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愛しのヤクザ

作者:ミジンコ
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第三章 鯨井組

 いつの間に寝てしまったのか、相沢は机にうつ伏せ状態で、誰かに頬を突つかれ起された。顔を上げると則子がくすくすと笑っている。ふと、手元のノートパソコンの画面を見ると、報告書は1ページ半しか書かれていない。しまったと思ったが後の祭りである。
 今日、本部で会議があり、そこで現況を発表しなければならない。電車の中で大筋だけでも書くしかないと思い、慌てて立ち上がると、則子がバッグの中から手鏡を出して相沢に向けた。相沢が覗き込むと、頬にくっきりとマルが描かれている。ワイシャツの袖のボタンだ。則子の微笑みの意味が分かった。二人して声をあげて笑った。笑い終え則子が言う。
「相沢さん、今日の3時ごろ、例の女性が来たわよ。今、休憩室で寝ている。今日はジャガーではなくてハーレーダビッドソンですって。でも、あの人に聞いたけど車で煽ったのは相沢さんだって言うじゃない。」
 相沢は膨れっ面して押し黙った。聞かれてつい嘘を言ってしまったのだ。後悔したが、言ったものはどうしようもない。則子が続けた。
「でも、相沢さんのことも宣伝しておいてあげた。本部の偉い課長さんだって。彼女、へーって驚いていたわ。」
「別に、そんなこと言わなくてもいいのに。ところで何している人なの?いつも遊んでいるみたいだけど」
「そこまでは聞き出せなかったわ、いくら相沢さんのためとはいえ。それじゃ、私、帰るね。そうそう鎌田副支配人、今日、お休みしますって連絡入っていたわ。」
「えっ、それはないよ、あの野郎。しかし困ったなあ。今日、僕は本部に行かなければならないし、責任者が誰もいなくなってしまう」

 そこにフロントの清水郁子が顔面を蒼白にして事務所に入ってきた。その顔を見て、相沢は容易ならざる事態が起きたことを悟った。心臓の鼓動が耳にまで聞こえてきそうだ。郁子が震える声で言った。
「課長ー、もんもんしょった人が、二人、フロアをうろうろしてるの。こわー。課長ー、早く行って、あれ、確か鯨井組よ、この辺の博徒」
「何故なんだー、向井支配人が休んだ初日にー」という相沢の心の叫びは向井に届いただろうか。それでも気を取り直し、うんと頷いて、足を前に運ぶ。膝が震えてうまく歩けない。丹田に力を入れようとするのだが、力は尻の穴から抜けてしまうようだ。
 ドアから様子を窺うと、ヤクザ然とした男が二人、ダボシャツの下からこれ見よがしに刺青を顕にしフロント前のソファでふんぞり返っている。きょろきょろ辺りを見回し、責任者が現れるのを待っているのだ。
 入り口前面の「刺青客お断り」の大きな看板が目に入らぬわけもなく、明らかに嫌がらせか、難癖をつけるのが目的である。何故、よりによって、今日なんだ。泣きたい気持ちだったが、女達の視線を感じて勇気を奮い起こした。逃げるわけにはいかないのだ。
 相沢はドアを出ると、震える膝と格闘しながら、10メートルの距離をようやく歩き切り、二人の前に立った。立っているのが不思議なくらい両足に力が入っていない。二人がにこやかに笑いかける。相沢はその笑いに誘われるように声をかけた。
「どうも、おはようございます」
 二人は声を揃え陽気に「おはようさん」と答えたが、これはこれから起そうとするひと悶着のための演出に過ぎない。前半の陽気な挨拶、打って変わって後半の怒鳴り声、この落差が大きければ大きいほど凄みを増すという彼らの一流の演出なのだ。
 一人は丸顔のつるつる頭で、にこにことしているが、それはその落差を強調するためで、この顔に怒りを帯びれば相当凄そうである。もう一人は長髪で彫の深い二枚目で、ニヒルな顔に浮かぶ笑顔は瞬時に般若のごとく変わるだろう。
 向井の編み出したご免なさい攻勢で済む相手ではない。さて、次に何と言おうか?相沢は、頭が真っ白になっていることに当惑していた。沈黙が続く。沈黙は彼らの思い描くシナリオにもないようで、困ったように顔を見合わせ、じれて長髪が誘いをいれる。
「どうだい、繁盛しているかい?」
「ええ、まあまあです……」
またしても沈黙だ。今度は坊主頭が聞く。
「大変だろう?」
「えっ?、ええ…まあ…」
会話が弾まないからといって、相沢が責められるべきではない。どう考えても会話が弾む相手でも状況でもない。二人は慣れない愛想笑いに疲れたようで、早く刺青に触れて欲しいらしく、ダボシャツに手をつっこんで更に見えるようにもろ肌を晒した。
 相沢は何をなすべきか漸く思い出し、力なくため息を吐いた。そして恐る恐る自分で作ったマニュアル通り、
「実は、私としましても誠に申し上げにくいことなのですが…」
無駄な努力と知りつつ、ありったけの敬語をちりばめて話したのだ。
「あの看板に書かせて頂いている通り、お客様のように刺青をなさっていらっしゃる皆様には、ご入場をご遠慮頂くことになっております。誠に申し訳ございませんが、御退出頂けませんでしょうか?」
声は震えていない。よしよしと内心自分を褒めてやった。が、現実はそう甘くない。
「何だと、この野郎。もういっぺん抜かしやがれ」
「てめえ、この野郎、ふざけたことを言いやがって、出て行けだと」
待っていましたとばかり、耳をつんざくような怒鳴り声が響く。
二人の言葉は同時に吐かれたため、何を言っているのか判然としなかったが、だいたい似たような言葉だったのだろう。この怒鳴り声が合図だったとみえ、外で控えていた5人の仲間が入り口から一斉に雪崩れ込み、相沢を取り囲んだ。
 7人のヤクザが噛み付かんばかりの顔で相沢を睨んでいる。相沢より小さいのは、はげ頭とニヒル野郎だけで、あとは皆ガタイがでかい。相沢は絶望のあまり目の前が真っ暗になった。膝のかくかくは大揺れで、冷や汗は両脇の下を濡らす。ちびらないだけましか。

 坊主頭が大声でつっかえながらも、出て行けと言われた状況を皆に説明している。大きく頷く面々。聞き終えると、一斉に憤慨し、相沢ににじり寄る。怒声、罵声の嵐だ。坊主頭は小指のない両手を縦横無尽に振り回す。
 よくみると、指なしは何人もおり、ない方の手をことさら見せるよう心掛けているようだ。相沢の目の前を指のない手が何本も蠢く。例のニヒル野郎は男達の輪から一歩引いて、だんまりを決め込み、腕を組み、相沢を睨みつけている。
 しみじみと見ると、このニヒル野郎は、どこか知的な雰囲気を漂わせている。ジーンズ系でまとめれば芸術家タイプといってもよく、とてもヤクザには見えない。明らかに他の連中とは異なった人生を送ってきたことは確かだ。
 相沢も無駄な努力とは分かっていたが、必死でマニュアルの言葉を思い出しながら対抗したが、相手は、はなから聞く耳など持ち合わせてはいない。終いには、だた押し黙り、神妙そうな顔を発言者に向けていた。不思議なことだが、恐怖をやり過すと妙に冷静になれるものなのである。或いは慣れというやつかもしれない。
 相沢はさっきから皆より頭一つ出ているノッポの若者ヤクザに声援を送っていた。先輩諸氏が次々と怒鳴り散らす中、唇を震わせて出番を待つが、どうしてもタイミングが合わず、言葉を唾と共に飲み込んでいる。それ、今がチャンスだ。相沢の応援もむなしく、またしても坊主頭に出番をとられ舌打ちしている。
 同じような罵声と怒声に辟易した相沢は一瞬の間隙に狙いをすまして大声を張り上げた。
「どうです、コーヒーブレイクにしませんか。そこの喫茶店でコーヒーでもどうぞ」
 そう言うと、相沢は男達の間をすり抜け、どうぞとばかり腰を折って片手を喫茶店の方へ向けた。ニヒル男と坊主頭は互いに顔を見合わせ、自分達が舐められていること、もう少しドスを効かせなければならないことを瞬時に了解しあった。

 他の連中も、互いに顔を見合わせ、首を傾げる者、憤慨する者、コーヒーブレークの意味を隣に聞く者、様々だが、相沢はかまわず先に立って喫茶店に入っていった。
「まあ、どうぞおかけ下さい。ハルさんコーヒー七つ。僕はコーラ。ビンでいいよ。」
ビンならぎゅっと握ればよい。二三本の指でコーヒーカップなど支えられるとは思えなかったのだ。きっと指が震えてコーヒーをぶちまけてしまうだろう。
 ハルさんは喫茶店の元経営者だったが、店が潰れてここにパートで来るようになった。水商売が長いせいか落ち着いていて、はいはいと淡々と準備に入った。すると、ニヒル男が真ん中のテーブルの椅子に腰を落とし、ハルさんに言う。
「コーヒーは二つでいい」
坊主頭もそこに腰掛けたので、相沢もそのテーブルに着いた。五人のヤクザがそのテーブルを取り囲む。
「ちょっと失礼します、ご免なさい」
林田が、五人のヤクザの間をすり抜け前に出て、相沢の横に立った。ニヒル男が怒鳴る。
「テメエは何だってんだ。横からちょろちょろ出てきやがって」
「いえ、私もフロアーの責任者ですので、お話を拝聴しようと思いまして……」
立ち上がりながら坊主頭が、林田に向かって怒鳴り散らす。
「すっこんでろ、この野郎、一人でも話が通じねんだ、話がややっこしくなる……」
相沢が、まあまあと坊主頭の肩に手をやると、思いっきり払いのけられたが、それで気が済んだのか林田をひと睨みして腰を落した。
フロントに目をやると林がカウンター越にちょこんと手を上げた。どうやら奥の手の準備が整ったようだ。一息入れ、相沢はゆっくりと話し始めた。
「何度も申し上げている通りですねえ、これは会社の方針ですので、私としてもこれ以上のことは申し上げられないのですよ。私は一介のサラリーマンですから、上からの指示に従うより他ないのです」
ニヒル野郎が下から見上げるようにして睨み、重たげに口を開いた。
「おいおい、さっきから聞いていればテメエの言い分はそればっかりじゃねえか。他に言い草はねえのか?」
相沢はマニュアルの隅から隅まで思い浮かべたが、それ以外の記述などどこを探しても見あたらない。しかたなく「ええ」と答えた。ニヒル野郎が睨め付けながら言う。
「それじゃあ、例えばの話だ。指に彼女のイニシャルの刺青をしていたとしよう。それを絆創膏貼って入った。お前はそいつをつまみ出すのか?」
固唾を飲んで返事を待つヤクザ達の熱い視線に気付かないわけでもなく、何か引っ掛け臭いと思ったがついつい口が滑った。
「まあ、小さなイニシャルくらいなら」
取り囲む皆の目が一瞬輝いた。しまった、やっぱり引っ掛けだ、と後悔したが後の祭りだ。
 ニヒル野郎が鷹揚に頷きながら、口を開いた。
「おうおう、そういうことだ。分かった、分かった。俺達も入場していいわけだ。絆創膏貼ってさえいれば、いいと、オメエはこう言うわけだ。なっ、そうだろう」
「そうは言っていません。小さなイニシャルぐらいなら、目をつぶると言ったんです」
「そうじゃねえだろう。オメエは絆創膏を貼って隠していれば刺青客を入れていてもいいといったんだ。そうだろう、そうじゃねえとは言わせねえぞ」
怒鳴り声とともにバンとテーブルを叩く。相沢と林田の体がピクンと浮いた。そして一斉に怒声の大合唱だ。ヤクザにとって話の内容などどうでも良いのだ。要は相手に恐怖心を抱かせること。早う金を包んで出せて言っている。一人一万、色を付けて10万か、などという思考が脳裏を掠める。
 しかし、会社の方針で、それが出来ない以上、議論には負けられない。小さなイニシャルと刺青の違いなどというくだらない議論が続く。口角泡を飛ばしての遣り取りで相沢も次第に熱くなっていった。それで、ちょっと口が滑ったのだ。
「皆さんは、もんもんしょって、それを誇りにしているんでしょう。そんな絆創膏のお化けみたいな物を体に巻いて、風呂に入るのですか、えっ。ヤクザの誇りはどうなっているんです」
ニヒル野郎と坊主頭が血相を変えて立ち上がって怒鳴った。
「何だと、下でに出ていればいい気になりやがって。表に出ろ。この野郎、表に出ろってんだ」
坊主頭が手を取ろうとするが、相沢はさっと手を引いた。いよいよ正念場だ。もう少しの辛抱である。フロントで林がにやにやしながらVサイン。まさか、こんな場面で、おちょくっているわけではあるまい。もうすぐだという合図なのだ。
 睨みすえるニヒル野郎。坊主頭は腕を取り立ち上がらせようとするが、相沢はその手を振り解き「暴力をふるうのですか?」と叫び睨みつける。互いに睨み合うこと数秒。ウーウーと短くサイレンの音。見ると、どっと入り口に制服の警官達が雪崩れ込んできた。相沢を取り囲んでいたヤクザ達も喚きながら入り口へと向かう。

 その途端、相沢は緊張の糸がぷつんと音をたてて切れたのが分かった。体中から力が抜けてゆく。林田もそこにへたりこんだ。どんなにこの時を待っただろう。リーダ格の警官の怒鳴り声が響き渡った。
「おい、鯨井、鯨井はいるか。おい、鯨井」
見ると、警官とヤクザが小競り合いを演じている。手を出せば公務執行妨害で引っ張られる。だから罵声を浴びせ、胸をぶつけて警官などには負けないという姿勢を示すのだ。その罵声にかっとしたのか、一人の警官があのニヒル野郎をねじ伏せた。またリーダー格の警官の怒鳴り声が響く。
「おい、鯨井、いるのは分かっている。鯨井、出て来い」
と、外から上背のある精悍な男が入ってきた。のんびりした声で答えた。
「はい、はい、ここにいます、ここにいます」
鯨井組の組長らしい。思ったより若く、苦み走った良い男である。どうやら表で待機していたようだ。怒鳴っていた警官が、組長の肩に手を置き、何やら話している。組長は逆らいもせず、ハイ、ハイと答える。その様子を見て、子分達も小競り合いから睨み合いへ移り、収拾の方向へと向かった。そこへ、
「俺達には、人権ってもんが、ないのか?えー、人権ってもんが、ないのか?」
という叫び声。人権?相沢が振り返ると、あのニヒル野郎の声だ。一人だけ手錠を掛けられ、相沢を睨みすえ、再び叫ぶ。相沢が、人権だって?と訝しがっていると、あのノッポの若者ヤクザが目を輝かせ、それを真似て叫び始めた。
「俺達も人権ってもんが、ないもんかえー」
漸く出番が回ってきて、思い切り叫ぶことが出来たのだ。生き生きと何度も繰り返す。
「俺達も人権ってもんが、ないもんかえー」
しかし、言葉は意味を成さない。最後の「えー」は独立していないといけない。ニヒル野郎は苦りきった顔で、若者を睨んでいたが、ふと苦笑いを洩らした。

 鯨井組長を乗せたパトカーがサイレンと共に去った。他の連中もぞろぞろと外に出てワゴン車に乗り込む。二台のパトカーが待機しており、どうやら事情聴取のため連行されるらしい。ニヒル野郎がワゴンに乗り込む寸前、相沢に向かって叫んだ。
「おい、テメエ、これから毎回毎回、警察を呼ぶのかよ。警察だって他にもっと仕事があるんだぞ。テメエ等の都合ばかり聞くとは限らねえからな。その時はどうするんだ。えっ、どうするんだよ」
 その後、相沢は事情聴取され、当然会議に間に合うはずもない。こうした事情なのだから、本部も許してくれるだろう。事情聴取の合間を縫って電話をいれた。案の定、会議の主催者である小倉企画部長は何度も驚きの声をあげ、根掘り葉掘り聞き、結局、会議欠席を了承した。
 警官からようやく解放されると、ハヤシコンビが近付いて来る。林田が話しかける。
「ご苦労さまでした。本当に大変でしたね」
ねぎらいの言葉にほっと胸を撫で下ろし、よろよろと歩いて、その場で力尽きたという様子で倒れ込む真似をすると、二人は大喜びで、大丈夫ですかなどと声を張り上げ、相沢をくすぐりながら介抱する真似をする。悪ふざけが終わると、安堵と言い知れぬ充足感に満たされ、相沢が、二人に向かって言った。
「助かった、本当に有難う。林田君が傍らにいてくれただけで、どんなに心強かったことか。それに林君の合図で、もうちょっとの辛抱だって分かったしね。でも怖かったなー。あんな怖い思い初めてだよ」
林がそれに応える。
「いやいや、どうして、課長もなかなか堂々としてましたよ。普段の課長からは、想像もできねえけど」
相沢が怒った顔をすると、
「今のは嘘、嘘ですよ。普段でも堂々としているよ、なあ、林田」
と林田に振る。
「ああ、堂々とし過ぎて危なっかしいなーと思うこともあるけどね。ちょっとくらい、可愛げを見せた方が出世すると思うけど。それはそうと、よくコーヒーブレイクなんて言葉が出ましたね、あんな按配なのに」
「いや、膝がガクガクして立ってるのがやっとだったから、とにかく座らないといけないと思って・・・」
林田もこれには笑って、相づちを打つ。
「俺も直立不動のつもりが、膝が笑っちゃて、ふらふらするんだもの、びっくりしたな。あんなこと初めてだ。でも、もうこれっきりにしたいよ、あんなこと」
 相沢は則子がいないのに気付き、林に聞いた。林は、
「ああ、騒動が収まったら、おやすみって言って帰っていったよ、今日も則子は遅番だからな。でも、この喜びを則子と分かち合いたかったですね、課長」
と言って、相沢の顔を探るような目で見る。林は則子のことでは相沢をライバルとみなしている。

 騒ぎも興奮も収まり、則子の言っていたショートカットの女が気になり探してみたが、施設はあまりにも大きく、とうとう会うことはなかった。車で煽ったことを謝ろうと思っていたのだが、会えなければ会えないで、どこかほっとする思いもある。
 夕方になっても鎌田副支配人から連絡が入らず、相沢は今日も泊まることにした。そのことを林に言うと、林は、則子が今日も遅番だと知っており、かなり動揺したが、さすがに三日連続の泊まりは無理らしく、17時頃、林田としぶしぶ連れ立って帰っていった。

 則子の出社する21時まであと2時間。今、相沢は来週まで繰り延べになった状況報告を書いている。1時間も割り当てられているのでかなりの分量だ。しかし、どうも気が散って筆が進まない。時計を何度も見上げた。則子の顔がちらちらと浮かぶ。
 あの日、あの則子の啖呵を聞いてから、相沢はすっかり則子に参ってしまった。その場で惚れた。しばらくして、早番が明けて帰ろうとする則子を食事に誘った。どきどきしながら返事を待つ相沢に則子はにっこりと微笑んだ。
 食事のあと家まで送った。肩を並べて歩きながら、そっと指に触れてみた。そして、そっと手を握ってみた。すると握り返してきた。恋人同士のように語らい歩いた。何度も微笑みあった。そしてアパートの前で立ち止まり、則子は相沢の正面に立った。手は握ったままだ。
「今日はごちそうさまでした」
 則子は手を離そうとするが、相沢は離さない。相沢は少しずつ手を引いて体を寄せた。互いに見詰めあい、相沢が顔を近づけた。則子は受け入れて、目を閉じた。ほんの寸前だった。則子は相沢の胸を両手でぽんと押したのだ。
 一瞬の後、相沢は走り去る則子の後姿を見詰めていた。則子が振り返り、微笑んで手を振る。相沢もそれに応えた。チャンスはまだまだあると高を括っていた。しかし、それから何度誘っても曖昧に受け流す。とはいえ、仕事場での態度は少しも変わらない。
 相沢は、今日、何としても決着をつけるつもりである。あの日は、ことを急ぎすぎた。まずは心の内を告白すべきだったのだ。幸い今日は邪魔者の二人がいない。時計の針が21時を指した。相沢の胸が高鳴った。


 
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