として輝いていた。そんな章子のイメージが色褪せて歪んでいった。
 酔いが体全体を包んで行く。睡魔が襲ってくる。「寝るほど楽はなかりけり。」死んだお袋の口癖が聞こえてきた。そうだ、夢でも見よう。楽しい夢を。

 斎藤に体を揺り起こされた。どうやら、目を閉じて考え事をしているうちに寝入ってしまったらしい。斎藤が飯島の顔を真正面から見つめていた。我慢出来なくなったのだ。斎藤の口がぱくぱくと開閉していた。言葉として耳に届くまで時間がかかった。
「所長、そんなに冷たくしないで下さい。僕は必死なんです。子供もまだ大学生で金はかかるし、今、首になったら、坂本みたいに首を吊るしかありません。それを分かっているくせに、所長はだんまりを決め込んでいる。私に死ねって言うんですか。」
何もかも面倒くさかった。斉藤になどかまってなどいられなかった。
「何も死ねなんて言ってない。そんなこと言うけど、君は竹内元所長と組んで多くの仲間を路頭に迷わせた。皆を精神的に追い込んだ。俺のやってることと同じことじゃないか。」
「でも、私に何が出来たって言うんです。竹内に逆らえばどんな仕打ちを受けるか、飯島さんが一番良く知っているでしょう。私は竹内の言いなりになるしかなかった。」
「ああ、竹内さんの性格はよく知っている。あんな奴をあそこに送り込んだ新経営陣の思惑がどこにあったか誰でもすぐに分かる。」
「そうです、私も竹内さんに言われました。俺の言葉は絶対だ。逆らえばお前もあっち側に立つことになるって。協力するしかなかったんです。私だって相当の覚悟をしなければならなかった。」
「だからって、人を自殺するまで追い込むなんて人のすることではない。坂本さんだけじゃない。俺と同期の青木はセンターを辞めてから自殺した。リストラ犠牲者の葬式に出るのはこれで二度目だ。」
斎藤の顔が歪んだ。
「もう私を責めないで下さい。確かに飯島さんは格好良いし、実力もあるし、誰からも尊敬されている。そんな飯島さんと違って私なんて才能も何も無いただのデブだ。だから人にすがって生きるしかない。それ以外、私に一体どんな生き方があるって言うんです。」
自分より8歳も年上の男が、よいしょしながら、涙顔で訴えている。無理矢理搾り出した涙が頬を伝った。並の根性ではない。飯島は呆れるというより、斎藤の生き様そのものにうろたえた。
「分かった、もう何も言うなよ、斎藤さん、あんたの涙なんて見たくない。もう分かったから泣くなって。頼むよ。」
「飯島さん、何とかなりませんか。今、職を失ったら、私はお終いだ。どうしたらいいか、本当に分からないんです。くっくっくっく。」
「ああ、分かった。何とかする。とにかく泣くなって。」
飯島は斎藤の女々しさ遮るために話題を変えた。
「まったく、社長が会長に退いてから、全ての歯車が狂い出した。遅くれてきたリストラだから、その分過激で性急だった。古参の管理職を地獄に突き落としたんだ。」
涙顔の斎藤を一瞥して続けた。
「もう一年、もう一年、会長にやらせていれば何とかなった。それを肝っ玉の小さな銀行屋が潰した。曙光は見えていた。市場の手応えもあったんだ。」
飯島は唇を噛んだ。そして、もう終わったかと思い、横をちらりと窺うと、斎藤は尚も嘘泣きを続けていた。思わず、ため息が出た。

 葬式は自宅で行われていた。人々が門前のテントで記帳していた。「㈱ニシノコーポレーションの方はお断りしています」という立て札が、喪主の強い意思を表していた。喪主である坂本の女房は、葬儀を取りし切ろうとした会社の申し出を断わり、その出席さえ拒否したのだ。
 飯島は社名無しの香典を受付に出し、焼香の列に並んだ。少し前に知った男がいた。飯島の後任で名古屋支店の営業部長になった石川である。立て札に逆らって来ているところは、やはり飯島が後任に押しただけの根性を持っている。
「おい、石川。」
石川は振り返ると、ほっとしたように顔をほころばせ、列を離れ飯島の隣に来た。そして脇に佇む斎藤を見て言葉を掛けた。
「おやおや、斎藤さんも一緒ですか、これは、これは。」
斎藤は石川をちらりと見て、そっぽお向いた。飯島が言った。
「やはり、奥さんは怒っているわけだ。」
「当たり前ですって、誰だって頭にきますよ。まして、遺書があったようです。会社のことも書いてあったんでしょう。」
「そうだろうな、坂本さんくらい会社思いの人もいなかった。その坂本さんをあな酷い目に合わせたんだから。全く、うちの新経営陣は、アメリカ直輸入のリストラを会社再建の唯一の手段だと思いこんでいやがる。他のやり方なんて眼中にないんだ。まず、高すぎる役員報酬を減らせって言いたいよ。」
「全くその通りです。それに役員の数も多過ぎる。半分でいいですよ。銀行員がぞろぞろだ。名古屋支店の業績悪化だって、坂本さんの責任じゃありませんよ。」
「そう言えば、今度、南常務の子飼いが名古屋の支店長になっただろう、どうしようも無い。お前も覚悟しておいた方がいい。」
「ええ、分かってます。今回の支店長人事で全て分かりました。南常務の日本産業大の学閥じゃあないですか。もうアホらしくって。それから、もし、今後、私が転職したとしてもご理解下さい。飯島さんのご恩には本当に感謝していますから。」
頭を垂れる石川に飯島は何度も頷いた。会社は、ほんの4~5年前まで、右肩上がりで業績を伸ばしてきた。皆、会社や社長を信じて仕事に邁進してきたのだ。その社長が退いた途端に、全ての歯車が狂い出した。会社を心から信じてきた男が、また一人、会社を見限ろうとしている。

その日の午後、斎藤を一足先に帰し、飯島は名古屋支店で懐かしい時間を過ごした。かつて過ごした4年の月日が目まぐるしく蘇った。本社とは違う文化が育っていた。育てたのは坂本である。自由な雰囲気の中で本音が交錯する。
 誰も知らないと思っていたのだが、飯島の失脚の原因を本社人事部との軋轢だと指摘する者までいる。情報は網の目を潜り抜け、何処までも浸透してゆくものなのだ。隠し通せると思っているのは、権力を絶対視する愚か者の勘違いに過ぎない。
 その日の夕刻、飯島は、ようやく戻った支店長に形だけの挨拶を済ませ、支店裏の駐車場に向かった。飯島を駅まで送るために、石川の部下が車で待っているはずである。駐車場に入ってゆくと、飯島をブルーのライトバンが追い越していった。
 車は、手際よく白枠の内側に止められた。そして、見覚えのある男が車から降りたった。てかてかのポマード頭、顔も油でも塗っているように光っている。小柄なその男は、にやにやしながら、飯島を見ている。竹内である。
飯島は、何故、竹内がここに来たのか不思議に思い、手をあげながら近寄った。先に声を掛けたのは竹内である。
「元気そうじゃないか。今日は坂本の葬式か。」
「ええ、坂本さんにはお世話になりましたから。」
と言った途端、顔が強張ってゆくのが分かった。飯島のその変化に気付いたのか竹内は苦笑い浮かべている。
「おいおい、そんな怖い顔するなよ。なにも、俺があいつを殺したわけじゃない。俺は会社の方針にただ忠実だっただけだ。嫌な役目だったけど、生きて行くために割り切った。会社が存続してゆくためには憎まれ役が必要なこともある。」
「それはそうでしょう。でも、竹内さんにはぴったりの役目だったじゃないですか。」
「そう、嫌味を言うなよ。しかし、あいつも思いきったことをしたもんだ。会社で自殺するとはな。」
「会社への抗議だったのでしょう。それに保険金ですよ。自宅のローンも、死んだ後の家族の生活費も、坂本さんが死ぬことによってすべて解決した。そのために自殺したんです。」
「へー、偉いもんだな。ところで、噂じゃあ、お前も女房に逃げられたって?」
「さすがに地獄耳ですね。ってことは離婚の原因も知っているんでしょう。」
「ああ、女房を寝取られたって聞いたよ。それじゃ、俺の方がましだな。うちの奴は酒乱の俺に愛想をつかして逃げちまった。でも、あんな仕事させられたら、誰だって酒乱になっちゃうよ。そうだろう。」
「ええ、全くそのとおりですよ。」
「それにしても、似たような人生歩んでいるな。」
と言って、からからと笑った。飯島は、お前と一緒にされてたまるかと思ったが、それを否定出来ない自分が悲しかった。竹内はひとしきり笑うと話題を変えた。
「そうそう、俺、こんどこういう会社をやってるんだ。何か縁があったら、宜しくたのむよ。」
竹内は、名刺を差し出し、
「お前も俺の後任で大変らしいけど、まあ、頑張れよ。じゃあ、元気でな。」
と言って、裏口から支店の中に消えて行った。
しばらくして車が飯島の横に止まり、ドアが開けられた。飯島が乗り込むと、支店の主、万年係長の臼井がにやにやしながら声を掛けてきた。
「新旧の資材物流センター長が鉢合わせとは、驚きましたね。」
「ああ、全くだ。だけど、首になった竹内が何しに来たんだ。本来であれば出入り禁止のはずだ。」
「ええ、そうですよ。普通だったら顔なんて出せないし、出来高払いのリベートだって払いはしませんよ。」
「えっ、あいつにリベートを払っているのか。つまり談合に出て仕事を取ってくれば受注高の何パーセントを支払うっていうやつか。」
驚きの声をあげる飯島に、臼井は焦らすような素振りで、タバコに火を付けた。飯島が臼井の脇の下を人差し指で突くと、体を捩じらせ、笑いながら答えた。
「それだけじゃ、ありませんって。うちの親戚の臼井建設を通して竹内に給料を払っているんです。何か変じゃありません。」
 臼井の遠い親戚が経営する臼井建設は地場のゼネコンでニシノコーポレーションの下請である。名古屋支店の協力会社の順位でも上位に位置する。臼井がリストラを免れたのはこのコネクションのおかげなのだが、そこを通して給与が竹内に支払われているという。飯島が呟いた。
「そんな重大案件は支店長の権限外だな。ということは、南常務の指示ってことか。そう言えば、さっき誰かが、南常務がしょっちゅう名古屋に来てるって言っていた。」
「ええ、月に3回は来ていますよ。それに、あの今井支店長は南の指示なしには何も出来ない人ですから、臼井建設の件は南常務も知ってるってことですよ。」
「どうも怪しいな。社長は知っているのかね。」
「さあ、どうなんですかね。いずれにせよ、西野ボンボン社長は営業に関して南にお任せですからね。ところで、石川とも言ってたんですけど、どうも陰謀臭くありません。飯島さんが、本社人事部の意向を拒否して、生え抜きの渡辺を支店部長に抜擢した。その直後、飯島さんが左遷された。そして、竹内はセンターを去り、破格の待遇だ。」
「ちょっと待てよ、竹内はただ去った訳じゃなくて、女性問題で失脚したんだ。俺を陥れるための布石っていう訳じゃない。俺の左遷と竹内の優遇とを関連付けるのは考え過ぎじゃないか?」
「まあ、その通りです。それがどうも分からないんですよ。竹内の失脚ではなく、名古屋支店長栄転でもよかったはずですからねえ。」
 飯島は考え込んでしまった。人事部に逆らったからといって、わざわざ、そんな面倒な陰謀をめぐらせるだろうか。ややあって、臼井が言った。
「飯島さん。とにかく、今度、南が来たときには、アフターファイブを探ってみますよ。何かあるはずです。南が竹内と何か後暗いことやっているかもしれません。」
飯島は、臼井の秘密めいたウィンクに、思わず失笑してしまったが、
「とにかく、俺はこの会社を辞めるつもりだ。臼井さん、会長に直訴しろと言いたいのだろうけど、そんなこと期待しないでくれよ。」
と言って、サイドブレーキを下げ、車を出すよう促した。臼井はクラッチを入れながら尚も食い下がった。
「そんなこと言わないで下さいよ。社長は、と言うより会長は、今でも飯島さんを信頼していますって。南が飯島さんを陥れたのだって、それが原因ですよ。会長が返り咲いた時、いの一番に頼りにするのは飯島さんしかいませんから。」
飯島は、それには答えず、黙ったまま、所々明かり灯り始めた街並みを見つめた。既に、この会社に対する執着は一切なかったのである。  
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