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銀河英雄伝説 美味しい紅茶の淹れ方

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美味しい紅茶の淹れ方

美味しい紅茶の淹れ方


 書類の末尾にサインを書きこんで、数十枚に及ぶその報告書をファイルへと綴じ込んだ。軍務尚書パウル・フォン・オーベルシュタインは、たっぷり一時間もかけた報告書の確認を終えると、次の書類に目をやりつつ、ふと喉の渇きを覚えて机上の片隅にある紅茶へと手を伸ばした。
「ん……」
普段なら指先に、伝統ある陶磁器メーカーのブランドカップが触れるはずなのだが、どうしたことかその指は空を切るばかりだった。これは、カップがここに存在しないと判断した方が良いだろう。
「フェル……」
将官であり、秘書官でも従卒でもないが、コーヒーと紅茶を淹れることにかけては他人任せにしない部下の名を呼ぼうとして、はたと顔を上げる。彼の左脇にある官房長の席には、ただ無人の椅子があるのみだった。
「そうか……」
軍務省官房長アントン・フェルナー准将は、入院加療中だった。ラグプール刑務所の暴動鎮圧にあたり、味方からの誤射により重傷を負ったのである。当然、オーベルシュタインも認識していた事実であり、官房長臨時代理としてグスマン少将を任命したのも彼である。忘れていたわけではないが、つい仕事に没頭していると、いつもどおり隣にフェルナーがいるような錯覚を起こしてしまうのだった。
思えば、臨時代理を命ぜられたグスマンは、ここで仕事をしている訳ではない。彼には彼の持ち場があり、そこと兼職であるため、必要時にのみ尚書執務室へ訪ねてくる。
ともあれ、水分補給は必要だ。となれば、フェルナー以外の誰かに、紅茶なりコーヒーなりを持って来させなければならない。オーベルシュタインは手元の端末を操作して、適当な人物を呼び出した。
「お呼びですか、閣下」
慌ただしく入室して来たのは、秘書官のシュルツ中佐であった。彼は、若い辣腕官房長よりも更に若い、有能な軍官僚である。関係者との調整・連絡、穏やかな折衝といった、軍務省トップ二名の不得手とする部分を一手に引き受ける得難い存在だ。
「ミルクティーを」
手短にそう伝えて、若い秘書官の顔を見た。秘書官も端的に応答して踵を返す。それさえも、オーベルシュタインには感慨深いものがあった。彼の身近にいる官房長と言えば、オーベルシュタインの言った一言を必要以上に掘り下げるし、頼んでもいない気を回すこと数え切れない。
だが、例えばオーベルシュタインが、普段紅茶にミルクを入れないことや、薄めのディンブラ紅茶が好きなことなどを、把握している人物はここにはいない。例えば、昼食後一時間ほど経ったこの時間、喉を潤すために温かい紅茶を飲むことなども。
「そうか。いつもこの時間に飲めるように、フェルナーが準備していたというわけか」
自ら求めるわけではなく、手を伸ばせば当たり前のように、程よい温度の紅茶が置かれていた理由を、オーベルシュタインは初めて認識して、誰とはなしにひとりごちた。
他人を寄せつけない性質を自負しながら、そんなささやかな気遣いを受けていたことに、何ともいえず滑稽さを感じる。つくづく、不思議な部下だと思う。と同時に、そんな部下を手元に置くことに、僅かの抵抗も覚えないことが不可解でもあった。好悪、快不快といったものが、理論や理屈を超えた某かの産物であるということの例証であろう。

 軽いノックの音と共に、紅茶の香りと秘書官が入室してきた。従卒に任せず、彼自身が持参するところは、生真面目なシュルツらしいと思う。
「閣下、お待たせしました」
色の良い紅茶に、ミルクが添えられる。オーベルシュタインは、緊張の面持ちのシュルツへ向かって、軽く肯いて見せた。色は良い。ストレートのまま一口含むと、その美しい色からは想像もつかない渋みを感じた。
「……。」
微塵も表情を変えず、静かにミルクを投入する。紅茶は、淹れ方を知らない者が淹れると、良い茶葉を簡単に台無しにすることができる。それと知っていたオーベルシュタインは、あえてミルクを所望したのであった。……当分は、ミルクティーばかりになりそうだと、内心で苦笑する。
先ほど綴じたばかりのファイルへ、何気なく視線を落とした。
「急ぎではないが、遣いを頼まれてくれるか」
上官の手がペンとメモ用紙へ伸びたのを見て、シュルツは「はい」と短く応じた。もとより秘書官業務の一環である。オーベルシュタインはサラサラと何かを書き込むと、そのメモを綺麗に切り取って、先ほどのファイルへと挟んだ。
「これをフェルナー准将へ」
青白い、しかし意外に滑らかな手で書類を差し出され、シュルツはさっと受け取った。動きや業務遂行に無駄がないこと、それもこの軍務省では、いや、オーベルシュタインの部下としては欠くべからざる資質であった。
「ルビンスキー逮捕に至るまでの報告と、今後の処遇についての検討だ。あれが復帰する時には、頭に入れておいてもらわねば困る」
そう伝えてくれと言おうとして、オーベルシュタインは言葉を切った。……そのようなことは、伝えるまでもない。不遜で切れ者の部下は、完璧に近いほどにその内容を頭へ叩き込んだ上で、己の、それも的確で上官を満足させる意見と、それを実行した場合のシミュレーションパターンを複数添えて復帰するであろう。
「了解いたしました。何かご伝言がおありでしたら、承ります」
秘書官の型どおりの言葉に、軍務尚書は間髪入れずに(ノイン)と答える。
「それでは、失礼いたします。……閣下」
「……何だ?」
胡乱げな視線で射抜かれたシュルツは、それまで努めて続けてきた官僚的態度を崩すと、くすりと笑って言った。
「准将がご不在だからといって、ご無理は禁物ですよ」
言い終えるが早いか、若く優秀で、不思議と人を和ませる能力を持つ秘書官は、足早に姿を消した。
「まったく、私の部下はどいつもこいつも……」
軍務尚書は静かに嘆息した。


「元帥閣下の溜め息が聞こえるようでしたよ」
軍病院のフェルナーのもとへ訪れたシュルツ中佐は、穏やかな笑みを浮かべて上官の近況を伝えた。
「卿も言うようになったじゃないか。配属されてきた時は、真面目一辺倒のやつかと思ったがなぁ」
年若いシュルツへ多大な悪影響を与えた当人が、可笑しそうに翡翠の目を細める。
「誰かさんの感染力が強すぎるんですよ。影響されない方がおかしいというものです」
「おい、それじゃあ、俺がまるで病原菌じゃないか」
「それ以外に聞こえたとしたら、聴力に問題があるのかもしれませんね」
邪気のない軽口の応酬が、重傷を負ったフェルナーの気分を和ませた。正直な話、入院生活というものはフェルナーのように図太い神経を持っていたとしても、気の滅入るものなのである。
「それはともかく、何か用があって来たんだろう?」
職務時間内に見舞いに来たシュルツへ、フェルナーが幾分真面目な顔で問いかける。
「あ、ええ、そうでした。……これを届けに」
シュルツから分厚いファイルを受け取ると、フェルナーはベッドテーブルを引き寄せた。ラベルのないファイルをパラパラとめくり、概要に目を通す。
「ああ、ルビンスキーの件か」
そう口にしたきり、くすんだ銀髪の官房長は黙り込んだ。
ルビンスキー逮捕の報を、フェルナーは複雑な心境で聞いた。これまで必死にルビンスキーの行方を追ってきたのは、無論オーベルシュタインではあったが、実質フェルナーの主導であった。それが、逮捕の瞬間には病院生活である。流れから取り残されたような、心許ない気分にさせられていたのだった。ただでさえ、ラグプールの暴動を鎮圧できずに負傷し、小さくはない挫折感を味わっているというのに。
瞬時によぎった種々の思いを、フェルナーはどうにか払拭して言った。
「しかし、良くこんなものを持ち出せたな。どう考えても部外秘だろ、この資料」
フェルナーの指摘はもっともで、シュルツも承知していることであった。
「はい。ですが、閣下があえてこれを准将へ届けよと指示なさったのですから、きっと何かお考えがおありなのでしょう」
シュルツの返答に、フェルナーは思わず瞠目した。
「閣下が……?」
常のオーベルシュタインの行動からすると、そのようなことは考えられない。何しろ徹底した秘密主義で知られる軍務尚書である。情報の取り扱いについては、他の軍官僚の何十倍も気を遣っているはずであった。
信じがたいことではあったが、シュルツが嘘をつく理由もない。おそらく事実なのだろう。自身の中でそう結論を出して、フェルナーはふいに安堵感を覚えた。今この手に入った情報は、紛れもなくフェルナーが欲していたものだったからである。
「分かった。暇はいくらでもあるし、目を通しておくよ」
そう言って、更にページをめくるフェルナーが、急に手を止めて一点を凝視したかと思うと、苦笑いを浮かべた。その様子を見ていたシュルツが、面食らったように目をみはる。
「どうなさいました、准将?」
シュルツの問いに、フェルナーはしばらく答えなかった。たっぷり10秒ほど沈黙した後、なおも笑みを浮かべながら口を開く。
「シュルツ、閣下にどんな紅茶を出したんだ」
「……え?」
予想の斜め上を行ったフェルナーの言葉に、シュルツは裏返った声で聞き返した。あどけなさを残す秘書官の瞳を、鋭く輝く翡翠の宝石が睨みつける。
「卿に、紅茶の淹れ方を教えろとさ」
バサリと書類をテーブルへ投げ出して、フェルナーは大きく伸びをした。
「やれやれだよ、まったく」
狐につままれたような顔をしたシュルツを見やって、オーベルシュタインが挟み込んだメモを掲げて見せる。そこには確かに、流麗だが几帳面さを感じさせる、彼らの上官の筆があった。
「どうせ、冷たいポットやカップを使ったり、蒸らし時間がもったいなくて闇雲にかき混ぜて色を出したりしたんだろう」
フェルナーは手招きで若い秘書官を呼び寄せると、メモの白紙部分に箇条書きを始める。
「はあ、小官は素人ですし……」
空いた口が塞がらないといった様子のシュルツに、紅茶の達人はぽんぽんと言葉を投げかけた。
「ああ、分かってるさ。だから、基本から教えてやろう。それと、閣下に飲み物を出す時間も、一通り教えておいてやる。まず、朝は濃いめのコーヒーにクリームをつけてな……」
話の流れについて行けずにいたシュルツであったが、矢継ぎ早に出される指示を必死で書きとめつつ、頭に浮かんだその言葉を口に出さずにはいられなかった。
「准将は、まるで閣下の世話女房ですよ」
シュルツの呟きにフェルナーは、「俺もそう思わないでもない」と、手のかかる上官を思い浮かべて笑った。


 その日、昼食後に運ばれてきた紅茶にはクリーマーがついておらず、オーベルシュタインは怪訝そうな顔で秘書官を見やった。
「閣下は普段、クリームをお入れにならないと伺いましたもので」
シュルツは柔和な笑みを浮かべて、上官へストレートの紅茶を差し出した。
「どうぞ、召し上がって下さい」
その笑顔の下の緊張を読み取ってか、オーベルシュタインは「そうか」と呟いてから、ティーカップを持ち上げた。色の薄い唇から一口分の紅茶を流し入れて、しばし手を止める。
「ふむ……」
充分に舌の上で味わってから、ゆっくりと飲み下す。
ディンブラ特有のバラの花のような香りが鼻腔を抜け、オーベルシュタインは思わず目を瞑って微笑んだ。


(Ende) 
 

 
後書き
フェルナーは、コーヒーと紅茶の淹れ方にこだわっているという、無意味な設定に基づいております。実は部下たちに慕われている軍務尚書だったらいいよという、願望でした。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。 
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