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無明のささやき

作者:ミジンコ
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第三章

 武蔵野線秋津駅前は整然と区画整理され、敷き詰められた煉瓦の石畳は駅の南側を流れる小川の縁まで続く。しかし小川の対岸の小道は舗装もされず剥き出しの土と砂利、そして所々に生える雑草が、かつての町の面影を偲ばせている。
 飯島は、その駅前の指定された飲み屋の佇まいを一瞥して、暗澹とした気分に見舞われた。その手の飲み屋は、常に金欠病であった独身時代でさえ敬遠した。薄汚れたカウンターと安手のテーブル、ゴキブリと酔いどれ爺が管を巻く場所、そんなイメージしかない。
 東京支店長時代は、接待費をふんだんに使える立場にあった。けしてそれを心から楽しんでいた訳ではないが、綺麗な女達にかしずかれるのも悪い気はしなかった。あのふかふかした絨毯と薄汚れた不潔なカウンターとが交互に目の前に浮かんだ。

 佐久間は焼酎のロックを喉に流し込み、酒で爛れた食道に一時の安らぎを与えた。酔うことでしか心の空白は埋められない。孤独と絶望が今や心の友になりつつある。全てが終わった時点で全てを捨てた。いや、捨てられた?どっちも同じことだ。
五十代初めに、医者から禁酒を宣告された。それを無視して飲み続けたため、肝臓は既にぼろぼろであろう。そんなことはとうに分かっていた。いずれ訪れるだろう死は、待ち望んだ当然の帰結に過ぎない。
 思い出せば、あの時から、転落の道を転げるように落ちていったのだ。

 佐久間がまだ本社総務部長であった頃である。300人というリストラが常務会で密かに決定され、その実行者として鬱々とした日々を過ごしていた。そんな折り、大学の後輩である飯島から誘いを受けた。
 陰鬱な気分を晴らすには渡りに船と思った矢先、意外な人物が一緒だという。その時、厭な予感に捕らわれた。飯島の言うその意外な人物こそ石倉だった。その時感じた厭な予感が的中したのはずっと後のことである。
 佐久間は、石倉とは何度か会議で顔を合わせていた。非常に論理的なスピーチをする男だと記憶していた。飯島が言うには、佐久間に会わせて欲しいという石倉の頼みを断り切れなかったと言う。
 その日、石倉と会って話してみると、その強烈な上昇思考に多少辟易したものの、思いのほか率直な性格には好感が持てた。
「何としても、管理本部、中でも総務部で自分の実力を発揮したいのです。大学では応援団の団長をしていました。どんな仕事でも厭いませんし、こんなに役に立つ男は、二度と佐久間部長の前には現れるとは思えません。何とかお願いします。」
土下座せんばかりに頭を下げる姿に思わず笑みを漏らしたものだ。
「飯島君。弱ったよ。こうも率直な男も珍しい。君はどう思う?」
 飯島は石倉を佐久間に紹介しておきながら、彼の厚顔無恥を苦々しく思っているらしく、終始、無表情に空ろを見つめ、手酌で酒を飲み続けていた。佐久間に問われ、にこりと微笑み、答えを返した。
「まあ、率直さだけは評価していいんじゃないですか。」
「おいおい、君が会ってやってくれと言って連れてきたんだぞ。そんな無責任な言い方はないだろう。」
「ええ、まあ、そうなんですがね、私もここまでやるとは思いませんでしたから。まして、私としても、自分の部下は手放したくない。」
佐久間は、この時決心した。飯島が手放したくない人材であれば間違い無い。ましてリストラという憂鬱な仕事、汚い役割に石倉はぴったりだと思ったのである。それに、渡りに船という思いが頭を掠めたことも事実だった。
 確かに、石倉は期待以上の働きをしてくれた。憎まれ役を買って出て、それをニヒルにあくまでも事務的に処理した。しかし石倉の不信な動きに気付いた時は、全てが後の祭りだったのだ。石倉は佐久間を最初から裏切り続けていたのである。
 もし、石倉が南の指示で送り込まれたのであれば、最初から警戒して秘密から遠ざけていたであろう。しかし、埋もれていた石倉を見出したのは自分だという自負もあり、心から信頼していたのだ。それが躓きの元だった。
 本社総務部に潜り込んだ石倉は、佐久間の足を引っ張っぱることに何の躊躇もみせなかった。どんな会社にも暗部はある。まして佐久間は、創業者であり今は会長に退いた先代のために汚れた仕事を全て引き受けてきたのだ。
実は、石倉は南常務の密かな子飼いであり、忠実な死刑執行人だったのだ。またその南を動かしていたのは現社長であり、会長と密かに通じている佐久間を追い落とすという目的があったのである。
 ある日のこと、佐久間は怒りにまかせ石倉の裏切り行為をなじった。石倉はその佐久間に対しにやりと微笑んでみせた。その不敵な笑いに佐久間はぞっとさせられたものだ。しかし、今の佐久間は、石倉のそんなクールさを越えていた。虚無が心を支配し、狂気が脳を犯していたのだ。

 暖簾ごしに、飯島は佐久間の憂鬱そうな横顔を見出した。店が店だけに、見るからに落ちぶれた姿形を想像していたのだが、グリーンの格子縞のジャケットにジーパンといういでたちで、作業衣の時のうらぶれた印象と違い、お洒落な老年という雰囲気である。
 ロマンスグレーに上品な顔立ちは往時のままで、飯島の荒さんでいた心に懐かしさが込み上げて来た。佐久間に対する会社の冷酷な仕打ちに憤った三年前を思い出し、今度は自分の番かと、思わず自嘲した。
 建てつけの悪いガラス戸をがたがたと開け、飯島は顔を覗かせた。入り口のその雑音に、佐久間は振り向き、軽く手をあげて応えた。飯島は佐久間の横に腰を掛けると、ビールを注文した。そして微笑えみながら口を開いた。
「ご無沙汰しております。しかし相変わらずお洒落ですね、それにお元気そうで。」
佐久間は、ビールを飯島のコップに注ぎながら、答えた。
「まあ、元気と言えば元気だが、いろいろとあって、落ち込んでいるよ。それはともあれ、お疲れさん。」
互いのグラスを合わせると、飯島は乾いた喉に一気にビールを流し込んだ。
 飯島は、佐久間の、落ち込んでいるという、いささか当たり前すぎる言葉に、思わず神妙な面持ちになっていた。なんといっても取締役候補だったのだ。はきだめが似合う人ではない。佐久間は、そんな深刻面の飯島に苦笑いして応えた。
「落ち込んでいるのは君も同様だったな、これは失礼。それはそうと箕輪に会ったって?」
「ええ、久々に痛飲しました。彼は数社から誘いがあるみたいですね。」
佐久間は、むっとした顔で吐き捨てるように言った。
「奴はもともと談合屋だ。談合屋なんてヤクザと同じだ。例の産廃プロジェクトで知り合った呉工業の息子とつるんでいる。」
「呉工業というのは会長の戦友が社長をしている、あの会社ですよね。」
「ああ、あの社長も今はそれなりにとり繕ってはいるが元々ヤクザだ。まして、その息子は本物のヤクザ、飯田組の組員だ。あの社長は勘当したなんてほざいていたが、嘘に決まっている。」
「しかし、結局、産廃施設解体現場の労務者手配はそうした人間に頼るしかないってことなんでしょう。箕輪は産廃プロジェクトのリーダーだった。しかたなく付き合っているんじゃないですか。」
「いや、違う。奴は左遷された今でも、そいつと飲んでる。あんなヤクザと付き合うような奴は、ろくなもんじゃない。俺は分かっているんだ。あいつは会社のスパイだ。ここの不穏分子を洗い出すために会社が送り込んだスパイだ、間違いない。」
「佐久間さん、ここでは誰もが不穏分子だけど、会社には手も足もでないですよ。」
「会社側はそうは思っていない。不穏分子をあぶり出し、葬ろうとしている。」
飯島は、ふと、箕輪の言った言葉を思い出していた。佐久間は何かをしようとしている。その何かを会社側が探っていると妄想しているのかもしれない。
 飯島の冷めた表情を上目遣いに一瞥し、佐久間は論理の飛躍に自分でも気付いたようで、ふと、ため息を漏らして話題を変えた。
「そういえば、実は離婚した。俺もよくよく女運が悪い。二度も離婚するなんて。」
これを聞いて、飯島は言葉を失った。佐久間の女房と飯島は、かつて営業部の同じ課に属していた。飯島より八歳年下であったが、センスの良いプレゼンテーションが好評で、営業成績でも男たちと肩を並べていた。
 当時、人事部次長であった佐久間の英断で女子営業部員を採用したのだが、佐久間の二度目の妻、章子はその第一期生だった。しばらくの沈黙の後、飯島はタバコの煙を吐き出しながら言った。
「営業部の頃から、彼女は自分勝手なところがあった。何もこんな時に・・・離婚だなんて。とはいえ、まあ、夫婦のことを他人がとやかく言うことでもない。」
飯島は佐久間がこんな屈辱に耐えているのは、章子と子供のためだと思っていた。二人のためにじっと耐え忍んでいる。そう思っていたのだ。
 その章子が佐久間を捨てた。飯島は機を見るに敏な章子の一面お思い出し、ふと苦い思いが甦った。章子は惨めな佐久間を見限ったのだ。こんな時、一体何と言って慰めたらいいのか、見当もつかない。佐久間が長い沈黙を破った。
「考えても始まらない。前の女房は、当時、別居中とはいえ、あいつは本気で離婚する気などなかった。いつもの夫婦喧嘩だったんだ。その古女房を捨てて、章子を選んだのは僕なんだから、その罰が当たったわけだ。」
 飯島は沈黙した。当時の経緯を知るごくごく少数の者にとって、佐久間ほど哀れな存在はない。その少数の者とは、飯島、かつての友、南、そして章子の三人のことである。
 佐久間の深酒は有名だったが、今日もその勢いは衰えず、ぐいぐいと焼酎のコップを傾ける。押されぎみではあるが、飯島も心の空白を埋めるべく佐久間に続いた。ボトルは瞬く間に空になった。
「飯島、結局、産廃プロジェクトは失敗だった。あの事業は確かに目の付け所はよかった。自治体の焼却施設は老朽化していたし、ダイオキシンの問題もあった。それを安全に解体するという発想はよかったんだ。だけど技術が伴わなかった。」
「私はそうは思いません。技術水準だって競合とほぼ互角だった。時期が悪すぎたんです。まさに地方の冬の時代に突入した時期にスタートを切ったのですから。」
「だからこそ、慎重にすべきだった。明らかに地方展開が性急すぎた。それより、いいか、競合他社はバブル崩壊の後、リストラで乗り切った。当社ももっと早く少しづつでもリストラに手をつけていれば、こんな残酷なリストラにはならなかった。」
「しかし、当社はリストラ犠牲者を一人も出さないという会長の頑固一徹の姿勢で乗り切ったという面は否定できませんよ。そしてあのプロジェクトはその会長の夢だった事業です。みんな一致団結して頑張った。」
「あのプロジェクトの開発費は巨額だ。背伸びし過ぎたのかもしれない。」
「私はそうは思わない。いま少し、あと一年、銀行が辛抱してくれたら、何とかなったはずなんです。環境問題と焼却施設の老朽化の問題がクローズアップされ始めていた。銀行が、リストラを前提とした経営再建のシナリオを強要したんです。」
「しかし、結局、社長のあの、リストラ犠牲者を一人も出さない、という一言に燃えて、先頭を走ってきた人間がリストラ対象だなんてのは、冗談にもほどがある。」
こう言って佐久間は力なく笑った。
 話は次第に佐久間の愚痴に変わっていた。かつての佐久間は一升酒を飲んでも乱れることはなかった。しかし、今日は小さめのボトル二本で、既に呂律が回らない。酔いどれの敗残者が恨み節を唄っている。突然、佐久間の低い唸り声が響いた。
「おい、聞いてんのか、飯島。貴様だって嵌められたんだ。悔しくはないのか。あいつらは、いつだって、人を見下している。自分が常に正しいって顔でふんぞり返っている。」
むっとして飯嶋が答えた。
「勿論、悔しいですよ。でも、まだ終わったわけじゃない。」
この言葉を聞くと、佐久間は飯島の目を凝視し、そして笑い出した。敗者の哀れな強がりを馬鹿にしているのだ。ひとしきり笑うと、酒臭い息を吹きかけながら言った。
「強がりはよせ。もう勝負はついている。それより、飯島、おい、お前も知ってたんじゃないか。えっ、そう、お前も知ってたはずだ。」
飯島は、むっとして聞き返した。
「何がですか、何を知ってたって言うんです?」
飯島は、一瞬酔いも醒め、身構えていた。十数年隠し続けてきた事実を酔いに任せ、さらに自暴自棄を暴走させ、白状するか。飯島の心に嗜虐的な思いが芽生えた。
「とぼけるのもいい加減にしろよ。章子と南が出来ていたってことだ。」
と言って、佐久間は押し黙った。そしてふと微笑むと、飯島の目を覗き込みながら言った。
「もしかしたら、愛子は南の子じゃないかと思ったことがある。でも、あいつは、可愛い。本当に可愛いんだ。たとえ、俺の子供でなくてもな。そんなことは関係ない。いや、どうだろう。もし南の子供だと分かったら、本当に可愛いと思うのだろうか。」
飯島は、佐久間の誘導尋問に動揺しながらも、平静を保っている。しかし、その心の均衡は、いつ崩れてもおかしくなかった。酔いも手伝って思慮を失いかけていたからだ。
 飯島の心は暴走し始めている。やけくそで言ってしまうか。言ってしまえば心の負担も軽くなる。いや、そうじゃない。佐久間を不幸のどん底に陥れてやれ。自分よりもっと不幸な男を哀れんで、同情する側に立つのも悪くない。
 飯島は、焼酎を一気に飲み干し、荒んだ心をもてあましている自分自身に舌打ちした。この秘密は墓場まで持って行こうと決心したはずなのだ。佐久間はそんな飯島の理不尽な思いに気付いているのか、にやりとして言った。
「もう、いい、そんなこと、どうでもいい。真実は闇のなか。章子は、章子。愛子は愛子だ。それに俺の命もそう長くはない。死神がそこまでお迎えに来ている。」
と言うと佐久間は押し黙った。最後の言葉に多少ひっかったが、飯島もさすがに、どう反応してよいのか分からず、目を閉じると追憶の彼方をさ迷った。
 佐久間の想像通り、南と章子はかつて恋人同士だった。第一営業部の誰もが知っていたことだ。飯島も、章子に惹かれてはいたが、既に婚約者がいた。章子とは同僚、というより友人として付き合っていたのだ。
 しかし、或る日のこと、思いもかけない事態が起こったのだ。南が、社長の娘と婚約したのである。第一営業部の誰もが驚愕し、口をつぐんだ。南が、その高値の花を、何時、何処で、どう手中に収めたのか、知るものはいなかった。
 飯島は章子から悩みを打ち明けられた。南に捨てられ、章子は、藁をもつかむ思いだったのだろう、あっさりと体を許し、飯島に婚約者との別離を迫ったのだ。飯島は、婚約者を取るか、それとも章子を取るか、当時、人知れず悩んでいたのだ。
 しかし、煮えきらぬ飯島に見切りをつけ、章子は突然、女房と別居中だった佐久間と婚約を宣言した。飯島は開いた口が塞がらなかった。急激に膨らんだ章子への思いは押さえがたく、その思いが一挙に萎んだ後の空しさは何とも耐えがたいものであった。
 章子の電撃的な婚約発表は、飯島にとって相当のショックだったが、それ以上に、飯島を動揺させていたことがある。それは章子が妊娠していたという事実である。飯島は、愛子が自分の子かもしれないという疑念を拭いきれなかったのである。
 ふと我に返りると、佐久間が何かぶつぶつと呟いている。
「俺が、リストラされた時、女房が言ったんだ。南さんに俺のことを頼んでみるって。あの人なら私の言うことを聞いてくれるはずだって言いやがった。貸しがあるってことだ。つまり愛子のことに違いないんだ。」
飯島は声を荒げた。
「それが、どうして、愛ちゃんのことなんですか。どうして南の子供だということになるんですか。僕を含めて、三人は同じ課だったし、気の合う友達だった。ただそれだけのことですよ、それ以上でも以下でもない。そのことは僕が一番良く知っている。」
 佐久間は愛娘を心から愛していた。かつて彼の机にはいくつもの写真が並べられていたものだ。その娘が自分の子でないと分かったらどれほど辛いだろう。子供のいない飯島にもそれは理解できる。まして、南の子だとしたら・・・。佐久間の恨み節は続く。
「あいつは、ずっと俺を裏切り続けていたんだ。それに、あいつは欲の塊だ。金のためなら何でもする。だから別れた。章子には絶望したよ。ほとほとね。」
飯島は、佐久間の大げさな言葉にうんざりした。何が欲の塊なのか。金のために何でもやるだって。章子はそんな女じゃない。佐久間は、章子を殊更貶(おとし)めようとしている。
「佐久間さん、考えすぎですよ。南に頼んでみると言うのは、かつて友人だったからでしょう。考えすぎもいいところですよ。」
「いや違う。あいつはずっと南の愛人だったんだ。間違いない。今にして思えば全てに合点が行く。月に一二度、どこかに行って行方不明だった。」
「佐久間さん、うちの女房なんて、年がら年中行方不明みたいなもんです。」
 佐久間が咳き込んだ。その空気の振動は澱み、濁っていた。苦しむ様子も尋常ではない。飯島は思わずその背に手を当てたが、佐久間はその手を払いのけた。佐久間は尚も咳き込み、もがき苦しんだ。長くはないと言った言葉に嘘はないのだろう。
 突然、佐久間が立ち上がると、右足を引きずりながらレジに向かった。飯島はすぐに追いついて、お金をだそうとするが、佐久間の大きな手に遮られた。
「いいんだ、お金は俺が払う。落ちぶれても後輩に金を出させるわけにはいかない。」
飯島は、頷くと、先に店を出た。夜風がほてった頬を優しく撫でる。大きくため息をつき、思いを新たにした。負けてたまるか。奴等に負けてたまるものかと。
佐久間が出てきた。飯島はすかさず声を掛けた。
「どうも、ご馳走さまです。ところで、足を引きずってましたけど、どうかなさったのですか。」
「膝が曲がらない。関節がいかれたらしい。」
「医者には?」
「死ぬ人間がそんなもの直してどうする。放っておくさ。」
飯島はさすがに二の句が継げなかった。
 佐久間は道路に出て、手をあげタクシーを止めた。飯島はタクシーの運転手に一万円札を握らせ、「立川まで。」と告げた。すると佐久間が言いなおした。
「いや、草加だ。」
そして、振り返り、笑いながら言った。
「立川のマンションは手放した。今の給料ではローンを払っていけないからな。バブル前に買っていたから、損はしなかったが、手元には一銭も残らなかった。」
 そして、にやりとして手を差し出した。飯島は急いで歩みより、その手を握った。佐久間が言った。
「俺はやるよ。」
「えっ?」
「俺はやる。」
「何をやるんです?」
「まあ、見てろ。お前に、後のことは任す。」
「いったい何をやるっていうのです。後のことって愛子ちゃんのことですか?」
「ふっふっふ、それも含めて、とにかく、後のことはお前に任す。いずれ時期がくれば詳しく話すつもりだ。その時は、相談に乗ってくれ。じゃあな。」
と言い、手をぎゅっと握り締めると、タクシーに乗り込んだ。ガラス越しに佐久間の目が怪しく光った。それは通り過ぎた車のライトが、佐久間の瞳を単に照らし出しただけなのだ。しかし、飯島は佐久間の狂気を垣間見た気がして、ぞっとした。
 タクシーが走り去ると、飯島は煙草を取り出し、火を点けた。深く吸い込み、息を止め、そして吐き出した。何とも言えない複雑な思いが重くのしかかってくる。
 いったい佐久間は何をしようとしているのか。南や石倉に復讐するつもりなのだろうか。時期がくれば話すと言っていたが、復讐に協力しろなどと言うのではないか。飯島は厭な予感に捕らわれた。佐久間とは関わりたくないと言うのが本音だった。

 電車の窓から、明かりの点る家々の流れをぼんやりと見ていた。一軒の家の窓が開けられ、そこから若い女性が雨戸を閉めるために上半身をのぞかせた。パジャマが透けてシルエットが浮かぶ。
 瞬きをすると、目の前のガラスに自分の顔が写っている。その焦点を再びその女性に合わせようとすると、ふわっと章子の面影が浮かんだ。一瞬だった。会いたいと思った。章子の柔らかな肉体を思い出した。むくむくと下半身が起き上がった。
 人は追いつめられて始めてその本性をむき出しにする。救いようの無い絶望的状況に追い込まれ、それでも本性を押さえ切れる人がいるだろうか。飯島は酔いの回った気だるさのなか、章子の面影をまさぐった。

 佐久間と会って二日後のことだ。早朝、箕輪がいきなりドアを開けてぬっと顔を覗かせた。興味津々という表情を隠そうともせず聞いた。
「佐久間さんのこと、どう思った。やっぱり変だったろう。」
箕輪は作業衣ではなく背広だ。口髭もきれいさっぱり剃り落としている。飯島は厭な予感に捕らわれた。箕輪は部屋に入ると応接にどっかりと腰掛け脚を組んだ。飯島もソファに腰を落とし、そして質問に答えた。
「いや、おおむね普通だと思ったな。非論理的なことを言っても、すぐにそれに気付いて話題をかえた。狂っていればそうはいかない。それはそうと、佐久間さんはお前が本社のスパイだと言っていた。お前の言い訳が聞きたいね。お前がスパイなら俺もおちおちしていられない。」
箕輪はにやりとした。今回は冗談を理解したようだ。
「面白い妄想だ。前にも話したが俺は佐久間さんの誘いを断った。それで俺が彼の企みを洩らすんじゃないかと不安になった。それがスパイという妄想を生んだのだろう。会社はこの現場にスパイなど必要ない。誰もが、うなだれた敗残者だ。」
「その通り。俺もそう言った。それともう一つ。佐久間さんはこうも言った。ヤクザと付き合う奴は信用できないと。」
箕輪はにやりと笑った。そして言った。
「それを言われると弱い。例の産廃プロジェクトの呉工業、あの社長の息子、向田敦って野郎なんだが、こいつが俺に妙に懐(なつ)いちまった。こいつはほんまもんのヤクザだ。しょっちゅうお誘いがくる。10回に1回は付き合うことにしている。」
「ほんまもんのヤクザに懐(なつ)かれるなんて、お前らしい。呉工業の社長を介してか?」
「まあ、そんなところだ。いろいろあって可哀想な奴なんだ。まあ、プライバシーだから話す訳にはいかないが。」
「俺にも話せないってことか?」
「ああ、この会社に関係している人と関わりがある。だから言えん。」
「分かった、ところで、今日は休みなのか。」
この言葉に、箕輪は苦笑いして、胸のポケットに手を差し入れた。飯島の厭な予感が当たった。箕輪の手にあるのは退職届けだった。この日が来るのを恐れていたのだ。箕輪の唇が動くのを暗然と見ていた。
「何やかやと言い訳めいた言辞を弄したが、結局、俺は納得のゆく就職先を探していただけだ。佐久間さんのことも言い訳に過ぎん。実は、待ち望んだオファーがようやく届いた。飯島、俺はここを去る。仙台に行くことになった。谷田建設だ。」
心の支えとなっていた男が飯島を置き去りにしょうとしている。目の前が真っ暗になる。しかし、そんなことはおくびにも出さない。
「よかったじゃないか、谷田だったら一流だ。さすがに箕輪だ。そんな所からオファーがくるなんて。」
「ああ、そこの仙台支店長が昔いろいろ世話になった人なんだ。その仙台支店の営業部長だ。ここの会社の地位よりワンランク落ちるがしかたがない。女房も喜んでいる。」
「本当におめでとう。お前ならやれる。本当に良かった。」
「有難う、話が急で、今月中に仙台に移らなければならない。落ち着いたら連絡する。それから、お前には本当に感謝している。前の会社はずっと前に潰れて、あそこにいたら大変だった。兎に角、頑張れ、お前ならきっと乗り切れる。」
「ああ、俺は大丈夫だ。俺は俺で何とかする。」
大きな手が差し出され、飯島のその手を力強く握った。
箕輪は飯島が彼の就職を心から喜んでいると思っている。飯島が嫉妬や羨望とは無縁な男だと信じている。飯島は箕輪の信じる飯島を演じきった。
 飯島は箕輪が思うほど強い人間ではない。二人は佐久間の派閥で出世した仲だ。その一人が落ちこぼれたとはいえ、それでも心は繋がっていた。同じ会社にいたからだ。しかし、今その一人が会社を去ろうとしている。どう頑張ればいいのだ。飯島の心の叫びは誰にも届かない。飯島は孤独の淵に、ひとりぽつんと立つ尽くすしかなかった。 
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