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ハッピー・イタリアン

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ハッピーイタリアン

 
前書き
退屈な高校生活を過ごしていた理沙。両親との関係も面倒、友人の美紀は彼氏ばかりで自分は暇をもてあましていた。そんな理沙は軽い気持ちでアルバイトをしようと思い立つ。しかし、理沙の思惑と相反してアルバイトの面接すらうまくいかない。試行錯誤してやっとのことで受かったイタリアンレストランのアルバイト。先輩アルバイターの亮はイケメンで、仕事もできる。だが、理沙に対しては必要以上に厳しく、そして冷たい。見た目とは違い、厳しい現実を突きつけられる毎日。だが、そんな理沙にもやりがいを感じられる出来事があり、また亮がここまで仕事に厳しい理由を知る。周囲から支えられ、少しずつ成長し、仕事と恋愛を通して大人になってゆく理沙。亮との恋の行方はいかに! 

 
若林(わかばやし)理沙(りさ)は神聖な空気の中、礼拝堂を見上げていた。やわらかな射光は天井の高い窓から幾重(いくえ)にも光の帯(おび)となり神々しく足元に射し込み、光を受けて飛ぶ塵が同じ方向へゆっくり流れていく。神聖かつ清廉(せいれん)なこの場所を演出していた。
雲ひとつない秋晴れのこの日、天候さえも二人を祝福しているようだった。百人程の華やかに正装したゲスト達はかたずを呑んで静寂を保ち、今かとばかりにその時を待ち望んでいた。
「綺麗だよ。おめでとう」
大きく頷きながら白いハンカチで目頭を押さえ、父は隣に並んだ。父もまた、いつもより紳士的で威厳がある。豪華な純白のウエディングドレスを身に絡(まと)った彼女はベールの下でにっこりと穏やかな微笑みを返し、教会の扉の前で父と腕を組む。足元に敷かれた白い布の先には今日から夫となる彼が十字架を見つめて待っていた。ドレスの裾を持つ二人の幼い姪達もまた、フリルのついた白いドレスを装い、妖精のように華やかな姿だ。二人はあどけない顔で見つめあって少し微笑んだ。
「ありがとうお父さん。私、幸せになるわ」
落ち着いた面持ちでドレスの裾を気にしながら彼女がそう告げ終わると同時に、パイプオルガンの演奏が清らかに響き渡り、教会の大きな扉がゆっくりと開かれた。彼女は一呼吸おいて、父と正面を向き、ゆっくりヴァージンロードを歩み始めた。


―三年前―

夏休み明けの教室の中は、うだるように暑く、残暑の湿気を帯びた生ぬるい風がじっとりと吹いてくる。教室内は生徒達の熱気のせいか廊下より何℃か暑く感じ、だらけた空気だ。皆、下敷きやら、うちわやらで上気した顔やシャツの中をあおぎながら昼休みの時間を過ごしていた。いつエアコンが入るのか。私立のくせにケチだな、など皆、口々にこの暑さに対する愚痴をこぼしていた。こんな中で勉強に集中しろと言われても無理な話だ。そんな中、理沙は教室の天井をぼんやりと見上げながら今朝、起きがけに読んできたマンガ『恋愛エトセトラ』のストーリーに想いをはせていた。
美紀(みき)が理沙の目の前で手を振る。
「ねえ、理沙は好きな人っていないの?」
同じクラスの美紀(みき)が理沙の顔を覗き込んで訊いてきた。先ほどまで母親に作ってもらった弁当の卵焼きをもてあまして箸でつついていた。暑さで食欲も失せているようだ。理沙は美紀の声で現実に引き戻された。
「え?あ、うーん。好きな人ねえ。“マーメイドクッキー”のCMの人かなぁ」
理沙は肩まで伸びた毛先をいじりながら、また思い浮かべるようにして教室の天井を見ている。
「ワッツ? マーメイドクッキーって、『きみも、僕の素敵なマーメイドにならないかい』っていいながらサクッと食べるアレのこと?」
「そうそう、『ならないかい』のとこで見せるあの上目づかいがステキ」
うっとり理沙は頬を緩めて空(くう)を見ながら改めてにやけた。
「コラッ。芸能人じゃないってば。理沙のまわりでよっ。ホントつまんないなぁ理沙は」
つまらない・・・なにもそんな切ない言い方しなくても
すぐに理沙は不服そうに口を尖らせる。

恋多き美紀は今の彼と付き合ってまだ一週間だが、今回もまたいつまで続くか理沙には大体予想がついていた。これまでにも付き合った人と一ヶ月続いたためしがない。原因はわかっている。美紀は男を見る目がないのだ。
恋愛は楽しい、素晴らしい。容姿のかわいい美紀はそう言いたいのだろう。美紀は見た目も目立ってキュートで華やかさがある。そんな華やかな美紀でさえ、入学して以来、男に泣かされる姿を何度も見てきた。そんなに苦しんでまでする恋愛に、価値などあるのだろうか。理沙には彼女があえて薦(すす)める恋愛というものが全く魅力的には思えなかった。
「まわりにね。いない・・・こともないかなあ」
理沙はクリームパンを齧(かじ)りながら意味ありげに美紀のほうをチラリと見て、ニヤニヤした。
「なになにっ?だれだれ?」
美紀は身を乗り出してくる。興味深そうなその目は子リスのように愛らしい。
「うっそピョーン。美紀のそのつぶらなヒトミが見たかったのだー」
理沙はおどけてそう言うと、目の前にある美紀の額を人差し指で軽く押した。
美紀は頬を膨らませて剥(むく)れた。そんな顔まで腹立たしい程、愛くるしい。
「もーお。ホントに夏休み明けてコイバナひとつもないの?いつまでエア彼氏とエア恋愛してるわけ。そんなことばっかりしてたら、そのままオバサンになっちゃうよ!」
美紀は真剣な顔で前にのめり出した。

「オバサンって。・・・わかりましたよ。私も美紀みたいに青春をさがせばいいんでしょ」
実際そんなことは微塵(みじん)も思ってはいなかったが、理沙はその場を取り繕うように笑った。
確かに恋愛経験は妄想のみだ。でも、理沙のエア彼氏の春(はる)馬(ま)クンは格好よくて、運動神経バツグンのテニス部で背が高くて、いつも理沙のことを心配してくれて、いつでも微笑(ほほえ)んで大好きだって言ってくれる。遊園地デートとか、花火も見たり、クリスマスも・・。そんなエア恋愛がすごく楽しいのに、それのどこがいけないっていうのだろうか。
いや、何となくこのままではいけないのは自分でもわかっているんだ。エア恋愛は結局のところ空想でしかない。春馬クンに実際会うことも触れることもできないのだ。
でも理沙にはその世界を飛び越える勇気などかけらもなかった。



理沙は埼玉県内にある私立共学、徳丸(とくまる)高校の二年生。全生徒二千人を超えるマンモス校だ。レベル的には高いほうとはいえないが、進学校としての実績もそこそこあり、スポーツ、芸術等の推薦で有名大学へ進学する生徒も少なくない。皆それぞれ部活、勉強、恋愛にと伸び伸びとした学校生活をエンジョイしている。このごろの理沙の周囲の恋愛模様といえば、「今○○くんからコクられた」とか、「あいつとは別れたよ」など具体的かつ、やや大人びた会話が多く飛び交っていた。『好き、嫌い』などと花びらをちぎり、朝の占いランキングを本気で信じていた中学時代とは違うのだ。
そんな中、理沙はといえば、愛読書の別冊ママレードで泣いたり笑ったり、擬似恋愛するのが楽しみという奥手の夢見る少女時代を過ごしていた。現実を知らない、いやそこまで知りたくないのだ。理沙は十分、別冊ママレードで満足していた。
マンガの中の男子は皆、勉強ができて、運動神経も良く、格好よくてその上性格もいい。押したり引いたりもうまい具合にしてくれる。そして何より現実と違うのは男臭いムダ毛や汗くささが全くないのだ。むしろ汗は爽やかさの象徴みたいなものである。
理沙のクラスには勿論男子もいたが、彼女の夢見る理想とは程遠く、皆さかりのついたゴリラの群れにしか見えない。
一年生の時に体育祭で踊らされた男女混合の合同ダンスの忌まわしい思い出を理沙は脳みそから追い出したかったが、いつも思い出してしまう。一緒に踊ったオタクっぽい男子の手の甲は指先まで毛むくじゃらで、掌(てのひら)には汗が滲(にじ)んでいた。理沙は彼と踊り終わった時はじめて自分の眉間に深く皺が寄っていたことに気がついた。奴と繋いだ手の感覚は忘れようにも一生忘れられないだろう。全身トリハダもんだった。それ以外、男子と手を繋いだことなどもちろんない。
理沙が恋愛に奥手なのは外観的要因だけではもちろんない。それは自分の容姿も含めて。自分は自信を持てる程見た目がいいとは思わない。歩いていてもいつも注目を集めるのは美紀のほうだ。自分はいつも引き立て役。主役になどなれない。美紀のようにナンパされたことも全くといっていい程ない。後ろからナンパされかけたこともあったが、振り返った理沙の顔をみて「すみません、人違いでした」と言われたこともあった。知ってる人に「ねえ、今ヒマ?」って言うのだろうか。
部活もせず、高校生活も二年目にさしかかっていた。クラスにいる子の半分は何らかの部活に属し、その残り半分は何かしらのアルバイトをしている。仲のいい美紀も帰宅部だったが、彼氏ができると理沙よりもデートを優先してしまうこともしばしば。さすがに理沙も「私とどっちが大事?」などと天秤にかけて美紀を困らせるようなことはできない。新しいスカートも欲しいし、漫画を買うお金はなかなか親にもねだりづらいものがあった。そんな中、アルバイトをしようかと考えたのは、ただ「何となく」だった。
暇を持て余すくらいならアルバイトでもしてみるか、動機はそんなところだ。一度思い立ったら、無性にバイトがしたくなってきたのだ。皆やっていることなのだから、簡単にできるだろう。そう楽観的に考えていた。だがしたい時にいつでもできるという程、バイトは甘いものでもなかった。


初めて面接したのはスーパーのレジの仕事だった。店長の男性は履歴書を開いて途方に暮れた顔をしていた。その理由を後で考えれば当然のことだが、その時の理沙にはそれがなぜなのかさっぱりわからなかった。
履歴書の書き方もよく知らなかったのだ。自分をどうアピールするかなど考えたこともなかったし、最初に書いた履歴書は学歴の部分以外、白紙に近かった。趣味もなければ、特技も資格もない。書くことがないのだ。しいて言えば漫画が好きなくらいだ。そんなことを書けばかえって逆効果なのも後(あと)から知った。
アルバイト未経験の理沙にとって履歴書と同じくらい大切な面接というのもまた理沙の頭を悩ませた。しゃべればしゃべる程、墓穴(ぼけつ)を掘る。しゃべらないと消極的な人間と判断される。一体なにが良しとされるのか全くもってわからなかった。
落ちた理由もわからないまま次から次へと求人のあるところへ面接を申し込んだ。スーパーの食品レジのあとにはラーメン屋、小物雑貨屋、パン屋、ケーキ屋、ファミレスなど受けた。ひどい時には午前と午後に面接を受けたこともあった。しかしことごとく落とされた。何がいけなかったのだろうか。そればかり考える日々が続く。しかしこうなったら意地でもアルバイトしたくなってきていた。根拠のない自信がふつと湧いてくる。「私はこんなとこで終わるキャラじゃない!」
正直もう家と学校との生活に何とかオサラバしたかったのだ。両親からは、何故そんなにまでしてアルバイトがしたいのかと度々(たびたび)聞かれたが、「とにかく社会勉強がしてみたい」の一点張りで通しつづけた。これが理沙にとって人生初、一生懸命頑張れたことかもしれない。
そしてやっとのことで夏休み中にダメ元で受けた時給八〇〇円のイタリアンレストランでのウエイトレスのバイトが決まった。

理沙は面接であれこれと聞かれている間、終始ニコニコしていた。今までの経験上、それが一番の近道のように思えたからだ。それが正解かどうかはわらない。とにかく返事はハキハキ、そしてニコニコ。そして余計なことは話さない。そうしているうちに面接は三十分程で終わり、その場で「来週から来てください」と言われた。
決まる時はこんなにもあっさりと・・・。それが受かってからの理沙の感想だった。



理沙の勤めるレストランは国道沿いにあり、イタリアの国旗が道路からも見える位置にはためいている。店は絵本に出てくるような赤レンガの平屋造りで、まわりには広葉樹が何本か植樹されてある。庭園部分にはガーデニングが施されており、一年中絶え間なく色とりどりの季節の花を咲かせている。夜には白単色のイルミネーションが輝き、国道に突然現れたイタリアの一軒家風の外観だ。
理沙はこの店の味も好きだったが、何よりもこのたたずまいはおとぎの国にいるようで大好きだった。店の入り口上部には木製の看板に緑色の文字で“MARIOLO(マリオーロ)”とかわいらしい字体で書いてある。それが店の名前だった。

面接の際、店長に言われたように裏口から鉄製の重い扉を押し開け、控え室に入ると、途端にガーリックやバジル、トマトやチーズの焼ける匂いなど、食欲をそそるいい香りが漂ってくる。
「んー、いいーにおい・・・」
理沙はそう言って思わず深呼吸した。大きく吸って吐こうとした瞬間、控え室のドアが勢いよく開き、理沙は思いっきり何かの塊(かたまり)に突き飛ばされた。うつ伏せで大の字の状態で顔が地面についた。鼻がイタイ。一瞬何が起きたのかわからない。
「ああ、ごめん。だいじょぶ?」
転んで四つんばいになった理沙の前にスラリとした大きな手が差し伸べられた。
理沙は老婆のようにうめきながらその手を両手で掴み、立ち上がった。
「あいたた・・・」
痛さに顔を歪め、鼻と腰を交互にさすりながら相手を見た。理沙はどっきりした。
(かっこいい・・・)

相手の男性は長身で涼しげな瞳の青年だった。既にフロアに出られるように腰から焦げ茶色のカフェエプロンをしてベージュの襟なしコックシャツに、エプロンと同色のコックタイを付けている。理沙が見上げると、サラサラの薄茶色い髪が蛍光灯に透けていた。
「わわわっ」
理沙は慌てて掴んでいた彼の手を、汚いものでも振り払うかのように離した。顔は真っ赤になっている。
だ、男子。男子に手を握られた・・・
イケメン男子という未確認生物との接触は、全身が心臓になったような感覚を覚えさせた。
「なんだよ・・・婆(ばあ)さんみてえだな」
青年は府におちない顔で理沙を見ると、不思議そうな表情をこちらに向けた。
「あんた、なに。誰かに用?」
何にドキドキしているかわからなかったが、とにかく理沙の鼓動は早くなり、言葉が出てこない。
「・・・・」
こういう出会い、マンガで見たことある
理沙は俯(うつむ)きつつも、短時間で妄想に想いをめぐらせ、心の中ですこしにやけた。
そんな理沙をみて青年は怪訝(けげん)な顔をした。一度首を傾げると、理沙の目の前で手をゆっくりと振り、
「もしもーし、あ、な、た、は、ダレデスカ?フー、アー、ユー?」
外人みたいな口調で訊いてきた。理沙を外国人とでも思ったのだろうか。
な、なんなのこの人・・・
理沙は険しい顔になった。
直後に、店長が控え室の店側のドアを開けて勢いよく入って来た。そして、二人を見るなり、客席の方向を親指で後ろを指しながら怒声を上げた。
「おらあ!店忙しいんだからっ、はよせえ!フロア、フロア!」
「あーい」
やる気のない返事で髪型を整えながら青年は答えている。
あれ、店長だよね。な、なんか面接の時と雰囲気違う・・・
店長の三日月のような目は逆さになって、一転、鬼瓦(おにがわら)のような形相(ぎょうそう)だ。
理沙はあっけにとられたが、我に返り、
「あ、あの、今日からよろしくお願いしますっ」
店長と青年に向けて思いっきり頭を一回ずつ下げて、挨拶した。
店長はハッとしたような表情で穏やかな顔つきに豹変させる。
「ああ、ごめんごめん。キミね。そうだ今日からだった。皆に言うの忘れてた。よろしくねん。ええと、亮くん紹介しとく。こちらは若林(わかばやし)理沙(りさ)さん、高校二年生。今日からフロアやってもらうから」
手を理沙の肩にポンと置いて青年に理沙を紹介した。
「それで、このカッコいい彼は菅谷(すがや) 亮(りょう)くん、大学四年生。仕事はできるし、女性客には人気あるし、まあうちのナンバーワンだね」
店長はもう片方の手を自分より背の高い亮の背中に添えて、三日月の目をにっこりさせて理沙に紹介した。
「店長、あのさ、俺のことホストみたいに言わないでくれよ」
亮はムッとしたような目つきで理沙とは別の方向を見ながら前髪を直している。
「あの、よ、よろしくお願いいたしますっ」
理沙はもう一度頭を深く下げた。
「はいはいはい、よろしくよろしく、とにかくそこに置いてある服に着替えて、前に出て、出て」
店長は苛立ちを抑えたような言い方で忙しそうに促した。
亮は理沙の横を慣れた足取りで通り過ぎながら、涼やかな目をこちらに向けて冷たく理沙に言い放った。
「なんだ。あんた日本人なのか。中国人かと思った。店長が前に言ってた新人ね。ま、確かにイタリアンに中国人はないか。どうでもいいけど、俺の足だけはひっぱんなよ」
そしてドアの前に置いてあるアルコール除菌をして手をもみ合わせながらフロアに早足で出ていった。
残された理沙はあっけにとられたが、そのあと苦々しく唇を噛んだ。

ううー、ぶつかってきたあの感じの悪い奴!見かけだけで中身はマンガの男子達とは比べ物にならないわ!
更衣室で着替えながら理沙はそう思っていたが、今日はとにかく覚えることに徹しようとすぐに気持ちを切り替えた。やっと決まったはじめてのアルバイトなのだから、どんなことも我慢しなくては。ここに来る前からそう自分に言い聞かせている。



着替えが終わり、アルコール除菌をしてフロアに出て店内を見渡した。まるで舞台のような明るさだ。慌ただしいキッチンの掛け声や、客達のガヤガヤした声と食器の重なり合う音で店内は賑わっている。満席だった。理沙はそれを見たとたん、圧倒されて一歩下がり、マネキンのように固まっていた。それを見た店長が忙しそうに競歩のような足取りで駆け寄って来る。
「ええとね、キミは、今日バッシングと、客席番号を覚えてくれればいいから」
店長は説明を指折りしながらさらっと言う。
「バッシング・・・?、客席、ですか?」
理沙は不安げな顔をして答えた。店長の言葉の意味がよく理解できない。
「そう、バッシングは食事の途中に使っていない食器を下げたり、食事が済んで帰った客席を片付けたり、ま、そういうこと。ああ、下げてきた食器やなんかはあっちへ出してね」
客席から見えない、片付けられた食器が山積みになっているキッチンカウンターへ理沙を連れて来ると、客がいる方向を指差して説明した。
「客席は各席に一卓、二卓という風に番号がついているから、それを覚えて欲しい。全部で二三卓あります。客席番号は各テーブルのふちに書かれてあるから、それ見て覚えて。わかるね」
早口でそう言いながらお盆とダスターを渡すと、店長は三日月の微笑みを理沙に向けた。
無理につくっているようなその微笑みは威圧感すら感じられる。
「は、はいっ!」
理沙は緊張して気を付けの状態でお盆とダスターを右の脇の下に挟んで、兵隊のように返事をした。
その後、お盆はどうやって持つのだろうかとしげしげ見つめていると、店長は忙しそうに一言付け加えた。
「ま、そのうち慣れるから、わからないことは俺か、亮(りょう)に訊いて。あと、フロアにもう一人、中山(なかやま)って男の子がいるけど、彼もまだ新人だから。とにかくなんでも経験すればすぐ覚えるから、自分から進んでやってみて」
進んでやる。理沙が一番苦手とすることだ。
「はあ」
理沙は顔を上げたが、そこに居たはずの店長はもう目の前から消えていた。
慌てて店長の姿を探すと、もう客に捕まって笑顔でオーダーを受けている。
亮って、さっきの感じの悪い人でしょ。いじわるそうな感じするし、聞きたくないなあ。
店長がいる少し先に目をやると、料理を運びながら、よその客からオーダーで引き止められている亮の姿があった。亮はすぐに立ち止まる。
「申し訳ございません。少々お待ちくださいませ。只今、ご注文お伺い致します」
オーダーを待つ客に亮がニコリと笑みを向けながら言うと、その女性客はうっとりした表情で、大人しく亮が来るのを待っている。明らかに先程、理沙に向けた表情とは正反対の笑顔で、亮は完璧な接客をしていた。
フロアは全員で四名、店長、亮、あと一人ひょろりとした黒縁(くろぶち)メガネを掛けたビデオ屋の店員みたいな中山と理沙である。キッチンはメインシェフ、ピザ職人、ドルチェ職人、皿洗いの四名がフル稼働している。
料理が出来上がると、“チン”というプッシュ式呼び鈴の音が鳴り、フロアのスタッフを呼ぶ。
「ホタテとカラスミのパスタ、プレーゴ!」
料理名とともに、キッチンからカウンターに料理が出される。すぐに手が空いているフロアの誰かが必ず「ベーネ!」と言いながら料理を早足で取りに行く。料理の提供が少しでも遅れてはいけない。まさに時間との勝負だ。
理沙には暗号のように飛び交うこのイタリア語らしき言葉の意味が全く分からず、焦りを覚えた。一歩足が前に出ない。その場に棒立ちのまま、ふと店長と目が合った。
店長の表情は接客しながら鬼瓦になってこちらを見ている。
ハッとして、理沙はすぐにフロアに出た。ビビッている場合ではなかった。
今日は初日、しっかりしなくては。
とりあえず、帰った客のテーブルから片付けることにしようと、人の居ない客席を片付けていた。
残った残飯を全て一つの皿にまとめてお盆にのせ、テーブルを拭こうとしたその時だった。
「あれ?これって」
お盆の下に客の伝票が、茶色い皮製バインダーに挟まって伏せてある。
気がついたのと同時に化粧室で長いこと待たされ、用を済ませて女性客が二人戻ってきた。二人は自分達がいた席の前で固まった。客は立ったまま、怒って叫んだ。
「ええっ?なにこれ、全部片付けられちゃったわけ!ちょっとぉ」
理沙はどうしていいかわからず、後ずさりした。その後はっとしてとにかく頭を深く下げた。
「もっ、申し訳ありませんっ」
目の前の客二人は顔を見合わせた。
「申し訳ありませんってね、まだあたしたち食べてる途中だったのよ!どうゆうわけ?なんなのよ、ココはっ!」
怒った客の声が店中に響き、他の客のほとんどがこちらを振り返った。




「先程は本当にすいませんでしたっ!」
午後十時あがりの理沙は、遅番と交代で控え室に入って行った亮に深々と頭を下げた。
亮は面倒臭そうな顔で立ったまま理沙の頭を見下ろしている。
「いいよ。別に」
亮はコックタイを外しながらそう言った。一瞬優しい言葉をかけられることを期待して、理沙は顔を上げた。
「ありがとうございます」
亮は鼻で笑った。
「いいよ。もともと期待なんかしてないからさ」
胸ボタンを慣れた手つきで二つ開けながら、亮は椅子にドカッと座った。
「え?」
理沙は聞き間違えかと思い、亮に聞き返した。
「だから、期待してないから気にすんなっつってんの」
理沙は耳を疑った。
「なっ」
“なんなのあんたは”と言ってやりたかったが、理沙の方が立場が悪いのは明らかだ。
けだるそうに溜息をつくと亮は口を開いた。
「だけどさ、俺の足、ひっぱんなって言っただろ。もっとまわり見ろよ。あとさ、テーブル拭く時に客席に座るのだけはやめてくれる?あそこはあんたの座る席じゃないんだからさ」
理沙は亮の言葉に絶句した。温かい言葉のかけらもない。しかし、言われるとおり確かに椅子に座りながらテーブルを拭く店員なんて今まで見たことがなかった。



亮は接客をしながら理沙が客に怒鳴られている姿に目を走らせていた。
理沙はどうすることもできないまま、真っ赤な顔をして床だけを見つめて黙っていた。
少し眉をひそめてから亮は「少々お待ち下さい」と自分が応対していた客に顔を向け、にこやかに言った。そしてすぐさま理沙のところへ飛んできた。やはり思った通りの展開だ。
棒立ちになっている理沙の横で亮はその場に片足をひざまづいて客に頭をこれ以上ないくらいに深く下げた。
「大変失礼致しました。すぐにまた料理のご用意を致しますので、しばらくお待ちいただけませんでしょうか。追加の分は当店のサービスとさせていただきますので、またお好きな料理をお選び下さい」
精一杯、誠実さをこめた表情だった。 理沙はショックを受けた。ここまでするのかと。
客達は「どうするぅ」などと言いながら顔を見合わせている。
しばらくしてから文句を言った方の客が口を開いた。
「し、かたないわね。じゃあ、メニュー下さい」
客は少々不満げだったが、他の客の手前、これ以上騒ぐわけにもいかなかったのか、片付けられた席にムッツリと座った。半分以上たいらげてあったのだ。心の底ではにやけていたに違いない。大袈裟にみえる程の亮の立ち振る舞いにより、客達の怒りは不思議なくらい早くおさまっていた。理沙は立ったまま何も出来なかった。
亮は立ちあがると、大きな手を理沙の頭に被(かぶ)せ、押さえ込むようにして自分と一緒に頭を下げさせた。
「ほんとうに、申し訳ありませんでした!」
亮はギロリと理沙をにらみ据(す)え、肘(ひじ)で促した。
「すぐメニューをお持ち致します」
理沙がはっとして慌ててメニューを取りに行ったのを確認すると、「お待たせしまして申し訳ありませんでした」とにこやかに言いながら先ほど応対していた客席へと戻っていった。店の雰囲気は何事もなかったように元に戻り、またガヤガヤしはじめている。

店長はキッチンカウンターから一部始終を見ていたが、ふうっと大きな溜息をつくと、またにこやかに料理を運び始めた。新人のミスは付きものだ。いちいちそれに目くじらを立てていてはいけない。店長は絶大な信頼のおける亮の対応に心底感謝していた。
もう一人、フロアにいた中山はぼんやり客と理沙たちのやりとりを見ていたが、解決すると、うつむいて舌打ちをした。




理沙は謝(あやま)ったまま、悔しさと恥ずかしさで手を握りこぶしにしたまま亮の前で俯(うつむ)いていた。確かに自分は悪かったけれどこれほどまでにバカにされたことなどない。しかも目の前で。
次の瞬間、二人の暗い空気をかき消す陽気な声で店長が控え室に入って来た。
「おーつかれーい!・・・あれ?」
理沙と亮の険悪なムードを察知して、店長はわざとらしく明るく理沙に話しかけてくる。
「わっかばやしちゃーん!今日、初日、どうだった?疲れたんじゃない?」
目は気味悪いくらいに笑っていてかえって怖い。
「いいえ。今日は・・本当に申し訳ありませんでした」
理沙はまた店長に向かってすまなそうに頭を下げた。顔を上げた時には目が潤んでいた。
「大丈夫、大丈夫。いや、あれは亮がちゃんと対応してくれたからさ。亮に感謝しなさいよ。それに、あの後は頑張ってくれてたじゃないか。ま、何事も経験だからさ。な、亮」
店長は亮の方を向いてそう言った。
亮は座ったまま控え室のテーブルに片手で頬杖をついて別の方向を見てコーヒーを飲んだまま小さな唸(うな)り声を漏らしただけだった。
それにしても絵になる程、亮は容姿が整っている。色白で顔立ちはキリリとして美しいのに、どこか男らしい。スラリとした大きく綺麗な手も魅力的だ。皆が同じユニフォームを着ているのに亮だけ違うものを着ているように見えてしまう。この手で料理を運ばれたら、女性客が亮を目当てにリピーターになるのもわかる。

「ああ、あと、亮コレ、いつものメシね」
店長はそう言うと、銀紙に包まれた物を亮の前にドサッと置いた。
「あーい。ありがとうございます」
亮は軽く会釈した。どうやら店の残りもののようだ。
「ああ、あと若林さんね、帰る時にタイムカード押して行ってね。出社と退社間違えないようにね。今日出社の分は俺が書いといたから」
「あ、はい。・・わかりました」
意気消沈した面持ちで理沙は更衣室に入ると、空気が抜けた風船のようにうな垂れた。自分の気持ちはよそに、店内で流れているボサノバが耳に入ってくる。それはまるで理沙に起きたことが他人事だとでも言うようにゆったりとしていた。
もう辞めちゃいたいな。私には向いてないのかも
理沙は心からそう思った。今日の出来事で理沙の不安は来る前よりとてつもなく大きく膨れ上がっていた。想像では、もっと楽しくて、仲間の人もいい人ばかりで和気あいあいだと決め付けていたのだ。こんなに陰険(いんけん)な奴がまさかいるとは予想できなかった。亮は威圧的で、冷たく、理沙をげんなりへこませていた。
「あの。それじゃあ、お先に失礼します」
タイムカードを押した。そして俯(うつむ)いたまま、理沙は控え室を出ていった。



店から自宅までの帰り道は十五分自転車をこがなければならない。身も心も疲れ果てた理沙にとって、秋の夜の心地よい風は唯一心を和ませてくれた。キンモクセイの香りがどこからともなく清清(すがすが)しく漂ってきた。この時期の独特な空気感を漂わせる。雲のない空でもうすぐ満月になりかけた月が住宅街を煌々(こうこう)と照らしていた。
『もともと期待なんかしてないからさ』
亮に言われた心ない言葉が頭から離れない。
いくらなんでもあんな言い方ないよ
理沙は自分に能力がないことを突きつけられた思いがして、悔しさのあまり涙が溢(あふ)れていた。仕事が終わって気が緩んだせいもあった。怒った客の顔と冷たい亮の顔が交互に頭をよぎる。初日に思うように動けないことは仕方がないことは分かっていた。しかし、経験のない理沙にとって期待が大きかった分、落胆も大きかった。
幸い人通りも少なく、夜だから恥ずかしげもなく理沙は思うままに泣いた。
しばらく声を殺して泣きながら自転車を漕いでいると、背後から自転車を漕ぐ音がずっとついてきていることに気がついた。理沙から一定の距離を保っている。周囲には他に誰もいない。

なにっ?痴漢?どうしよう!

斜め後ろを少し振り返ると、大柄の男が間違いなく理沙の後ろに自転車をぴったりとつけてきている。薄暗くて顔がよく見えない。
理沙は怖くなって、自転車のスピードを上げた。すると後ろからくる男は“チッ”と舌打ちをしてスピードを上げてきた。

いま、舌打ち、したよね?やだ怖い、このまま、襲われる!

理沙はがむしゃらに自転車を漕いだ。もう、これ以上出ない位のスピードだった。しかし後ろの男はもっとスピードを上げて、ハアハア言いながら、理沙を追いかけ始めた。
男の自転車が理沙の横に並んだ瞬間、
「おい!」
男が叫んだ。
「イヤッ!いやー!だ、だれかー!」
理沙は男の恐怖に怯えて下を見て自転車をひたすら漕いでいた。
「おい、待てって!俺だよ!・・・こっち、見ろよ!」
男の声は先程頭から離れなかった声とダブる。どこかで聞いたような・・。
理沙は自転車を急停止させた。全力でチャリンコを漕いだせいで肩が上下するほどゼイゼイしていた。
男も隣で自転車を停めた。
「ハア、ハア・・ハア、あんた・・ハア・・・アホなくらいのスピードだなあ。競輪選手か」
息をきらせて理沙を追いかけてきた男は亮だった。理沙は恐怖の面持ちで亮を見やった。コイツ、ストーカーかもしれない。
「ハア、ハア・・な、なんですか?私の後を後をつけてきたんですか?」
亮は呆れ顔になった。
「はあ?俺があんたをつけまわして、何の得があるんだよ?アホか」
エプロンとタイはしていなかったが、仕事着をそのまま着ている。
「じゃあ、何で追っかけて声かけてきたんですか?おかしいじゃないですか!」
「・・別に。店長が」
「へ?」
「店長が、若林さん、女子高生なのに一人じゃ危ないから亮、お前、見届けてこいってそう言ったんだよ。あんたが突然スピード出し始めるから、事故るんじゃないかと思って俺も追いつこうと漕いでたんだけどさ、ビックリだよ。チャリ漕ぐの早すぎねえ?もしかして、巻こうとしてたわけ?」
理沙はきまり悪そうに答えた。
「はい。あの、痴漢か殺人鬼だと思いまして・・・」
あきれ果てて深く溜息をつくと亮は額に手を当て、
「冗談じゃねえよ。 くそっ。すんげえ疲れた。今ので仕事の倍疲れた」
低い口調で言い放った。しかし、その後、沈黙を破って「プーッ」っといきなり亮は吹き出して笑い始めた。
「な、なにがおかしいんですか」
理沙はふくれっつらで亮を見た。
「あんたさ、バカみたくチャリンコ早いよね。マンガで言えばさ、漕いでる足がグルグルになってる感じ。・・フッ」
また思い出し笑いをしているようだ。でもマンガ好きな理沙にとってはその様子が何となく分かってしまう。
「ばっ、バカにしてるんですかっ?送ってくれるつもりなら、最初から話しかけてくれれば良かったじゃないですか」
理沙はムッとして亮を睨んだ。
「いや、だって、あんた・・泣いてるみたいだったから・・・」
そうだった。理沙は泣いていたことを忘れていた。
その原因はあんたですけどねっ!
「別に泣いてなんかいません。風に当たると目から汁が出てくるんです」
「しる?・・・それを涙っていうんじゃないの?ま、いいけどさ、とりあえず店長命令だから家の近くまで送るから。家こっち?」
前の方を指さしながらそう言うと、亮は赤いマウンテンバイクを漕ぎ始めた。理沙は不服だったが、仕方なく「はい」と言って亮の後ろからついて行った。
しばらく、気まずい沈黙が続いた。耐え切れなくなって、理沙が口を開く。
「す、菅谷さんはこのお仕事何年くらいなんですか?」
理沙は慣れない口調で尋ねた。
「俺?二年だけど、何で?」
「いえ、随分、おできになるので」
自分でも変な言い方だと思いながら理沙は答えた。
「おでき?仕事が? 変な日本語だなあ。あんたホントに日本人か?」
「にっ!あの、れっきとした日本人です」
お父さんと先生以外、男子と会話したことがないという経験不足も手伝ってか、どうしてもいちいち亮の言うことにムキになってしまう。ここは落ち着け、落ち着け。

自転車を走らせながら風を切る亮の横顔は月に洗われ、実に美しく魅力的だった。理沙は一瞬見とれた。
亮はこちらを見てくる理沙を妙に思って眉をひそめた。
「なんだよ」
「あ、いえ。えっと、あの、だ、大学ってどうですか?」
「どうって、何が?」
「いえ、楽しいとか、面白いとか、いろいろ。私、進学もどうしようかと思ってるので」
「ああ。金は結構かかるよ」
「おかね・・ですか?」
「そう、入学してから、卒業するまでに何百万とかかるだろうな」
「ええ?そんなにですか!」
「進学するなら、そこんとこ親と相談したほうがいいかもな。私立と国立でもだいぶ違うしさ。俺は国立だから、まあまだ安いほうだと思うけどね」

ふうん。結構まともなアドバイスくれるじゃん。格好よく見えてきちゃったゾ

理沙は何度か頷(うなず)きながらそんなことを思っていた。亮のアドバイスなどほとんど耳に入ってこない。
「あのお」
「ん?」
「色々、仕事のこととか、教えて下さい。私、まだわからないことだらけなんで」
理沙が精一杯ひねりだした言葉でそう言うと、亮はあからさまに煩(わずら)わしそうに表情を変えてこちらを向いた。会話ごとに自転車のスピードもゆっくりになっている。
「教える?まあ、それもいいよ。けどとにかく何でも人に訊こうとしないで、少しでも盗(ぬす)む努力しなよ。真似でもなんでもいいからさ。俺とか店長の動き見て、どうしてるとか、なにをすればいいのかとか」
「ぬすむ?」
理沙にはその意味がしっくりこない。
「そう。教えてもらうのは、自分が本当にわからない時だな。基本的には、人の動き見て、それを真似したり、必要だと思うことはメモっておいたりすることが大切だね。ああ、明日メモ持ってこいよ。それから、お客が何を求めているかって考えるのも大事。俺らだって忙しいんだからさ、そうそうあんたにかまってばっかりもいられないんだよね。まあ、まだ高校生だし、そんなに期待もしてないけどさ」
またそれを言った!偉そうに・・・。あんたに言われる筋合いないわよ!
理沙はムッとしてゆっくりと自転車を停めた。比較的、人通りの多い信号のある交差点で、会社帰りのサラリーマンやOLが信号待ちをしている。国道沿いということもあり、ここでは夜も明るかった。
「あの、家はもう近くなので、ここまでで結構です。色々とありがとうございました」
理沙はもうこれ以上、亮と話をしたくなかった。
「あ、そ。じゃあ、お疲れ」
そう言うと、亮はさっさと自転車を逆方向へ向けて行ってしまった。
なんなのアイツは。どんだけ上からもの言うのよっ!
そう遠くない家に向かって怒りにまかせながらペダルを思いっきり踏んで、理沙は一度泣いた自分を後悔していた。


理沙の家では父と母が玄関で気を揉んで待っていた。
「ただいまあ」
理沙はふてくされた顔で玄関のドアを開けた。あからさまに感情が顔に出てしまう。
母親の真砂子(まさこ)は祈るように両手を胸の前で合わせ、不安げな表情をしている。
「ああ!もう遅かったわねー。大丈夫だった?怖い思いしなかった?」
隣にいる父の信夫(のぶお)も同じような顔をしていた。
仏頂面(ぶっちょうづら)の理沙は小声で呟いた。
「怖い思いはしなかったけど、嫌な思いはした」
信夫が自分に言い聞かせるように何度も頷いて言った。
「やっぱり。今度はお父さんが迎えに行くから。いや、もうアルバイトなんてやっぱりよしなさい。お父さんが必要な分だけお小遣いあげるから」
信夫が話しているのを制して理沙はまくし立てた。
「別に大丈夫だよ。お父さんもお母さんも大袈裟なんだよ」
信夫は気がきでない様子で理沙に言い募った。
「大袈裟なことがあるか。女子高生がこんな遅くに一人で・・」
理沙は信夫の目をしっかりと見て言い切る。
「お小遣いの問題じゃないの。これは私の社会勉強なんだから。それにお店の人が気を遣って家の近くまでついてきてくれてるから、大丈夫よ」
“送ってもらうのは今日だけですけどね”理沙は心の中でそう付け加えた。
顔を見合わせると両親は不安そうな顔で理沙を見た。これ以上、言っても聞かないか。両親ともそう思っているように言葉を詰まらせた。
「あんまり私を過保護にしないでよ。心配ならお店に食べにくれば?じゃあ私お風呂に入るから」
そういい捨てると、靴も揃えず、逃げるようにして二階の自分の部屋へ上がって行った。
親もいちいちうるさいな。あれこれ口出ししてきて面倒くさいのよね
一応親には気を遣ってそのような言葉は出さないが、最近の理沙は親がうっとおしくて仕方がない。家にいるとまるでロールプレイングゲームの仲間のごとくついて歩いてくるのだ。あれこれ口出しされるのにもうんざりしていた。家に居たくない。それもアルバイトをしようと思った理由のひとつでもあった。
それにしても、ああ言ってしまった手前、辛(つら)くてもそう簡単に辞めるわけにもいかなくなってしまった。いつでも辞めてやる!そんな気構えだったのに。
理沙はベッドにあお向けになり、天井に貼ってある『僕はここに居るよ』というアニメのポスターを苦々しく見ていた。

理沙の家は住宅街にある一軒家で、三人家族なのに五LDKだった。父は大手通信機器の営業部長で、お腹の出っ張りが気になる典型的な四十代後半の中年オジサンだ。理沙が知る限り、悩みとは無縁のような人だ。温和で、毎日が楽しそう。理沙を注意することはあっても怒られたことは一度もない。父、信夫の収入は一般家庭の平均よりも高く、毎年何度か家族旅行へ行ける余裕もある。比較的裕福な家庭だ。母、真砂子は同じ会社で勤めていた信夫に見初められて結婚し、以来専業主婦を貫いている。というよりも、夫の収入で十分余裕のある生活ができる為、働く必要もないのだ。毎日、絵画やヨガ教室など、習い事に忙しくしている。体型は父同様、ふくよかな中年オバサンだ。理沙は大人になっても母のような体型にだけはなりたくないと心底思っていた。
とにかく、そんな両親にアマアマに育てられた理沙はいちいち干渉してくる親のことを高校生になってから一段と面倒くさいと思いはじめていた。



亮は帰宅すると玄関のドアを閉めた。借家は築三十年で見た目も古く、扉は薄い。ドアノブは今にも取れそうだ。玄関から吹き込む秋風は今年の冬の寒さを予感させた。
母親が奥の部屋から覗きこみ、亮の姿を認めると、にっこり微笑んだ。亮の顔もほころぶ。
「おかえり。今日は少し遅かったんじゃない?」
母は内職の手を止めて凝った自分の肩を叩き、亮を座ったまま見上げて言った。
「ああ。なんか新人で変なのが入ってきてさ、あぶねーから家の近くまで送ってきた」
コックシャツを脱いで洗濯機に突っ込み、Tシャツ一枚になった亮は母の横に座った。
「ははあ。さては新人とやらは女の子なのね?」
母はにやけた顔で亮を伺い見た。母は四十代後半だったが、痩せ型できりりとした目は亮とそっくりだ。着ている服は地味だが、色白で控えめな美しさを兼ね備えている。
「なんだよ。別に俺は」
「いいの、いいのよ。なんでもないんでしょ。わかってるけど、亮、そんなにアルバイトばかり頑張って、大丈夫なの?他の人達みたいに、彼女つくったり、遊びに行ったりしていいのよ?もっと大学生らしく・・・」
「興味ないよ」
「え?」
亮は溜息をついた。
「彼女とか、サークルとか、友達と遊びまわったりとかさ、そういうのは俺が今したいことじゃないし」
母は寂しそうな顔を亮に向けた。しかしそれは安堵したようにも見える。
「そう。それが本音ならいいけど、うちのことを考えてそうしてるなら、大丈夫なのよ?」
亮は母の方を見ずに持っていたビニール袋の中身を確認した。
「お袋は考えすぎだよ。俺は好きでやってんだからさ。それより、これ、いつもの」
亮は銀紙に包まれた店でもらった物をテーブルの上に置いた。料理のロスや賄(まかな)いの余りをいつも店からもらって帰っているのだ。
「あら、ありがとう。いつも助かるわ。店長さんにもよろしく伝えてね」
母はすまなそうに言い、立ち上がるとそれを冷蔵庫にしまった。



次の日、前日より少し早く私服で店に行くと既に店の裏には亮の赤いマウンテンバイクが停めてあった。理沙はそれが視界に入った瞬間、ここに来るまで上げてきたテンションが一気に下がり、気持ちが萎(な)えた。
「・・おはようございます」
不安げな表情でゆっくり裏口の扉を開きながら、理沙が入ると、亮が椅子にもたれ足を組み、新聞を見たままの状態で表情を変えずに答えた。
「おはよう」
昨日と同様にいつでも店に出られる格好をしている。
店で一番に挨拶するときは、朝でも晩でも「おはようございます」だと決められている。業界用語みたいなものだ。
理沙は無言のまま、自分のロッカーからユニフォームを出すと更衣室に入って行った。着変えはじめると、にわかに亮の声がした。
「着替えたら、ちょっと、俺のとこへ来てくれる?」
― わ、わたしにいってんのかな ―
理沙が黙っていると、再び亮がいった。
「若林さんだっけ。聞こえてる?着替えたら、俺んとこ来て」
穏やかな口調だった。
「あ、はい。わかりました」
慌てて理沙は答え、急いで着替えはじめた。

「なんでしょうか」
支度が終わると、理沙は座っている亮の前に立った。亮は目の前に来た理沙をチラリと見ると座ったまま、事務的に口を開いた。
「皆が使ってる掛け声なんだけど、意味は知らないよね?」
「あ、はい。全く」
「それだけ最初に教えとくから。メモって」
「え?あ、はい。メモ、メモ・・・えっと」
理沙はメモをウロウロ探した。いや、正確には探すふりをした。昨日言われたばかりだったにもかかわらず、メモ帳のことなどすっかり忘れてしまっていたのだ。
「まさか、メモ帳持って来てないわけじゃないよね?忘れてたなんて言わせねーよ」
亮はまなじりを吊り上げ、刺すような目で理沙を睨(にら)む。
理沙はゴクリと唾を飲み込んだ。
「すみません。あのう、そのまさかです」
理沙は緊張で心臓がバクバクしていた。
ホットケ、ホトケのホットケーキ。ホットケ、ホトケの・・・

亮の前にたちすくんだまま、あまりの怖さにアレを唱えていた。マンガでイケメンの優しい男の子が励ます時に言っていた呪文だ。マンガではそれを言われると思わず顔がほころんでしまうのだが、今はそんな状況ではなかった。
何か怖いものに直面した時“ナンマイダブ、ナンマイダブ”を繰り返すのと同じような心境と言えばわかってもらえるだろうか。

「あんた、なかなか面白い奴だな」
理沙の頭の中を知らない亮は何を思ったのか、お日様のような作り笑顔を見せた。あまりにも優しく、爽やかな笑顔だった。先ほどまで恐れおののいていた理沙は、それが偽りの笑顔とも知らずに釣られてホッとしながらほほえみ返した。
その理沙の表情にカチンときたのか、亮は理沙の笑顔を跳ね返すように豹変した。
「笑い事じゃねえだろ! あんた、やる気あんのか!昨日のことが全く懲りてない様子だな」
座って組んだ足をくみ替えながら、前かがみになった。

やっぱり怒られた・・・。ああ、ここに来る前にタイムスリップしたい。いや、どうせなら昨日の失敗の前に・・・、いやいや、ここの面接に来る前のあたしに一言・・・。

『まって!理沙、そのイタリアンの面接だけはダメよっ!一生後悔することになるわ!』
『どうしたっていうの?未来の理沙。一体何があったっていうの?』
『それがね、聞いてよ、過去の理沙。かくかくしかじか・・・』

「おい!聞いてんのか?なにボーっとしてんだよ?」

あまりの恐ろしさに理沙が妄想モードに入り、気がつくと亮は言うが早いか立ち上がっていた。長身の亮は明らかな威圧感があり、理沙は恐れおののいてフラフラ後ずさる。

「ご、ごめんなさい」
「あんた言ったよな?『仕事の事とか、教えて下さい』って昨日」
「はい・・・。あの、色々と教えて下さい、と」
亮は鼻でわらった
「ああ。それは覚えてんだ。なのにメモ忘れたってのは、本気で教わる気がないんじゃねえの?」
理沙は両手を広げて亮をなだめるように言った。
「い、いえ。そんなことは」
理沙は怯えた犬のような目で亮を見つめた。亮は額に手を当てて吐息をついた。
「はぁ。・・・まあいいです。次回からは必ず(・・)メモをお持ち下さい」
何故か、亮は急に丁寧な言い方になった。またそれが理沙には突き放されたようでまた怖い。歩きながら亮は続けた。
「では、本日メモをお持ちではないので、アタマ(・・・)で、一回しか言いませんので、今日必ず覚えていって下さいね」
亮は冷ややかな表情で、眉間にしわを寄せて理沙を見下ろしていた。
「はっ、はいー!」
理沙は思わず姿勢を正して敬礼していた。



「グラッ・・チェー・・・」
理沙が勇気を出して言った言葉がそれだった。しかし、それはもはや自分にしか聞こえていないような蚊が鳴く程の小さな声だった。
「グラッチェー!」
店長が店全体に響き渡るような声で隣に来てそう言った。
「若林さん、これくらいの声出さないと。あと、挨拶はいったんお客様の前で止まってからしてもらわないと。歩きながらなんてダメ。これ基本中の基本ね」
早口でそう告げ、ありがとうございます、と言いながら、食事を済ませた客を手馴れた様子でレジへ促して行く。
手が空いていた理沙は店長のレジ精算をしげしげと見ていた。
つり銭をお客に返しながら、
「本日のお味はいかがでしたでしょうか」と店長は三日月の笑顔で尋ねている。
「ええ、とっても美味しかったですよ」
会計を済ませた四十代くらいの女性客は明るい表情でそう言った。
「それは良かったです。ありがとうございます。またのご来店をお待ちしております」
「ごちそうさまでしたー」
客はそう告げ、ああ、おいしかった、などど言いながら店を後にした。それを見ていた理沙が店長に小走りで寄って行った。
「あの、店長」
「ん?」
「なんで、最後に味のことをきくんですか?」
「ああ、お客様にか?」
「はい」
「そりゃ、おいしかったと言わせる為だよ。『おいしかった』と自分の口から言えば、言わないより、もっと美味しく感じてより満足する。それとは別に、本当に口に合わなかった人の意見も聞けるし、それも重要だからね。お客さまはね、たとえ美味かったとしてもまずかったとしてもあえて店に言う人は殆(ほとん)どいないんだよ。君もそうだろう?うまけりゃ又来る。まずけりゃ二度と来ない。それだけだよ。だからお帰りの際にはできるだけ訊くようにしてるんだ」
理沙は納得の表情で頷いた。
「なるほどー。結構深いんですね」
「まあね、若林さんもレジに入るようになったらそうしてみてねん」
理沙は感心したように黙って何度も頷いた。
店長はにこりと微笑んだ顔を、思い出したかのように急に真顔にして、
「それはそうと、こんなとこで油売ってないで、手が空いてたらシルバー拭いてっ!」
そう言いながら、キッチンカウンターの方向をゆび指した。
「は、はいっ!」
言いながら、キッチンに行こうとすると、女性客が二名入って来た。
「ボンジョルノ!」
店長が店全体に響き渡る声でそう言うと、理沙も続いて、勇気を出して客に駆け寄った。
しっかり止まって挨拶する。
「ボンジョルノ! お客様は二名様ですか?」
なるほど。止まって挨拶ね。確かにこうするだけで誠意が伝わる感じがする。面白い。
「はい、そうです」
「で、ではこちらへどうぞ! に・・二名様ご来店です!」
理沙が、精一杯大きな声でそう言うと、フロアとキッチンから
「ベーネ!」
という何人もの声が返ってきた。客を奥の席へ案内しながら、理沙は満ち足りた気持ちになった。客を席に座らせ、理沙は亮に向かって戻りながらほくそ笑んだ。
「そんなんで、どや顔すんな」
亮は理沙の気持ちを悟ったように冷たくあしらった。
「別に・・してません」
理沙はすぐ、ふてくされた顔になる。
「それと、今、奥の席に通したけどさ、今度から空いてたら窓際から通すようにして」
「え?あ、はい。なんでですか?」
「外から見たら、窓際に客が居れば、お客が入ってるように見えるだろ?空いてる時は極力そうするもんなの」
そんなこともわからないのかというような口調で答える。
なるほどー。色々、意味があるんだフンフンと頷く理沙に、亮は言った。
「あと何かわからないことあるか」
「あ、はい。あの、最初に来たお客様は傘を持ってたんですが、傘たてはどこなんでしょうか。あと、水をこぼしてしまった時に拭く雑巾がみつかりませんでした。あと、ワインをついでくれと言われたので、いっぱいにそそいだらお客様に怒られました。あとビネガーってなんですか?」
「もういい」
「は?」
「俺が悪かった。自分で何か仕事を探してくれ」
「はあ」
「それと、何か問題があったら、すぐにきいてくれないか。アンタの場合、その場じゃないと大変なことになる。ちなみにビネガーは〝酢〟だ」
理沙はメモった。「ビネガー=酢」と。隣で亮は深くため息をついた。どうやら新人は重度のスカポンタンらしい。

「ハイ、すぐ動く!シルバー!」
と亮がキッチンカウンターの方を指差した。
シルバーシルバーって、店長もあの男も、何なの?
そう理沙が思いながらウロウロしていると、キッチンから声がした。
「なかなか絞られてんねー。かわいい新人さん。何かお探し?」
ドルチェ職人の“タクヤさん”と呼ばれるチャラ男(お)系のコック帽を被った男がニヤニヤしながら話かけてきた。
「ああ、はい。“シルバー”って何ですか?」
理沙はオドオドしながら、周囲をグルリと見まわしてタクヤに訊いた。
「んふ。“シルバー”はスプーンやフォークとか、銀食器のことだよ。キミ、きゃわいいよね」
「え?」
理沙は突然の言葉にドキッとした。すると、フロアに居た中山が凄い形相をしてツカツカ歩いて来ると、二人の間に割って入って来た。
「タクヤさん!シルバーは俺が拭きますからっ!キミは前に出て」
理沙は中山からつっけんどんに言われ、キッチンカウンターから押し出された。
何だかわけがわからなかったが、理沙は悪いことを何かしたのだろうかと考えながら、バッシングをしに客席をまわった。先ほどタクヤから言われた言葉が甦(よみがえ)ってくる。

“キミ、きゃわいいよね”

あんなこと男の人に言われたの、産まれて初めて。これは、何か新しいドラマの始まりかもしれない。キャー!
理沙は一人、浮かれていた。

十時になると満席だった店内も客がかなり引いた。
「お疲れ。もう今日は上がっていいよ」
店長が理沙の側に寄って声をかけてきた。
「はい。お疲れ様でした。じゃあ、お先に失礼します」
理沙はそう返すと、今日の仕事を思い返しながら、控え室のドアに向かって歩いて行った。
今日は、昨日よりも良かったかも。失敗もなかったし、バッシングや、客席までの案内、声出しも出来るようになってきたし。あ、シルバーは拭けなかったけど・・。それに・・

“キミ、きゃわいいよね”

タクヤの言葉を思い出し、理沙は少しフフとにやけた。それとほぼ同時に、控え室の中から、“ガタン”という大きい金属音が聞こえてきた。人がいるのかドアのすきまから灯りが漏れていた。
何事かと理沙は驚いて控え室のドアを勢いよく開けた。控え室のパイプ椅子が横たわっている。

どうしてこんなところに・・・

イスを起こそうとした理沙の目に、次の瞬間、衝撃的な場面が飛び込んで来た。
ロッカーを背に、体を押し付けられた、あのビデオ屋の店員みたいな中山が、タクヤとキスをしていたのだ。いや、激しく、艶(なまめ)かしいディープキスをうめきながらしていたのだ。それは今まで理沙がしたことも、それどころか見たこともない光景であった。
理沙は、飛び出そうな程、目を大きく見開き、金縛りにあったようにその場に固まってしまった。
それに続いて、十時上がりの亮が控え室に入ってきた。
「ちょっと、ジャマ」
亮は立ったままの理沙にそういった。理沙を追い越すように控え室の中に入ると、二人の行為を見て立ち止まる。
少しも驚いている様子はなかった。亮は舌打ちをした。
「オイ、よそでやれよ。高校生がいんだからよ」
亮は倒れたパイプ椅子を起こしながらそう言った。
亮に言われ、やむを得ずといった感じで二人は離れた。あんなに青白い顔だった中山の顔は淡いピンク色に染まっている。
「いやー、新人ちゃんに見られちゃいましたー!」
タクヤは全く恥かしげもなく笑いながら店に戻って行った。去って行くタクヤを名残り惜しそうに見送ると、中山はロッカーに向かい、ズレた黒ぶちメガネを直し、うつむき加減で無表情に着替え始めた。
理沙は夢から覚めたように目をパチクリさせた後、ロッカーから着替えを取り出し、更衣室のドアを深刻な顔で開けた。


「お先に、失礼、します」
タイムカードを押した理沙はそう言うと、催眠術にかかったようにぼんやり外へ出て行った。あれは何だったのか。先ほどの光景が完全に焼きついて離れない。
店のイルミネーションは一色で、樹木や店の外を暖かなクリーム色を帯びた光がロマンチックに照らしている。
コックシャツのままの亮が理沙を追うように店の裏口から出て来た。
「おい!ひと声かけろよ。俺が送ってかなきゃなんねーんだからさ」
「あの、大丈夫です。一人で帰れますから」
理沙は明らかに迷惑そうな顔をすると、伏目がちにそう言った。亮とは話したくもない。
「別に俺だって好きで送るわけじゃねえよ。店長に頼まれてんだよ。まかないのかわりに」
「まかない?」
「そう。ここに来ると、無理言って廃棄する料理を貰って帰ってるんだよ。店長もあんたみたいな高校生、遅くまでを働かせてる以上、責任あると思ってるんだろ。まかないと引き換えにあんたを送ることになってんだから。俺にはあんたを送る義務があんの」
理沙は考えあぐねた。義務と言われれば反論のしようもない。
「そうですか。なら、仕方・・・いえ、よろしくお願いします」
あぶない、あぶない。仕方がないから帰ってあげてもいい、と言いそうになった。
「オッケー、じゃ、行くぞ」
亮はそう言うと、早々に自転車を漕ぎ出し、先へ行ってしまう。
理沙はやむなくそれについて行った。
しばらく沈黙が続くまま自転車を漕いでいたが、車の左折を待って停止した時に理沙が口を開いた。
「あの、さっきの、あれは何だったんでしょうか」
「え?アレ?ああ、ハハ。タクヤさんのアレか」
車が行くのを確認すると、亮はまた理沙の先へ行く。
「はい。アレ、です」
理沙は後を追いながら返事をした。
「まあ、驚くよなそりゃ。フツー」
「驚いたというレベルではありません。常識を超えています」
あんなの、あんなの、私の純愛マンガにはないっ!
「タクヤさんはさ、イタリア仕込みなんだよ。あっちに何年かパティシエ留学してたらしくてさ。向こうじゃよくあることみたいだぜ。とりあえず、男女かまわず誰にでも声かけんだよ。挨拶みたいに思ってるんだよな。俺も声かけられたことあるよ」
“キミ、きゃわいいよね”
あれは、あんなに喜んでしまったあれは挨拶だったのか
「あの、でも、中山さんのほうは?」
「中山?ああ、あの暗い奴ね。あいつはタクヤさんに目覚めさせられたクチだな。あいつはもう、タクヤさんにゾッコンだからな」
「目覚めって・・・」
じゃあ、「シルバーは俺が拭きますからっ」って怒って飛んできたのは、ヤキモチ?
理沙はいけない世界を覗いてしまったようで身震いした。
気がつくと、昨日、亮と別れた交差点が近づいていた。ここへ来ると、街灯の明るさのせいか、安心する。今日は月が雲に隠れていて暗かった。
「はあ、そうなんですか。あのお、私・・・」
理沙が何か言いかけると、上からたたみかけるようにして亮が言った。
「ああ、それとさ。勘違いしないで欲しいんだけど、俺が見た目いいからって、恋愛対象にするのだけは勘弁してくれよな。そういうの、俺すげえ面倒くさいからさ」
理沙は面食らってまつげをしばたたいた。言われたことを頭の中で処理するのにしばらく時間が必要だった。
「はあ?」
しかしすぐに、言いようのない怒りがこみ上げてきた。サドルを強く握る手が震えている。
「完全にアホ化現象だわ・・・」
亮はキョトンとした。
「え、なんかいった?」
ゆるやかな秋風に吹かれて亮の髪がサラサラそよいでいる。悔しいけれど、やっぱりそんな顔も魅力的だ。しかしそんなものはコイツを包んでいる着ぐるみみたいなもんだ。

負けないわよっ!この性ワルのイケメンめっ!

理沙は覚悟を決めて大声を張り上げた。
「あなたやあそこの店の人達、完全にアホ化してるわね。異常よ。超常現象よ!野人!蛮人!バカ丸出しの変態集団だわ」
亮は驚きの表情で、理沙を振り返った。
「は?あんた何言ってんの?」
交差点で信号待ちをする人々が何事かと言わんばかりに理沙達を見た。
理沙は気にせず大声でいった。
「私、あなたみたいな勝手な人に初めて会いました。昨日私に言った・・期待してないって、それが新人にかける言葉ですか?仕事できるからって、言っていい事と悪いことがあるでしょうが。思い上がりもいいとこじゃない。店では男同志がいちゃついてるし、店長は面接と全然違うし、あなたはとことん意地悪だし。みんな、どうかしてるわ」
「アンタ、意味もわかってないくせに生意気な口きいてくれんじゃん。『期待してない』ってのは、俺の理念なの!誰に対しても、客に対しても必要以上、人に求めないことが俺のポリシーなわけ。なんもわかんない新人が偉そうにほざくな!」
理沙は、怒りとも何ともつかない真っ赤な顔で、亮を睨んで続けた。
「理念?ポリシー?知るかっつーの。カッコつけてんじゃないわよ。そんなことの為に人の気持ち踏みにじるような言い方するのが思い上がりだっていうのよ。 私、負けませんから。あなたにだけは負けたくない。っていうか、あなたみたいな自己(・・)チュー(・・・)人間、絶対好きになりませんから安心して下さい。それよりも、あなたこそ絶対に好きにならないでよね。迷惑だから」
理沙は思ったことをこんなに吐き出したのは人生で初めてだった。一気にまくしたてたせいか、息があがっている。
亮は鼻で笑い、不敵な笑みを浮かべた。
「自分が何言ってるかわかってんのか。おれが、あんたを?フッ。それだけはないね」
理沙は口を尖らせて横を向いた。
「じゃ、じゃあ良かったです」
亮は斜に構えて理沙を睨んでから言った。
「勝てるってんなら、見せてもらおうじゃん。フン、せいぜい頑張るんだな。仕事もろくすっぽ覚えてないくせに。じゃな。おつかれー」
亮は即座に踵(きびす)を返すと、理沙の目の前から去って行った。


「ただいまー・・・」
理沙がまた不機嫌な顔で自宅の玄関のドアを開くと、昨日と同様、両親が心配そうに立っていた。よほど暇なのか。理沙は嫌気がさした。
「理沙、良かった。無事で・・」
母はホッとした顔をしている。父も横で深く頷いていた。
ったく、こういうのもうヘドがでるわっ!理沙は両親を見た瞬間、心の中で毒づいた。
「全く。二人ともヒマだよね。もう、待っててくれなくていいよ。そういうことされるの、マジでうっとおしいんだよね」
仕事の疲れと、苛立ちのせいで思わず口から本音が出てしまった。一瞬しまったとは思ったが、理沙は両親を押し分けて二階へ上がろうとした。すると母が、追いすがるように理沙に話しかけてきた。
「理沙、今日はどうだったの?何か嫌なことでもあったの?」
理沙は、階段の途中で一瞬立ち止まって、少し振り返り、
「・・・別に。いろんな人がいるって、今日は勉強になったよ」
それだけ告げ、走って自分の部屋に駆け込むと、ドアにもたれかかったまま、しょげかえって、ため息をつくとへたりこんだ。




十一月も半ばに差し掛かった校舎は、まだ暖房もしていない為、誰かが教室のドアを開け閉めするだけで廊下からひんやりとした空気が入り込んでくる。窓の外の落葉樹はもう既に黄色い葉を全て落としてしまっていた。
「ダメだ。もう生きていけないよ・・・」
美紀は今にも零(こぼ)れ落ちそうな涙を目にいっぱいため、そう言うと肘をついたまま顔を覆った。
またもや美紀は男に振られたのだ。正確には浮気されて逃げられた、捨てられた。もっと率直に言えば遊ばれただけだった。
「美紀・・・。元気出してよ。きっと、もっといい人が・・・」
いつも美紀が振られたり、傷心したり、泣いている時にいつもかける言葉だが、正直それが彼女の為になるのかどうかという疑問がちらついて、理沙は黙り込んだ。新しい彼氏が出来たと喜ぶ新学期の美紀の笑顔は記憶に新しい。
だがよく考えてみると今回に限り、美紀は最高記録を更新したのだ。二ヶ月続いたのだから。少しずつでも交際期間が延びたということは、美紀が少なからず成長していることを意味しているのではなかろうか。いや、ただ相手の男の嘘がうまかっただけかもしれない。
「大丈夫だよ。二ヶ月だよ。二ヶ月。すごいと思うよ。あたしなんて、一人の男の人と二ヶ月一緒に居たためしなんてないんだしさ」
自虐的に自分を無理矢理、引き合いに出し、理沙は美紀を必死で慰めてみた。他に言い様もない。
「そうかなぁ。グスン」
美紀は覆っていた手を少し広げ、不安そうな目を見せた。理沙は驚いた。なんだ、泣いてないじゃないか。
「そ、そうだよ。早いとこ別れたほうがよかったのかもしれないし・・・」
「そうかなぁ」
美紀はもう一度そう言った。が、すでに希望を帯びた表情になっている。こういう単純なところが美紀の素直でかわいいところなのだ。まあ、それ故(ゆえ)に男にもて遊ばれる結果も起こるわけなのだが。
「そうよ、そうよ!美紀のことを裏切った男なんて、忘れちゃえ」
理沙のひとことで美紀は覆(おお)っていた手の中から顔を覗かせた。
「そうかな」
美紀はもうすべてを乗り越えた嬉しそうな顔になった。
「そうだよね!」
理沙が励ましの言葉をまたかけようとしたのと同じタイミングで、美紀が叫ぶ。
「二ヶ月ってすごいじゃんアタシ!」
美紀は両手でガッツポーズをし、もう別のところを見ている。
「そうだよね。今までのジュンヤ、ノブト、タクロウ、レイジ、ミキオにコウタ、皆、一ヶ月持たなかったんだもん。あたし、すごい!」
隣で、こくりこくりと男の名前を美紀が言うごとに頷きながら“ああ、そんなのもいたか”と聞き流しながら、理沙はよくもまあそんなに男が寄って来て、去っていったものだと心底、才能に近い美紀の恋愛遍歴に感心していた。
「そう。そうでしょ?それに比べたら、美紀は成長というか、進歩してるのよ」
そう願いたい・・・
美紀に言いながら、理沙はそう思っていた。
「成長、進歩。そうだね。私、めげない!」
驚くほど素早く、美紀の心の傷は回復してしまった。
「で、理沙のほうはどうなの?」
機嫌のなおった美紀はキラキラした目で微笑み、両手で頬杖(ほおづえ)をついた。
「え?どうって」
「バイトのほうよ。イケメンがいるんでしょ?」
理沙の表情が曇り、視線を落とした。
「イケメン・・。とんでもない」

美紀の別れた彼と同じように、理沙のバイト生活も二ヶ月を過ぎようとしていた。
彼氏のように簡単に、バイトはお別れできないんだよね
理沙は頬杖をつき、下唇を突き出して、床をぼんやり眺め、最近の職場での様子を思い出していた。

「バッシング!」
「はい!」
「さっさとオーダー、行け!」
「はい!」
「ほら、ボケッとしないで料理運べ!」
「はい!」
「おら、レジ!」
「はい!」
“ガッシャーン!”
「お前、店つぶす気か?」

亮が理沙をこきおろす罵声の数々が頭をめぐる。亮は容赦なく理沙の脂(あぶら)をしぼった。客や他の店員達には絶対に聞こえない声で理沙だけに言うのだ。仕事にはそこそこ慣れてきてはいたが、亮の監視の下(もと)での職場は気の休まる時間など、ひとときもない。

『私、負けませんから。あなたにだけは負けたくない』

あれを言った翌日から、実に明らかに風当たりが強くなっていた。
あんな、出来もしないこと、言わなきゃよかったよなあ・・・

散々、亮からしぼられ、疲れた体を引きずって控え室に入ると、必ずと言っていい程のタイミングで、中山とタクヤがイチャついているのだ。二ヶ月も同じことに直面していると、不思議なもので慣れてしまう。初めてアレを見た時の隣に居た亮の落ち着きぶりも今となっては納得できる。

マリオーロで働くことは理沙にとって嫌なことばかりでもなかった。先日、常連の老夫婦の会計をしていた時に、「あなた、明るくてとってもいいわね。このお店明るくなったわよ」と言われた。理沙にとっては涙が出る程嬉しい言葉だった。たまにそういう神様みたいなお客に出会える。お客様はカミサマ、誰かがそう言っていた。そういう稀(まれ)なお客から掛けられる言葉の数々が励みとなり、理沙を店頭に立たせているのも事実だった。
青春真っ只中の筈(はず)である理沙にとって、引っかかっていたのは亮のことだけではない。タクヤと中山のホモセクシャル的、ボーイズラブ的話題は親にも友達にも言えない、開かずの間のようなものになっていた。アレを友達になんて説明すりゃあいいんだ。
思い出すだけで胸焼(むねや)けがする。理沙は両方の手の平で耳を塞いだり、離したりをパタパタ繰り返し、「あーー」と言いながら、目を瞑(つむ)って頭の中の邪念を切り離そうとしていた。
「理沙?大丈夫?」
美紀が心配して真ん丸い目をキラキラさせて覗きこんで来た。
「ああ、ごめんごめん。イケメン?あんなのちっともイケてないわよ。私には上からモノ言うし、最初の日にいきなり『期待してない』って言われたんだよ。恋愛対象にされると面倒くさいとか、思い上がりもいい加減にして欲しいよ。誰があんな奴。っていうかイケメンどころかイケてないセロリ男(おとこ)って感じよ。職場も変な雰囲気だしさ」

タクヤさん達のホモばなしだけはは絶対、美紀にはできない・・・
理沙は目を閉じて頭(かぶり)を振った。
「へえ。でも、なんかムキになるあたり気になってるんじゃない?」
「はい?そんなわけないでしょ。あんなセロリ男!やめてよね」
美紀は悪戯(いたずら)っぽい顔で笑いながら人差し指を顎に当てた。
「なるほど。私、今度理沙のお店行ってみようかな?ちょっと様子見に」
「え?お店に一人で?」
不安そうな理沙に、美紀は変にはしゃいだような声をだした。
「アハハ、違うってば。地元の友達連れてさ。セロリ風イケメンも見て見たいしさ」
理沙は慌てて美紀に懇願した。
「ええ?やめてよぉ。私、叱られてばっかりなんだからぁ。美紀に見られたくないよ」
「いいじゃん、いいじゃん。理沙の仕事の邪魔は絶対しないからさ」
美紀は好奇心に満ちた、爽やかな笑顔を理沙に向けた。



「お待たせ致しました。ご注文はお決まりでしょうか」
自信に満ちた落ち着きのある笑顔で亮が応対している。今日も七時の時点でほぼ満員だ。
「ええとね、この鮮魚のカルパッチョていうのをお願い。ワインは赤と白どっちがいいかしら?」
白髪の上品な感じの婦人とその夫がメニューを指差しながら亮を伺い見た。
「はい。ワインですね。それでしたら、白ワインをおすすめ致します」
「そう。ちなみにどこ産のワインかしら?」
「はい。白ワインはイタリア、エミリア・ロマーニャ州のワイン、モンテベッロを使用しております。フレッシュな味わいが、前菜にもピッタリでございますよ」
「そう。じゃあ、それのデキャンタでお願い。グラスは二つね」
「かしこまりました。では、ご注文を繰り返えさせて・・・」
やり取りの一部始終を見ていた理沙は、お盆を抱えたままあっけに取られていた。

勝てない・・・。あれに勝とうっちゃそりゃ無理だわ・・・

「わかばやしちゃん、口空いてる、空いてる」
店長が理沙の隣に来て、クスクス笑いながら小声で言った。
「ああ、すみません。でも、それにしたって、亮さんて何であんなに色々詳しいんですか?接客も完璧だし」
不満そうに理沙はいった。これまで必死に頑張ってきた理沙にとって、亮の知識をまざまざと見せつけられると、一気に自信が失せてしまう。
最近理沙は顎の下に吹き出物が三つもできていた。最初の一つはただのニキビだと思っていた。しかしそれが二つ、三つと増えていくことで、それがただの若者の象徴ではなく、ストレスからくるものだとしばらくしてから気が付いた。自分で思っている以上に亮のことが精神に響いているらしい。四つ目ができないことを心から祈っている。

「まあ、あいつは凄いよな。店長である俺も舌をまくよ。仕事に対して誰よりも貪欲だし、お客様の前では出すぎず、親切で、よく気がまわる。いや、気働きができるといったほうがいいかな。仕事に対する嗅覚(きゅうかく)が優れてるんだな」
理沙は不満そうに口を尖らせた。
「嗅覚・・・。じゃあ、仕事の天才肌ってヤツですかね」
店長は理沙を見て笑った。
「いやいや、アイツだって、あそこに至るまでは相当苦労してんだぜ。ああなる為には並み大抵の努力じゃできないさ」
「ええ?亮さんが苦労ですか」
「そりゃそうだよ。誰だって、初めてのことを身に付けるまでは苦労するもんだよ。でも、努力は人一倍してたな。よくメモ取ってさ。いまだに取ってんじゃねえか、メモ」
「メ、メモ・・・ねえ」
理沙はズボンのポケットに手を入れ、確認するようにメモ帳を触った。
「でも、若林ちゃんもよくメモとってやってるじゃないか」
「はあ、まあ、それは亮さんにこっぴどくに言われたからですけど・・・」
「亮が?」
店長は、フーンといいながら不思議そうな顔をした。
「はい。なにか?」
理沙がそういうと、店長は小声になって理沙に耳打ちした。
「いや。アイツ、見込んだ人にしかそういうこと教えないぜ」
理沙は店長から顔を離すとあからさまに迷惑そうな顔をした。
「ええ?私が見込まれてるってことですか?」
「だと思うけどね」
店長は優しく微笑みかけた。
亮さんが私を見込んでる?全くそんなこときっとカケラも思ってないわよ。そうでなきゃあんなに冷たい態度ばかりするわけが・・・
「それに、あいつはマジで偉いよ。家の為とはいえさ」
店長は少し遠いような目をした。
「家のため?」
理沙は意味がよくわからず聞き返す。
「おっと、立ち話は厳禁だ。しごとしごと!手が空いてる時はグラス拭いたり、調味料の補充したり、自分から何でもやってね」
店長は理沙に指を指してそう言い残すと、また忙しそうにとキッチンカウンターに入って行った。

それにしても、どうしてあんなにプロ並みの仕事してんのかしら。バイトのくせに・・。
しかも家のためって、何なの?

理沙には理解できなかった。自分より少しばかり上の時給でしかない亮が、どうしてあそこまで貪欲になれるのか、不思議でならなかった。
「おい、ちょっと」
理沙の近くに居た客が軽く手を挙げて理沙を呼んだ。前歯が一本抜け、青いチェックのズボンに真っ赤なスカジャンを着たヤンキー風の男だった。連れの男も似たような風貌をしている。
「あのさ、追加でビール二つね」
肘をついたまま、指でピースサインをするように小首をかしげて男は理沙にいった。抜けた前歯が気になったが、理沙は元気よく応対した。お客様を見た目で判断してはいけない。それは店長から教わったことだ。
「かしこまりました。生ビールをお二つですね」
理沙はにっこりそういうと、踵(きびす)を返し、心の中で「ナマふたつ ナマふたつ」と唱えながらキッチンカウンターへ入った。しかし何か自分の中で客に対する違和感を感じていた。それが何かよくわからなかったのだが。

ええと、グラスグラス・・・
理沙は生ビール用のグラスを探したが、いつもあるはずの場所にグラスが見当たらない。
「すみません、生ビールのグラスってそっちにありますか?」
理沙はカウンター越しにキッチンへ向かって呼びかけた。中がよく見えないので、理沙は背伸びするような格好をした。
「ああ、こっちに洗いあがったばっかりのがあるよ」
タクヤがひょっこりとカオを出した。その瞬間、待っていた理沙はタクヤと目が合った。理沙がそれに威圧されてのけぞった。タクヤがずれたコック帽を直しながらにやりと笑う。
「理沙ちゃん、今日もまたきゃわゆい。今、見とれちゃったよ。今度さ、マジで俺と・・」
「タクヤさん!」
中山がホールから走ってきて、理沙とタクヤの間に割って入ってきた。いちいち理沙とタクヤの様子を見張っては、飛んでくるのだ。
「あ、あ、あの、グラスありがとうございます!」
そう言うと、理沙は奪い取るようにタクヤから洗いあがったばかりのアツアツのグラスをカウンター越しに受け取り、二人に背を向けてグラスにビールを注ぎはじめた。

もう、面倒くさい。あの二人、どうにかならないかなぁ。タクヤさんも、社交辞令とはいえ、しつこいよ・・・

理沙は頭の中でブツブツ言いながら、ビールを二つ客の席へいそいそ歩いて運んで行った。
「お待たせいたしました。生ビールになります」
理沙は亮から厳しく教わったとおりグラスを置いた。グラスを置くときに小指でグラスの底をやや支えるようにすると、グラスとテーブルで生じる音が鳴らないのだそうだ。客を不快にさせない為に、亮はそんな細かいところまで教えている。
「失礼いたします」
理沙は満足した顔でにっこりとお辞儀し、その場を去ろうとした。
「おい、ねえちゃん。ちょっと待てよ」
そのダミ声に振り返ったのは、理沙だけではなかった。亮も、店長も中山もホールに居た店員全員が一斉に振り返った。どの顔も青ざめて怯(おび)えている。またなにかやってしまったのか。それ程、嫌な予感のする野太(のぶと)く大きな声だった。
「これがビールかよ」
理沙は慌てて駆け寄ったが、客のいわんとすることがわからず、ちいさな声で「は?」と答える。
「こんなぬるいのがビールなのかっつってんだよ!」
ガラが悪い感じの客の男は凄んでビールのグラスをテーブルに叩きつけるようにして置いた。理沙がアツアツのグラスに注いだビールは嫌がらせのように泡だらけのぬるいものだった。

「ホットケ、ホトケの・・」理沙は心の中でひざまづき、祈りのポーズをしていた。「どうしてこんなことに・・・」しかし先ほどからの胸の中にある違和感は依然として消えない。

店内が一気に静まり返る。緊張した空気の中、ボサノバが不釣合いにゆるやかに流れていた。
「申し訳ございま・・」
亮がすかさずそう言って、理沙の客の前に来ようとすると、理沙が同僚達の表情を見渡してから即座に右手を九十度の角度で挙げ、亮を制した。「ここはわたしがなんとかします。出て来ないで」そう言っているように見えた。
理沙は意を決したように呼吸を深く吸うと、ゆっくりとした口調で話しはじめた。
「お客様、大変失礼をいたしました。ですが・・」
「あん?」
理沙が「ですが」と言った途端、男は座ったまま下からすくい上げるようにして理沙を睨んだ。
店内にいる客達も店員も全てがこちらに注目している。不思議と食器の重なる音ひとつしない。
「ですが、失礼に失礼を重ねるようですが、間違いでなければ、お客様は未成年なのではないでしょうか」
「ハア?」
言ったあと、男は言葉を呑んだ。
「そのズボン、私の高校の近くにある、東名北(ひがしめいほく)高校の制服だと思われますが」
「・・・チッ」
男はそう言うと、バツ悪そうに理沙から目を逸らして別の方向を見た。
理沙は堰(せき)を切ったように喋りはじめた。
「私の、私の友達がこの間まで付き合っていた彼氏がその制服だったんです。私の友達、その人に遊ばれて・・・結局、捨てられたんです。あんなに、あんなに美紀、彼のこと一生懸命だったのに・・・。だからその制服、あまりいいイメージがないのでよく覚えています。上にスカジャン着ててもわかりますから。当店では、未成年の方に酒類(さけるい)はお出しできない規則になっております。そういうわけで、こちらのビールは下げさせていただきます」
理沙はぺこりと頭をひとつさげると、すぐにテーブルの上にある泡だらけのビールを手早くさげた。
店内は変わらず静寂に包まれていた。静かな店内に流れるボサノバは、いつの間にかアコーディオンの曲に変わっていた。それがまるでこの場に不釣合いな二人の男達を滑稽に思わせた。未成年の男達がどうするのか、店内の視線がすべてそこに注がれている。
二人は周囲の視線を痛い程感じて「かえろうぜ」と言いながら席を立った。
「ありがとうございましたー!グラッチェー!」
元気よく理沙がそう言うと、店の空気が緩(ゆる)んだ。レジに入り、始終にらみつけられながら男達の精算をてきぱきこなした。男二人は、がに股(また)で店の外に出る瞬間、「・・んだよブス」という小さい声を吐き捨てた。何も聞こえていない顔で振る舞ったが理沙の心には確実に届いて悲しく刺さった。
そのまま理沙は控え室に入って行った。もう十時を十分程過ぎている。
理沙は自分の手を見た。小さく震えていた。とても怖かった。自分でも何をしゃべったかハッキリ覚えていない。ただでさえ、男性に話すことが苦手なのにあんなガラ悪い奴らをやりこめたのだ。
実際は内心、心臓が飛び出そうなくらいの緊張だった。手は冷たく汗でびっしょりと濡れていた。あれで帰ってくれる客だから良かったようなものの、殴られるかもしれないという恐怖で膝もガクガクだった。
大きく深呼吸すると、目をゆっくり閉じてうなだれた。理沙がホッと胸を撫で下ろした瞬間、亮が控え室に入ってきた。理沙はぎくりとした様子で身構えた。

ひえっ! しかられるっ!

しかし、亮はいつものように座ってコーヒーを飲み、新聞を見ながら、理沙のほうには目を向けずに「お前着替え終わったら帰るぞ」とだけいった。
理沙はいつもとは違う亮に少し拍子抜けした気分だった。


理沙がシフトに入っている時には亮も必ず同じ時間に入っている。誰が頼んだわけでもないのだが、帰りに理沙を送り届ける為、気の回る店長が考えたシフトに違いない。そのすばらしい気遣いのせいで、ここで仕事するようになってから理沙は一度も亮の配下から逃れることはできずにいた。

亮は黙ったまま理沙の少し先でペダルを漕いでいる。最近では二人で帰ることに慣れたせいか、特別話すことがない日は黙ったまま帰ることも少なくはない。
十一月の空気はもう冬を感じさせ、ダウンを着ていてもひんやりと顔に当る風が冷たく、特に鼻が寒かった。理沙はダウンの袖(そで)を少しだけ指先まで伸ばした。街路樹の葉もほとんど落葉し、二人が自転車をこいだ後には薄明かりの中、落葉した黄色い葉が嬉しそうに円を描いて舞っていた。
理沙は今日のあのスカジャンを着た客とのやりとりについて亮が何も触れてこないことを気味悪く思っていた。けれど自分からその話を切り出すような自殺行為もする必要もない。きっとまた機会を図って説教するタイミングをみているに違いない。
「お前さ」
ふいに亮が口を開いた。
「な、なんですか」
理沙は「来たか」と思い、身構えた。
「お前、なかなかやるじゃん」
亮は背中を理沙に見せたままそういった。
「へ?あ、て、は?」
いきなり亮にそんなことを言われた理沙は面食らって言葉が出てこない。驚いた後、次第に顔が赤くなる感覚を覚えた。
アレ?私、なんかドキドキしちゃってる?
赤くなる時、背中も熱くなるのだと、この時理沙は実感しながら動揺していた。

「だから、なかなかやるじゃんかっていってんだよ。別にあんな奴の言ったことなんか、気にすんなよ」
亮がマウンテンバイクを走らせながら後ろを少し振り返った。

あ、あたし、褒められてんの?なぐさめられてんの?
理沙は振り返った亮に自分の赤い顔を見られないように下を向いたまま二度ほど小さく頷いた。
ヤバい。更にドキドキしちゃってる・・。
理沙は急に亮の声に男性を意識しはじめた。いつもは意地悪な「セロリ野郎」くらいにしか思っていなかったのだが、優しくされたら急に亮が「男」であったことを思い出してしまった。ちなみに理沙は野菜の中ではセロリが一番嫌いだ。

「あ、ありがとうございます。大したことじゃあないですよ。それにあんなの気にしてないし」
大テレに照れた理沙が恥ずかしそうにそういうと、「ばっか。頭(ず)にのんな」と呆れたように亮がいった。
「高校生に酒を出さなかったのは確かにえらかった。でもなぁ、あんな洗いたての熱いグラスにビールを注ぐバカがどこにいる?」
理沙は不満そうに口を尖らせた。
「バカって・・」
「まあ、お前は酒飲まないからわからんだろうが、ビールってのは冷えててうまい飲みもんなわけ。だからグラス熱かったら、氷水(こおりみず)でまずガンガンに冷やす。その後、グラスを拭いた後にはじめてビールが注げるんだよ。イメージしろイメージ。お前、ジュースをあったかいグラスで飲んだことあるか? そんなのが万が一、口に運ばれたらってことをだな・・」
理沙は目が据(す)わって剥(むく)れた表情になる。
「わかりましたよ!もう! その・・なんか、ネチネチした言い方、どうにかなりませんか? ったく褒めてくれてんのかと思ったらまた説教ですかい」
亮はマウンテンバイクの速度を緩(ゆる)め、理沙の隣に並んだ。
「おい、なんだお前。教えてくれてる人にその言い方こそどうにかなんねえのか。だいいちな、お前の友達が振られたうんぬんという話は、客に言う言葉としては不適切、不必要なんだよ。そんな店員いるか」
この男は結局、文句しか言えないのか。理沙は声が大きくなった。
「ええ。ええ!そんな店員ここに居ますよ。悪い?いいじゃん別に。だって!嫌いなの!あの制服。・・・そうよ。そのお陰で高校生だってわかったんじゃないの。結果オーライじゃない。ざまあみろってのよ」
亮は目を細めて理沙を睨んだ。
「客に私情をはさむなって言ってんだよ。人の話が頭に入らないのか。この石頭(いしあたま)!まったく。しかも俺にタメ口をきくな!」
この男、ナニサマ?理沙は敵意のこもったきつい目で亮をにらみつけた。
「あなた、そんなに偉いの? 私にばっかり指図(さしず)しないでよ。女にしか威張れないの?バカだのなんだのって、ちょっと仕事ができるからって、ちょっと格好いいからって、調子に乗らないでよね。自分さえよけりゃあいいの?人の気分悪くするようなことばっかり言って、そういうのお店の雰囲気に出ちゃうんじゃないの?チームワークも必要なんじゃないんですか、センパイ。 あんただって、ただの仕事バカじゃない。そんなんじゃ、誰もついて来ないわよ」
私のドキドキ返してよ! 裏でそう付け加えた。
亮も更に顔を突き出して睨み返す。
「言わせておけば・・・。わかった。こっからお前ひとりで帰れ。もうお前の面倒みんのは無理だ」
亮は理沙の少し先でマウンテンバイクを急停止すると投げやりに言った。理沙も自転車を停止させた。
「ちょっ・・。あーあ、そうですか。別にいいですよ。あなたに送ってもらわなくとも、赤ん坊じゃあないんですから」
「いや、全てだ。仕事も・・もう教えるのがバカバカしくなった。あんた、ひとりで頑張れば?俺はもう何も言わないからさ」
「は? 別に、教えてくれって頼んだ覚えもないですよ。正直、あなたの求めてるレベルはバイトのレベル超えてるんで、私ついてけません」
「もういい。じゃな」
そう言い捨て、早々(はやばや)と理沙の前から去って行った。
「なによあれ。偉そうに。社員でもないくせに」
尖(とが)った口でそう言っていたが、亮の姿が見えなくなると理沙は何故か空しい気持ちになっていた。




「ただいま・・・」
亮が帰ると、いつものように母が部屋から顔を出し「おかえり」と手元を動かしながら穏やかな表情で言った。
家に入ると母の顔も見ず、脱いだコックシャツを怒りに任せるように思いきり洗濯機に投げつけた。コックシャツは洗濯機には入らず、無表情に床へずり落ちた。
「クソッ!」
苛立ちを隠せず眉間に皺(しわ)を寄せ、亮は忌々(いまいま)しそうに舌打ちをした。
「どうしたの?亮。なにかあった?」
母は不安げな表情を浮かばせて、亮を伺(うかが)い見る。
「なんでもねえよ。まかない、冷蔵庫に入れとくから」
前髪をかきあげた手を止めたまま、亮は面倒臭そうにしかめっ面をして何かを考えている様子だった。
「嫌なことあった?例の女の子かな?」
困ったような微笑みを浮かべ、母は内職であるタバコとライターのセット作りに視線を戻した。全部で二千セット作らなくてはならないが、全て作ったところで五千円くらいにしかならない。それでも、生活の為にはこれも大切な収入源なのだ。
「ちげえよ。・・・俺風呂入るわ」
母に言われた一言は一瞬、亮の勘にさわった。だが母にあたるのも理不尽だと言い聞かせ、自分を押し込めるようになんとか沈めた。今は理沙のことなど考えたくもない。
あんなアホな奴、少しでも認めようと思った自分がバカだったと亮は自(みずか)らを悔やんだ。

「私、負けませんから」

確かに理沙はあの日以降、亮に負けまいと空回りしながらも頑張っている様子だった。店長や亮に言われたことは欠かさずメモに書いているようだったし、周りの動きにも合わせてそれなりに動けるようになってきていた。ただ、ミスや見落とし、知識などの点では、はっきり言って、相当低いレベルだが、初のアルバイトということも手伝ってか、余計な先入観がない。スポンジのように吸収し、亮に食らいついてくる理沙は「打てば響く」見込みを亮は感じていた。
それに比べ、中山のような人間こそ、何を言っても反応せず、適当にただこなせばいい仕事しかしない、扱いづらい同僚なのだ。
しかし、どうにも理沙の子供じみた反応に亮はいちいちムキになってしまうのだ。

俺はあいつにかかっているヒマなどない。なんでいつもあいつの言うことがいちいち苛つくのか・・・

『私にばっかり指図(さしず)しないでよ。女にしか威張れないの?バカだのなんだのって、ちょっと仕事ができるからって、ちょっと格好いいからって、調子に乗らないでよね』
理沙のムキになった顔が目に浮かんだ。理沙の訴えはただ子供じみているだけではない。亮も自分の欠点に気付きはじめていた。

確かに、俺も直すべきところはあったかもしれないな

狭い風呂に膝を曲げて浸かりながら考え込むようにして亮は両手で髪をかきあげた。






ここのところ、理沙は漫画からすっかり離れてしまっていた。あまりに現実で色々なことがありすぎて漫画がうそ話に見えて仕方ないのだ。あんなに愛読していた『恋愛エトセトラ』にはうっすらホコリが被(かぶ)りはじめている。

『もう俺にはお前の面倒みんのは無理だ』
自分のベッドで横たわった理沙はハートにフリルのついたピンクのクッションを顔に当て、大きなため息をついた。おととい亮に言われた言葉が頭から抜けない。なぜ、こんなに亮に突き放されると胸が苦しくなるのかわからなかった。それにここのところ、亮の顔ばかりが一人になったときに何故かちらつくのだ。
あんな勝手なやつ、気にすることなんかないのに
そう思いながら、理沙はぼんやりとしていた。

「理沙ちゃーん!ほら、アルバイトの時間じゃないの?」
一階から母の呼ぶ声が聞こえて、理沙は現実に引き戻された。


理沙は重い気持ちで自転車を「MARIOLO(マリオーロ)」に向けていた。今日亮に会ったら、どんな顔をすればいいのか、あわせる顔がない。いや、それよりも向こうにどんな顔をされるのか店に来るまでちょっとした心の葛藤があった。
しかし店の前には亮のマウンテンバイクはなかった。理沙はそれを見て心の底からホッとした。
「おはようございまーす」
裏口から店に入ると、いつものいい香りがしていた。もうこの香りにも慣れたが、理沙はこの香りが何よりもこの店で一番好きだ。
「ああ、おはよう」
控え室にちょうど居た店長がにこやかに返した。
「わかばやしちゃん、今日は亮、休みだから」
「え?お休みですか。・・・珍しいですね」
シフトの確認をしながら店長は小さなため息をついた。
「いやこの時期は大体、大学のテストで休むんだよ。来週まで一週間休むから。わかばやしちゃんもあさってからテストで休むでしょ?」
「ああ、そうですね。はい」
理沙はテストのことなどすっかり忘れていた。ここのところ、バイトのことを覚えるのに夢中で、本分の勉強に全く身が入っていなかった。
いけない、帰ったらちゃんと試験勉強しなくっちゃ
ユニホームに着替えながら理沙は気を引き締めた。

「ボンジョルノ!」
フロアに入ると聞きなれない声が聞こえてきた。理沙以外のフロアの二名は昼にパートを勤めている四十代の主婦二人だった。中山もまた試験の為、休みをとっていた。

なんか、いつもと雰囲気が違う・・・

昼と夜のメンバーではこんなにも雰囲気がちがうのか、というか、亮の居ないこの店で仕事するのは初めてで、妙な感じがした。
「こちらのほう、メニューのほうになります。ご注文のほう、お決まりに・・・」
「おめしあがりになりましたら、デザートお持ちいたしますので、お呼びいただければ、お持ちいたしますので・・・」
パートの主婦の一人はいちいち言葉に「ほう」を付け、もう一人は「お」を付ける。理沙はそれが気になって仕方なかった。
横に来た店長がボソッと理沙にいった。
「あれ、やっぱ気になるでしょ?でもね、主婦ってガンコ。何回注意しても二人ともあの言葉遣いやめないんだよ。仕事はキッチリできるんだけどねー」
理沙は目の前で手をパタパタ振ってでまかせを言った。
「あ、いいえ、全然、気になりませんから大丈夫です」
店長は理沙をチラリと見た後、ほくそ笑んだ。
「そう?なら、いいんだけどね。ま、今日もよろしくね」
「あ、はい。お願いします」
そう言うと理沙はすぐ仕事に取り掛かった。
 

その日、亮の居ない店は、理沙にとって死んでいるも同然のように感じられた。怒られることも、イヤミを言われることもないのに、心から喜ぶことができない。
仕事をしている時の亮はまるでダンスでも踊っているかのようにスルスルと客の間を通り抜け、きめ細やかに仕事をこなしていく。理沙は亮がいない店が寂しく思えた。認めたくはなかったが、亮の仕事ぶりを見ているのが本当は好きなのだとその時実感した。

あの人のこと、少しでも好き?なのかな
仕事しながら、そんな言葉が理沙の頭にチラつき、また頭のなかでそれを打ち消した。
そんなハズはない。あんなイヤな奴、好きになる女は思いっきりアホか、ドМな人ね。
理沙が心の中でニタリと笑っていたところに徐(おもむろ)に客が三名入ってきた。
「いらっしゃいませー。ボンジョルノ!・・あ」
理沙は目を点にした。美紀が本当に友達を連れて店に来たのだ。この間言っていたのは冗談ではなかったのだ。
「ホントにきちゃった」
美紀はにっこり微笑むと、あ、これ地元の友達。といって女子二人を理沙に紹介した。
「それで、イケメンセロリはどこにいるのよ?」
美紀は小声で理沙顔を寄せてに訊いた。どうやら、やはりそれが目的らしい。
「残念。イケメンはテスト休みでいないのよ」
「ええー」とがっかりする美紀達に理沙が事情を話していると後ろから店長が来た。
「どうしたの?若林さん、お友達?」
店長がそういうと、美紀が嬉しそうに
「はーい!お友達でーす」
と手を挙げた。
店長は美紀の顔を見ると、金縛りにでもあったかのようにその場に立ちすくんだ。
「・・・きみは」



店長は瞬時に五年前のことを思い起こしていた。

大学を卒業して二年。証券会社で金だけは同期の奴らより人一倍稼いでいた。顧客の委託による株を売り買いするブローカー業務をしていた。日々価格の変わる相場商品の動きを見る洞察力と嗅覚は人並み外れているとよく言われた。自分でもこの業界にはすんなり入っていけたし、経済学部を出た自分には向いていると思っていた。
金利の水準、産業の動向、為替、原油、企業業績、内外の政治情勢など、朝から晩まで情報収集網を張りめぐらせ、顧客の為に勤め、尽くした。勿論、投資家からの信頼も厚かった。
入社して以来、ただがむしゃらに働いてきたが、金の貯まる一方で、それを自由に使う時間など既になくなっていた。常に追われているような毎日で物欲も食欲すら感じなくなっていった。まるでアンドロイドのような生活だった。精神が憔悴しきっているのは自分でも気がついていた。株価の画面に張り付いて、電話で「買い」だの「売り」だの言うだけの毎日がただ過ぎていく。人に毎日囲まれているのに、実際は独りきりなのだ。
こんなマネーゲームを一生やっていけというのか
正直、生きている意味など全く感じられないようになっていた。もうここ一年、ぐっすり眠ることもできなくなっている。夢に見るのも株価のパソコン画面で、人が全く出てこないのだ。誰も待っていない暗い家にも帰りたくなかった。自分は何の為に産まれてきたのだろうか。かつて考えたこともあるそんなことも、既にどうでもよくなってしまっていた。

会社帰り、自宅近くの公園のベンチに座ってぼんやりしていた。ばかに暑い夏の夜だった。
こんな人生、いっそこのまま死んだほうが幸せになれるのではないか。自分の悩みはぜいたくなのかもしれない。しかし一日に交わす言葉といえば仕事の話ばかりで、何の感情もない日が過ぎていく。自分ひとりこの世に居なくなっても悲しむ人などどこにもいない。正直、誰の為でもないこの人生を終わりにすることが、今自分が一番したいことに他ならなかった。今、有意義に生きる為には死ぬしかない。そんなことばかりが頭の中を支配しはじめていた。

そんなことをぼんやり考えていたその時だった。
「あのお・・」
ふいにかけられた声のほうへ顔を向けると中学生くらいの女の子が立っていた。
「・・なに?」
不思議な顔で彼がそう尋ねた。
「あのお、そこ、私の指定席だったんですけど」
女の子はキラキラした目をして、知らない男に遠慮がちに言った。
「え?ここ? ああ、ハハ。悪い。どうぞ」
彼は頷いてすぐに立ち上がると、手をさしだして彼女をベンチへ促(うなが)した。俺にはここにも居場所はなかったか。苦々しく思いながら彼がその場を去ろうとすると少女はまた口を開いた。
「あのお・・・」
座らずに少女は先ほどより柔らかい表情でいった。
「まだ何か?」
「よかったら、ベンチ、一緒にどうぞ?」
彼は少女の顔を見返した。彼女はにっこりと微笑んだ。その顔はまるで天使のようだった。
彼は一瞬困惑したが、彼女はもう一度、今度は強めに「どうぞ」といって笑顔を作った。彼女の誘いを不思議に思ったが、家に帰る理由もない。
「いいの? そうか、じゃあお言葉に甘えようかな」
彼は一度周囲を見回してそういうとゆっくりベンチの端のほうに座った。彼が座ったのを確認すると、少女は隣にちょこんと座り、足をブラブラさせた。なんなんだこの少女は。「きみ、中学生かな?」
「はい、そうです!」
彼女は右手を顔の横で挙げて満面の笑みでそういった。
「こんな時間までこんなところに居ちゃ危険だよ?」
彼がそういうと、彼女は顔を曇らせ、ふてくされたように口を尖らせた。
「いつもはこんな時間に居ないです。でも、今日は・・彼氏に振られちゃったから、なんか家に帰りたくないの」
彼は思わずフッと笑った。家に帰りたくないのは自分と同じか。
「笑いごとじゃないです!私、彼のこと、本気で好きだったのに。浮気されて・・」
どう見ても子供の口から〝浮気〟という言葉が出たのに驚いて少女の方を思わず見た。
「きみ、いくつだよ?」
少女はニコリと笑っている。何の警戒心もない顔だ。
「十三歳です」
彼は呆れたようにわずかに星が光る空を仰いだ。
「十三?それで彼氏いるんだ?時代は変わったなー」
彼女はこちらを向いた。
「いいえ。もう彼氏は今いません」
「ああ、そうだったね。きみはかわいいのに浮気するなんてね。バカな男だね」
向き直ってご機嫌をとるように彼はいった。彼女はその言葉にはっとした顔になっている。
「バカな男・・・。そっか。私、自分がどっか悪いのかと思ってたんだけど、男がバカなのね?」
彼女は急に明るい口調になった。
「そうだよ。バカな男さ」
彼は薄く微笑んで頷きながらそう言った。その言葉だけまるで自分に言っているような気もした。バカな男。そう片づけてしまえば皆同じように思える。
彼女は嬉しそうにふふと笑い、そっかあと何度も言いながら自分の靴を眺めた。
「お兄さんは?」
「え?」
「お兄さんはどうしてこんな時間にこんな場所にいるの?」
唐突な質問に少し戸惑った。生ぬるい風が吹き抜けていく。
「俺?俺は・・人生に疲れちゃってね・・」
彼は自分のこめかみを掻(か)いた。
「なんか格好悪いよな?」
彼女は首を傾(かし)げた。
「そう?私はまだ人生に疲れたことないからわからないけど、どうして疲れちゃったの?」
彼は腐って言った。
「仕事さ。毎日同じことの繰り返しで、自分の時間もない。笑うことも怒ることもない。生きてる感じがしないんだよ。眠ることすらできないんだ。でも、どうしたらいいのか自分でもわからないんだよ。信じられないかもしれないけど、このまま死んだら楽なのかと今、思ってたとこなんだ」
中学生相手に何故こんな話をしているのか、自分に呆れながら彼は話していた。でも誰かには言いたかったのかもしれない。別にそれは誰でもよかったのか、この少女だから話せたのかはわからない。けれど、心の膿(うみ)を少し出せたことでわずかながらも楽にはなっていた。
彼女は黙ったまま聞いていた。しかし、すぐ思い立ったように持っていたショッキングピンクの小さいバッグの中をゴソゴソとやりはじめた。 
彼は心の中でクスリと自分に苦笑した。 こんなくだらん話、聞いてなかったか。
そう思って顔を上げると、目の前に彼女の手があった。ピンク色の包みの飴(あめ)が彼女の手のひらに乗っていた。
「これ、食べて」
彼女はゆっくり頷きながらそれを差し出している。白い歯が薄明かりにきらりと光った。
「飴・・?」
「うん。すごーく、おいしいの。食べてみて」
「ああ、ありがとう」
そう言って彼はそれを受け取ると、包み紙を剥がして口の中に放り込んだ。初めて食べるキャンディーなのに、どこか懐かしいイチゴミルクの味が口いっぱいに広がり、唾液が一気に押し寄せてくるのを感じる。

うまいな。心底そう思った。飴など今までにいくらでも口にしたことがあった筈なのに、何故か少女のくれたそれは今までで一番甘く、そして心に染みる感じがする。

夏の夜空の下、薄暗い公園でこの状況に自問しながらも、彼は溶けていくイチゴミルクの味に心までがほどけていくような感覚を覚えた。
「おいしいでしょ」
少女は得意げな面持ちで彼の顔を覗きこんだ。
「うん。そうだね。おいしいね」
彼はにこりと三日月の目で微笑んだ。彼女はその笑顔に微笑み返した。へこんだ笑窪(えくぼ)が愛らしかった。
「お兄さん、その笑顔、忘れないで。それが生きてるってことだよ。きっと」
彼女はあどけなく微笑んでいった。
「死んじゃったら、何も味、感じないよ?きっと何も思わないよ」
彼は少女の顔を見た。心配そうな顔をしている。
「人生やめちゃうんだったら、先に会社やめちゃったら?あたしだったらそうするな。だって、これからステキなことたくさんあるかもしれないし、嬉しいことだってきっとあるよ。何回でも、何度でも、お仕事変えたっていいんじゃない? 私だって彼氏、何人も変わってるし。でも、お兄さんも私も命もらえるのは一回きりなんだよ?自分でそれ捨てちゃうのはもったいないと思う。お兄さんのこと産んだお父さんやお母さんが悲しむよ」
言い終わると彼女は満面の笑みになった。
彼は、頭を鈍器で思い切り殴られたような気持ちになった。
この少女は俺を引きとめようとしてくれているのか。子供なりに他人の俺のことを考えてくれているんだろうか。
気がつくと涙が頬を伝ってしたたり落ちていた。何故泣いているかもよくわからなかった。飴を噛みながら、彼は恥ずかしがることもなくその場で自分の膝を見つめたまま号泣した。鈴虫だろうか。虫の鳴き声が聞こえる。
「ね?死んだらきっと涙も出ないんだから」
静かにそういいながら、彼女はまたカバンのなかをゴソゴソとやると、クシャクシャのハンカチで彼の濡れた頬を拭いた。
「・・・ありがとう、ごめん。ありがとう」
子供のように涙を拭いてもらいながら、彼は、胸の中で硬く結ばれた紐がほどけていく気がしていた。
「謝らないで。お兄さんは悪くないんだから。・・・でも、大人でもそうやって泣けるっていい。うちのお父さんはいつもガマンしちゃうの。映画とか見ても」
彼は幾分、力を込めて答えた。
「いや、違うよ。俺だって、こんな・・・。自分でも驚いてるくらいだよ。きっと、君だから涙が出てきたんだと思うよ」
「私・・だから?」
目の赤くなったサラリーマンの彼と、中一の小さな彼女の顔はベンチに座ったまま向き合っていた。二人は少しの間、互いを見たまま沈黙していた。
彼を見つめていた少女の目が公園の時計のほうへ移されるとその目は次第に見開かれていった。
「ああ、たいへん。こんな時間。ごめんなさい!私、もういかなきゃ。お母さんに怒られちゃう!あの、そのハンカチ、あげる」
急に立ち上がってそう言うと、彼の手にハンカチを押し付けるように渡し、「お兄さん、がんばってね」と言いながら彼女はあっという間に遠くへ走り去ってしまった。腕時計に目をやると十一時を過ぎていた。

礼を言うこともできなかった
そう思いながら、彼は少女の置いていったピンクのハンカチを握りしめ、ベンチに座ったまま彼女の去ったほうをぼんやり見ていた。
その日彼は久しぶりに熟睡することができた。そして目が覚めてからすぐに決意した。

その月末、会社は一身上の都合で退社した。上からは、身勝手だとか、引継ぎ等のことをうるさくガミガミと言われた。突然のことだ。覚悟はしていた。何を言われても決心は揺るがなかった。同僚からも今まで積み上げてきたキャリアを棒にふるのかと誰ひとり話をまともに聞いてくれる者などいなかった。これが俺が築き上げた人脈なのかと思うと、ふと笑ってしまうのだった。
やはり自分の選択は間違いではなかった。改めてそう思わされた。

全く別の業種をしてみたかった。「生きている」と思える仕事。何でも良かった。
思いつくものはいくつかあったが、学生時代に何年かアルバイトでやったイタリアンレストランにしようかと思いついた。よく考えてみれば、今までこなしてきた仕事の中で、それが一番やりがいのある、充実したものだった。

現実はアルバイトとはかけ離れていた。イタリアンレストランの経営は楽なものではなかった。店の設備やらなにやらで、証券会社時代に稼いだ金はほとんど吹っ飛んでしまった。しかし、前には感じられなかった充実感があった。相手が見える。反応がある。自分の理想の味で理想の接客のできる店。それが、オーナー兼、店長の自分が目標とするところになっていた。店の空気も、客達の声も、体の疲れも、全て自分の肌で感じられた。今の自分は生きている。大声でそう叫びたいくらいだった。
売上は月額目標の三百万円に届くには程遠いが、客数が次第に増えてきていることは味やサービスの自信にもつながっている。
あれから彼女に会えることは一度もなかった。彼はずっとあの少女のことを勝手に「天使」と呼んでいた。俺の人生を変えてくれた天使を神が遣わしたのだと。
アパートの部屋の壁には「天使のハンカチ」がずっと飾られている。


店長の目の前にはその天使が、あの時よりもっと女性らしくなって立っていた。

「きみは・・・」
そう言いながら店長の顔は徐々に赤くなっていた。
「どうしたんですか、店長。顔真っ赤ですけど。熱でもあるんじゃないですか?」
心配そうに理沙が店長の顔を覗きこむと、店長は右手で口元を覆いながら理沙に小声でいった。
「いいや、大丈夫。わかばやしちゃん、彼女、知り合いなのか?」
理沙は店長のほうを振り返って、自信満々に答えた。
「ああ、はい。私の親友です」
それを聞くと、店長は見られまいとすぐさま理沙に背を向け、驚いた表情になった。しかし口元はにやけている。まるで自分だけにスポットライトが当てられているような感覚に包まれていた。 人生とはなんてすばらしいんだ。店長は心の中でそう叫びガッツポーズをした。この時店長は初めてトラブルメーカーである理沙を採用して良かったと感じていた。俺の勘に狂いはなかったと。
「とりあえず、席におすわりくださーい」
理沙がそう言うと、はーいといいながら、三人はぞろぞろと席へ移動した。
美紀のほうは、店長の顔に少しもピンと来ていない様子だった。

理沙がお冷(ひや)を持って行こうと、キッチンカウンターで用意していると、店長が寄ってきた。
「その水。俺持ってくわ。キミはあちらのお客様の途中バッシングしといて」
「え?いいんですか」
「いいよー。キミの大切な友達じゃないか」
店長の目は三日月になっている。
なんかこわい・・・
理沙は不気味に思ったが、店長が言うくらいなのだから何かあるのだと思い、「じゃあ、お願いします」と店長に任せた。本当は友達が来たのだから、自分が接客したかったのだが。

「いらっしゃいませ。マリオーロへようこそ」
そう言いながら、店長は水を三人の前に丁寧に置いた。目は三日月になっている。美紀の前にだけ心なしかゆっくり水の入ったグラスが置かれた。
美紀は店長の顔を見て首をかしげている。
「あのお」
美紀が口を開いた。
「は、はい?」
店長は期待を込めて美紀のほうへ顔を向けた。こんなに心臓がドキドキするのは何年ぶりだろう。
「あのお、店長さんですか?」
美紀はやわらかな天使のような顔つきでそう言いながら店長をジッと見つめた。
「はい。そうですが・・」
店長は美紀に釘付けになった。もしや思い出したのでは。
「店長さんの笑顔、ステキですね!」
美紀は両手で頬杖(ほおづえ)をついて首を少しかしげるとニッコリ微笑んだ。光沢のある栗色の髪がサラリと彼女の肩で揺れた。

か・・かわいい・・・

キッチンカウンターに帰ってきた店長の顔は耳まで赤くなっていた。
「店長?大丈夫ですか。なんか、また顔が赤いですけど、ホントに風邪じゃないんですか」
理沙が歩み寄って店長に話しかけた。
「・・・・」
店長はお盆を持って立ったままボンヤリしている。
「店長。あの、店長?」
理沙が不安げな面持ちで店長の顔を覗き込んだ。
「あ?・・ああ、だ、大丈夫だよ。それより、わかばやしくんの親友の彼女は名前なんていうの」
店長は咳払いすると、お盆を抱えたまま理沙に詰め寄った。
「は?美紀のことですか?」
「ミキちゃん?」
「はい。美紀です」
「ミキちゃん・・。そう。いい名前だ・・」
店長は恍惚とした表情になった。
「そう?ですかね。あの、店長どうしたんですか。さっきから変ですよ」
「ミキちゃんかあ、ミキちゃんね・・って、そういえばこの間、わかばやしちゃんがビールでヘマした時に言ってた男に振られたコって・・」
「ヘマって!そんな風に店長思ってたんですか?・・んまあ、そうですよ。あれは美紀のことですけど、それが何か?」
理沙が不服そうにそういうと店長は眉間に皺を寄せ唸(うな)った。そして鼻から深く息を吸い込むと、それを溜め込んだまま低い声で呟(つぶや)いた。
「俺なら、俺なら絶対そんな辛い思いはさせない・・」
「は?」
理沙は店長が言っている意味がよくわからなかったが、売上げがきっと伸び悩んでいることで情緒不安定になっているのかも、と思った。
「わたし、フロア、頑張ってきます!」
理沙は元気よく、フロアに出て行った。

結局、美紀達が帰るまで、彼女達の接客は帰りのレジに至るまで店長がすべてこなした。しかも、頼んでもいないジェラートを嬉しそうにせっせと運ぶ店長の姿は、友達をもてなしてくれる嬉しさはあったが、理沙には店長がそれだけで動いているようにはとても思えなかった。
「わかばやしちゃん、今日は本当におつかれさん。上がってもらっていいよ」
店長は満面の三日月笑みで理沙の肩を叩いた。
「はい。お先に失礼します」
理沙はそういってペコリと頭を下げた。
今日は帰りひとりかあ
そう思いながら控え室のドアを開けた。

控え室に入ると、タクヤが私服に着替えてパイプ椅子にもたれて足を組んで座っていた。
「理沙ちゃん。おつかれ」
タクヤは意味ありげに微笑んだ。
「タクヤさん。 お疲れ様です。今日はもう上がりですか?」
タクヤは立ち上がって理沙の目の前に立った。
「いや。今日は亮が休みだからさ、俺が君を送ってこうと思って」
半径一メートル以内。それは理沙が男子に対して最も警戒する距離だ。理沙のまわりの男子はもちろんそこには入ってこない。自分を教育している亮でさえ、その距離は保ってくれていた。実際のところ、亮が近づくと理沙が離れる。そういうシステムになっている。しかしタクヤはそれをいとも簡単に超えてくるのだ。
理沙は一歩後ずさった。
「え?でもタクヤさん車じゃ・・」
タクヤは理沙に一歩近づいた。
「ん。だから歩いて送ってくよ」
理沙はまた一歩下がった。
「いえ、申し訳ないです。私、一人でも帰れますし。それに車はどうするんですか?」
タクヤはまた一歩こちらに来た。バター系の甘い香りがする。
「また戻ってくるからいいんだよ」
理沙は慌てて言った。
「戻ってくるって店にまた来るんですか?」
タクヤはやや長めの前髪をかき上げた。落ちてきた黒髪の間から鋭い眼差(まなざ)しが光を帯びている。
「ああ。散歩がてら、いいじゃん。たまには」
「そんな!本当にいいです。そんなこと、わたしが困ります」
「いいじゃん。俺が送りたいからって店長に無理言って上がったんだからさ。めんどくせーから断んないで。早く着替えなよ。俺待ってるから」
理沙は眉間に皺を寄せた。どう言っても逃げることはできなさそうだ。
「ええー。困るなあ・・。わかりました。じゃあお願いします」
渋々言うと理沙はロッカーから私服を出し、更衣室に入った。
その後姿を認め、タクヤはニヤついた。

外の空気は夕方のそれとは違い、冷たい北風が頬を撫でる。
「ううっ。さぶ」
理沙が寒そうに肩を上げると、タクヤが後ろから理沙の肩に両手を置いて理沙の体を押した。
「さ、いこいこ。風邪ひくといけないからね」
理沙はドキッとした。そう背の高くないタクヤだったが、がっしりした体は男性的なものを感じさせる。それと同時に理沙は自分の身の危険も感じ、少しタクヤから離れた。
理沙が自転車の鍵(かぎ)を外すと、タクヤがハンドルを横取りするような格好で理沙の顔見たままいった。
「うしろ、乗って」
「え?だって、歩くって・・・」
「遠慮すんなよ。ニケツして俺の背中につかまってたら少しは暖かいだろ?」
「いえいえ、いいです。そんな、ケーサツに捕まっちゃうかもだし」
理沙はあわてて、両手を大きく振った。
「めんどくせえな。いちいち遠慮すんなよ。ケーサツに捕まるなら俺が捕まるから大丈夫だよ。遠慮する女ってかわいくないぜ。早く乗れよ」
タクヤは自転車に乗って待っている。
どうしよ。あたし、最大のピンチなのか、チャンスなのかわかんない
理沙が困惑した顔で突っ立っているとタクヤの「早く!」という声が飛んできた。
仕方なく理沙はタクヤの後ろに自転車をまたいで乗り「じゃあすみません」といって自分の乗った荷台の前のほうをしっかり掴んだ。外で長いことさらされていた自転車の荷台は手にジンとする冷たさがあった。
「なにやってんだよ。俺にちゃんとつかまれっての」
タクヤはその理沙の両手首を後ろ手に取ると、自分の腰に無理やり巻きつかせた。
ひゃああ! 
理沙は腹部の底からマグマのように熱いものが全身に流れ出して行く感覚を覚えた。
「行くよ」
タクヤは漕ぎ出した。タクヤは黒のダウンを着ていたが、その上からでも引き締まった骨格があるのがわかる。バニラビーンズだろうか。スイーツのいい香りがしていた。
勿論(もちろん)男性の自転車の後ろに乗ることなど、生まれて初めてだ。憧れだった。
理沙は自分のドキドキがタクヤに伝わっていないかどうかが心配だった。
「あの・・重くないですか?」
自転車はグングンスピードを増して進んで行く。理沙が一人で漕いでいる時よりも早い気がする。冷たい風はタクヤが全て受けてくれていた。
「ん? ハハ。まあ、そりゃ重いけどね」
タクヤの低い声が背中を伝わって理沙に聞こえてくる。
「ええ?じゃ、じゃあ降ります!」
理沙が慌てて体勢を変えようとすると、タクヤの片手が理沙の手首を掴んだ。
「あぶねーだろ。大丈夫だよ。ちゃんと乗ってろ」
理沙は心臓が飛び出しそうになった。
「は、はい。すみません」
理沙はまたタクヤの腰に手をまわす。こんなの誰かに見られたら大変だと思いながら。

信号待ちのところで自転車を停めるとタクヤがポケットからガサッとなにか小さいものを出した。
「理沙、甘いもの好き?」
り、理沙って・・
「あ、はい。好きですけど」
「良かった。じゃあ、これあげるよ」
そう言うと、タクヤはポケットから出したものを後ろ手で理沙に渡した。
小さいラッピング袋に入ったチョコレートだった。
「余ったチョコでさ、たまに作るんだよね。食べてごらん」
甘いものに目がない理沙はテンションが上がった。吹き出物のことはすっかり忘れている。
「うわー!嬉しい。ありがとうございます」
受け取ると理沙は両手でラッピング袋から取り出し、チョコレートを口に入れた。チョコは口の中で一瞬で溶け、何とも言えないまろやかな甘さが口中に広がった。
「わー、ほいひー」
理沙は顔をほころばせた。こんなにおいしい生チョコは初めてだ。
「良かった。つかまれよ。先行くよ」
理沙はタクヤに摑まりながら、ドキドキしていた。男の人とはこんなに皆優しいものなのだろうか。
「理沙って超かわいいよな」
タクヤが少し振り返って呟いた。
「えっ?なんですか突然」
理沙はタクヤから身体を引き離した。タクヤは気にも止めずに歯が浮くような言葉を続ける。
「なんか純粋でかわいいよ。最近、なかなかいないよ。理沙みたいなかわいい子。やさしくて、明るくて、一生懸命でさ」
「え、そ、そんなことないです。あの、でも、社交辞令でも嬉しいです。ありがとうございます」
理沙が恥ずかしげにそう答えると、タクヤは声をたてて笑った。
「社交辞令じゃねえから。俺はマジだよ」
「へ?」
「俺、理沙のこと好きだもん」
理沙は荷台でひっくり返りそうになった。
「は?な、なんですか、急に。そういう言葉って誤解を招きますよ」
理沙は慌ててタクヤに回した手を引っ込める。
「おい、あぶねーって。ちゃんと摑まれ」
そういうとタクヤはまた理沙の手を掴んで自分の腰に回させた。理沙はどぎまぎした。
「俺はマジで理沙のこと好きだよ。理沙が店に居る時、俺がどんな気持ちでお前のこと見てるか知らないだろうけど、理沙の姿を見る度に好きになっていくのが自分でもわかるんだよ」
タクヤは自転車のスピードを上げながら理沙にかすれた声でそういった。もう降りられない。
理沙は素っ頓狂(す    とんきょう)な声で叫んだ。
「ま、まってください。自分でなに言ってるかわかってるんですか。タクヤさんには中山さんがいるじゃないですか」
「中山?ああ、あいつそんな名前だったっけ。 あいつは最近俺を監視しててウザイんだよね。最初からあいつのこと別に何とも思ってねえし」
「はあ?何とも思ってない人と、その・・そういうことできちゃうんですか?」
「え?そういうことって・・。ああ、キスしてるってこと?まああいつはキスだけは上等なんだけどね」
理沙はゴクリと唾を飲み込んだ。
「正直、あいつにはウンザリしてんだよ。キス以上のことも迫ってくるしさ」
タクヤはこともなげに言った。
理沙はタクヤの背中を見てもう一度、唾を飲み込んだ。いつも見るあの光景が蘇(よみがえ)る。
「でも、俺は理沙にはそんな軽いことしないよ。お前のこと、マジで好きだし、誰にも取られたくない」
「きゅ、急にそんなこといわれても・・・。あ、ここ右です」
タクヤは右に曲がると自転車を急停止した。そして理沙のほうを振り返り、熱っぽく言った。
「好きだよ」
理沙はドキリとし、とっさに目を逸らすと下を向いた。
「別に付き合ってくれとは言わないよ。お前が亮を好きだってのも何となく分かるし」
「え?りょ、亮さんなんて好きじゃありません!」
理沙は声を張り上げた。
「そう?ま、でも俺にはそんなの別にどうだっていいよ。俺のほうを向いてくれるまで待つし。で、家どこ?」
「・・・・」
理沙は途方に暮れた顔をした。
「聞いてる?家どこ?」
「あ、すみません。そこのクリーニング屋さんの隣です」
「了解」
そういうと、タクヤは灯りのついていないクリーニング屋の前に自転車を停めた。
「安心して。俺は理沙に何も手出ししないから。店長から『送りオオカミ禁止令』が発令されてるからね」
タクヤはそう笑いながらいって自転車から降りた。いつの間にか、雨が降り始めていた。
「雨か。寒いわけだよな。じゃあ、俺はこれで。おつかれさん」
タクヤは理沙に背を向けて歩き始めた。
「待ってください」
理沙はそう言うと、家の外に置いてあった傘を持ってタクヤの前に走って行った。
戸惑いの混じった目で理沙はタクヤを見上げた。
「あの、送っていただいて、チョコもありがとうございました。私・・でも何て言っていいか・・。あの、帰りにこれ使って下さい」
理沙はためらいがちに傘を差し出した。タクヤの目は見れなかった。
タクヤは黙って傘を受け取ると同時に力任せに理沙を引き寄せた。理沙はタクヤの体にすっぽり収まって抱きしめられていた。
理沙は突然の出来事に驚いて離れようと腰が引けてしまい、へっぴり腰になった。
「ごめん、『送りオオカミ禁止令』破りそうになった」
タクヤは理沙を引き離すとそう言い残して理沙から受け取った傘もささずに走って行った。タクヤが角を曲がって消えた時、理沙ははじめて自分が雨に濡れていることに気がついた。

ドキドキしていた。家に帰ってもう一時間は経つのにドキドキしている。理沙は帰ってすぐに部屋に閉じこもっていた。タクヤに言われた言葉が呪文のようにリピートしている。
『好きだよ』
理沙は小さく首を振った。
「あたし・・。あたし、今、コクられたぁ?」
初めて男に抱きしめられたのだ。あわよくば、キスされていたかもしれない。
『お前が亮を好きだってのも何となく分かるし』
今度は大きく首を振った。しかしその後真顔になるとクッションを抱きしめたまま赤い顔でぼんやり天井のポスターを見つめた。


タクヤはコバルトブルーのスカイラインのハンドルを握りながら理沙のことを考えていた。
食えるか、食えないか。あれは簡単に食えそうな気もするが、少々お堅いかんなぁ
赤信号でエンジンを吹かしながらタクヤは舌で上唇を舐めた。





テストの最終日、理沙はちょっと遠出して自宅から三十分ほど行った大型ショッピングモールに来ていた。

今度買う服は何にしようかな。今度は失敗しないようにしなきゃ
前回アルバイト代のすべてを注ぎ込んで買ったワンピースはサイズが小さく、しかも脇の下が破れてしまい、返品もできないというありさまで結局それは脇の下を縫ったあと美紀の手に渡った。美紀に着せてみたら憎らしいくらいピッタリのデザインにサイズだった。あんな失敗、二度とするまい。理沙は心に誓っていた。

かわいい流行りの服と値段のタグを交互ににらめっこしていた。
「おい」
ふいに耳慣れた低い声が上のほうからした。なぜかその声に胸がキュウッとなる。理沙は恐る恐る振り返った。
「奇遇だな。なにしてんだ、こんなとこで」
亮が私服姿で立っていた。ブルージーンズに黒のニットという別段オシャレなわけではない格好であったが、亮は何を着ても特別に格好よく見えてしまう。不意打ちされたような驚きと、初めて見る亮の私服姿に理沙はドキリとして、急激に顔が赤くなっていくのがわかった。
「な、なにって、か、買い物に決まってるじゃないですか」
理沙は顔を隠すように向き直って洋服の値札(ねふだ)を見ているふりをした。
「ほお、プライスが逆さだけど、お前ずいぶん器用だな」
亮は理沙の後ろから覗き込んだ。背後に立たれると更にドキドキする。

『亮を好きだってのも何となく分かるし』

理沙はタクヤの言葉を思い出し、何かに弾かれるようにその場を離れた。
「な、なんですか。私に何の用ですか?」

なんで、こんな奴にこんなドキドキすんの

理沙は飛び出しそうな程、バクバクする心臓が恥ずかしくて仕方なかった。
亮は「ふっ」と鼻で笑うと店頭に並ぶ洋服に目をやりながら答えた。
「あんたに?別に用なんてないよ。ただ思いがけなく見かけたから話しかけただけ」
「あっ、そ、そーですか」
「テスト、終わったのか」
「あ、ハイ。あの、亮さんもテスト終わったんですか」
「ああ、まあな。俺はクリスマスシーズンに向けて店に飾る小物を見に来たんだよ」

はぁ~。どこまで仕事人間
理沙は思いながら心の中で“オーマイガッ”の姿勢をとった。

「じゃあ、あの、私はこれで失礼します」
亮は腰に手を当てたまま、「ん。じゃーな」ともう片方の手を挙げた。
理沙は亮の顔も見ずに亮にくるりと背を向け、足早にその場を立ち去ろうとした。十歩ほど歩くと、また後ろから声がした。
「おい」
理沙は立ち止まって少し振り返った。かすかな期待を込めて。
「はい?今度はなんですか」
「そっち、紳士ものの下着売り場だぜ」
理沙は恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にして目を剥いた。
「しっ、知ってます!ほっといてくださいっ」
「あ、そ。わかってんならいいけど」
「・・・じゃ、じゃあもう行きますんで」
「ああ」
理沙はまた亮に背を向けると、紳士の下着売り場に向かって歩こうとした。そちらに全くもって用などない。一刻も早くこの心臓の高鳴りをどうにかしたかった。
「あのさ」
背後から亮がまた声をかけてきた。呆れたように理沙は振り返った。
「わかってますって。紳士ものでしょ」
腕時計を見ながら亮は思いついたようにいった。
「いや。あんた、昼飯食った?」
思いがけない言葉に驚いて振り返り、亮の方を見上げると、珍しく理沙に微笑みかける優しそうな亮がいた。理沙はそれがとてつもなく眩(まぶ)しかった。



緩やかな坂道に沿って立ち並ぶ、静かな住宅街の中にその店はあった。
こんなところにこんな店があったなんて・・・。理沙は亮に言われるがままショッピングモールから十分程のこの場所までついてきて自転車を走らせてきた。
「・・・ここですか?」
店の前に連れて来られた理沙は、店頭の看板を見上げていた。看板には『PIZZA &PASTA ITALIANO』と書かれている。小ぢんまりとした店だ。イタリアーノという割には、カントリーチックな要素とヨーロッパ風なものが入り混じっていて、そのミスマッチ感が不思議なたたずまいだったが、イタリアの国旗がかかげてあることからここがイタリアンレストランであることは容易に推測できた。
「もしかして、またイタリアンレストラン・・ですか」
不服そうな理沙の質問に亮はにこりと笑うといった。
「そうだ。またって何だ。ご馳走してもらうくせに何か問題でも?」
「あの、たまにはちがうものが・・」
「先、入るぞ」
理沙の言葉を聞かずに亮は店のドアを空けた。
「いらっしゃいませ、イタリアーノへようこそ!」
「いらっしゃいませ!」
「ようこそイタリアーノへ!」
何人もの店員が二人に向けて叫んだ。理沙はあまりの声の大きさに面食らった。声が大きすぎる。
「ふたり」
亮がそういうと、寄ってきた一人のロシアの民族衣装のような服を着た店員が愛想よく席へ案内した。
「こちらのお席へどうぞー」
過剰に大きな声とともに通されたのは店の一番奥だった。理沙は不思議そうに亮の顔を見上げた。亮は無表情で通されたまま席に座った。
「ようこそ、イタリアーノへ!本日のおすすめは、『シェフのきまぐれパスタ』です。ご注文お決まりになりましたら、お呼びくださーい!」
そう叫びながら店員は去って行った。

シェフのきまぐれパスタって、一体どんな味なの

理沙は気になり、亮に顔を向けた。
「あの・・。ここって・・・?」
「いいから、メニュー見ろ」
手渡されたメニュー仕方なく開くと、理沙の働く店とはかけ離れた類(たぐい)のメニューがのっている。『山のきこり風パスタ』『森の妖精サラダ』『シンデレラのカルボパスタ』、どっかで聞いたことがあるような、ないような、とにかく正統派なイタリアンではないことは確かだ。会計を済ませた客に飛び交う声は「ありがとう存じます!」である。存じますってそういう使い方すんのかな、などと思いながら理沙はあからさまに顔を歪めた。
なぜこんな店に亮は連れてきたのだろうか。
「あの」
不満げな顔の理沙を見た亮はこちらのいいたいことを悟ったようだ。
亮は半笑いを向けた。
「どう思う?ココ」
理沙は首を傾げながら小声になった。
「あの、連れてきてもらって何なんですが・・」
亮は小さくクスリと笑い、見ていたメニューを閉じた。
「そうか。よし、行こう」
理沙は亮の言っている意味が分からず、「はぁ?」といって首を傾(かし)げた。
「いいから」と言いながら、立ち上がると亮は店員に告げた。
「すみません。ちょっと、急用できたんでやっぱいいです」
店員は怪訝そうな顔を向けた。入店したときの勢いが嘘のようだ。
亮は理沙の手首を掴むと「いくぞ」といい、店の外へ連れ出した。店員達は先ほどの愛想はどこかへ消え、責めるように理沙達が出て行くのを不服そうな顔で睨んでいた。
理沙は何が何だかわからず、店から出ると亮の手を振り払った。急に手首を掴むなんて、ルール違反だ。せっかく収まりかけたドキドキがまた動き出してしまう。
「ちょっと、なんなんですか。行くって言ったり、出るって言ったり、イミがわかんないんですけど」
そう言いながら理沙は不服そうにマフラーを巻き直した。晴天ではあるが、今日は気温が五度を下回り、いよいよ冬の訪れを感じさせるような寒さだ。
「もともと食わせる気はない」
「はあ?」
「だから、もともとここで食わせる気はないって言ったんだよ。まあいい。よし、次いくぞ」
亮は自転車を進めて先へ行ってしまった。
なんなのよ、コレ
理沙には亮が考えていることが全く理解できなかった。それに、前に口論になったことをまるで何もなかったかのように接してくる亮の態度も解(げ)せない。

亮の行動を理解できぬまま、仕方なく仏頂面で理沙は後を追った。



『老舗(しにせ)』と言われるような数々の店が軒(のき)を連ねていた。その一角の前に理沙と亮は立っていた。木製の看板に「RISUTORANTE HIDE(リストランテ ヒデ)」とおしゃれな字体で書いてある。理沙達は先ほどの店からまた二キロほどいった小さな商店街に来ていた。石を積み上げた小ぢんまりとしたその店は、ここだけヨーロッパに来たような雰囲気が漂っている。イタリアの国旗は掲げていない。
「いいか。うちの店にはない、いい所を吸収して帰るんだぞ」
そう言うと亮は店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
静かで落ち着いた声で清潔感のある男性が店の入口を入るとすぐ出迎えた。黒のロングエプロンに黒のコックシャツを着ている。
店内にはカンツォーネが流れ、イタリア製の調度品が目を引く。シャンデリアがきらめく店内は落ち着いた雰囲気を演出している。
「予約していた菅谷です。二人にできる?」
理沙はすぐに亮を見上げた。
「え?予約してたんですか!」
亮が理沙を睨んだ。
「シッ!」
「菅谷様、お待ちしておりました。お二人でも大丈夫です。どうぞ」
店内はほとんどが女性客で埋まっていた。しかし、さほどざわついている感じもしない。店は静かな雰囲気だ。
理沙達は店内の奥へ通された。ほぼ満席の中、予(あらかじ)め用意されていたであろう予約席が一人分のテーブルセッティングをされてポツンと空いていた。革張りのブラウンのセブンチェアに白いテーブルクロスがインテリアを引き締めている。壁には黒と白の流線型のようなモダンアートの絵が飾られていた。
「こちらでございます。只今お連れ様のセッティングさせていただきますので、お掛けになってお待ち下さいませ」

「なんか、すごいところですね」
「ん。ランチタイムは特に予約が取れないんだよ」
理沙は小声になった。
「っていうか、前から予約取ってたんですか?」
「ああ、一ヶ月前にね」
じゃあ、なんでさっきの店に行ったのかと聞こうとすると、店員が理沙のテーブルセッティングをしに来て理沙は口をつぐんだ。理沙は亮の考えていることが全く理解できない。
「うちの店とは違うだろう」
理沙は店内を見回した。
「そうですね。なんか、すごく大人なカンジ」
亮は笑いながらワイングラスに注がれたミネラルウォーターを口に運んだ。
「そうだな。まずレストランの客層を見ればその店がどんな店だかすぐにわかる」
理沙は今度はまわりの人々に目をやった。品のいい感じの女性ばかりだ。
「確かに。なんか、セレブっぽい女性が多いですね。ここ、高いんじゃないんですか?」
理沙は言いながら周囲を見回した。
「まあ、そこそこな。俺はランチだから来れるようなもんだよ。あんまキョロキョロすんな」
理沙は慌てて両手を両膝に乗せて俯(うつむ)いた。
「はあ。そういうもんですか。ココ食材なんかも高そうですよね」
「確かにそうかもな。よくは知らないけどきっとそうだろうな。でも、高価な食材を使っているから高級店なんじゃない。料理はもちろん、サービスの良さが店への満足感に繋がることは間違いない。サービスは、やりすぎても、手抜きすぎてもダメだ。スムーズに、流れるようなサービスが自然で心地いいんだ。お客にストレスを感じさせないって結構難しいんだぜ」
理沙は先ほど行った声の大きな店員のいるレストランを思い出した。確かに二度と行こうなんて思えない。
「はあ。確かに。そういうもんですか。でも、なんかさっきから授業受けてるみたい」
亮は「悪いな」と言いながら笑った。そしてまた続けた。
「じゃあ、授業ついでに質問だ。なんで、人はレストランに来ると思う?」
なんかテストみたいだなと思いながら理沙は答えた。
「美味しいものが食べたいから、じゃないですか」
亮は頷(うなず)いた。
「うん。それはもちろんそうだ。そうなんだけど、じゃあ家で配達してうまいもんが食えたらそれでいいのかって話になるだろ?」
「あ、それは違いますね」
「そうだろ?人は五感で生きてるんだ。雰囲気も必要だ。味だけで満足するわけじゃない。それに俺の持論だけど単純に、人は喜びを感じたときとか、記念にしたい時に幸せを求めてレストランに行くと思うんだよ」
確かに、お祝いによく外食するパターンなどが多いことを理沙は想像した。
「なるほど・・・。そうかも。あんまり深く考えたことなかったな」
「俺も、このバイトするまでそんなこと考えもしなかったよ。でも知れば知るほど、もっと色々なことを考えるようになったんだよ。俺はそういう感動をしてもらう為に、こういう場所へ来て、自分の再確認をするんだ。今のままで大丈夫かってことをね。それに、どんなに混み合っていても俺たちはそうなればなる程、謙虚でなきゃいけないんだ。来てくださっている。この店の為に時間を割いてくださっているって。してやってるとか、与えているというような感覚を絶対に持っちゃいけない。人から対価をもらっている以上、それに見合ったもの、いや、それ以上のものを返さなきゃいけない。俺はそう思う」
亮の口調は熱が入っていた。自然とゼスチャーが大きくなっている。
理沙は亮の言っていることを何とか理解はしていたが、その内容はもはやアルバイトの域を超えていた。今まで見たこともないほど饒舌(じょうぜつ)に話す亮の瞳はキラキラと輝いている。理沙はそれが何故だか羨(うらや)ましく感じた。
「亮さん、なんかすごい」
「何が?」
「どうしてそこまで、お店のこと考えてるんですか」
亮はクスリと笑った。とても爽やかに。大きな手で自分の顎(あご)をなでた。
「いや、店の為というよりも自分の為だな」
「自分の?」
「ああ。俺はいずれ独立して、自分の店を持ってみたいんだ。その日の為にも、自分がいま何もしなかったことを後悔したくない」
理沙は亮から出る一つひとつの言葉に驚いていた。理沙はそんな遠い未来など考えたこともない。考えたことがあったとしてもせいぜい、二ヵ月くらいなもんだ。一年後なんてせいぜい学年が上がっていることぐらいしか想像できない。今のアルバイトを続けているのかどうか。仮に続けていたとしても、今よりマシになっているのかさえも考えが及ばない。

「独立?お店持つんですか」
亮はテーブルに両肘をついて手を顎の下で組んだ。真剣な目だ。
「ん。いずれな。だから少しでも色々な店を知っておきたいんだよ。いいところも悪いところも踏まえて。今は自分が店をできるかどうかまだ不安なんだけどさ。人をハッピーな気持ちにできるような、イタリアンレストランを俺は目指してるんだ」
「ハッピーな、イタリアンですか」
理沙は何か考える顔をしたあと、亮をしっかりと見て言った。
「できると思います」
「え?」
理沙は力をこめて言った。
「亮さんなら、きっとできる。すごくステキで皆をハッピーにできるお店、亮さんなら作れると思う」
亮は前のめりになる。明るい顔になった。
「本当にそう思うか?」
「はい。私もそのお店に行ってみたい!」
亮は嬉しそうに理沙に歯を見せて笑った。安堵した表情だ。
「ありがとう。なんか、すっげえ励まされた気がする」
理沙は亮を見てニッコリ微笑み返した。
「頑張ってください」
「おう。センキュー」
二人の間に穏やかな空気が流れた。「実はさ」と言いながら亮はまた前のめりになった。
「俺、何年かしたら、イタリアに行くことになってるんだ。店長の知り合いの日本人シェフがイタリアにいて、そっちで勉強させてもらえることになってな。住みこみで働かせてもらえそうなんだよ。だから、そのうち俺はいなくなる。まあ、お前にしてみりゃラッキーかもだけどな。ハハ」
軽く笑いかける亮に対して、理沙は凍りついた。
「そんな・・・」
理沙が話そうとすると静かに前菜が運ばれてきた。
「野菜のガルグイユー、ジンジャーとわさびのソースでございます」
理沙は言おうとした言葉をのみこんで心にしまい込んだ。「そんなの寂しすぎます」その言葉を言う勇気もなかった。
気を取り直した理沙は前菜を見た。立体感のある芸術的で美しい盛り付けだ。思わず両手を胸の前で合わせていた。
「わあ、きれい。ステキ」
薄くスライスされたアスパラガスに、ヤングコーン、ブロッコリーや大根を湯通ししたものの上に紫の野草がのっている。まるでサラダの宝石箱のようだ。
「どうぞ。召し上がれ。お姫様」
亮はそういうと優しい笑顔で理沙を見た。

食事が終わるまで、理沙にとっては夢のような時間だった。ランチのパスタはウニクリームだったが、今まで食べたことのないほど爽やかな味と香りで、食後のガトーショコラは切り口からチョコレートが溶け出して、口に運ぶ度(たび)に幸せな気持ちになれた。店内のサービスも、亮の言うとおり、流れるように食事が運ばれ、下げられ、待たされていることを感じさせない。そんなサービスだった。そして、そんな中で亮のことを見ればみる程、好きになっていく自分の気持ちを突きつけられるようだった。
「よし。じゃあ、帰るか」
「あ、はい。あの、おいくらでしょうか。私の分、払います」
「ああ、飯代はいいよ。もうさっき払ったから」
「え?」
いつのまに・・・。そういえば、亮は理沙がデザートを頬張っている間に化粧室に行ってくるといって席を外していた。あの時理沙に悟られないうちに会計を済ませていたのだ。理沙は何だか申し訳ない気持ちで一杯になった。
「そんな・・・」
「いいってんだからいいよ。ご馳走するって約束だろ?大嫌いな俺につきあってくれたんだからさ。いいんだよ。そうだろ?」
突然の言葉に理沙は赤面した。亮は席から立ち上がると「いくぞ」と言いながら店の出口のほうへ歩いて行ってしまった。慌てて理沙はその姿を追いかけようと店の出口に急ぐと、レジの前に売っているストラップが目に止まった。

「ありがとうございました」
落ち着いたな店員の声を背に、理沙は店を出た。
「何やってたんだよ。遅いぞ」
亮は少し待たされ、不機嫌そうな顔をして自転車の前に立っていた。
「あの、ごちそう様でした。すごくおいしかったです。あの、それでコレ・・・」
理沙は小さな紙の袋に入ったものを亮に手渡した。
「なんだ?これは」
「食事の、お礼です。レジの前で売ってたものですけど・・」
亮は「ふうん」と言いながら袋を開けた。青トウガラシのストラップが入っていた。
つまみあげてしげしげ見た後、理沙のほうを見て「サンキュー」といった。
「ど、どういたしまして」理沙は俯いた。
そのまま理沙と亮はどちらからともなく自転車をこぎだした。

「あの・・」
自宅方面に向かいながら、理沙は少し前を走る亮に話し掛けた。
「え。なんか言った?」
理沙は勇気をふりしぼった。
「あの、この間、私に『お前の面倒みんのは無理だ』って言ったのに、なんで今日はごはんに誘ってくれたんですか。それに、最初行ったお店・・・。あれは何だったんですか」「ああ」亮は笑った。
確かに、あの時はかなりムカついてたよ。お前にも、自分にも」
理沙は思いがけない言葉に思わず顔を上げた。
「自分にも?ですか」
「そう。俺はさ、お前にサービスの仕方を教えてやってるつもりだったんだよな。でも、俺の求めてる店のサービスとお前の考えてるものと、もっと言えば店長が目指してるものがズレてんだよ。何だかんだ、お前に反抗されて、俺は一人で仕事してるつもりだったのかもなって思い始めてさ。だから、偶然会ったから、この機会に俺の求めている世界をお前にも見てもらおうと思ったわけ」
理沙には難しくてよくわからなかったが、とにかく亮の中では前回の件は勝手に解決していたらしい。どう受け止めていいのかわからず、理沙は首を傾げた。
「まあ、仕事ってチームプレイなのかなってことだよ」
何となく理沙はうなずいた。
「なるほど。まあ、そうですね」
「うん。あと、最初に連れてって店は・・ククッ」
亮は可笑しそうに笑った。
「あれはおれのオヤジがいた店なんだ」
「へえ。・・ええー!」
理沙は驚いて周囲も気にせず叫んだ。




「ヤバイ。あたし、かなりヤバイっていうか、サイコー!」
理沙は帰って自室にこもるとクッションを抱えてベッドに寝転んだ。
亮はあの後、家の前まで送ってくれた。はじめてだった。 あの、へんてこりんな店が亮の父が働いていた店だったこと以外、亮のことをたくさん知ることができた。父のことに関してだけは「あとは企業ヒミツ。お前の感想聞きたかっただけ」といってそれ以上語ることはなかった。
しかし、理沙を送りとどけた時、亮に突然聞かれた。
「お前さ、また俺と仕事頑張ってみる気はあるか。あるなら・・また、教えてもいいんだけど」
理沙は面食らった。口から出た言葉は、本心だった。
「は、はい。亮さんと頑張りたいです!」
言ってから顔から火が噴いた。
「そっか。俺もさ・・・悪かったよ。また、よろしくな」
亮はそれだけ言うと、身をひるがえし素早く自転車を走らせて去って行った。

「ヤバイ・・ヤバイよ。あたし、かなり好きかも・・・」
理沙は今日あった亮との会話を頭の中で何回もリピートしていた。あのやりとりを誰かに録画してほしかった。そしたら何度も何度も見れるのに。 
おかしいな、好きにならないはずだったのに・・そう何回も思った。亮は何年か先には居なくなる。そう思えば思う程、次に亮に会う日が待ち遠しく、恋しく思った。浮かんでは沈む、そんな長い夜を過ごした。顎(あご)に手を当てるとあんなにあった吹き出物はいつのまにか消えていた。





 「つ、ついに、好きな人ができたあああ?」
美紀が理沙の襟首を掴んで理沙と顔がつきそうな程自分に引き寄せた。
理沙は照れ笑いしながらはにかんだ。
「そ、そうなの。ついに・・です」
美紀は身を乗り出した。
「ええー。いいな、いいな、いいなの100乗だよー!で、で、相手は?いつから付き合ってんの」
理沙は美紀を手で阻んだ。
「ちょっ、ちょい、ちょい。焦りすぎ!あたしは美紀とは違うんです。つ、つきあうなんて! 好きになっただけ。向こうはこっちになんか見向きもしてないんだってば。思いっきり片思いです」
美紀はがっかりしたようにそっくり返った。
「なーんだ。つまんない。うまくいったのかと思ったのに。どうせ、イタリアンのバイト先のイケメンでしょーが」
ぎょっとした。美紀の鋭さときたら天下一品だ。
「なっ!なんでわかんの?しかも、声でかいよ美紀っ」
キョロキョロする理沙を無視するようにに美紀は声を大にした。
「わかるわよー。だって、理沙ったらその人の話しかしないじゃない」
口を押(おさ)えて慌てた。
「ええ?そ、そう。そんなに話してたっけ」
「わかりやすいなあ。それにしても見てみたいなあ、そのイケメン・・」
どぎまぎして美紀に詰め寄った。
「ダメッ。美紀は絶対会っちゃだめ。好きになっちゃうもん」
美紀が目をぱちくりさせる。不満げに口を尖(とが)らせた。
「なにそれ、どーゆーイミよ。あたしが理沙の彼氏取るとでもいうわけ!」
恥ずかしそうに理沙ははにかんだ。
「だから、彼氏なんかじゃないし」
「でも・・そっかあ、そっかあ」そう言って美紀はフフと意味ありげに笑った。





「はよーざいまーす」
いつものように亮が挨拶しながら控え室に裏口から入ると、理沙のロッカーの前から中山が慌てたように離れた。
「・・よー・・まーす」
消え入るような声で中山は挨拶を返し、弱弱しい顔で控え室から出て行った。
「なんだ。アイツ。いつもハッキリしねえ奴だな。・・まいっか」
少し不審に思ったが、亮は自分のロッカーの前で支度を済ませ、タイムカードを押してすぐに店に出て行った。

 その三十分程後にマリオーロに着いた理沙は店の裏口には既に亮の自転車が停まっていて、心臓が跳(は)ねた。
恋するって、こういう事なんだ
つくづく自分の恋心を実感し、ぼんやりと亮の自転車を見つめて、つい微笑んだ。
しかしすぐににやけた顔が真顔になった。

『恋愛対象にするのだけは勘弁してくれよな。そういうの、俺すげえ面倒くさいからさ』

亮に前言われた言葉が脳裏を過(よ)ぎったのだ。自分は亮にとってはただのアルバイト仲間、いや、同僚でしかないのだ。きっと、亮にとって恋愛などというものは仕事の邪魔なのだ。休みまで返上してあんなに仕事に入れ込んでいる。だから「そういうのは面倒くさい」と言ってきたに違いないんだ。理沙はこうなることがわかっていたかのような亮の言葉が今更ながら胸に突き刺さった。

「おはようございます」
やや伏目がちで着替えを済ませた理沙が控え室の通路から店内に出ようとした。するとその延長線上に偶然いた亮が振り返り、理沙に気がつくと優しく笑った。
「おう。昨日はありがとな」
心臓の奥がギュッと苦しくなるような感覚がした。その後、背中から熱くなる感覚が襲ってくる。自分でも、抑えたくてもどうしようもなかった。
まぶしい。まぶしすぎるんだ。その笑顔が。なんだかクラクラする。
そんな自分にハタと気付いて慌てた。
「い、いえっ!お礼を言うのはこちらのほうです。あの、あの・・・」
理沙がなにか言おうとすると、後ろから声がした。タクヤが立っていた。
「おはよう。理沙。こないだは傘ありがとうな」
声には以前よりも親しげな響きがある。
「え?あ、はい。おはようございます」
理沙はタクヤと亮に挟まれるような形になっていた。
「それと理沙。この間は、マジごめん」
タクヤは頭を下げながらいった。しかしその顔に少しも悪びれた風もない。
「タクヤさん。あの、ゴメンて何のことですか」
タクヤは肩をすくめた。
「いや、なんか俺もこの間、気持ち抑えられなくて。理沙のこと抱きしめちゃってさ。ああ、あと、理沙が俺に濡れないようにって貸してくれた傘は控え室の傘立てに置いといたから。サンキューな」
一瞬にしてタクヤに送ってもらったあの日の夜のことを思い出した。そしてハッとして振り返ると、後ろで立っていた亮と目が合った。亮の顔は無表情だった。
「あの、あの・・あの」
理沙はタクヤと亮を交互に見て口元を抑えて動揺した。だが二度目に振り返ると亮の姿はもうなかった。
理沙はタクヤににじり寄って泣きそうな顔をして小声でいった。
「タクヤさん。困ります。こんな所でそんな話・・」
タクヤは理沙の顔を覗き込んでいった。
「困る?なに。亮が見てるからか。だからさ、俺にはカンケーないって。理沙が亮のこと好きだろうが・・」
「わあっ、やめてえっ!」
理沙はタクヤの口元を必死で抑えた。タクヤは理沙のその手の下からもニヤニヤしながら話しつづけようともがいている。しばらく二人でもがいていると、何やらおかしい様子を嗅ぎつけた店長がやってきた。
「こらあ、ここで何イチャついて仕事サボってんだぁ」
理沙は慌ててタクヤから離れて“気をつけ”の体勢をとった。
「いちゃついてなんかいません! ・・失礼します」
そう言うと理沙はその場から涙ぐんで店内へ足早に去っていった。
「おい、何してたんだよタクヤ。高校生なんだからさ、あんまり構(かま)うなよ」
店長は呆れ顔でタクヤを小突いた。
「あーい」
タクヤはバツ悪そうに厨房へそそくさと入った。


亮に聞かれてしまった。一番聞かれたくない人に聞かれてしまったのだ。理沙は胸が張り裂けそうなほど苦しかった。
いつものように軽やかな足取りで理沙の前を行き来する亮の姿が目に入る度に、理沙は心の中で言い訳をしていた。
違うんです。私のせいじゃないんです。タクヤさんなんか好きじゃありません。私が好きなのは・・・
理沙はまた、過去の自分のところへ妄想タイムスリップしていた。

「助けて。過去の理沙。もうあなたしかいないのよ」
「どうしたのまた。未来の理沙。今度は何があったの?」
「よく聞いて。過去の理沙。今度のイタリアンの面接は、断っちゃダメよ」
「ええ?そうなの?だって、この間はダメだって・・」
「ううん。それが違うの。最初は辛いけど、その先に恋が、青春が待ってるのよ」
「ホントに!恋?青春?私に?わーい」
「喜んでる場合じゃないのよ。その後に、罠(わな)があってね。かくかくしかじか・・」
「ええー。何だか複雑ぅ。面倒くさいな、恋愛って」


そう。恋愛って面倒くさいのよね。確かにこんな気持ちになるなんて、思いもしなかった。
理沙はお盆を持ったまま、突っ立っていた。面倒なことになってしまった。誤解を解こうにも、手段がみつからない。考えれば考える程、心はしぼむ。
店内の入口で空ろな顔をしていると、後ろから頭をコツンと突(つ)かれた。振り返ると亮が立っていた。相も変わらずキレイな顔立ちをしている。こんなに魅力的なのに好きにならないわけがないんだ。ああ、今まで何故もっと早く気が付かなかったんだろう。自分で自分に腹が立つ。側に立つと長身の亮は居るだけで安心感がある。この人に包みこまれたらどんなに・・。想像して理沙は顔を赤らめた。
亮は理沙を見下ろしていった。
「なにしてる。お客様だぞ」
理沙は慌てて頭を下げた。恥ずかしさで亮の顔は見れない。
「あ、はい。すみません。ボンジョルノ!」
にこやかに顔を上げると目の前には美紀が立っていた。前回と同じ友人二人を連れている。
「またきちゃった」
美紀は店頭にいた理沙と亮の顔を見比べた。そして亮の顔を見た後、小さな声で「わお、ハードルたかっ」といって笑った。亮は訝(いぶか)しげな表情をして「知り合い?」と理沙に尋ねた。


「こちらへどうぞ」
理沙が浮かない顔をして案内すると美紀が心配そうな顔を理沙に向けた。
「どうしたの?今日、元気ないね。ひょっとして、私が彼を見に来たから?」
理沙はドキッとした。やっぱり“彼を見に来た”のだ。理沙に会いに来たわけではなく、本当に亮に会いに来たのだ。理沙に黒い不安が過ぎった。しかしそれは一人よがりな疑いに違いない。美紀は親友を裏切るような娘(こ)じゃない。理沙はすぐにその不安を掻き消した。
「ううん。違うの。色々あってね。また今度話すね」
首を少し傾げてから美紀は亮の方を見た。
「わかった。それにしても例の彼、ほんとに超カッコイイね」
美紀は目を輝かせている。
「あ、うん。そうね」
理沙は美紀達を席へ通していると、それに気がついた店長が飛び跳ねるように駆け寄ってきた。
「い、いらっしゃい!美紀さん・・・達(たち)」
頬が上気して、目は三日月になっている。
「あ、テンチョーさん。こんばんは。今日もステキですね」
美紀がコテッといつものように首をかしげて言うと、店長は恍惚(こうこつ)とした表情になった。店長には美紀の背後にバラの花が咲いているように見えるらしい。
「なんでも、なんでも食べてってください」
赤ら顔でそう言うと、店長は恥ずかしそうにキッチンカウンターに戻って行った。心なしか内股(うちまた)になっている。
「なんでも・・って、なんじゃありゃ」
理沙が怪訝な表情でそう言うと、美紀が嬉しそうにいった。
「とってもいい店長さんね。私、あの人好きかも」
理沙は驚いて美紀を振り返った。
「ハッ?」
美紀は恥ずかしそうに肩まで伸びた栗色の髪の毛先をいじっている。
「だって、すごくステキじゃない。それに、何だか知ってる人のような気がするの。懐かしい感じ。とっても優しくていい人だってわかる」
理沙は呆れたように天を仰いだ。
「美紀ィ。やめときなって。店長もうすぐ三十だよ?確かに店長は優しくていい人だけど」
美紀は自分の顎(あご)に人差し指を当てて笑顔をのぞかせる。
「ほらね。別にいいじゃない。歳(とし)なんて。ちょっとステキだって言ってみただけよ」
「まあ、いいわ。高校生なんてガキ、店長も相手にしないだろうしね」
「ふーんだ。じゃあ、私も理沙とおんなじ彼にしちゃお」
理沙は美紀の目の前で両手を前に出して振った。
「あー、ダメ。それは絶対にダメ!」
「アハハ。冗談よ。でも理沙は本気なんだね」
「んもう。美紀のアホ」
そう言い残すと理沙は仕事に戻った。
友人達と談笑する理沙を冷ややかな目が見つめていた。中山だった。中山は理沙に対する嫉妬心で煮えたぎっていた。余計な奴が入ってきた、アイツさえいなくなれば。そればかり考えているのだ。中山は離れた場所から忌々しそうな顔で見つめて「早くいなくなれ」と呟(つぶや)いた。


美紀達の料理は全て店長が運んでいた。やはり頼んでもいないドルチェやドリンクなど、当たり前のように店長はせっせと運んでいた。理沙はそれを見ながら、店長はいい人だなとつくづく思っていた。美紀が私の友人だというだけで、これだけサービスしてくれるのだから。あんなにいい人なのに彼女もいないなんてな。と余計な心配をしていたところへ亮が理沙の側へ寄ってきた。目線は美紀達のテーブルで接客している店長に向けられている。
「恋してる顔だな」
咄嗟(とっさ)の亮の言葉に理沙は真っ赤になって慌てて両手で頬を抑えた。脇に抱えたお盆が落ちそうになり、おかしな格好になった。
「えっ?なっ、何ですか?急に」
亮は冷静に理沙のお盆を足元でキャッチした。それを手渡すと、理沙の顔を改めて見て吹き出した。
「おい。あんたの顔じゃないよ。店長だよ。店長の顔がさ」
「あ、ああ。え?店長がですか。ええっ! ホントですか。確かに店長おかしいなとは思ったんですけど。まさか恋してるなんて・・。相手は誰なんですか」
亮は眉間(みけん)を押(おさ)えた。
「ったく、あんたもとことん鈍感っつーか、ぼけっとしてるっつーか」
「はぁ?ぼけっとなんてしてませんよ。私のことはいいですから。で、お相手は誰なんですか」
亮は顎で美紀のいる方向をさした。
「だから、あんたの友達なんだろ?あのコ。確かにすごくカワイイけどさ」
理沙は美紀達が座る席の方を振り返った。
「え、美紀のことですか。ええっ!店長が美紀を・・。そんな、犯罪ですよ。まさか」
「アホ。声がでかいわ」と亮は口の前で人差し指を立てた。
「あ、すみません。・・あの、ちょっとアホって言い方ないじゃないですか」
口を尖らせた。自分の分が悪くても、人から言われたことには必ず反論したくなる。
「ああ。わりい。ついついアンタ見てると口が滑っちゃって・・」咳払いをした後、亮は続けた。「でもまあ、俺の推測に過ぎないけどな。しかし、あの顔は今まで仕事一緒にやってきて初めて見る顔だぜ。あれは絶対に恋してる顔だ」
理沙は亮の顔をまじまじと見た。
「こ、恋ですか?」
亮は穏やかに理沙を見た。
「そう。恋してる・・」
二人は図(はか)らずも見つめあった。どういうわけか目が離せない。二人の間に一瞬沈黙が流れた。
理沙にはまるでそれが自分に向けて言っているように聞こえた。いやそう願いたい。
まじまじと亮を見つめていた。吸い込まれるようだ。亮は実にきれいな顔なのである。亮への気持ちもまた手伝ってか、彼にのみライトが当たっているようにも見える。
この人ホントにステキ・・・
亮もまた、理沙のことをこんなにまともに間近でたことがなかった。何故だか自分を見上げる理沙の顔はいつもより可愛らしく見える。
こいつってこんなに・・・
しばらく見つめあった後、亮はハッとして分(ぶ)が悪そうに店内を見回していった。
「り、理由はわかんねーけどな。でも、店長がおかしいことくらい、あんたにもわかるだろ」
理沙も慌てて亮から目をそらし、反対側の窓を見た。
「た、確かに。店長の様子は変ですよね。・・・あ、美紀」
「え?」
「美紀も、さっき店長のこと『私、あの人好きかも』って」
亮は驚いたように理沙を見た。
「マジで?」
理沙は亮を見上げた。
「はい。好きかもって・・」
すぐに二人は無言で仕事に戻った。心なしか二人共、顔が赤らんでいた。



客達の数もだいぶ落ち着き、店内は美紀達とあと二テーブル埋まっているだけだった。
美紀達からそう遠くない別のテーブルの皿を下げている時だった。美紀は思いもしない行動に出た。

食事を終えた美紀が亮に何か話しかけていた。理沙は何を話しているのか気になった。まさかとは思ったのだが黒い不安は更に大きくなっていく。
意味もなく近くを遠り過ぎてみてもよく聞こえなかった。実際、人の話は相当近くでないと聞こえないものだ。
たわいもない話かもしれなかったが、それでもチラチラこちらを見ながら亮と話をする美紀の態度は不自然に感じた。亮みたいな人でも、美紀のように可愛い女の子に話かけられたら、店長みたいに好きになってしまうかも。
考えたくはなかったが、自分の予感が当たらないことを理沙は祈るしかない。
耳を傾けていると最後の部分だけが耳に入ってきた。
亮は、なにやら「うん、うん」と頷いた後、「わかった。いいよ」といって美紀からメモのような物を受け取っていた。渡しながら、美紀は「あとでメールください」といった。
それに対し亮も「リョーカイ」と和やかな表情を返していた。
理沙の目は大きく見開いた。あまりのショックの大きさに、そのまま地面にへたりこんでしまいそうだった。
「そんなぁ」
理沙は肩を落とし、思わずそう漏らしていた。


「じゃあ、またくるね!」
美紀はあどけない笑顔を理沙に向けた。美紀に対して返事もできずにいた。目の前で行われた明らかな裏切り行為の後に、平静を装っていられる程、理沙も大人ではない。
「どうしたの?理沙」
美紀は理沙の顔を覗き込んだが、理沙は無言で首を振っただけだった。美紀は不思議そうな顔をしたまま「じゃ、また明日学校でね」と言った。
「ああ、美紀さん!・・・達(たち)!また、また是非来てくださいね」
店長は店の外まで出て美紀達を、正確には美紀を頬を上気させた顔で見送った。
理沙はそれを見て尚(なお)のこと、美紀の態度に嫌気がさした。
結局、美紀は男ったらしだったんだ
『あたしが理沙の彼氏取るとでもいうわけ!』
ひどいよ。ひどいよ、美紀。


仕事が終わってぼんやり理沙はロッカーを開けた。今日は色々なことがありすぎて、頭が混乱していた。
混乱した頭でロッカーを開けた理沙は目を疑った。ロッカーを間違えたかと思い、一旦ロッカーを閉めた。理沙は思い直してもう一度ロッカーを開けた。間違いなく自分のバッグと一緒に見知らぬ深緑(ふかみどり)色の薄汚れた財布が置いてあった。
「アレ?なんだろ、これ」
理沙がロッカーの前で首を傾げると、後ろでコーヒーを飲んでいた亮が「ん、どうしかしたか」といって理沙のほうを見た。すると、理沙の隣でロッカーを開いた中山が急に大声を張り上げた。
「ああっ!ない!ボクの財布が、ない!」
「アレ?あの、お財布ってコレ・・ですか?」
理沙が財布を差し出した。
すると中山は差し出された財布を奪い取ると、理沙を指差していった。
「なんだよ、オマエ。ボクの財布、盗んだだろう!」
理沙は大きくかぶりを振った。
「そんな!私、そんなことしてません。ここに何故か入ってたんです」
亮が立ち上がり、二人の前に立ち、入ってきた。
「おい、なんだよ。何があった」
その言葉に二人が同時に答えた。
「ボクの財布、コイツが盗んだんです!」
「私、お財布なんて、盗んでません!」
亮の口から溜息が漏れた。すると、控え室のドアが開いた。
「お疲れさーん。かわいい理沙ちゃーん」
タクヤはそう言いながら愛想よく理沙達に近づいてきた。それを認めると中山は待っていたかのように口を開いた。
「タクヤさん。こいつ、ボクの財布取ったんです」
中山はタクヤに自分の財布を見せつけるようにいった。タクヤは眉間に皺を寄せた。
「取ったの?理沙」タクヤが理沙を見て言うのと同時に理沙が叫んだ。
「取ってません」
タクヤは「ふーん」と言いながらパイプ椅子に腰掛けた。
「で、サイフの中身は?」タクヤは中山のほうを見ずにいった。
「一万円消えてます」
中山の言い方は誇らしげだった。
「そんな・・。ひどい。私じゃありませ・・」
理沙は涙声になった。理沙の辛そうな顔を一瞥してから亮は「あ」といって何かを思い出したように中山を見た。
「てめえ、自分で若林のロッカーに財布隠しただろう。俺、さっきバイトの前にお前が若林のロッカーの前に居るの見たぞ。若林が来た後に入れたんだろう」
亮の言葉に、慌てた中山は大声を張り上げた。
「な、なにいってんスカ。そんなことして何の得になるっつーんだよ。バッカじゃねーの。なんで取られたボクが責められなきゃいけないんですか。この女、そんなにかばう価値ないのに。仕事もできねえくせにでかい面(つら)しやがって」
亮が中山を鋭く睨んだ。
「おい、お前言いすぎだぞ」
物々しい雰囲気の中、何も知らない店長が控え室のドアを開けて入ってきた。
「お客さん、いなくなっちゃったよ。ハハハ。今日はこれで店じまいかな。あれ?どうした?何かあったの」

店長は中山と理沙から事情を聞き、「うん、うん、なるほどね」と頷いた後、にっこり笑っていった。
「それならね、大丈夫。この控え室、こないだ監視カメラつけたんだよね。こういう事もあるかと思ってさ。いやあ、やっぱりあるもんだね。こういうことって。じゃ、みんなで見る?店ヒマだし」
中山は財布を手に持ったまま、後ずさった。先程までと表情は一変し、急に青ざめている。
「・・・がいけないんだ」
「は?」店長が訊いた。
「タクヤさんが、タクヤさんがこんなバカ女のことばっかり見て、ボクのことちっとも見てくれないから。・・・好きだって言ってくれたじゃないか!」
中山の言葉に皆がハッとしたようにタクヤのことを見た。
「ちょっ」泣いていた理沙が、顔を上げて「バカ女」発言に反論しようとすると、無言で座ったままだったタクヤが口を開いた。うんざりした顔をしている。
「好きになっちゃうかもーっていったんだよ。オマエのこと好きだなんていってねーよ」
中山がタクヤを懇願するような表情で見た。
「タクヤさん、俺のこと・・」
今まで誰も聞いたこともない程、タクヤは冷たい口調になった。
「おめー、うぜーんだよ。愛だの何だの言いやがって、少し遊んでやったからってめんどくせーんだよ。俺がテメエなんか本気にすると思ってんのか」
中山が理沙を指差した。
「そんな・・・。じゃあ、あいつには本気だっていうんですか!」
「本気なわけねーだ・・」
思わず出たタクヤの本音に全員が責めるような目でタクヤを見た。理沙は言葉が出なかった。
バツ悪そうに舌打ちをして、タクヤは荷物を持つと「お先に」といって振り返りもせずに裏口から出て行った。タクヤが出て行った後、一瞬入りこんだ冬の冷たい風が一層その場の空気をひんやりとさせた。静まり返った控え室で流れるボサノバもゆったりとした感じがどこか悲しい。
理沙は黙ったまま俯(うつむ)き、目を床に落としていた。
「中山くんさ」店長が頭を掻きながら口を開いた。表情は穏やかだ。
「実はね。監視カメラなんかつけてないんだよ。だって、ここで着替えたりプライベートな話することだってあるんだからさ。そんなの録ったって仕方ないよね?キミがどうするかカマかけてみたんだよ。思ったとおりだったけど。まあ、こういうことがあると今後どうするるか考えなきゃならないな。 それでキミね。明日からもう来なくていいよ。来週、今までの給料取りにきて」中山のタイムカードを手に取り、裏と表を見返しながらいった。
「あ、え・・・。そんな」中山は追いすがるように店長に歩み寄った。
店長はその態度に逆上し、中山に掴みかかって怒声を上げた。
「困るんだよ!こういうことされちゃ! 仲間を裏切るような奴はうちの店にはいらないんだよ。あと、若林さんにちゃんと謝れ。謝って許されることじゃないけどな」
そういって中山を突き放した。
店長がこんなにスタッフを怒るところは初めて見た。仕事のことで怒声を上げることはあっても、必ず後からフォローを入れる。それが店長だ。しかし、今の言葉はそこに居た全員が店長が本気であることと、その言葉が覆(くつがえ)されることはもうないということを感じ取っていた。
中山にもそれは無論伝わっていた。中山は黙ったまま唇を噛んだ。
理沙は目を伏せ、「もういいです」と言うと裏口から出て行った。



 すっかり暗くなった冬空には金星が光彩を放っていた。自転車を走らせる度に一層、深深(しんしん)と寒さが身に染みる気がする。理沙は片手でダウンジャケットの襟を上に上げた。こぼれ落ちる涙を隠す為だった。皆の前で泣きたいのを我慢していた。けれど、自転車のペダルを踏みしめた瞬間、溢れ出す涙を止めることができなかった。
思い起こしてみれば、こうして涙を流しながら自転車を走らせるのは二回目だ。一回目はバイトの初日だった。今の状況に比べたら、バイト初日の辛さなんて、泣くほどのことでもなかったじゃないかと理沙は思っていた。たかが、怒られたくらいで・・・。盗難の犯人にされるよりはるかにマシだ。いや、それだけではなかった。タクヤとのことを亮に誤解されたことと、美紀から亮がアドレスを受け取っていたこと。全てが理沙を泣きたい気持ちにさせた。
運が悪いなあ。タイミングも・・・。どうしてあたしってこんなに不幸なんだろ
理沙がそう思っていた時だった。
「おい」
後ろから声がした。反応するように胸がギュッと苦しくなる。理沙はすぐにその声の主がわかり、横を向いて「なんでしょうか」と自分の気持ちに相反(あいはん)する態度でぶっきらぼうに答えた。
「泣いてんのか」亮は理沙の隣に自転車を寄せて覗きこんできた。
理沙は答えたくなかった。涙のわけは亮のためでもあるのだ。
「若林」
亮は自転車をキュッと突然停めた。「ちょっと、缶コーヒーでも飲まねえ?」
理沙が自転車を停めて振り返ると亮は親指で後ろの自動販売機を指差して微笑んでいた。


「あったかぁい」
理沙は亮に買ってもらったカフェラテの缶コーヒーを握りしめて自動販売機横のベンチに腰掛けた。理沙にはカフェラテを渡し、自分はブラックコーヒーのボタンを押していた。どれがいいかあえて訊かないのは、いかにも亮らしい気遣いである。たまにカップルがこのベンチにいることはあったが、もうこの寒い時期に夜のベンチを使う人も居ない。
「ったく。おごりはもうこれでおしまいな」亮は溜息をついて自分の缶コーヒーを自販機から取り出した。「もう金ねえんだから」と付け加えた。
「すみません」
理沙はただ頭を下げ、手元を見たまま黙りこんだ。
「となり、座るぞ」
亮は理沙の隣に腰掛けると缶を空けてこちらを見た。
「大丈夫か?」
理沙は口を閉ざしているままだ。涙など既に止まっている。それよりも亮をいやがおうでも意識してしまう自分に戸惑っていた。この間二人でレストランに一緒に居た時の数倍ドキドキしていて、いつもより優しい感じの亮に対してもどうしたらいいかわからなかったのだ。
「大丈夫なわけないか。まあ、そうだよな。泥棒扱いされたんだもんな。タクヤさんもなぁ。プッ」
亮はこらえ切れずに吹き出して笑った。理沙はそんな亮のことを責めるように見返した。
「何かおもしろいことあります?あたし、あんなヒドイ目に遭ったのに」
亮は「ゴメンゴメン」と言いながらも顔を理沙から背(そむ)けて笑っているようだった。肩が小刻みに揺れている。小声で笑いながら「やべ、飲めねえ」と言っている。
「もお!ひどい。亮さん」
理沙は膨れながら缶のプルトップを上げた。コーヒーの香ばしい香りが理沙と亮の周りにだけ広がる。
「わりい。 だってさ、あんな状況ありうるか?男同士だぜ?『好きだって言ってくれたじゃないか』って、ドラマでも見たことねえよ。俺いいもん見たわ」
亮は高らかに笑った。こんな風に笑う顔は初めて見る。理沙はそんな亮の態度にまた剥(むく)れた。
「亮さん、あたしがかわいそうだって思わないんですか」
「可哀相?かわいそう。まあね。かわいそうっちゃかわいそうかもな。でも、真犯人がわかって良かったじゃん?・・・プフッ!」
「もーお! なーにー! ひどーい」
理沙は隣に座る亮の腕を思わず押した。亮の腕は思っていたよりも硬かった。華奢(きゃしゃ)な風に見える亮の男らしい一面に触れた気がしてその感触に理沙はドキリとした。亮は笑いながら「おい、こぼれるだろ!」と理沙を肘で押し返した。
気がつくと、理沙もお腹を抱えて笑っていた。そしてドキドキしていた。あんなことがあったのに、不思議なくらい、気分が軽くなっていた。亮には理沙を明るい気持ちにさせてくれる、そんな力がある。
ひとしきり、笑った後、髪を掻き上げながら遠くを見て亮が呟いた。
「やめんなよ」
「え?」
亮は振り返ってジッと理沙を見つめた。真剣な顔で先ほどようなふざけた風もない。
「だから、今回のことでショック受けたからって絶対やめんなよ」
理沙はそっと亮を見返した。
「はい。頑張ります。ありがとうございます」
亮は冷やかすようにいった。
「しかし青いな。お前は。手がかかるよ」
理沙は顔に手を当てた。
「は?顔、青いですか?」
亮は溜息まじりに額に手を当てた。
「ったく、アホとバカのハーフか。お前は。お前の顔が青いか赤いかなんて、こんなに暗いのにわかるかっつーの。とにかくこれから必死に覚えて頑張れよってことだよ!」
理沙は頬を膨らませて声を上げた。手に持っている缶はとっくに空(から)で冷たくなっている。
「ちょっと、アホとバカのハーフって、ひどい!」
亮は鼻で笑った。
「本当のことを言ったまでだ。意味もわかんない奴がいちいち怒るな」
「怒りますよ。私だってまだ知らない言葉はたくさんあるんですから。そういう人を小ばかにするところが・・」
その先は心の中で呟いた。また口論になりかねない。これ以上の揉(も)め事(ごと)はもうたくさんだ。
「お前は知らない言葉が多すぎだろ。まあいい。 ほら、もう行くぞ。風邪引いても仕事は休めないからな。明日から中山はもういねーんだから」
亮はそう言うと立ち上がった。
「あ、はい。そっか。そうですね」
理沙も亮に続いて立ち上がると飲み干した空き缶をダストボックスに捨てた。

理沙は複雑な心持ちがしていた。中山が辞めさせられたのは、自分のせいではない。けれど、タクヤに冷たくあしらわれた中山のことを思うと不敏(ふびん)な気もした。不器用な中山にとって、タクヤの気持ちを繋ぎとめておくためにはああするしかなかったのかもしれない。 そして、それよりも何よりも美紀からメモを受け取っていたことを亮に聞きたくて仕方なかった。
“あれはどういうことなんですか”理沙は自転車の前を走る亮の背中に何度も問い続けていた。



亮は自宅に帰ると、美紀からもらったメモを出し、すぐに美紀へメールを送っていた。
母はそれを見てダイレクトメールを封入する内職の手を動かしたまま、嬉しそうに言った。
「メールなんて、珍しいじゃない」
亮は眉を上げて照れくさそうにはにかんだ。
「ああ。まあな」
母は手を休めて亮を見た。
「なんか、最近アルバイト楽しそうね」
「ん?いや、そうでもないけど・・」そう言った後、驚いてポカンとした理沙の顔を何となく思い出しておかしそうに笑った。
母もそれにつられて笑った。亮がこんなに嬉しそうに笑う顔を見るのは父親が死んでからは見ていない。母にとっては何よりも嬉しかった。
「なあに?どうしたの」
「いいや。くっだらない事件があってさ。人っておもしろいな」亮は鼻先をこすった。
母は、うふふと笑みをみせ「亮はかわったわね」と言い、内職の手元に視線を戻した。
亮はこめかみを掻いた。
「そうか?俺、変わったかな」
母はいったん遠い目をした後、亮へ視線を戻した。
「変わったわよ。お父さんが亡くなる前は、もっとわがままで、頑固で強情(ごうじょ)っ張(ぱ)りだったもの」
亮は不服そうに苦笑いを浮かべる。
「なんだよ。俺、散々だなあ」
「二年前のことじゃない。今だから言えるの」母はからから笑いながら言った。
「今の亮は、何て言ったらいいのかしら。柔軟で、プラス思考で、頼もしいわ。一生懸命頑張っているものね。お母さん、亮がいてくれて本当に・・・」母は涙声になった。
「おいおい、泣かれるのは困るよ。泣くのは俺がいつか成功した時に取っといてくれよ」
亮は困り果てたように耳の後ろを掻いた。母は「そうね、そうね」と言いながら、涙をぬぐっていた。

亮は風呂から上がって濡れた髪をタオルで拭きながら自分の部屋に入った。
― あいつ、どうしたかな ―
タクヤに関しては、今までも手ぐせの悪さから色々と事件はあった。しかし、今回のようなパターンは初めてだった。恐らくタクヤほど腕のあるドルチェ職人は他に居ないだろうから、店長もタクヤをクビにすることはできまい。亮の目から見ても、理沙が異性に慣れていないことくらいわかっていた。タクヤもまた、それを承知で理沙に手出しをしようとしていたのだ。亮はそれが許せなかった。 というよりも、タクヤが理沙を“抱きしめた”と聞いた時の自分の感情に動揺していた。あの時沸いた気持ちは「嫉妬」以外のなにものでもなかったからだ。 仕事中も理沙のことを目で追ってしまっていた。今まで考えたこともない、理沙の肌の白さや笑顔の愛らしさが今日一日、亮を支配していた。
帰りに二人で缶コーヒーを飲んでいる時にも、実は何度も抱きしめたい衝動に駆られていた。
今まであんなに理沙に厳しくしてきたのだ。理沙が自分を好くわけなどないと亮は思った。
「クソッ」
濡れた髪のまま亮はベッドに寝転んだ。暖房のないこの部屋は風呂上りに布団に入らないとすぐに身体が芯まで冷えてしまう。ベッドの脇に目を向けると、壁には理沙がくれた青トウガラシのストラップが飾ってある。亮はジッとそれを見つめた後、指先で触れて揺らした。
『亮さんなら、きっとできると思う』
明らかにあれから亮の気持ちは理沙に傾(かたむ)いていった。あんな風に言ってくれた人などいない。理沙が自分を信じてくれている。それが亮にはわかった。自分の気持ちに気が付くのが正直遅すぎた。
―こんな大事な時に、何やってんだ。俺こそバカだ―
心の中で亮はつぶやくと大きな溜息をついた。



「ただいまあ」
理沙が帰宅すると、いつものように父と母が待ち構えたように「おかえり」と玄関で出迎えた。 理沙がそのまま部屋へ行こうとすると、母が「ちょっとまって」と理沙を引きとめた。
「疲れてるところ、アレなんだけど・・。少しお話があるのよ」
母が言いづらそうにそういうと父も隣で頷いた。
「なあに。旅行でもいくの?」
能天気な理沙の質問に両親は顔を見合わせた。
「理沙ちゃん、旅行じゃないのよ。あのね理沙ちゃんがやってるレストランのアルバイトなんだけど・・。もうやめたほうがいいと思うのよ」
理沙にとっては晴天の霹靂(へきれき)だった。
「ハァ?何いってんの。なんで、別に私大丈夫だよ。バイトやだって言ったこともないじゃん」
理沙はムキになって抵抗した。
「そうね。理沙ちゃんはアルバイト頑張っているとは思うのよ。でも・・。今日、高校の担任の先生から電話があったのよ。今回の期末テスト、すごく点数が悪かったみたいじゃないの」
隣で父も頷いている。
確かに今回の期末試験の結果は最悪だった。期末だけではない。中間試験も悪い点数で、学年の順位が三十番も下がってしまっていた。 この結果はアルバイトが起因していることは火を見るより明らかだ。理沙はそれがわかっていてあえて成績は両親に隠していた。
「アルバイトのことは学校に黙っててって理沙ちゃんに言われてたから、先生には何も言ってないわよ。でも、先生、このままじゃ進学もできないって。そろそろ将来のことも真剣に考えないとほら・・ね?」
「だから?」
「だから・・って、理沙ちゃん?」
「別に進学なんてどうでもいいよ。進学したら人生明るくなんの?進学したらブスって言われない?楽しいことが待ってんの?将来約束されてんの?あたしのことはあたしが決める。中間や期末の結果が悪くったって、あんた達には関係ないでしょ。勝手に産んどいて、こっちだってあれこれ言われるの迷惑なんだよね!」
理沙の言葉に両親は絶句していた。
理沙が可愛くて、いとおしくて、精一杯の愛情をひたむきにかけたつもりでいた。理沙は両親にとって人生の喜びそのものだった。両親とも、理沙が産まれた時に本当の幸せの意味を知ったと感じていた。「あんた達」「勝手に産んどいて」、その言葉は両親の胸にぐさりと突き刺さった。何よりも本当に悲しい一言だった。
「わかった。お母さんも、お父さんも、もう何も言わないわ。ごめんね理沙ちゃん」
そう言うと、母は口元を抑えて寝室へ入っていってしまった。
残された父はひとことだけつぶやくように言った。
「理沙。ちょっと言い過ぎだぞ」
そして母を追うように寝室へ入って行った。 
両親の後ろ姿を見送った理沙は、すぐに自分の言ったことに後悔をした。けれど、あれが今まで我慢し続けていた理沙の本音なのだ。いちいちああだ、こうだと口出しされるのが本当にイライラする。人になんだかんだ言う割には自分達はそう大変な思いもしていないじゃないか。お父さんだって、すごく仕事に燃えてる感じもないし、お母さんだって、趣味ばかりで遊んでばかりいるような毎日を送ってるじゃないか。自分達はそんなユルいことしといて、理沙にだけ勉強しろというのは自分達を棚に上げて言っているだけのようにしか聞こえなかった。
「あー、もう、やだ。今日つかれたぁー」
理沙は自分の部屋に入るとベッドにそのまま倒れこんだ。確かに今日は色々ありすぎた。
タクヤと中山のこと、泥棒扱いされたことも、店長が美紀を好きだったり、美紀が店長いいって言ったくせに亮にメモを渡していたり色々なことがありすぎた。
でも亮にジュースご馳走してもらって励ましてもらった。思い出しただけでも胸がドキドキしてしまう。理沙に缶コーヒーを渡す時に触れた亮の指先や、固い腕の感触が理沙の心をときめかせている。慣れ親しんだ低い声も、聞いただけでも胸が熱くなる。本当にあの人が好きなんだ。今日はそれを突き付けらるような日だった。
あれもこれも考えただけで、頭の中がパンクしそうなのに、きわめつけに、両親にバイトを辞めろといわれたのだ。もう理沙にはどうしたらいいかわけがわからなかった。
とりあえず、直近で、明日どんな風に美紀と話をすればいいのかが理沙の頭を悩ませていた。



「おはよー!理沙ぁ。昨日はどうもねー」
美紀は嬉しそうに後ろから理沙に飛びついた。美紀の大好きないつものスキンシップだ。
理沙は「え?・・あ、うん」とそっけない態度で振り返らなかった。美紀は不思議そうに、理沙の目の前に回りこむと、心配そうに眉を寄せて言った。
「どうした?理沙。風邪でもひいたの?」
「あ、ううん。別に・・」
美紀に対して疑念を抱いている自分の心を理沙は隠し切れない。理沙は目を反らした。
「元気ないなあ、何かあったぁ?」
美紀は口を尖らせた。理沙が暗いのは自分と関係があるとは全く気がついていないらしい。 理沙はその態度にずきっと胸が痛んだ。それと同時に腹立たしさがこみ上げる。
トーンの下がった声で理沙は思い切って訊いた。
「じゃあ、聞くけどさ」
美紀は好奇心を帯びた瞳をキラキラ輝かせて理沙を正面から見た。
「え、あたし? えー、なに?」
理沙はその言葉を耳に入れながら、美紀の態度は知らばっくれているように思えてならない。全てが疑わしく思えた。
「昨日、亮さんに美紀のメアド、教えてたでしょ。メモ手渡して、『あとでメールください』って。あれってどういうことなの?亮さんのことが気に入ったっていうことなの?
私だって亮さんのメアドなんて知らないのに・・・。美紀、ひどいよ」
突然思いもよらない理沙の言葉に美紀が動揺しているのは明らかだった。目を泳がせてうろたえている。あんなに輝かせていた目が曇った。
「え、あ、・・うん。そっか、見てたんだ」
美紀はそれ以上、言葉が出てこなかった。
二人の間に気まずい空気が流れた。こんなことは初めてだ。今まで二人の間に隠し事など一つもなかった。互いのことは他の誰よりも知っていたし、家族も知らないようなことも何もかも話して、分かり合っていたはずだった。むろん、ケンカなどしたことは一度もない。
理沙は両手のこぶしを握って、教室のフロアの一点を見つめた。
「見てたんだ?・・・見てたよ。見てなきゃ何してもいいの? 別に美紀が、亮さんのこと気になるのも、好きになるのは構わないけど・・。構わないけど、あたしにひとこと言ってくれたっていいじゃない!そういうの、“裏切り”っていうんだよ!」
美紀は泣きそうな顔になった。
「ごめん、ごめんね。理沙。あの、でも、ちが・・」
美紀の言葉を理沙は冷たく遮(さえぎ)った。
「もう、そんな顔に騙されないよ!美紀は・・。美紀は男ぐせが悪すぎるよ。誰でもかれでも手ぇ出して。そんなだからいつまでも長続きしないんだよ! 聞かされるあたしの身にもなってよ。男を見る目だってないんじゃないの。少しは成長しなよ!」

後で考えれば、あんなに酷いこと、どんな理由があったにせよ言うべきではなかった。決して言ってはならないことだったのだが、この時の理沙には人の気持ちを考えられる余裕などなかった。
理沙は今まで鬱積(うっせき)していたものが爆発したようだった。それは美紀だけが理由ではない。家でのこと、バイトでのこと、恋のこと、進路のこと、処理しきれない全ての不安材料が誰にも相談できずに理沙の上にのしかかっていた。誰かに、どこかによりかかりたいけれど今の理沙には信じられるものは何もない。それがとても悲しく思える。
理沙は心臓が痛くなるくらい、胸の苦しさを覚えていた。

理沙の言葉に美紀は急にわっと泣き出した。無理もない。教室には数人居たが、水を打ったように静まり返った。二人の間に起こった事態に驚いた様子で振り返って見ている。
理沙は美紀から視線を外した。実際、美紀が泣く姿を見るのは辛いものがあった。
「ひどい・・ひどいよ、理沙。そんな風にあたしのこと思ってたんだ」
美紀は涙声(なみだごえ)でそう言った。けれど、理沙はそんな美紀に同情する気になど到底なれない。理沙は震える声で言った。
「そう。そうだよ。あたしだって、好きで彼氏作んないわけじゃない。作りたくても、出来ないんだよ。どうせエア彼氏しかできないよ。あたしは美紀とは違う。顔も、性格も、美紀みたいにはなれない。美紀みたいにかわいくなれないの! けど、美紀って、彼氏つくんなよとか、わき役になるなとか、勝手なことばっかり言って。・・私の気持ち少しでも考えたことあんの?」
理沙がそう言うと、美紀は噎(むせ)びながら「ごめん」と何度も消え入るような声で理沙に謝った。理沙はこんなことを美紀に言っている自分が、心底惨(みじ)めに思えた。
「・・もう、やだ、こんなこと言いたくなかった」
理沙は教室から飛び出して行った。「ごめん」と言いたいのは自分だったのに。
そのまま理沙はその日、教室には戻らなかった。











「今月の二十二日だけどさ、若林ちゃん、必ず出勤してよね。ここんとこ、人が足んないからさ」
店長は眉根を寄せて、怖い顔で理沙にそう詰め寄っていた。出勤してきていきなり店長はクリスマス付近のシフトの話を持ち出してきたのだ。中山の空けた穴は相当大きいらしい。
「アレ?でも、二十二日って、水曜日だから定休日じゃ・・」
店長は半笑いで理沙の肩をポンと叩いた。
「わっかばやしちゃーん!このクリスマスシーズンに、休むアホな店なんてあると思う?俺、一応ここのオーナーなんだよ。商売繁盛!お客よ来い来いだからね。忙しくなるから、絶対休まないでね」
店長の言葉に理沙は複雑な気持ちになった。
今月の二十二日、確かに今年はここにしか居場所はなさそうだと理沙は思っていた。
十二月二十二日は理沙の誕生日だった。クリスマスに近いこの日、理沙は毎年、友人や両親にクリスマスとくっつけて祝ってもらっていた。得したような損したような、毎年それに対する判断はつかない。でも祝ってもらえることは嬉しい。去年は美紀がサンタに扮して特大のぬいぐるみを巨大な白い袋に入れて持ってきてくれた。理沙が大好きな「クマッくす」というクマがスーパーマンみたいな格好をしたキャラクターの、前から欲しがっていたものが袋に入っていた。理沙の欲しいものは誰よりも知ってくれているのは美紀だ。「家からその格好できたのー?」といって両親と大笑いしたのが記憶に新しい。毎年、何かしらのサプライズが嬉しくて、中学生の時から例年それが楽しみでもあった。兄弟の居ない理沙にとって、中学から学校が一緒の美紀は、かけがえのない幸せな思い出をくれていた。それも恐らく今年はないだろう。あんなことを言ってしまったのだから。

「あ、そうなんですか。はい。わかりました。じゃあ、出勤で」
店にスキップで戻っていく店長を見送ると、理沙は悲しくなった。

今年はバイトか。
心悲しさはあったが、今の自分にはここが唯一救いの場所に思えた。それに、バイトに来れば、亮に会うことができる。それが理沙の一番の今ここに来る目的ともいえる。
理沙がタイムカードを押して店に出ようとしたタイミングで店側から亮が控え室に入ってきてぶつかりそうになった。亮は理沙を見た後、視線を逸らした。
「おう、おはよ。わりい」
 理沙は慌てて後ろへ下がった後、ペコッと頭を下げて言った。声はうわずってしまう。
「あ、亮さん。おはようございます。この間は・・」
「ああ、もういいから。それより、もう支度オッケー?いま結構混んでるから、頼む」
理沙は亮をジッと見上げて言った。
「はい。大丈夫です」
亮はその言葉にニッコリ微笑んだ。


店は目の回る忙しさだった。緩やかに流れるボサノバがかき消えてしまう騒々(そうぞう)しさだ。ただでさえ、六時から八時まで込み合っている店なのに、このクリスマスシーズンにはカップルの客数が激増する。店の客席を占領しているほとんどが幸せそうな顔をしている。 
先日辞めていった、というよりはクビになった中山の穴埋めは、昼間パートで来ている主婦がしていたが、それでも対応しきれない程の混み様だった。

理沙は店に出る前にキッチンカウンターにも挨拶したが、タクヤは何くわぬ顔で仕事をしていた。皆の白い目も気にならないらしい。中山の件はタクヤにとってどうでもいいことなのだ。
七時になると満席の為、八人程客を待たせて理沙達が接客に追われていた。客が帰って速やかにバッシングを済ませ、待たせている客のリストを理沙が読み上げた。
「お待たせしました。二名様でお待ちのええっと、若林(わかばやし)様」
理沙がそう言うと、並んでいる列から中年夫婦が人を掻き分けるように出て来た。理沙はお盆を抱えたまま固まった。来たのは理沙の両親だった。互いに一瞬無言になり、気まずい空気が流れる。
「あの、理沙ちゃん。・・頑張ってるわね」
母は理沙のご機嫌を伺うように微笑みかけてきた。理沙は大きく溜息をついた。こんな忙しい時に来て、かえって迷惑だ。しかし以前、食べにくればと言ったのも自分だった。あんなこと言わなければよかった。
理沙は無表情に口を開いた。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞー」
ぶっきらぼうに理沙がそう言うと、両親は他人行儀な理沙の態度にがっかりした顔をした。理沙が案内すると、近くに居た店長が言った。
「いらっしゃいませ。ボンジョルノ!」
母の真砂子が店長に歩み寄った。
「店長さんでらっしゃいますか。私、あの、理沙の母です。いつもこの子がお世話になっております」
父は隣で深々と頭を下げる。
「どうも理沙の父です」
店長は意表を突かれた顔をした。
「ああ。ご両親でしたか。来ていただいたんですね。ありがとうございます。そうですか。いやぁ、お母さんによく似てるね」
店長はそう言って理沙と母の顔を見比べた。理沙はぷいと横を向く。
「彼女、とても頑張ってくれて本当に助かりますよ。これからも、どうぞよろしくお願いします」
店長が頭を下げると、父も母も揃って「よろしくお願いします」と同時に頭を下げた。

理沙がお冷(ひや)をキッチンカウンターに取りに行くと、近くに居た亮が冷やかす口調で囁(ささや)いた。
「おい。なんなんだ。その顔は」
理沙は慌てて顔に手を当てた。自分が膨れっ面をしていたことに言われてはじめて気がついたのだ。取り繕うように理沙は口を尖らせる。
「な、なんなんだとは、なんですか。もともとこういう顔です」
亮は可笑しそうに吹き出すと、「おまえってわかりやすいな」と改めて理沙を一瞥(いちべつ)した。
「だって、フグみたいな顔だぜ。サービス業にあるまじき顔してるぞ。もともとそんな顔だったっけ?」
理沙の顔は更に膨らんだ。
「もう!いいじゃないですか、別に。私の両親がお客で来てるんです」
亮は優しく微笑した。
「知ってるよ。あの奥の席のご夫婦でしょ。すぐわかったよ」
理沙は驚いて亮を見上げた。
「なんで?ですか」
亮はこらえきれず吹き出して笑った。
「だって、お母さんもフグみたいな顔になってんだもん。ソックリだぜ」
そして周囲を見ながら慌てて自分の口を押さえた。
理沙は目を三角にして怒った。
「ひどい!亮さん、言い過ぎですよ」
亮は小声になった。
「わりい、わりい。でも、両親来てると嫌なわけ?」
理沙は一度俯(うつむ)いて「そうだ」と言いながらまた顔を上げると、懇願(こんがん)するように亮を見上げた。
「あのお、お手空(す)きならお願いがあるんですが・・」
「え?手は空いてないけど、なに?」
理沙は亮に掴みかかった。
「お冷から料理とバッシングまで、うちの親の客席、亮さんにお願いできないでしょうか」
亮はすがりつく理沙の表情にドキッとした。



会計を済ませて店からトボトボ出て行く両親を亮は見送った後、ため息をついた。 
「あれで良かったのか」
後ろに隠れていた理沙は出てくるときっぱり言いきった。
「いいんです。どうもありがとうございました」
亮はチラリと理沙を見て、また視線を両親が帰って行った方へ向けた。
「二人とも、お前のこと必死に目で追ってたぞ。俺に何度も『お世話になってます』って頭下げてたしさ。少しは話したらよかったんじゃないか」
理沙は大きく息をついた。
「そういうのがウザイんだよね。あ、すみません」
理沙は周りに人が居ないのを確認してから亮に頭を下げた。
「別にいいけどさ。あんま親にあたるなよ」
「でも・・」
言い返そうとしたが、それを制するように亮は理沙の目の前を通り過ぎた。
「よし。上がるぞ」
理沙に反論するすべも与えず、控え室に向かって先に歩いて行った。しかたなく理沙もそれについて行く。いつも亮の一声で仕事を上がるパターンと決まっている。

控え室のドアの前まで来ると、亮は振り返って言った。
「それはそうと、お前二十二日は店出れんの?」
唐突な質問に理沙は不思議そうな顔をして答えた。シフトのことを聞かれるのはあまりないからだ。
「あ、はい。あの、お休みじゃないんですよね。大丈夫です」
亮はにこやかに笑うと頷いて片手を上げた。
「そっか。リョーカイ」
亮は向きなおると、ドアを開けた。 理沙はその背中に問いたかった。

美紀に電話とか、メールとかしたんですか
会う約束、したんですか
あたしには、アドレス教えてくれないんですか

邪推(じゃすい)ばかりが頭を過(よ)ぎる。以前よりも少し優しく感じる亮の態度は、きっと美紀の存在がそうさせているのに違いないと理沙は決め付けていた。



「今日は特に冷えるな」
亮と一緒に裏口から外へ出ると底冷えするような寒さに迎えられた。空気が澄んでいるせいか、星が明るくまたたいている。こんなに星が見えるのもこの周辺の街灯が少ないからであろう。
「ほんとだ。寒い」
理沙はピンクのマフラーを隙間のないよう首に巻きつけた。自転車のハンドルは冷たく冷え切っている。理沙は手袋を持ってくればよかったと思った。


少し先でマウンテンバイクを走らせながら、亮が突然、質問してきた。
「あんたさ、今まで生きてきて一番辛かったことはなに?」
「え?なんですか」
「今までですごく辛かったことだよ。別に、興味本位なんだけど」
理沙は視線を落とした。
「辛かった・・ことですか?」
今までの人生で・・。そんなこと考えたこともなかった。今の理沙にとってそれはしいて言えば、亮と美紀のことに違いなかった。辛かったというよりも、今まさに辛い。
しばらく考えた末、理沙はボソリと呟いた。
「自分の好きな人が他の人を好きになっちゃったかもしれないって思った時、かな・・」
亮はどきりとして振り返った。
「お前、好きな人なんていたの?」
理沙はどぎまぎして慌てふためいた。
「い、いますよそんぐらい。あたしだって、オトメなんですから。ま、亮さんなんかよりもずっとステキな人ですけどね」
理沙は精一杯強がってみせた。
しかし、亮は振られたような顔になった。別に何か期待していたわけではなかった。しかし、理沙には好きな人など居ないとどこかで決め付けていたのだ。確かに自分以外の誰かを好きでいてもおかしくはない。理沙が急に遠い存在に思えた。
「そ・・か。お前、片思いしてたのか。それは、過去形なのか?」
「過去か現在かってきかれたら・・。現在形です・・ケド。なんでそんなこと訊くんですか?」
亮は当惑したように考えこんでいる。相手は誰なのだろう。まさか、本当にタクヤのことが好きになってしまったのではないか。それとも同じ高校に通う奴か?
「亮さん?・・ああ、前、前!」
理沙がそう言っているのに気が付いた瞬間、下を向いてペダルを漕いでいた亮は電柱に引っかかり、バランスを崩して“ドシャーン”と大きな音を立てて自転車を横転させた。 直後、亮は思いきり地面に叩きつけられた。

「きゃあ!亮さん!亮さん!」
理沙は自分の自転車を停めて放り出すと倒れている亮に駆け寄った。
「ってぇ・・」
亮は少し起き上がろうとして呻(うめ)き声を上げた。
「ああ!亮さん、大丈夫ですか?頭打ってないですか」
亮は半身を起こして隣で駆け寄ってきた理沙を見た。理沙は泣きそうに目を潤ませてしがみついている。とてつもなく可愛かった。やっぱり俺はコイツを好きになっている。そう実感していた。亮は思わず頬を緩めた。
「ん。大丈夫、みたいだ。悪いな」
亮は理沙に支えられるように立ち上がった。「俺としたことが」などと笑いながら足をパンパンはたいていた。どうやら大した怪我はしていないようだ。
振り返ると理沙が背中を向けて棒立ちになって俯いている。
「どした?」
亮は心配そうに理沙の顔を覗きこんだ。理沙の頬は濡れていた。亮は目を疑った。こんなことで泣くのか、女は。
「お、おい。なんで泣くんだ?痛てぇのは俺のほうなんだけど・・」
理沙は亮の言葉を制するように言った。手の甲で涙を拭う姿は何とも子供のようだ。
「怖かったよー。マジで怖かったー。りょ、亮さん死ぬかと思ったぁ」
亮はその時、理沙を思い切り抱きしめたかった。“片思いをしている”そう聞いただけで、理沙を取られたような気がしてならない。尚更、彼女をいとおしく思った。しかし、そんな自分の気持ちを押し込めた。亮は一度出しかけた行き場のない両手をポケットに入れた。
「わりい。ちょっと、前見てなかった」
「大丈夫ですか?怪我はなかったですか」
二人が振り返ると、亮のマウンテンバイクは車輪が曲がり、理沙の自転車は倒れた衝撃でベルが取れていた。



二人は肩を並べて自転車を引いて歩いていた。まだ理沙の家まで半分もいっていない。恐らくいつもの倍以上、帰宅まで時間がかかることは間違いない。
「悪いな。俺のせいで。先、帰ってくれていいんだぞ」
理沙は首を横に振った。
「だから、そういうわけにはいきませんって。それに、そんなに謝ってる亮さん、らしくないですよ」
立ち止まって亮は見据えた。
「おい。どーゆーイミだ。俺はいつも素直じゃないってことか?」
肩をすくめて理沙は苦笑いする。
「そういうわけじゃないですけど、なんかいつも上から的イメージがあるんで」
ふらふらする自転車を片手で押さえ、亮は理沙を指さした。
「お前ね。ったく、もう帰れ。なんかお前といると遠まわしに悪口言われてるような気がすんだよな。帰れ、帰れ!」
「なっ!人がせっかく付き添ってあげてるのに、帰れはないでしょ。絶対かえりません」
亮は「勝手にしろ」と鼻で笑った。
理沙は思い出したかのように亮をみて言った。
「あの。さっきの質問ですけど、亮さんは?」
「ん?」
「亮さんは、今までで一番辛かったことって、どんな事なんですか」
「俺?」
亮はそう言った後、遠い目をして唸(うな)った。冷たい風が二人の頬を撫でていく。
「俺は、父親が死んだ時。いや、その後かな?」
理沙は驚いて亮を振り返った。
「お父さん、亡くなってたんですか」
亮ははにかんで笑った。車輪の曲がった自転車はまっすぐに進もうとしてもどうしてもグラついてしまう。それを安定させるのに亮はハンドルを左右に動かしながら進めていた。
「ああ。もう二年前だけどな。オヤジが死んでから、俺の人生、激変したから」
理沙は歩みを止めた。
「そうなんですか。 あ、そういえば、この間最初に行ったお店って、お父さんの店だって言ってましたよね」
「ああ。そうだよ。いや正確に言うと、箱だけオヤジがやってた店なんだ」
「箱だけ?」




父の死は突然のことだった。突然。そう感じたのは父のまわりに居た人間だけだったのかもしれない。恐らく父本人は自分の病状に気が付いていたに違いない。
亮の父は脱サラしてイタリア料理店を開店させた。イタリアに行ったこともなく、弟子入りしたわけでもなく独学だった。サラリーマン時代から、本格的なイタリア料理を亮や妻に食べさせてくれていた。その趣味が高じてレストランを始めようと思ったようだ。とにかく料理が好きだったのだ。
しかし開店後、半年ですい臓ガンに侵(おか)され、突然この世を去った。やっと店が軌道に乗り始めたと思った矢先の出来事だった。亮が大学二年生の時だ。亮と母に残されたのは開店資金の為の多額の借金と、コック兼、オーナーの居なくなった店だけだった。
慌ただしく葬儀を終えた後、母は抜け殻のようになっていた。母の喪失感は誰から見ても明らかだった。泣いてばかりいる母にかける言葉も見当たらなかった。恐らく、失った悲しみと、これからの不安、または夫の病状にひとつも気が付けなかった自分を責めていたのかもしれない。
亮自身は父が死んだにもかかわらず、何故か涙が一滴も出なかった。あまりの突然の出来事にショックで周囲で起こっていることをすぐに受け入れられなかったのかもしれない。亮は泣けない自分を薄情だと責めていた。

父が倒れた日以来、店主の消えた店はもぬけの殻になった。従業員達からも店を開けようという声もなかった。父の居ない状態で店をやることは不可能だったのだろう。
父が亡くなって五日程経った頃、亮は店へ出向いた。食材やら何やら全てがそのままになっていたからだ。母もあの様子だと、到底そこまで気がまわる状態でもない。金庫の中身などもそのままになっている。
この日、生まれて初めて自分に兄弟がいないことを亮は心細く感じていた。

父の私物を整理していると、油で茶がかったレシピブックのようなものがあった。
材料や分量、盛り付け方、接客、インテリアに至ることが写真付きで事細かに記されている。また、競合他店でも自分の店よりもいいものがあったことなども詳細に書かれていた。亮はゆっくりとひとつひとつのページを開いた。これはオヤジの歴史だな。そう思った。
細かい批評やレシピの数々を繊細でまめなオヤジらしいと亮は思った。感心しながら分厚いノートのページをペラペラめくると、ひらりと写真が一枚、亮の足元に落ちた。
亮は写真を拾い上げた。それは父の店が開店した時の、家族と従業員とが一緒になって撮った集合写真だった。それぞれの顔は皆、希望に満ちている。

突然ひとりぼっちにされたような気がした。嵐のように熱いものが亮の胸にこみあげてきた。父との楽しい思い出ばかりが沸き起こってくる。
「お父さん・・、お父さん」
亮はしばらく写真を握りしめたまま泣き崩れた。店には亮一人の噎(むせ)び泣く声だけが響いていた。それを咎(とが)める者もここには誰も居ない。
失ったことを身をもって知った時にはじめて涙が出るのだとこの時亮は知った。今まで泣けなかったのだ。父を亡くしたことを受け入れることができなかったから。
父は自分の死を覚悟していた。それが亮には何となくわかった。
末期の癌(がん)を隠し通すのは相当の苦悶(くもん)があったに違いない。それを店の誰も気が付いていなかったのだ。葬儀の時には店の従業員達が父が癌(がん)であったことを驚いていた。それくらい、父は精神力で普通に見えるよう立ち振舞っていたのであろう。
確かにここ最近父は痩せていたし、顔色も悪かった。後で考えればだいぶ前から黄疸(おうだん)が出ていたのだが、父はそれを夏バテのせいだとしきりに言っていた。そう言うしかなかったのだ。いつか倒れるのを承知で店を続けたのは父なりの意地であり、プライドだったのだろう。
亮はそんな父が誇らしかった。父のことをそんな風に思ったことはこれまでなかった。

 亮は写真を持ち帰ると、母にそれを見せた。母は終始それを見ながら涙を流していた。そして思う存分泣いた後、赤らんだ目で微笑を見せた。
「お父さん、頑張ったのね。すごいわ。最期まで騙されちゃった」
「そうだな。オヤジ、すげえよ。ホントにすげえ」
二人は笑顔になった。父が亡くなってからはじめてのことだった。

父の法要が落ち着いてからすぐ店は売却した。五千万円かけた店は半値(はんね)でしか売れなかった。父の生命保険と住んでいたマンションや車などを売却しても、手元には五百万円の借金が残っていた。
とにかくそれを返しながら亮と母は二人で頑張っていくしかなかった。
 三LDKのマンションから家賃二万五千円で二DKの安アパートに越し、母は借金と生活費の為に昼間は近くの工場で、軽作業の仕事をし、夜は内職という二足のわらじで稼いだ。
亮は自分の学費の為にマリオーロでアルバイトを始めた。イタリアンレストランを選んだのは父の気持ちを知りたかったからである。とにかくがむしゃらに働いて借金を返していくしかなかった。経営学を専攻していたこともあり、大学は何とか続けたかったのだ。学費は自分の働きで何とかできたのは、大学が国立であった事が幸いしていた。
皮肉にも、自分で学費を稼ぐようになってからのほうが学ぶことに貪欲になれた。
勉学も仕事も意欲的に学ぼうと惜しみなく努力してきた。特に亮にとってレストランのことを追求することは父を探求することと同じなのである。そしてそれには終わりはないのだと気付かされた。父も同じように考えていたのだろうか。それは分からない。
そして次第に自分が目標とするものが、はっきりと見えてきた。やはり、店をやってみたい。自分が理想とする、最高の店をやって、たくさんの人が喜ぶ顔がみたい。その思いは日増しに強くなっていった。
ほどなくして、父のものだったあの店に買い手がついたのだと不動産屋から聞いた。
理沙とあの店に行ったのは、一人で行く勇気がなかったからだ。父が命を賭けた店。それが他人に渡ることは父の形見を失った気がしていた。しかし、実際に理沙とあの店に行ってみると父がやっていた店とはまるっきり様変わりしていた。味も、別に食する必要もない店だとすぐにわかった。逆にそれが亮の気持ちにけじめをつける転機になってくれたような気がする。


全てを聞き終えた理沙は黙って涙をポロポロこぼしていた。話のなりゆきとはいえ、亮に辛いことを話させてしまった。まさかこんな事情があったなんて。店長が言っていたことや、毎回賄(まかな)いを持ち帰るのも、生活の為だったのだ。
「ごめんなさい。あたし、あたし、何も知らなくて・・・」
亮は困って真っ暗の天を仰ぎ見た。今日理沙に泣かれるのはこれで二度目だ。
「頼む。何度も泣かないでくれよ。別にいいんだ。俺こそ、オヤジの店に無理やりつき合わせて悪かったんだから。でも、あそこに一人でどうしても行けなかったんだ。だから助かったよ」
理沙は黙って首を振った。亮にかける言葉も見つからない。
「別に、俺はお前に説教するつもりはない。けどな」
亮は理沙のことを真剣な顔で見て立ち止まった。理沙も隣で立ち止まる。
「親は大事にしろ。俺なんか、オヤジに会いたくても、もう会えない。今更だけど、話したいこと、聞きたいことは山ほどあるんだ。それに、一度でもいいから今までの感謝の言葉を言いたかった」
薄暗い街頭が二人を照らしていた。亮の瞳はキラキラしていて潤んでいるように見える。理沙には泣いているようにも見えた。
「感謝の言葉?」
「ん。俺を、俺という人間を産み、育ててくれたこと。当たり前のことのようで、それが当たり前じゃなかったってことをつくづく実感するんだよ。それが直接言いたくても俺には今、オフクロしかいないからな。オフクロには楽させてやろうと思ってる。本当に両親には感謝してるんだ。俺がそれに気付かされたのは、オヤジが死んでからだから」
理沙は黙ったまま聞いていた。親が産み、育ててくれた。そんなことは当たり前すぎて考えたこともない。
「大事にしろよ。お前だって、あんなに大切に思われてんだからさ」
そう言うと、亮は急に自転車を逆の方向へ向けた。いつも来る交差点まで来ていることに理沙ははじめて気が付いた。
「悪かったな。付き合わせて。俺みたいなのと一緒に居たらお前の好きな奴に見られて誤解されたら大変だからな。もう行くよ」
理沙はその言葉がグサリと胸に刺さった。
亮は片手を挙げると、足早に自転車を走らせて行ってしまった。
どうしてああなんだろう。なぜあんなにも優しいんだろう。こんなにも頼もしいんだろう。これ以上、好きになっても仕方ないのに、苦しくなるだけなのに、どんどん好きになってしまう。亮の過去を知って、また彼の意思の強さや優しさが理沙の心を揺さぶった。
― 親は大事にしろ ―
いつまでもその言葉は理沙の頭から離れなかった。



その日は朝から気が重かった。下の部屋に下りて行くと、既に朝食が用意されている。
「理沙ちゃん、おはよう。お誕生日、おめでとう」
理沙の顔を見るなり、キッチンから母は駆け寄ってきてそう言った。
父も理沙が来たのに気が付くと、見ていた新聞を降ろして言った。表情はこの上ない程ににこやかだ。
「おはよう。理沙。誕生日おめでとう」
理沙はそんな二人に対して小さく頭を下げ、その場から逃げるように洗面所へ行った。
―親は大事にしろ―
その言葉に素直になれずにいる自分がいた。わかっている。離れたところでは。けれど、両親の顔を見た途端に何故かその気持ちは薄れてしまうのだ。

“ありがとう”なんて、今更そんなこと、言えないよ

顔を洗い、制服に着替え、身支度を済ませた理沙は重い足取りでダイニングの椅子に腰掛けた。
母がタイミングよく、理沙の前に味噌汁とご飯を置きながら言った。
「理沙ちゃん、今日はお誕生日だから、夜はうちで・・」
「ごめん。今日バイト」
「え?」
「だから、今日バイトっていってるの。いいよ、別に何にもしなくて」
理沙は箸を持とうともしない。
「じゃあ、アルバイト終わった後でもいいわ。美紀ちゃんだって、ほら。来るかもしれないじゃない?」
明るく言う母を理沙は睨んだ。真砂子は驚いて困惑した表情になる。今のことは言ってはいけなかったのか。
「美紀は来ないの。誰もあたしの誕生日なんて喜んでないんだから。もういいや。ごはん要らない。もう行く」
理沙は立ち上がると、ダイニングから出て、そのまま玄関に置いてあったカバンを持って出て行ってしまった。
両親は顔を見合わせた。真砂子が理沙がそのままにしていった朝食に目をやって呟いた。
「理沙ちゃん、最近どうしちゃったのかしら」
信夫が見ていた新聞を折りたたみながら溜息をついた。
「何か気に入らないことでもあったんだろう」
理沙の両親には近頃、自分達の娘が何を考えているのかさっぱり分からなかった。自分達に対しても何が気に入らないのかわからない。しかし、明らかに親を煙たがっているのだけは理解できた。
「でも、贅沢な悩みよね」
真砂子は笑った。
「そうだな。贅沢な悩みだ」信夫は悲しい目をして微笑んだ。




両親ともに、理沙が産まれたこの日、十七年前の同じ日のことを思い出さずにはいられなかった。
理沙は母の真砂子がそれまでに流産を繰り返し、やっと授かった子供だった。理沙にはそのことは言っていない。妊娠がわかった時には夫の信夫と喜ぶ反面、また今までの辛い出来事が起こるのではないかという不安に恐れるような日々だった。流産と口で言うのは簡単だが、女性にとって、悲しくそして辛い喪失以外の何ものでもない。
 最初の子を授かった時には、まだ二ヶ月ではあったが、ひどい悪阻(つわり)のせいですぐに妊娠がわかった。結婚して一年目だった。 嬉しさのあまり、その日中に互いの両親や親戚、友人に触れ回った。皆、我が事のように喜んでくれたこともあり、夫婦ともに幸せに満ち溢れていた。 下着に鮮血(せんけつ)があったのはその翌月のことだった。
流産など考えてもいなかった。あまりの辛さに真砂子は暫く一歩も外へ出られなかった。
度重(たびかさ)なる流産を繰り返し、理沙を妊娠した時には既に結婚六年目になっていた。理沙の妊娠は七ヶ月まで周囲には知らせなかった。子連れの親子を見ると、まるで勝者と敗者に分けられたような気にさえなってくる。真砂子にとっては毎日が闘いのような日々だった。

だから理沙が三二〇〇グラムで産声(うぶごえ)をあげた日、真砂子も信夫もこの子は奇跡に違いないと、この世の全てに感謝したい気持ちでいっぱいになった。あどけなく微笑む理沙の瞳はこの世の何よりも深く澄んでいるように思えた。
これまで産まれることのできなかった子供達の分まで、この子を幸せにしてあげよう。理沙の誕生日は夫婦でそう誓った、大切な記念日だった。








あれから美紀とは一言も言葉を交わしてはいない。こちらからはもちろん話しかけはしない。できない。あんなひどい事を言ってしまった手前、引っ込みがつかなくなってしまったのだ。美紀も理沙も、別々の女子のグループで、同じ空間に居ながら、行動を別にしていた。
「ねえ、美紀ってさ。なんかこう、かわいこぶってるよね」
理沙と一緒に居るバドミントン部の加奈(かな)は、いつもこうやって美紀の悪口に誘導してくる。慣れなれしく座っている理沙の肩に手をまわしてくるのも勘にさわる。
理沙は視線を加奈(かな)から逸らせてシャーペンの芯を入れながら答えた。
「そう、かなあ。だって、実際かわいいし」
途端に加奈が口をへの字に曲げる。
「え、だってさあ。なんか、あの笑顔とか、キモくない?わざとらしくって」
加奈はキツネのような細い目を釣り上がらせて笑っていた。

― キモい。あんたの笑顔のほうがよっぽどキモいよ ―

理沙は加奈達といる自分の居場所に明らかな違和感を覚えていた。彼女たちは噂ばなしや、人の悪口にしか興味のない人種なのだ。美紀といる時はこんなじゃなかった。少なくとも美紀は人の悪口なんて絶対に言わなかった。しかし、今の自分の居所はここにしかない。それがもどかしかった。一人でいる勇気なんてない。
美紀もたまにこちらを見ていた。理沙が美紀とは別の方向を見ている時にだけ。理沙にはそれがわかっていた。きっと美紀は私のことを恨んでいるに違いない。美紀が向けてくる視線が何よりも痛く突き刺さっていた。



理沙は誕生日のこの日、学校で初めて「おめでとう」を誰からも言われなかった。気付いていない周囲の友達にも、この日が自分の誕生日だとあえて言いたくもなかった。媚びてまで祝ってもらいたくもない。また、加奈達の言葉はきっとうわべにしか聞こえない。
でも、これほどまでにそれが寂しいこととは思ってもみなかった。


理沙は下校した足でそのままマリオーロへ向かっていた。家にも帰りたくはない。
途中、コンビニで時間を潰していたが、読んでいる雑誌の内容も頭に入ってこなかった。

ああ。私がこの世で一番不幸に違いないよ。なんでこうなっちゃったんだろ

理沙はどこか遠くへ行ってしまいたい気持ちだった。
早いけど、そろそろ店に行こうかと理沙は開いていた本を置いた。出口へ向かおうとすると、客が一人入ってきた。よくみると私服姿の店長だった。
「あっ!」
コンビニに入ってきた店長は理沙を見るなり大きな声を出して驚いた顔をして突っ立っていた。
店長は黒のパンツとジャケット姿でなかなか決まっていたが、理沙は不思議に思った。
「店長?あれ、なんで私服なんですか?お店は今日どうしたんですか」
店長は引きつった顔で笑いながら目を泳がせた。
「あの、な。あー、えーっと。急にお、お得意さんが来ることになって。なんだ。あの、だからキミはもう少しここで本でも読んでろ」
コンビニの店員がジロリとこちらを睨(にら)んだ。理沙は店長の言葉に怪訝な顔をした。
「は?イミわかんないんですけど。じゃあ、私、今日は帰っていいってことですか?」
店長は慌てたように両手を開いたまま硬直させて言った。
「バカ!なに言ってんだ。し、仕事は休むんじゃない!絶対に来いよ。来ないとクビだ!」
理沙は度肝(どぎも)を抜かれた。バカもクビも店長の口からとても出るとは思えない言葉だったからだ。店長はどうかしてしまったのだろうか。
「ええっ!わ、わかりましたよ。行きますよ。行きます」
理沙は腑に落ちなかったが、仕方なくまた雑誌を手に取った。
「わかりゃいいんだ。もうしばらくだからな。じゃ、じゃあな。後で店でな」
そう言いながら店長はポケットに手を入れたままコンビニの出口で一度けつまづいた。
理沙はそれを覗きこんで見ていると、店長はこちらを見て三日月の目で笑って手を挙げ、去って行った。
「へんなの」
理沙は雑誌を読み始めた。しかしすぐにいくつもの疑問が浮かび上がってきて雑誌から顔を上げた。
お得意さんって、そんな話は今まで聞いたこともない。私服である必要があるのだろうか。しかも、店長はここに何か買いに来た筈(はず)なのに何も買っていかなかった。どうも気になる。それに、「来いよ」という割には「もう少し本でも読んでろ」という。
「あたし一体、何時に行けばいいの?」
とんだ誕生日だ。理沙は更に今日という日が虚(むな)しく感じた。




「あの。おはようございます。もう、出勤しても大丈夫・・」
理沙がそう言いながら裏口のドアを開けると、控え室は真っ暗だった。スイッチを押すと、電気はついた。
「アレ?誰もいない。どうしたんだろ、今日」
店内の音楽も消えていた。どこからも音が聞こえない。
理沙はおそるおそる控え室のドアに手をかけた。何かわからないが、嫌な予感がする。
ドアを開けてそっと覗きこむと、店の中は真っ暗だ。
「え?」
どうなっているのかわからず、理沙が店に入ると誰かが叫んだ。
「せーの!」
「理沙ちゃん、お誕生日、おめでとう!」
皆の声と同時に明かりが点き、店の真ん中に店のメンバーと美紀が立ち上がってこちらに手を振っていた。皆、普段着だ。
「え? これ、どういう・・」
亮が笑って理沙を手招きした。
「はやくこっちこいよ」
理沙は状況がのみこめずに立ちすくんでいた。
タクヤがヤキモキして言った。
「もう、こっちに来いって。皆で理沙のお誕生日会やるんだから」
「は?え、あの、お店は?」
店長は大きく手招きしながら理沙を呼んだ。先ほどと同じ服装だ。
「クリスマスシーズンに休むアホな店でーす! だって水曜日は定休日じゃないか。定休日に店開いたことは開店当初から一度もありません。遠くて話しにならん。いいからこっちに来なさい」
理沙はフラフラと皆の囲むテーブルの方へ歩いて行った。
「あ、あの、わたし何て言えばいいか・・」
理沙は美紀に目を向けた。そしてどうしていいかわからずに目を背(そむ)けた。なんでここに美紀が・・・。
「あのね。わかばやしちゃん。そもそもこの企画は美紀ちゃんのアイデアなんだよ」
店長の言葉に理沙は驚いて美紀を振り返った。
「え?美紀が?・・あっ」 
理沙は何かを思い出したように口元を押さえた。
美紀が泣きそうな顔で笑って言った。
「理沙。だから誤解なんだってば。私も、理沙にサプライズしようと思って、そのことがあったから本当のこと言えなくってさ・・」
亮が間(あいだ)に入ってきた。
「なに誤解って。二人、ケンカでもしてたのか?」
美紀が慌てて言った。
「いえ、なんでもないんです」
理沙は自分のしたことに情けなくて、悲しくて涙がこみ上げてきた。ボロボロこぼしばがら美紀の前で頭を下げた。
「美紀・・・。ごめん。本当にごめんなさい」

美紀は、この日の為に亮や店長と連絡をとりあって準備していた。理沙を喜ばせたくて。驚かせたくて。亮へのメールもその為だった。理沙には悪いと思いながらも、亮が一番理沙のことをわかっていると思っていたし、美紀は理沙の気持ちを知っていたから少しでも亮が理沙のことに関わることをして欲しかったのだ。
理沙の頭の中で埋め尽くされた霧が晴れていくように消えていった。それと同時に美紀を傷つけてしまった後悔の念で胸が一杯になった。なぜあんなことを言ってしまったのだろうか。自分はバカだ。大バカだ!
「ううん。いいの。大丈夫。理沙。私こそ、今までごめん。理沙の気持ちも私わかってなかったと思う。それに、私ももっと自分を大切にしなきゃだよね。理沙、ありがとう」
美紀の目からも涙がこぼれていた。きっと同じ気持ちだったのだろう。
「美紀・・・」
二人の空気にその場はしんとなった。タクヤが呆れたように首をかしげて言った。
「おい、なんか湿っぽくなっちゃったぞ。どーすんだよコレ」
店長が困った顔でオーバーに言った。
「ダメダメ、二人とも。今日は楽しいパーティなんだから。それで、美紀ちゃんはこっち」
店長は周りを気にもせずに自分の横を指さした。美紀と理沙は涙を拭って互いを見て微笑んだ。
言われるまま店長の横に来た美紀は店長とタクヤに挟まれる格好になった。タクヤは改めて美紀を下から上まで眺めた。白のハイソックスで淡いピンクのミニに、純白のファー付きのパーカーを着ている。
「ケ カリーナ! キミ、超きゃわいいね。恋しちゃいそうだぜ」
タクヤが目を細めて舌なめずりをした。
店長が美紀の隣に居たタクヤの腕をつかみ、低い声で言った。
「テメー、なんかしたらマジでぶっ殺す」
周囲がまた一気に静まり返った。タクヤはふてくされた顔で「あーい」と別の方を向いた。
美紀は二人を見比べた後、うふふとはにかみ笑いをした。恐らく状況は理解していない。
「で、わかばやしちゃんはこっち」
店長はそう言うと、亮の隣を指差した。亮は別の方向を見ている。
「え、あ、ハイ」
理沙は俯いて亮の隣に座った。亮と隣合わせの椅子はベンチ式になっていて、亮と側にいるパートの女性二人に挟まれている。パートのおばちゃんはどっかり座っていて、亮と理沙の間にはほとんど隙間がない。
 理沙はドキドキしていた。こんなに亮と近くになったこと今までないのだ。亮の顔などとても見られる状況ではない。亮が髪をかきあげる度にその腕が理沙に当たってどぎまぎしていた。
店長は一度、咳払いして亮の方を向くと、改めて全員に言った。
「じゃあ、わかばやしちゃんの為に、皆で乾杯しようか。じゃあ亮、よろしく」
亮は眉をいからせた。
「え?俺?なんで俺が!」
店長はイライラしながらあごで亮を急かした。
「いいからなんか言え!」
亮はいったん舌打ちしてから諦めたように目をつむった後、ため息をひとつついて立ち上がり、親指で理沙を指して言った。
「えーっと。コイツは、ミスは多いし、早とちりだし、物覚えもわりーし、皿は割る。レジは間違うし、仕事は遅い。そのくせすぐ俺に歯向かうし」
理沙は眉間にしわを寄せて亮を見上げた。こんな時に、何を言うつもりだ。
「ちょっと、そりゃねーんじゃねーの?」
タクヤは救いの手を差し伸べようとした。店長も「おい、空気読めよ」とタクヤに加勢した。
亮は店長を見ながら当たり前のように言った。
「いや、それは本当のことですから。仕方ないです」
理沙は隣で剥(むく)れた。なぜ自分はこの男が好きなのだろう。
腰を浮かせて反論しようとする皆を「まあまあ」と座らせてから亮は続けた。
「でも、コイツなりに一生懸命ついてきてくれました。最初はどうなることかと思ったけど、最近は一応戦力にはなってるんじゃないかな。ま、一応だけど。接客の気合いでは、たまに俺も負けそうになる時がある。お客に対する誠意はすげーあると思うから。まあ、がんばってくれていると思います」
皆が胸を撫で下ろした。一応ここは理沙が主役なのだから、もめてもらっては困る。

理沙は内心胸がキュンとしていた。照れながら言う亮の言葉は本心に間違いなかった。亮の性格からしてそれはわかる。言い方はぶっきらぼうだけど、そんな風にみていてくれてたのだ。
 亮は少し間をあけた後、皆をひとりひとり見ながらにこやかに言った。
「だから、多かれ少なかれ、嫌なことがあっても簡単に辞めないでほしい。店長の力になってやってくれ。俺は二月から居なくなるけど、今まで以上に頑張って、店を盛り上げていってもらいたいと思います。じゃあ、乾杯!」
亮がそう言って、グラスを持ち上げると、皆はそれに続いた。
「乾杯!」
それぞれがグラスに注がれたものを高らかに上げると、それを飲み干していた。皆が席に座る中、理沙はグラスを持って立ったままだった。放心している。
店長は飲み干したグラスをいったん置き、何度も頷(うなず)きながら拍手し、立ったままの理沙に笑いかけた。
「ここで、パーン!と景気よくクラッカー鳴らすはずだったんだけどねー。さっき、わかばやしちゃんコンビニに居るんだもん。さすがにサプライズだから俺、バレちゃうのが怖くてさあ。買えなかったよ。あはは。 アレ?どうしたの。わかばやしちゃん、ほら座って座って」
理沙はその言葉が耳に入らない様子で立ちすくんだままだ。
理沙は亮のほうゆっくりを見た。二月から居なくなる。意味がわからない。
「亮さん、今なんて・・?」
店長は不思議そうな顔をして皆を見回した後、「あれ?もしかして」と言いながら亮を見やった。亮は店長から目を逸らした。それが物語っていることは明らかだった。

「あのね。あの、わかばやしちゃん。その、亮なんだけどね・・」
理沙は力なく言った。
「私、そんなの聞いてません。二月から居なくなるってどういうことですか」
亮は後頭部を掻きながら顔を伏せた。
「わりい。お前だけに言うの忘れてた。俺、二月頭(アタマ)から、イタリアに行くことにしたんだよ。店長の知り合いが都合つけてくれることになって。大学の試験と卒論が終わるのを待って、修行させてもらおうと思ってる。料理から、接客から、独立に必要な知識を住み込みで勉強させてくれるって言ってくれてな。場所はお前知らないと思うけど、イタリア、トスカーナ州の・・」

そこから先は何をしゃべっていたか、理沙の思考回路は止まったままだった。楽しそうに話す亮の様子とはうらはらに聞けば聞く程、理沙の意識は遠のいていくような感覚を覚える。
―だって、何年か先にって言ってたのに。二月ってあと二か月しかないのにー


「理沙、大丈夫?」
タクヤがバースデーケーキのガトーショコラをキッチンへ取りに行っている間、美紀が隣に来て理沙を心配そうに伺った。美紀も亮のイタリア行きの話は今知ったところだ。
「だいじょうぶ、じゃ、ないかな」
理沙は困ったような顔で笑った。いくらなんでも急すぎる。
いつかという覚悟はできていた。亮は前に独立したいと言っていたから。しかしこんなに早くその日が来るとは思ってもいなかった。しかも、なぜ自分にだけ言わなかったのだろう。
言うのを忘れていたというのは、亮の性格からいって嘘に違いなかった。それがわかるだけに理沙はとてつもなく悲しかった。

亮をキッチンカウンターまで引っ張ってきた店長が弱り果てた顔で囁(ささや)いた。
「お前さ、何でわかばやしちゃんにだけ言わなかったのさ。せっかくのパーティーがぶち壊しじゃねーか」
亮は低く笑った。
「だから、忘れてたんですよ。別に気にしなくても大丈夫ですから。アイツは俺なんか邪魔にしか思ってないんスから」
店長は呆れて額に手を当て、嘆(なげ)いた。
「ああ。わかってねーなぁ。じれったいねえ。うら若き男女よ」
店長の言葉をよそに亮はにやけて続けた。
「そんなことより、今日の目的はアイツの誕生日じゃないでしょ。目的は別のところにあるのはお見通しですよ。テンチョウさん!」
心の中を見透かされたことに慌てて、店長はやや強めに亮の頭をグーで小突いた。
「バ、バカッ!聞こえるだろうが」
亮はぶたれた所をさすって店長を睨みつけた。どうやら図星らしい。
「ってえ。殴るこたぁないでしょ。テンチョウさん、アタシ暴力はキライよ」
すかさず店長が亮の腹にやや強めの一発をめりこませた。「んだよぉ」と言いながら亮は打たれたところを顔を歪(ゆが)めてさすった。冗談にしては痛すぎる。
店長は目を極めて薄くして亮を睨んだ。
「なんで、おまえソレを知ってるんだ」
失笑して亮が店長を見た。
「あのぉ。隠してるつもりかもしれませんけど、すっげーバレバレッすよ。彼女のこと好きだって顔に書いてありますもん」
店長は両手で顔を覆った。
「ええ!そ、そんなハズはないと・・・」
語尾には自信がなくなって言葉が消えた。
「たぶん、知らないのは美紀ちゃん本人だけでしょうね」
店長が慌てて亮のほっぺたを思い切りつねりながら押し殺した声で言った。
「バカヤロ!名前をだすな」


「なんか、あの二人揉めてんのかな。さっきからなんか変だね」
美紀がキッチンカウンターでコソコソ揉みあっている店長と亮を見て言った。
「え?ああ、うん。そうだね」
理沙は気もそぞろだった。先ほどのことで頭はそれ以外のことを考えられなくなっていた。

 料理は次々とコック達の手によって運びこまれてきた。タコのカルパッチョ、魚介類のサラダ、エスカルゴのガーリック焼き、魚介のたっぷり入ったボスコマーレ、ピッツァマルゲリータ。どれもマリオーロ自慢の料理ばかりだ。たちまち香ばしい香りが漂う。「今日は店長のおごりだからねー。ガンガンたべよーぜ。あ、俺ビールもう一杯ね」
ホールのガトーショコラにろうそくを立てながら、タクヤは上機嫌で言った。
「あれ?理沙は十七歳になったんだっけ。十七本でいいの?」
タクヤの問いに理沙は、少し照れて頷(うなず)いた。
タクヤは手を止めて理沙をジッと見た。
「理沙、かわいいな。愛してるぜ」
そう言ってタクヤが理沙に投げキッスすると、亮がタクヤを冷たく睨んだ。
タクヤは亮に対して、舌を出して顔をしかめてみせた。

「それじゃあ、料理もそろったことだし、わかばやしちゃんにロウソクの火を吹き消してもらいましょう! せーの」
店長の掛け声と同時に皆がハッピーバースデーを歌いはじめた。理沙は隣で歌う亮の声だけに耳を澄ませていた。亮の声は深く、やさしい。腕がつきそうでつかないこの距離に居る時間が永遠に続けばいいと理沙は心から思っていた。

理沙がロウソクの火を吹き消して、皆が黙々と食事しはじめたと同時に、店長が咳払いをして皆に言った。
「えー。今日は俺のおごりだから、すきなだけ飲んだり食べたりしてくれ。わかばやしちゃんのお蔭でこうして皆で集まれた。まえまえから一度こういう親睦会(しんぼくかい)を開きたかったんだ。だから、わかばやしちゃんは自分の誕生日だけという引け目を感じないで欲しい。それにコレ、クリスマスも兼ねてるから」
店長の優しい言葉に理沙は少し目を潤ませた。
「店長。ありがとうございます。でも、本当に嬉しいです。みなさん、本当に・・」
理沙が姿勢を正して座り直そうと座っているベンチシートに手を置くと、右手の小指に亮の小指が当たった。その瞬間、理沙の全身に電気が走った。
「どうした?」
店長が不安げに言葉を切った理沙を伺った。
理沙の顔の信号の色は黄色を経ずに、青から赤に急変していた。
「いえ。ほ、本当に、センキューです!」
理沙の言葉に皆がドッと笑った。「なんじゃそりゃ」などと言いながら皆、理沙の天然ぶりに腹の底から笑って沸いていた。
理沙は胸の高鳴りが隣に聞こえてしまうのではないかと、気が気でならなかった。
二人の小指はかすかについたままだ。亮は気が付いていないようだった。恐る恐る亮を見ると、亮は別の方を見ていて表情がわからなかった。



亮はドキドキしていた。しかしそれを悟られてはいけない。理沙の小指が自分の小指と触れている。理沙は気が付いているのだろうか。いや、気が付いていれば、とうにその手を放しているに違いない。誰も見ていない。ほんの少し触れているだけなのに理沙の温かみを感じた。とても理沙のほうに顔を向けることなどできない。こんなに近くに居るのに理沙の心は他の誰かのところにあるかと思うと亮の心は揺れた。そう思った直後に理沙の手は亮から静かに離れていった。


「美紀ちゃーん。俺、お手製スイーツとろうか?」
タクヤが美紀に言うと、美紀は微笑んだ。
「ハイ。じゃあ、お願いします」
タクヤはケーキを切ろうとした手を止めて美紀をジッと見ながら小声で言った。
「キミこの後、予定空いてる?俺が送ってくからさ。今日は車じゃないけど・・」
立ちはだかるように店長が大きな咳払いをしてから一言いった。
「あ、あの。俺から皆に言っておきたいことがある」
一様に食事していた全員が店長を見上げた。
店長は再び咳払いをして続けた。どうやら真剣な話のようだ。
「実は、俺は・・・。俺には好きな人ができた。少し前からなんだが・・」
そこに居る美紀以外の皆の目がテンになった。
「へぇー」
興味深そうに目を丸くして美紀が言った。それに対し、店長はゴクリと唾を飲み込んだ。美紀以外の全員はため息とともに頭を抱えていた。



「え?私・・をですか?」
美紀は両手を口に当てて目を丸くしていた。すぐにその頬は赤く染まった。
亮が美紀を気の毒に思い、口を挟んだ。
「あの店長、そーゆーコトって、こういうトコでする話じゃ・・」
店長が亮を手で制し、その言葉をはばんだ。
「いや、いいんだ。皆にも知っておいて欲しい。俺は美紀ちゃん。キミのことが好きなんだ」
美紀はあんぐりあけた口をゆっくり閉じると、困った顔で俯(うつむ)いた。
「あのぉ、私」
真剣な表情で店長は美紀に向かって言った。
「いいんだ。いいんだ。別に今すぐ付き合って欲しいとは言っていない。それに真剣なんだ。キミのことを大切に思っている。俺は絶対にキミを悲しませるようなことはしない。だからキミが大人になるまで俺は待つつもりだ。キミが二十歳(はたち)になったらその時答えが欲しいんだ」
理沙が驚いた顔で店長を見た。
「それって、もしかして」
皆が声を揃えて「プロポーズ?」と同時に叫んだ。

「あの、どうして?」
「え?」
美紀は少し赤らんだ顔で困ったように言った。
「どうして私、なんですか。まだ何回かここに食べに来たぐらいなのに。歳も全然違うし、話だってそんなにしたこともないし・・」
タクヤが口を挟んだ。
「顔カワイイからに決まってんじゃん。若いしさ」
「違う!」
店長がタクヤの言葉を遮った。そして隣にいる美紀をゆっくり見た。頬は紅潮している。
「キミは特別なんだ」
「え?」
「キミは俺にとって特別だから。って言ってもきっと覚えてないだろうな。とにかくキミは俺を変えてくれたんだ。抜け殻になっていた俺の人生を」
美紀は首をかしげた。人生を変えたってそこまでこの人に関わった覚えもない。
この人は何を言っているのだろう。でも、なんだかこの感じ、前にあったような・・。しばらく沈黙の時間が過ぎた。その後(ご)、美紀の目は驚いたように大きく見開かれた。「あの公園の?」そう言いながら店長の方を見た。店長は美紀を見ながら三日月の笑顔でゆっくり頷いた。
タクヤが自分の皿に取り分けられたパスタをいじくりながらまた割って入ってきた。
「あのときって、ナニ?もしかして前からの知り合い?」
美紀は目線を上げて考えるようにいった。
「あの、えっと、知り合いってほど知り合いでもないような。説明すると長くなっちゃうんですけど」
店長はカラリと笑った。
「いいんだ。それはだいぶ前の話だから。とにかく、俺は今のキミが好きなんだ。大好きなんだ」
美紀の顔は真っ赤になった。恥ずかしそうに両手で頬をおさえた。
「わーったよ。それはもうナンカイもキキマシター。店長もさ、大人げないよな。こんな若い子捕まえて。皆の前で早いことツバつけようなんてさ。ずりいよな。ハーイ!じゃあ俺も立候補しまーす!」
店長は三日月の目を吊り上げた。
「おいっ!ツバつけようなんて思ってないぞ」
タクヤはフォークで美紀の方をさしながら言った。
「だって、現に困ってんじゃんか。カノジョ。なんだかんだ、彼女の気持ちを聞くのが怖いんじゃねーの」
店長は目を泳がせた。
「別に、そんなことは・・」
「じゃあ、いま聞いちゃおうぜ。ミキちゃんだっけ?キミは店長のこと、どう思ってんのかな。スキ?キライ?好きなわけねーか。ハハ」
美紀は黙りこんだ。
タクヤはフォークで店長のほうをさして高笑いした。
「ほうら。やっぱり。ザーンネン。振られちゃったね、店長。こんなオジサンにマジで来られても困るよなぁ。ミキちょわん」
店長はがっかりしてうな垂れた。
「・・・です」
タクヤが美紀に耳を傾けた。
「は?」
「私、店長さん。好きです」
「え?」
店長が持っていたグラスを落とした音のみが響き渡った。
理沙以外の皆が美紀のことを見た。理沙は額(ひたい)に手を当てた。







 店長と美紀の告白騒動があったせいで結局、理沙の誕生会などどこかへ吹き飛んでしまって終了した。店長と美紀は二人恥ずかしそうに肩を並べて帰って行った。タクヤは酔っぱらってキッチンの男衆を引き連れ、「キャバクラいくぞー」と言ってどこかへ消えていった。パートの主婦達はどうやらカラオケに行ったようだ。

 理沙は美紀が「誕生日に」と渡してくれたクマッくすの淡い水色のマフラーを巻いた。
「うわ。このマフラーあったかい」
思わず微笑んだ。隣に居る亮もそれを見て目を細くした。
裏起毛のそれは見た目もカワイイが、マフラーとしての機能も十分果たしてくれそうだ。
吐く息が白かった。冬も本番を迎えようとしている。
「それ、似合うじゃん」
隣で亮は改めて笑った。亮の笑顔はとても遠く感じられる。イタリアに、とても遠いところへ行ってしまう。距離だけでなく、存在自体も果てしなく遠い世界に旅立ってしまう気がしてならない。
二人は自転車を走らせながら、店長と美紀の話ばかりをした。互いにイタリア行きの話題には触れられないのだ。上辺(うわべ)だけでも笑っていたかったから。
「それにしてもタクヤさん、ひどいですよね」
「なにが?何か言われたのか」
「いえ、私じゃなくて。店長のことツバつけるとかオジサンとかって、あんな言い方しなくても」
「ああ」
亮は思い出し、かすかに笑った。
「アレはタクヤさんなりのトスだよ。ああいうところ、タクヤさんらしいよな」
「トスって?」
「二人の気持ちなんか雰囲気でわかってたんだよ。あの場でけしかけて言わせたんだな。まあ、乗せられたって感じだよ。わかんないのか。しかしアンタもトコトン鈍いな」
「ええ?それ、ホントですか。そんな風には見えなかったけど。美紀のこと本気で狙ってるんじゃないかと思ってヒヤヒヤしましたケド」
独り言めいた調子で言った。
「ミキちゃんにタクヤさんを取られると思ったのか」
振り返って理沙は亮を見た。
「は?」
「いや、別に何でもない。気にしなくていい」
理沙は亮の言う意味がわからないまま、亮の背中を見つめた。
「それよりお前さ、今日誕生日なんだろ?」
「え、ハイ。そうですけど」
亮は少し先でマウンテンバイクを停めると、振り返ってポケットから何かを出した。
「コレ、やるよ」
亮はピンクの手のひらサイズの袋を徐(おもむろ)に理沙に渡した。理沙は亮の隣で自転車を停めた。
「え?あの。これって私にプレゼントですか」
亮は照れ隠しにわざと口をへの字に曲げてみせた。
「プレゼントってほどのもんじゃねーよ。気が向いただけ」
理沙はその場で飛びあがりたいくらい嬉しかった。中身が何でもいい。自分のことを少しでも考えてくれただけでも幸せだ。
「ありがとうございます」
亮は理沙の満面の笑みを見ないように何もない空を見上げて付け加えた。
「お前、親と仲直りできたのか」
「いいえ。なんか話づらくて」
「余計なことだと思うけど、やっぱりこの間みたいな態度、俺は気にいらねーな。親のこと避けてばっかいねーで、言いたいことあるんならちゃんと言えよ。後で後悔するぞ」
「・・・」
「お前にとっちゃ、皆が祝ってくれるだけの誕生日かもしれないけどな。親にとっちゃ、子供を産んだ大切な記念日なんだぞ。って、まあ俺も偉そうなコト言えないけどな。でも、オヤジが死んでからそう思うようになった」
理沙はぼんやり考えこんでしまった。誕生日をそんな風に思ったことなど一度もなかった。親の目線でなど一度も考えたことなどない。
「余計なおせっかいだけどさ、俺にすれば両親が揃(そろ)ってるなんて奇跡だぜ」
そう言うと、亮は理沙の先へ行ってしまった。



 「ただいまあ」
「お帰り。理沙」
理沙が帰る気配を感じた両親は、玄関で理沙を出迎えた。十時になろうという時間なのに二人は一緒に待っていた。
真砂子が理沙の顔を覗き込んで言った。
「今日はどうだった。忙しかったの?」
理沙はそれをチラリと一瞥した。
「ううん。今日は休みだったの」
理沙の言葉に真砂子は不安げな顔をした。
「え、お休みだったの?だって今日はアルバイトだって。じゃあ、どうしてこんなに遅かったの」
「ああ。うん。それは後で話すね。それよりも、今日はお父さんとお母さんに話があるの」
両親は顔を見合わせた。なにかよからぬことではないか。理沙の神妙な表情に、両親は不安そうな顔をした。
ダイニングの扉を開けた理沙は息をのんだ。所狭(ところせま)しと理沙の好物の料理やら、ケーキやらが並んでいたからだ。全て手を付けていなかった。両親は理沙の帰りをずっと待っていたのだ。
「ごめんね。ずっと待っててくれてたんだ。それなのに、私・・・」
「いいのよ。理沙ちゃん。お母さん達が勝手にやったことなんだもの。今日は遅くなるって言ってたもの。ね、お父さん。気にしないで。あ、でもお腹すいてたら・・」
「ありがとう」
「え?」
「お父さんも、お母さんも、ありがとう」
「どうしたんだ。理沙」
「あのね、私を産んでくれて、育ててくれて、大事にしてくれて、愛してくれてありがとう。 それに、二人とも生きててくれて、本当にありがとう」
両親は顔を見合わせた。そのうち、真砂子は両手を口に当てて嗚咽(おえつ)を漏らした。
信夫は心配そうに理沙の側に寄り添った。
「なんだ理沙。どうしてそんなことを急に言うんだ。何かあったのか」
理沙は首を振った。
「ごめんね、今まで。自分のことしか考えてなかった。自分が恵まれてるなんて、ちっとも考えたことなんてなかったの。それよりも、自分ばっかり友達とか、勉強とか、面倒なことだらけで毎日のこと、退屈にしか考えてなかった。お父さんやお母さんだって、何も考えずにのんきに暮らしてるんだって風にしか見えてなかった。だからイライラをぶつけてたのかもしれない。きっと甘えてたんだと思う。・・・でも、気付いた。ううん。アルバイトしてて気付かされた。私はひとりで産まれたわけでも、育ったわけでもない。私って、とっても幸せなんだってこと。お父さんやお母さんにたくさん守ってもらってるって、支えてもらってるって・・。友達や、まわりの人達にも・・・」
理沙は途中から涙声(なみだごえ)になった。
「なにを言うんだ。何を。ばかだな。当たり前のことじゃないか。そんな、当たり前じゃないか・・」
信夫も声を詰まらせて目頭を押さえた。
三人はしばらくの間、寄り添って泣いていた。やっと家族がひとつになれたような気がしていた。
少しして真砂子がティッシュの箱を取りに行くと、二人に渡してから笑って言った。
「さ、拭きましょ。それと冷めちゃった料理、食べましょう。お母さん達、お腹がペコペコなの」
理沙も信夫もティッシュを顔に当てたまま頷(うなず)いて笑った。

 それから、十二時過ぎまで三人で色々な話をした。今日理沙がアルバイト先で誕生会をしてもらったこと、美紀と喧嘩して仲直りしたこと、両親にはあまり自分を甘やかさないで欲しいことやアルバイトは勉強を真面目に取り組むので続けさせて欲しいことなど、理沙が思うことも両親に話した。両親は快諾してくれて、話をよく聞いてくれた。そして今まで聞いたことのなかった二人の馴れ初めや、理沙の生まれた時のことなども詳しく聞かせてくれた。理沙にとって本当に充実した時間を過ごすことができた。


 部屋に戻った理沙は、安堵してベッドへうつ伏せに寝転んだ。心が満ち足りていた。こんな幸せな気持ちになったのは初めてかもしれない。素直になることがこんなにも簡単でそれでいて大切なことなのだということを亮は教えてくれた。亮のお蔭だ。亮のことが好きで好きでたまらない。でも、もうすぐ遠くへ行ってしまうんだ。今日は嬉しかったけれど、ショックだった。理沙は頭の中の整理がつかなくて、ベッドの上で意味もなくバタ足をした。
何かポケットに違和感を覚えた。 なんだろう。 理沙はポケットを探ってそれを出してみると、亮からもらったピンクの袋だった。
― そうだ。亮さんからもらったんだった ー
 理沙はベッドから飛び起き、慌てて袋を開けた。理沙は袋から取り出した物を見て固まった。
「これって、どういう・・」
理沙は困惑した表情でまたベッドに突っ伏した。





 亮は帰るなり、自宅のベッドで横になっていた。理沙からもらったストラップが少し揺れている。

「理沙、かわいいな、愛してるぜ」

タクヤの言葉が脳裏に何度となく響いていた。自分もあんな風に言えたらどんなに楽になれるだろうか。同じことを想っているのに。
いつからか一人でいる間中(あいだじゅう)、頭の中は理沙のことばかりが過っている。しかし理沙が好きな相手はタクヤに違いない。タクヤと話している時の理沙の顔は特別輝いているように見える。タクヤのほうはどうなのだろうか。本気で理沙を好きになっているとは到底思えない。理沙がいつかタクヤの手に落ちたことを考えると居てもたってもいられない気持ちになった。遊ばれて捨てられてしまうのだろうか。そんなことは絶対許せない。しかし、だからといって亮にはどうすることもできないのだ。彼女は自分を嫌っているのだから。
「あなたこそ絶対に好きにならないでよね。迷惑だから」

理沙にそう言われた。あの時は自分がこんな風になるとは思ってもみなかった。「迷惑だから」という言葉が今の自分にはこたえる。
イタリア行きのことも理沙に言えるわけがなかった。言ってしまえば、自分の気持ちもそのまま言ってしまいそうだった。そんなことをしても何の意味もない。自分が傷つくだけだ。心の中は堂々巡りを繰り返すばかりだった。
「何だよ、俺。バカだな」
窓の外から聞こえる北風の唸る音が亮の心を掻き乱していた。



亮と店長は控室で休憩していた。フロアはパートがまわしている。
「店長、それにしても何であの場であんなこと言ったんですか」
「ん?ああ。あれか。まあな」
言いながら店長の顔は赤く染まった。
「彼女は美しすぎるんだ」
亮は顔をしかめる。
「ハァ?」
店長は遠慮なく続けた。
「美しすぎる人には、それを汚(けが)そうというヤカラが群がる」
亮がパイプイスに座ったまま両手を頭の後ろにまわした。
「まあ、店長もそのヤカラですけどね」
店長はパイプ椅子から立ち上がった。
「俺は違う!」
亮は「まあまあ」と言いながら店長を椅子へ促した。
「だって、彼女の美しさに気付いちゃったんでしょ」
「いや、まあ、そうだが。でも、俺の場合はそれだけじゃないぞ」
「ふうん。ま、いいスけど。で?」
店長は改めて咳払いをした。
「だからだな、その美しい花にふさわしいかどうか、俺のことを時間をかけて彼女に見極めて欲しかったんだ」
「はあ。でも、すぐに回答がでてしまったと、そういうわけですか」
店長は俯いてにやけた顔をなんとか元にもどした。しかしまたにやけてしまう。
「まあ、それはかなり想定外の出来事だったんだよ」
「はあ。それにしてもあんな、皆がいる前で・・・。フツーとは思えませんよ」
「フツーか。しかしなフツーではなくなってしまうのが恋愛だからな」
亮はもの憂(う)げに視線を床に落とした。


 いつもより早めに店に着いた理沙は裏口のドアを開けた。少し開けたところで店長と亮の声が聞こえてきた。
「それよりも、お前、早く彼女に言えよ。もうすぐイタリア行くんだろ。しばらく会えねーぞ」
「何のことスか」
「ったく、しらばっくれんなよ。早く告白しちまえよ」
「・・・」
「好きなんだろ?彼女のこと」
「まあ。そうですケド」
店長は亮に寄って小声になった。
「彼女もさ・・」
店長が話している途中で理沙が裏口から入ってきた。
「おはようございます。何の話してるんですか」
店長は慌てて立ち上がった。
「わわっ!いや、大した話じゃない」
亮もポーカーフェイスを装った。
「気にすんな。お前には寸分も関係のない話だから」
「すんぶん?」
「全然お前にゃ、カンケーないの。早く着替えて店出ろ」
理沙は少し頬をふくらませた。
「・・ハイ」
更衣室に入って行く理沙を見送りながら店長は目を固く閉じ、うな垂れて深いため息をついた。



 仕事が終り、当たり前のように亮と理沙は一緒に自転車を引いて帰路を歩いていた。自転車を走らせていると、互いの声がよく聞き取れないこともあり、暗黙のうちに歩いている。理沙は亮を見上げた。
「あの、誕生日の日、ありがとうございました。私、あのあとちゃんと色々考えて。やっぱり自分がすごく甘えてたんだってことに気付かされました。亮さんみたいにお父さんが、ううん。両親もいない人だってきっとたくさんいるし、なんていうか自分が恵まれてるのに何も考えてなかったことを恥ずかしく思いました。親ともちゃんと向き合わなくちゃいけないなって。それで、帰ってから両親に素直な気持ちを言いました。正直、親のことなんて真剣に考えたことなんてなかったから。亮さんのお蔭で両親と分かりあうことができました」
亮は穏やかな笑みを浮かべて静かにいった。。
「そっか。よかったな」
理沙はその顔を見て胸が張り裂けそうになった。ああ、この人は本当は優しい人なんだと。
「ハイ。あの・・」
次の言葉に詰まっていると亮が思いついたように口をはさんだ。
「そういや、お前アレは気に入ったか?」
理沙は顔を曇らせて口ごもったアレとはプレゼントにもらったあのピンクの袋のことだ。
「・・・。アレって亮さんがくれたストラップのことですか。ええ。まあ」
理沙は動揺を隠せなかった。亮がくれた小さい袋の中身は理沙が以前レストランの食事の礼に亮にあげたものと色違いのトウガラシのストラップだったのだ。透き通ったあかね色だ。中身を見た時には驚いた。これは一体どういう意味なのだろうか。自分に少しでも気があるということの表れではないかという期待がかすかに過(よぎ)る。まさかそんなわけはない。戸惑いながら嬉しくもある反面、なぜお揃いにしたのかを聞こうにもそういった勇気などなかった。
理沙は亮の顔を見れなかった。亮もまた理沙の顔を見れないでいる。
「ええ。まあって、あんましな反応だな。いらないなら返せ」
そういうとこちらに手を出してきた。
唐突な言葉に理沙はビックリして振り返って首を振った。
「イ、 イヤです。返しません。いらないなんて言ってません」
理沙の声はうわずった。
「無理すんな。気に入らないなら返してくれよ。俺、使うから」
理沙は静かに答える。冷静にならなくては。
「気に入らないんじゃないです。そうじゃなくて私、亮さんの考えてることがよくわかりません」
亮は理沙の顔を見て眉間に皺を寄せた。
「は?なにが」
理沙は視線を落とす。
「どうして色違いのストラップなんかくれたんですか。これじゃ、まるで・・」
亮は「ああ」といいながらにこりと笑った。
「だって、あんた前に俺にそういうのくれたじゃんか。だから、そういうの好きかと思ったんだよ」
この男にはオトメごころの常識というものがわからないのだろうか。自分を悩ませていた思惑は一瞬でかき消えた。
「それだけ?」
「ああ。それだけだけど」
理沙は下唇を噛みしめた。ハンドルを握る手に力がこもる。理沙の中で何かがプツリと音を立てた。もう冷静ではいられなかった。
「バカッ!アホッ!あんたなんか嫌い!」
突然の理沙の逆上に亮は面食らった。コイツの考えは到底理解できないと思いながら。
「なっ、なんだ、お前。せっかくあげたのに、そこまで言われる筋合いねえぞ。返せよストラップ」
理沙はそっぽを向いて仏頂面になった。
「イヤです!死んでも返さない」
「なんだお前。ヘンなヤツ。お前なんかにあげなきゃよかったよ。俺だってアンタなんか願い下げだね」
亮の言葉に一瞬泣きそうになったが、心を奮い立たせた。
「き、キライなのは知ってます。イタリア行き、私にだけ教えてくれなかったし、私にだけイジワルだし、いっぱいイヤミ言われたから、嫌われてることぐらい知ってます。イヤイヤ私を送ってくれてることも・・・。それに今日聞いてましたよ。好きな彼女がいるとかなんとか」
―やはりあの話を聞かれていたのかー 
亮は店で店長に話してしまったことを苦々しく思った。
「それは・・。ああそうだよ。好きな女くらいいるよ。カンケーねぇだろ。お前に文句言われたくないね」
―やっぱり本当なんだー 
理沙は心底失望した。もともと自分に可能性なんてあるわけがない。口から出るのは気持ちと逆のことばかりだ。
「文句じゃないです。ウジウジしてないで早く告白しちゃえばいいじゃないですか。でもあなたみたいな性格が悪い人なんて、告白されても迷惑ね。誰も相手にしてもらえないんだから。きっと」
「お前だって、好きな男いるんだろ?その男も不幸だな。お前みたいなのに想われてさ。迷惑な話だよ。お前みたいなハードタイプなアホに付き合わなきゃなんないんだからな。そいつに同情するよ。第一、日本語もまともに通じないんだからな。ああ。ちょうどいい。イタリア語、マスターしたら教えてやるよ。母国語、変えたら?」
理沙は亮をキッと睨んだ。
「結構です!」
「フン。じゃあな」
「どうも!」
二人は同時に背を向けると別々の方向へ帰っていった。

 理沙は自転車のスピードを上げた。涙がポロポロこぼれてくる。
どうして、こうなっちゃうんだろう。好きで好きで仕方ないのに。もう会えなくなってしまうのに。私の大ばか!ばかばか!


亮は理沙と逆の方向にマウンテンバイクを走らせながら、深いため息をついた。
何故、いつも素直になれないのだろう。理沙が考えていることもわからなかった。
自分があげたストラップがお揃いだったのが、そんなに気に入らなかったのか。その割にはストラップは返せないという。よくわからない。
あれはさりげなくあげたつもりだった。もちろん理沙への気持ちに違いはなかった。
もうすぐ離れてしまうのだから、せめて自分の存在を感じてくれるものを理沙に持っていて欲しかったのだ。
『亮さんの考えてることがよくわかりません』
『嫌われてることぐらい知ってます』

「俺はバカだ」
亮は思い直し、マウンテンバイクをUターンさせるともう見えなくなってしまった理沙を追いかけた。


 百メートル程先に理沙が確認できた。暗い道をポツリ自転車をこいでいる。まだ間に合った。亮はスピードを上げた。もう少しで追いつく。
― アイツがどんなに俺を嫌っていても、俺の気持ちは伝えないと ー
気持ちの高ぶりとともに亮の息は上がっていた。


 ハア、ハア・・・。
後ろから男の荒い息遣いが聞こえる。理沙はそれが次第に近づいてくることに不安を感じていた。後ろからくる存在が男であることに間違いはなかった。以前、後ろから亮が追いかけて来た時と、息遣いがなんとなく似ているのだ。でも今回は違う。あんな風に別れてしまったから来るわけがない。男は明らかにこちらに向かってきてる。変な奴につけられているのか。それとも、ただの通行人だろうか。いや、それにしては理沙がスピードを上げたにもかかわらず、それについてくる。理沙の涙はとっくに乾いていた。

こんなことなら、あんな風に喧嘩しないで亮にしがみついてでも帰っていればよかった。今、携帯で電話して警察を呼ぼうにも、携帯をバッグから探している間に男に追いつかれてしまう。
理沙は蒼白した顔で更にスピードを上げた。冬の風が刺すように冷たい。すると、後ろもそれに合わせてスピードを上げてきた。さらにゼエゼエしている。

― イヤだ。気持ちわるい。どうしよう ー

男は理沙から十メートルくらいまで近づいていた。理沙の喉はカラカラだった。両足も限界に達していた。肉離れになりそうなくらいパンパンに張っている。

― もうダメだ。追いつかれる! ー

「おい!」
突如、後ろから声がした。
理沙は肩をビクつかせた。
「ぎゃー!だれかぁぁ!」
「おい!おい!ちょっとまてよ。待ってくれ」
その声の後、理沙は自転車を急停止した。このパターン、身に覚えがある。
理沙は恐る恐る後ろをふりかえった。  
まさかまさかの・・・。

五メートル程離れたところで亮が自転車を停めて下を向いていた。息切れで肩が上下に動いている。
「おま、オマエ、なんでそんな・・。ハアァ、ハアァ」
亮は息が上がりすぎて言葉を途切れさせた。
「りょ、りょうさん! またですかぁ。ハア、ハア」
亮は息を整え、改めて言った。
「お前、チャリンコでオリンピック出たら?」
理沙は視線を宙に浮かせた。
「は?チャリンコのオリンピックてあるんですか」
亮は残念そうに首を横に振った。
「皮肉も通用しないか。もう、いい。説明すんのもバカバカしい」
理沙は頬を膨らませた。彼が何を言っているのかわけがわからない。
「ちょっ、何なんですか。人のこと追いかけてきて。なにか忘れ物ですか」
「忘れ物。いや、ま、そうなんだけど」
亮は息を整えてからひとつ咳払いした。
「なんですか。私、亮さんから預かってるものなんてないですよ。ああ、ストラップ? あれなら返しませんよ」
亮は呆れたように額(ひたい)に手を当てた。
「そうじゃなくて。物じゃない。言い忘れたことがある」
「言い忘れたこと?」
「ああ。俺が好きな女のこと」
理沙は悲しそうな顔をした。何故そんなことをわざわざ。
「いいです。そんなの聞きたくないんで」
「いや、知っておいてもらいたい」
「だから、知りたくないって言ってるじゃないですか。私には関係のないことなんだから」
「関係ないかどうか、聞いてから判断しろよ。わざわざ戻ってきたんだぞ」
「恩に着せないでください。いちいちそんなこと・・。じゃあ私の知ってる人だって言うんですか?まさか、美紀?美紀はダメですよ。店長が・・」
「だから、人の話聞けよ。ったくそんなだから仕事も間違えが多いんだよ」
「は?ちゃんと亮さんの言うとおり、仕事こなしてるじゃないですか。好きな女のことカンケーねえって言ったの亮さんですよ」
「そうなんだけど、やっぱり・・・。知ってもらわないと困る。本人には」
最後の部分がよく聞こえず、理沙は亮の顔をまじまじと見た。
「・・へ?」
「だから俺は、俺が好きなのは・・。俺は、お前のことが好きなんだ。悔しいけど」
理沙はハンドルから手が離れそうになって自転車をふらつかせた。
「わ、たし?」
急に周囲の静けさを感じた。冷たい風が二人の頬を撫でていった。
「そうだよ。だから、アンタにだけはイタリア行きのこと言えなかった。どうやって言っていいかわからなくて。 でも、誤解しないでもらいたい。お前は好きな奴がいるみたいだから、俺とどうこうしてくれなんて考えは全くない。迷惑かけるつもりもないしな。でも、嫌われてると思われたまま向こうに行きたくもなかったし、一人よがりだけど自分にもケジメつけたかったから。悪りぃな」
「あの・・」
「話はそれだけだ。足止めして悪かった。じゃあな」
亮は理沙の顔も見ずに去ろうとした。
「ま・・。まって!待ってください!」
亮は振り返らずに立ち止まった。
「いいよ。勝手だけどお前の好きな奴の名前は知りたくない」
理沙は覗き込むように見つめた。
「どうしてですか?」
亮は厳しい表情で立っていた。
「大体察しがついてるから」
「察し?誰だと思うんですか」
亮はたたみかけるように言った。
「だから、口に出したくないんだよ」
「言って!」
亮は視線を落とした。本当は自分の口から言いたくはない。
「何だよお前。じゃあ、言うけど。どうせタクヤさんなんだろ?」
理沙は目をぱちくりさせた。
「え。タクヤさん?なんでですか」
「知らねえよ。仲良さそうだからだよ。そうなんだろ?」
理沙は頬を崩して笑った。亮が思いがけない相手を口にしたからだ。
「違います。っていうか、あんな人全然タイプじゃありません」
肩から力が抜けた。その後、亮はゴクリと唾を飲み込んだ。
「じゃ、じゃあ・・」
理沙はまっすぐ亮を見た。冬の風が肩まで伸びた理沙の髪を揺らしている。
「同じです。私も知っていてもらいたいです。本人には」
亮はたちまち凍りついた。
「・・・」
「私もです。私も亮さんのことが好きです。だいぶ前から。悔しいけど・・・」
「お前が、俺を?」
「そうですよ。私だって言うつもりはありませんでした。今の今まで。だって、亮さんがいけないんですよ。私にだけ冷たくて、厳しくて。だけど、時々あったかくて、やさしくて、しかもカッコよくて。なのに私だけイタリアに行くこと黙ってて・・。ヒドイです」
理沙は声を詰まらせた。涙があふれてくる。
亮はマウンテンバイクを停め、ゆっくり理沙に歩み寄った。
「ごめんな」
亮はハンドルを持ったまま俯く理沙ごとそっと抱きしめた。初めて抱きしめる理沙は思ったよりも華奢(きゃしゃ)だった。
「ごめん。好きだ。お前のこと、すごく好きだ。悔しいけど」
理沙はこくりと頷いた。亮の体は大きくて、がっちりしていて、いい香りがした。亮の落ち着いた深い声は彼の体を伝って理沙に届いていた。
「私も、好き。大好きです。悔しいですけど」
声が震えていた。

亮にすっぽり包まれた理沙はこれ以上ないくらいドキドキして、同時にこみ上げてくる涙も止まらなかった。これは夢ではないだろうか。亮が自分を好きだと言っている。
ドッキリにしてはやりすぎだろうし、ここまではしないだろう。きっと本当なんだ。本当だと思いたい。
理沙はグシャグシャになった顔を上げることができなかった。

― この顔見たら、きっと嫌われる ー

そんなことを考えながら、亮の静かな息遣いが聞こえるたびに自分の早くなる鼓動が恥ずかしかった。
「キス、したい。いいか?」
亮が突然そんなことを言った。
「えっ」
理沙は瞬間的に、身を固くした。展開の速さに心も身体もついていけない。喜ぶべき事態に喜ぶ余裕はなかった。

だって、グシャグシャで今あたし人面(じんめん)瘡(そう)みたいな顔だし、さっき控え室で残ったガーリックピザ、ガツガツ食べちゃったし、キ、キスって顔を曲げるんだっけ?息は止めるんだっけ。目は、目は閉じるのかな。なんか怖いな。人生初のことなのに、まだ心構えが・・

ガチガチになった理沙を見て亮は悲しそうに笑った。
「冗談、にならないか。大丈夫。そんなことしないから、安心しろ」
理沙はホッとして力が抜けたた反面、心が少ししおれた。
「ごめん。ありがとうな。もう少しだけこのままでいさせてくれ」
亮は理沙の髪を大切そうに何度も撫でていた。




これといって変化のない日々が過ぎていった。
互いに気持ちを知ったところで、理沙と亮の間にはそれ以上の何も起こらなかった。かえって接触しないよう、互いを避けるようになった。不思議だが、そうすることが一番の策に思えた。亮も理沙もどう接すればいいのかわからないのだ。今までどおりに、というわけにもいかない。
理沙も期末テストに向けての勉強に追われており、何かと店を休みがちな一か月が過ぎている。今までの遅れも取り戻さなくては進学も諦めなければならないからだ。
理沙が出勤の日には示し合わせたように亮のほうが休みという日が多かった。その度に理沙は安堵と同時にがっかりした。自分でもどう接したらいいかもわからない。ただ、亮に抱き寄せられた時のことを思うと胸が熱くなる。亮も同じ気持ちでいてくれているのだろうか。そんなことばかり考えていた。
もどかしいバイトの日々を過ごしているうちに気が付いたらもう二月になっていた。
本当のところ二人とも別れが決まっている恋に踏み出すのは怖い。うまくいくとはとても思えない。つらくなるだけだ。

店長と亮は控室でコーヒーを飲んで休憩していた。パートの主婦達があと三十分程で上がるアイドルタイムの時間が唯一店長の休み時間である。アイドルタイムとは、だいたい午後三時~五時までの客が引いている時間だ。もうすぐ午後五時になろうかというところである。 
「亮、いよいよ明日出発だな」
翌日は亮がイタリアに行く日だ。この日までに亮は大学の卒業論文やテストを全て終えていた。残すは卒業式のみとなっていたが、残念ながらその前の出発となる。卒業の日には母が学位をもらいに行くことにしていた。その他にもパスポートの取得やイタリア語の勉強、荷物の準備など目がまわるような二ヵ月だった。
亮はコーヒーをすべて飲み干してからいった。
「はい。そうですね」
「準備はいいのか。俺らみんなで送りにいくからな」
店長は亮の飛行機の手配や、向こうで生活する場所など一切を準備してくれていた。
出発はもちろん店が休みの水曜の便だ。出発の前日を仕事する最終日にしたいというのが亮の望みだった。
「見送りは別にいいんだけどな。でも、店長ホントに何から何までありがとうございます」
亮は改めて店長に礼をいった。
「いやぁ、いいんだよ。お前は本当に店に貢献してくれたんだ。それくらいはさせてくれ。それよりもさ、理沙ちゃんとは何か進展あったのか」
亮は照れたのか横を向いた。
「アイツと?別に。忙しくて」
店長が必要以上に亮に近づいてきた。
「別にって、好き同志なんだろ?」
亮は店長の顔から遠ざかって言い渋った。
「まあ、一応そういう話にはなってんのかな」
「ったくもどかしいなァ、お前らは。このまま終わったんじゃ、後悔することになるんじゃないのか」
店長の言葉はわかりきっていることだった。それがかえって亮の気持ちをめいらせた。
「いいんです。別に。置いていくのに気持ちだけで動いても、お互い傷つくだけだし。俺の方も一応、二年で戻る予定だけど実際のところどうなるかもわかんないし、これ以上今の状況を複雑にしてもしょうがないでしょ」
「そうはいってもお前・・・」
これ以上、触れられるのを避ける為に亮ははぐらかした。
「そんなことより、店長のほうはどうなんですか。美紀ちゃんとは。アレ、もうしちゃったんですか?」
「バッ!バカッ!相手は高校生だぞ。そんなこと・・」
店長の声はうわずった。ははぁ、こりゃあ何かあったな、と亮は思った。
「なーんだ。まだキスもしてないのか」
亮は椅子に深く腰かけた。
「え? 驚かすなよ。キ、キスのことかぁ。えっとだな、それはその・・・実はした」
店長は周囲を見ながら亮の向かいの椅子にゆっくり腰を下ろした。
「マジすか?手ぇ、はやっ。大人って嘘つきだなあ。二十歳まで待つとかなんとか言っといて。あーやだやだ。誠実そうに言っといて、結局はオオカミさんなんじゃないスカ」
店長はもう一度周囲を見回してから、口元に人差し指を当てて顔をしかめた。
「オオカミって、人聞きの悪い! いや、別に俺は嘘なんかついてないつもりなんだが、彼女がどうしてもって言うんで・・」
亮はどうでもよさそうに体を反り返らせた。
「ああー、もういいッス。その話。なんかつまんねーから」
「コラッ!お前から聞いといてなんだ。ったく、無駄口はいいから最終日くらい真面目に仕事をしろっ」
「あーい」



 平日の空港は大きく感じる。人が少ないせいだろうか。前に一度家族でハワイに行った時はお正月だったから、人でごったがえしてたっけ。あの時と同じなのにとても広く思える。まだ子供だったからかな。理沙はぼんやりとそんなことを考えていた。
「いいなぁ」
理沙は何となくそうつぶやいた。特別イタリアに行きたいわけではない。何があるかもよく知らない。でも、飛行機に乗って異国へ行く。それだけで何だか羨ましい。それに何よりも亮と一緒に行きたかった。
「アホ。遊びに行くわけじゃないんだ」
亮が理沙の頭をコツンと叩いた。これから亮のいない日々を思うと、理沙は亮に触れてもらうことが悲しいくらい嬉しかった。
二人の空気を無視してタクヤが二人の間に割って入ってきた。
「そんなこと言って、遊びたい放題だぜ。イタリアは。亮はモテるだろうから」
亮はタクヤを一瞥してから呆れたように言った。
「タクヤさんの『遊ぶ』ってのは意味合いが違います。俺はそういう遊びはしない」
亮のきっぱりとした言い様にタクヤはにっと笑った。
「またまたぁ。こっちよりイイのがいっぱいいるよ」
理沙が苛立ちの声を発した。
「もう、いいですそんな話は!」
怒った理沙に、なだめるようにして美紀は背中を撫でた。

この日、亮の見送りに来ていたのは店長とタクヤ、シェフ二人と美紀、理沙、そして亮の母だった。

「なんだか、皆さんお忙しいのに本当にすみません」
亮の母は丁寧に頭を下げた。
「いいえ。これは亮くんが店で頑張ってくれた証拠ですよ。ウチの店の戦力ナンバーワンがいなくなるってのは本当に惜しいんですけどね。でも、彼にはぜひ夢に向かって頑張って欲しいですから」
店長は亮をどんな風に思われているかを母に説いた。
「だから店長、ナンバーワンって表現、やめてくれませんか」
店長は亮の肩に手をまわした。
「いいじゃんか。実際、ナンバーワンなんだからさ」

亮が抜けた穴は、一応飲食店の経験があるという男子大学生が入り、埋めることになっていた。亮はギリギリまで引き継ぎや彼のサポートをして、何とかオーダーをとれるようになったところだ。自分の穴は自分で責任をという考えがいかにも亮らしい。しかし何しろ時間がなかったこともあり、満足いく状態で引き継ぐことはできなかった。それも仕方ないことは店の皆が理解できる。後は店長が細かいところを教育することになっていた。

タクヤが口を尖らせて不服げに言った。
「新人のあいつさあ、飲食店経験って焼き鳥屋なんだって?店長。なんかハタケ違いじゃねえ?」
店長は掲示板のフライト時間をチェックしながら言った。
「しょうがないだろ。そんなに願ったり叶ったりな人材なんて見つかんないの。奴だって頑張ってんだからさ。応援してやってくれよな」
理沙が深くうなずいた。
「そうですよ。私だって最初はヒドかったけど、今は立派になったじゃないですか」
理沙がそう言った瞬間、その場が静まった。一目で言いたいことはわかる。
「え?な、なに。そうじゃないんですか。私、まだダメなの?」
皆が一斉に首を縦に振った。その後、亮の母は吹き出すようにクスリと笑った。皆もつられるようにして笑った。
「皆さんとっても仲がいいんですね」
亮の母は亮とよく似ていた。線が細くて、透けるように色白な肌は亮とそっくりだ。もうすぐ五十に届くであろう歳であったが、目にはキラリと光る力があり、実際の年齢よりも五歳ほど若く見える。
タクヤがすかざず亮の母の隣に来てその顔を覗き込む。
「亮君のお母さんは、今フリーですか」
亮の母は目をぱちくりさせた。
「え?フリーって」
母には何を言っているのか意味がわからない。亮が母親の前に立ちはだかった。
「タクヤさん!やめてくれ。ったく母さんにまで手出ししないでくださいよ。 母さん、何でもないから気にしないでくれ」
タクヤはシラけたように亮の前で両手を開いてみせながら言った。
「『母さんにまで』とはなんだよ。美しい花を見たらご挨拶するのが礼儀ってもんだろ」
亮の母は状況が飲み込めずキョロキョロしている。
「母さん、あっちへいこう」
亮はベンチシートを指さして母を促した。タクヤに関わるとロクなことがない。
 理沙は心の中でため息をついた。亮の母がいると、いつも以上に亮に近づくことができないのだ。時間は限られているのに。このひと時がどうしようもなくもどかしかった。
 今日が最後なのに。もしかしたら、もう会えないかもしれないのに。

「俺はチェックインしてくるから、皆はここで待っててくれ」
言い残すと亮はスーツケースを持ってチェックインカウンターに向かって行った。皆は黙ってその姿を見送った。
「本当に行っちゃうのね」
ポツリと美紀が言った。理沙が力なくコクリと頷く。それを見た亮の母が唐突に理沙に言った。
「あなた、もしかして亮が仕事を教えていた人かしら?」
「あ、ハイ。若林といいます」
「そう。やっぱり。あなただったのね」
「え?どういう・・・」
「会えてよかった。どんな人かと思ってたの」
「えっ?」
「あなたのこと亮、いつも送ってたでしょ?特別に」
「あ、はい。でも、それは店長がそうするようにって・・」
店長が驚いて自分のことを指さした。
「え、俺?俺は最初から何も言ってないぞ。あいつが勝手にそうしたいって言うから、じゃあ頼むなってコトになっただけだよ。俺はそこまで気がまわってなかったからな。それに、わかばやしちゃんの接客の教育とかも全部、亮が自分がやりたいって言ってきたんだぜ」
理沙の胸がドクンと高鳴る。
「そんな・・」
言いながら思い出していた。確かに店長が亮に頼んでいるのは見たことがない。亮はまかないと引き換えだと言っていたのだが。
「あなたのお蔭なのよ、亮がイタリア行きを決心したのは。あなたがあのわがままな亮にぶつかっていってくれたからなの」
理沙は恥ずかしそうに下を向いた。
「亮が言ってたわ。オヤジもきっと仲間を大切にして、家族を大事にして仕事してたんだろうって。それを新人に怒鳴られて教えられたって。悔しかったけど、正直俺の本質を見抜かれたような気がするって。 きっとあなたの言葉、よっぽどパンチが効いてたのね」
楽しそうに笑いながら亮の母は言った。
「すみません。なんか」
理沙は自分のひどい言葉の数々を思い出して母に謝った。
「やだわ。謝らないで。感謝しているのよ。本当にありがとう。あの子、私のことが気がかりでイタリアに行くのも踏み切れなかったみたいだから。 皆に背中を押してもらって今しかないって思えたみたいなの」
「私も、私も亮さんにはとても感謝してるんです。亮さんは、仕事もたくさん教えてくれたけど、家族の大切さも私に教えてくれました」
母は顔をあげた。
「あの子が? そう」母は意外そうに眉を上げた。
懇願するように理沙は続けた。
「私こそ、亮さんのお蔭で人生が変わった気がするんです」
理沙は今にも泣きそうな顔をしている。
「あなたもしかして、亮のこと・・?」
理沙は黙って俯いた。
タクヤが「亮君のお母さん」と言いながら母の肩をトントンと叩いた。
「あ、ハイ」
タクヤは時計を見ながら言った。
「もう、亮はいいんじゃないですか」
「え?」
母はタクヤの言う意味がわからないで目をぱちくりさせた。
「もう見送ったも同然だし、いつまでもダラダラこんなとこに居ないで俺とドライブしましょうよ」
この人は何を言っているんだろう。不安そうに母は胸に手を当てた。
「いえ、でも亮が・・」
タクヤが母の耳元で囁いた。
「いいから。お母さんもわかるでしょ。大人なんだから。亮君にもお母さん以外に大切なものがあるんですよ」
驚いて母はタクヤの顔を見た。
「え?あ、ああ。そういう・・。なるほど、そうね。ごめんなさい。鈍くて」
失笑した口元を押さえて母はタクヤに微笑んだ。タクヤはそれを見て目を見開く。
「なーんか、かーわいい!亮君のママ。俺、連れ出しちゃおー」
店長がタクヤと母の間に割り込んだ。
「コラ!タクヤ。それだけはダメだぞ」
店長の肩に手を置くと、タクヤは皆に見えるようにもう片方の手で手招きした。
「いいからいいから、店長もいこーぜ。じゃあ、理沙はここでバイバイだな」
驚いた理沙はキョロキョロ皆を見回して困った顔をした。
「え?なに。みんなどこ行っちゃうの。亮さんまだ帰ってきてないのに」
「俺たちはもう十分見送ったからいーの。 あとは二人でごゆっくり!」言いながらタクヤは仲間を引き連れてもうこちらに背を向けていた。
「ええ! そんなぁ。困りますよ」理沙は皆を追いかけようと小走りする。
美紀がそれを止めた。
「理沙。もうしばらく会えなくなっちゃうんだから、ちゃんとお別れしておいでね」
美紀はそう言うと店長の隣に小走りで行って恥かしそうに見つめあって手を繋いだ。
それを見たタクヤは呆れたように両手を頭の後ろにまわした。
「あー、やってらんねー。あんたらもどっか行ってくれ。じゃあ、皆いくぞ」
「ちょっと!みんな、待ってー!」
置いていかれた理沙は亮のいるチケットカウンターと皆の歩いていく方向を交互に見て立ちすくんでいた。


 亮がチケットカウンターから帰ってくると、理沙だけが不満そうにポツリと一人で立っていた。
「アレ?みんなは」亮は目を丸くした。
「あの、その、どっかいっちゃいました」
理沙の言ったことが理解できない亮は怒ったような顔をしている。
「は?」
「タクヤさんが言い出して・・」
私のせいじゃないです。理沙はそう言いたかった。
状況が呑みこめたのか、亮は深いため息をついて気抜けしたように言った。
「なんだよ。みんなして。しかも母さんまで・・。タクヤさんにしてやられたな。ま、別にいいけど。俺もお前と二人になりたかったし」
理沙はドキリとした。
「え?」
こちらの気持ちはよそに亮は落ち着いていた。
「あっち行って座ろうか」
「あ、ハイ」
理沙達は搭乗口近くのベンチに腰かけた。理沙は亮を見て、改めてきれいな顔だと思う。
「お前さ、将来どうするか決めてんの?」
「将来ですか。とりあえず、進学しようと考えてます。食品ビジネスの勉強ができる短大があるって聞いたんで、そこを目指そうかと」
亮の影響もあって、理沙もまたこの業界に対して本気で何かしてみたいという気持ちが芽生えていた。少しでも亮に近付きたい。今自分にできることはそれくらいしかなかった。
「へえ。なんか、面白そうだな。お前も食の業界に興味持ったのか。 でも、お前にそんな難しそうな勉強できんのかな」
少し考えて首を振った。
「・・わかりません」
亮は茶化すように理沙を覗き見て言った。
「わかんないで進学目指すのか?いい加減だな」
「そんなことは・・ないですけど」
理沙は声を荒らげることもせず、静かにいった。どうしても気持ちが沈んでいく。
「なんだよ。ノってこないな」
「なにがですか」
亮は軽くボクシングポーズをとった。
「いや、今日は俺のジャブに乗って来ないなと思って」
理沙は深々とため息をついた。
「ジャブとかそんな余裕、今の私にはないですから。それに、最後まで喧嘩してどうするんですか」
「それもそうか」
「そうです。いつも喧嘩ばっかりで、そんな思い出しかないんですから」
「そうか」
「あ、そういえば亮さん」
「ん?」
「さっき、店長と亮さんのお母さんから私のバイト帰り、亮さんが好意でしてくれてたって聞いたんですけど、ホントですか?」
亮はゾッとした顔をした。
「・・・」
「亮さん?」
亮は前かがみになると恥ずかしそうに頭を掻き毟(むし)った。
「ああ。確かに本当だよ。ったく、母さんも余計なことを」
理沙は大きく首を振った。
「余計なことなんかじゃありません。私、すごく嬉しかったです」
亮とは思えない恥ずかしそうな顔をして俯いてから言った。
「別に下心あって送ってたわけじゃねーからな」
「そんな風に思ってません。私、大変だったけど亮さんと一緒に仕事できてよかった。亮さんにすごく支えてもらってたんだったって今日改めて感じました」
亮は理沙を改めてしげしげと見つめた。
「お前、今日なんかかわいいな」
自分の服を確認する。確かに今日はいつもより頑張ってきた。
「ほんと?」
亮はじれったそうに目を閉じて息をついた。
「そうじゃない。服装とかじゃなくて、しおらしいってことだよ。お前があんまりそんなだと、行きづらくなる」
「・・・」
行かないでください。そう言いたいのは山々だった。しかし理沙は言葉を呑んだ。
「俺はお前のこと、本気で好きだ。本気だから軽はずみなことは言えないし、できない。だから、お前の気持ち知ってからどちらかと言えばお前を避けてきた」
「どうして避けるんですか。そんなの寂しすぎる」
「お前を三年も縛りつけたくはないんだよ。他に好きな奴ができたら、自由に恋愛してもらいたいし」
亮は正直に言った。
「亮さんも、好きな人できるかもだし?」
「まあ、それは否定しない。人の気持ちはどう動くかなんて予測できないしな。特に俺とお前みたいに」
泣きそうになった。
「それが本音ですか?」
「え?」
「それが亮さんの本音なんですか」
「・・・ああ。そうだよ」
「私、帰ります」
「は?」
「もういいです。行ってらっしゃい。さようなら」
理沙は身を翻(ひるがえ)してその場を去ろうとした。
「なんだよ。ちょっと待てよ」
亮は理沙の腕を掴んだ。すると理沙の下げていたカバンが目に入った。カバンから何かがキラリと反射して揺れている。亮が渡したトウガラシのストラップだった。
「ひどいです。亮さん。そんな風に思うんだったら、どうして私に気持ちを言ったんですか。そんなの、苦しいだけです」
「だって・・。仕方なかったんだよ。お前が俺のことをなんて、考えてもみなかったから」
「だから、どうして?」
「なにが」
「どうして待ってろって言えないの。そう言ってくれれば私はいつまでも待てる。こんなに好きなのに・・」
理沙は亮から顔を背けて俯(うつむ)いた。床に涙の雫(しずく)が落ちた。
亮はたまらずに理沙を自分の方へ向け、その場で思い切り抱きしめた。
「悪かった。ごめん・・・。俺を待っててくれるのか」
理沙はこくりと頷いた。
「三年もだぞ。俺はもしかしたら、その間帰れないかもしれないんだぞ」
理沙は亮にしがみついた。
「・・いい。頑張るもん」
「一度帰ってきてもまた行くことになるかもしれない。そうしたらどうする?」
「わからない。多分、待ちます。ううん。連れてって」
亮は胸の締め付けられる思いがした。
「バカだな。ホントにお前は・・。ありがとう。ごめんな」
亮はそういうと理沙を自分の体から離した。理沙の唇をジッと見た後、目を見て言った。
「する。一度だけだぞ」
理沙は紅潮した顔を亮に向けた。その瞬間、亮と理沙の唇は重なっていた。
何も考えられなかった。ここがどこかも、どう息をしたらいいかも、わからなくなった。
長いキスだった。いや、長かったような気がする。どれくらいの時間なのかは後で考えてもわからない。
 ―ずっとこのままこうしていたいー 
気が付くと、理沙も亮の体に腕をまわしていた。産まれて初めて覚えた幸せな感覚だった。
「あっ!」
急に亮が理沙から離れて時計を見た。
「やばい。フライト時間まで三十分切ってる!」
「え?」
「わりい。俺、もう行くわ」
「え?あ、あの亮さん・・」
「ごめんな。 行ってくる」
「あの、あの、がんばって。頑張ってね!」
「ん。お前もな。じゃあな」
亮はあっという間に搭乗口へ消えて行った。ちゃんとしたあいさつができなかった。言いたいことなんて何ひとついえなかった。理沙は急に一人ぼっちにされてしまった気がしていた。
 理沙には今起きたことが夢のようで信じられなかった。口元にそっと触れると、まだ亮の唇の感覚が残っていた。










―三年後―

理沙(りさ)は神聖な空気の中、礼拝堂を見上げていた。やわらかな射光は天井の高い窓から幾重(いくえ)にも光の帯(おび)となり神々しく足元に射し込み、光を受けて飛ぶ塵が同じ方向へゆっくり流れていく。神聖かつ清廉(せいれん)なこの場所を演出している。
雲ひとつない秋晴れのこの日、天候さえも二人を祝福しているようだった。百人程の華やかに正装したゲスト達はかたずを呑んで静寂を保ち、今かとばかりにその時を待ち望んでいた。
「綺麗だよ。おめでとう」
大きく頷きながら白いハンカチで目頭を押さえ、父は隣に並んだ。父もまた、いつもより紳士的で威厳がある。豪華な純白のウエディングドレスを身に絡(まと)った彼女はベールの下でにっこりと穏やかな微笑みを返し、教会の扉の前で父と腕を組む。足元に敷かれた白い布の先には今日から夫となる彼が十字架を見つめて待っていた。ドレスの裾を持つ二人の幼い姪達もまた、フリルのついた白いドレスを装い、妖精のように華やかな姿だ。二人はあどけない顔で見つめあって少し微笑んだ。
「ありがとうお父さん。私、幸せになるわ」
落ち着いた面持ちでドレスの裾を気にしながら彼女がそう告げ終わると同時に、パイプオルガンの演奏が清らかに響き渡り、教会の大きな扉がゆっくりと開かれた。彼女は一呼吸おいて、父と正面を向き、ゆっくりヴァージンロードを歩み始めた。

「きれいですね。美紀」
理沙達の前を美紀が通り過ぎていくのを見て、涙ぐんだ理沙は隣にいたタクヤに囁いた。
「だねー。美紀ちゃんモトモトきゃわいいかんな。一度くらい素敵なボディも拝みたかったなぁ」
タクヤの下劣な言葉に理沙は思わず肘をくらわせた。
「あいたた・・。でも今日は負けないくらい理沙もキレイだよ」
タクヤの投げキッスを理沙はよけた。 理沙は黒のラメ入りのパンプスにエストに黒の大きなリボンがついたダークパープルのバルーンワンピースだ。首元にはパール調ネックレスが光っている。化粧も雑誌なんかを見ながら頑張ってきた。お世辞でもタクヤの言葉は少し嬉しい。

 今日は待ちに待った美紀と店長の結婚式だ。美紀は四月で二十歳になった。高校卒業後、料理の専門学校に入った。来年には専門を卒業した後、マリオーロの社員になる。店長と二人三脚で店をやっていくのだ。両親の許しを得たこともあり、在学中のジューンブライドの結婚という運びとなっていた。

「今日から美紀は奥さんかぁ。何だか信じられないな」
父と腕を組みながら慣れない足取りで新郎である店長に近づいていく美紀を見つめていると、美紀が遠くへ行ってしまうような気がして寂しくなった。こうして親友が結婚することは嬉しいことに違いなかったが、半分取られてしまうような気も正直する。
 あれから三年。亮と空港で約束を交わしてから三年経っていた。目指していた短大にも受かり、今は就職活動の傍らでマリオーロのアルバイトを続けている。理沙はもう新人を教育できる程、仕事ができるようになっていた。店長からフロアを任されることもしばしばだ。これほどまでに長くアルバイトが続くとは理沙自信が驚いている。きっとそれは亮のおかげなのだろう。いつもそう思うのだ。仕事中も何か問題が起きても亮ならきっとこうするだろうと思ってそれを貫いてきた。
ここに居れば亮がいつ帰ってきても会うことができる。そんな期待が留まらせている事実だ。実際、三年間という以外、いつ戻ってくるという情報は何もなかった。
 しかし今日、店長と美紀の結婚式に亮は来ることになっていた。今日の飛行機で帰国して、その足でここに来るという。何とも亮らしいハードスケジュールだ。理沙は店長からのそんな情報に胸躍らせてこの場に来ていた。もちろん美紀の結婚式は嬉しい。でも、亮に会えるのはもっと嬉しかった。
亮はこの三年と四ヵ月で、八回手紙をくれた。言い換えると八回しか手紙を送ってくれなかった。三年間で八回。しかもその間、電話一本もない。これで気持ちをどう繋ぎとめておけというのか。 その手紙も絵葉書(えはがき)に「今日は忙しかった」とか、「うまいものをみつけた」とかそんな内容で、理沙のことについて特に触れる内容ではなかった。少しでも会いたいなどと書いてあれば嬉しいものを、それは誰にでも送れるようなもので理沙への気持ちなど微塵も書かれてはいない。三年間一度も日本へ帰ってこなかったのだから、文句を言いたいのは山々だ。しかしもう忘れようかと心が折れそうになると送られてくるその手紙を何度も読んでしまうのは惚れた者の弱みである。今日ここへ来ることも理沙へ連絡しなかったことに対しても文句が言いたい。会ったら必ずそう言ってやりたい。最近では亮の顔すら忘れそうな程になってしまっている。

「亮こねーな」
タクヤが理沙の顔を覗き込んでにっと笑った。
「そうですね」
理沙はがっかりした顔をした。
「ほら。だからさ、もう俺に乗り換えちゃいなよ。俺は理沙にそんな顔させないぜ」
「そんなこと言って。もう新人の女の子に手出ししてるじゃないですか。タクヤさんの言うことなんて信じられません!」
語気が強くなったその時、後ろの席から「シッ!」という声がした。そうだ。今、結婚式の大事な時なのだ。タクヤと居るとついペースに乗せられてしまう。理沙は「すみません」と後ろを振り返った。そして、その目を大きく見張った。
「あっ!」
理沙の声に教会内の神父をはじめ、全員が振り返った。
「シッ!バカ」亮が人差し指を口に当てて顔をしかめた。
「す、すみません」
理沙が小さくなって謝った。店長と美紀は亮のことを遠目から確認すると顔を見合わせて微笑んだ。

「ダイジョウブデスカ?ツヅケマスヨ」
中年であろう外国人神父の声に理沙は頭を下げた。
「ソレデハ、ユビワノコウカンヲ・・」

式がまた始まると、理沙はそっと振り返った。亮がいる。信じられなかった。
亮は明るめのグレーストライプのパンツにシルバーグレーのベスト、ジャケットは黒のシングルにシルバーグレーで濃紺のラインが入ったネクタイをしている。オールバックにした髪が魅力的でとても似合う。以前よりも増してに素敵になったような気がする。何か声をかけてみようかと思ったが、亮はうつむいて携帯電話を操作していた。こんな時に携帯なんかいじって何を考えているのだろう。でも理沙は気付いていた。亮は携帯にあのトウガラシのストラップをつけている。それが意味していることにささやかな期待を寄せる。

前に向き直るとタクヤが囁いた。
「良かったな。理沙。いいよ。亮の隣に行っても」
「い、いいえ。そんな。いいんです。今は式に集中しないと・・」
そう言った時、理沙のピンクのクラッチバッグから着信音が鳴った。実写版『恋愛エトセトラ』の主題歌、『目移(めうつ)りしちゃうよ!』だ。
しまった。ケータイ切っとくの忘れた! 理沙は慌ててバッグから携帯電話を取り出した。トウガラシのストラップが揺れている。またかと教会中の人が理沙の方を見た。今度は皆、冷めた表情をしている。
「ごめんなさいっ」
理沙は慌てて着信音を消した。鳴ったのはメールの着信だった。こんな時に誰だとコッソリ送信者を見ると、知らないアドレスだった。不思議に思い、メールを開いてみた。

『俺だ  うしろ』

理沙の心臓は跳ねた。メールの主は亮に違いなかった。理沙はキョロキョロしながら返信した。

『こんな時になんですか』

そのメールを送信したのと同時にまたメールの着信があった。

『お前 今日 キレイじゃん』

メールを読んでドキリとした。後ろが見れない。

『あ、ありがとうございます』

『真(ま)に受けるなよ 冗談なのに』

理沙は携帯の画面を見つめたまま口を尖らせた。冗談や嘘つきはキライだ。
いかんいかん。今は美紀の結婚式。前を向かなくては。

「ソレデワ、チカイノ キッスヲ・・」
神父の声と同時にまたメールが来た。

『オマエ まつげ とれてるぞ』

まさか、気合い入れて付けてきたまつ毛が取れてしまったのか。以前にもあった。いとこの結婚式でバッサバサにつけてきたまつげが式の終わりには、まるで福笑いのようにほっぺたに二つ付いてしまっていたのだ。
まだ泣いてないのにもうアレになってしまったのだろうか。理沙はハッとして両目に手を当てた。しかし、まつ毛は取れていなかった。よく考えてみれば、亮にわかるはずがないのだ。まだ理沙の顔を正面から一度も見ていないのだから。 まつ毛を確認して手を下ろすと誓いのキスはもう終わっていた。後ろから亮がクックと笑う声が聞こえる。
理沙は怒りに拳(こぶし)を握り、後ろを振り返った。
「ちょっと!なんなのよ!」
理沙の大声が教会の天高く響き渡った。皆が怪訝な顔で振り返って理沙のことを見た。
理沙は我に返って自分の口に手を当てた。
「す、すみません」
神父が心配そうに理沙を確かめるように見た。
「アノ、ソチラ ダイジョーブデスカ? ナニカモンダーイ アリマースカ?」
美紀が大きな声で理沙達に聞こえるように言った。
「問題あります。神父さま。前と後ろのあの二人、式の邪魔だから外に出てもらってください」
理沙は困惑した表情になった。
「え?あの、そんな」
すぐに黒づくめの係員が理沙の側に駆け寄り、小声でいった。
「申し訳ございません。式の妨(さまた)げになってしまいますので、一旦(いったん)外へ出ていただいてもよろしいでしょうか」
理沙はしぶしぶ頷(うなづ)いた。
「・・はい。わかりました」
「そちらの奥のお客様も、ご一緒によろしいでしょうか」
亮は美紀達を一瞥(いちべつ)してから言った。
「はい」
亮と理沙が教会の外へ出ていく姿を見守った後、美紀と店長は顔を見合わせていたずらっぽく笑った。

「ちょっと!どういうつもりですか!」
教会の外へ出るなり理沙が亮に詰め寄った。
「別に」
「っていうか、私の携帯のアドレス、何で知ってるんですか」
亮はバツ悪そうにそっぽを向いた。
「店長から聞いた」
何だかイラっとした。どうせなら、直接聞いて欲しかったのに。
「個人情報ですよ! もう、店長も勝手に・・」
亮は振り返ってこちらを見る。オールバックの髪が少し前にこぼれた。
「ダメなのか。俺に知られちゃ」
返答に困った。むしろ知っていて欲しい。
「い、いえ別にそういうわけじゃ」
亮は理沙を上から下まで眺めながら言った。
「久しぶりに会ったんだ。そんな話はいいだろ」
理沙は頬をふくらませた。
「よくない! 私、美紀の結婚式楽しみにしてたのに!」
「俺に会うのは。 楽しみにしてなかった?」
いつもこうだ。痛いところを突いてくる。前と変わらない。
「楽しみに、して・・。あ、それより亮さんはなんで日本に帰ってくることを私に連絡くれなかったんですか。ヒドイですよ」
亮は両手でネクタイをグイと直した。
「なんで」
「はい?」
袖口を見てカフスボタンを確認しながら亮は言った。
「なんで俺がお前に連絡する必要があんの。そもそも俺とお前ってなんだっけ」
イジワルな質問だ。
「なんって・・・」
亮はこちらを真顔(まがお)で見つめた。
「お前、いまヒトリなわけ?」
「は? 今、亮さんと二人じゃないですか」
亮は額(ひたい)に手を当てた。理沙と話している時のお決まりポーズだ。
「お前、受験してもそのアホは直らないのか」
理沙はムッとして亮を睨(にら)んだ。
「ちょっと!アホってなによ」
亮は理沙を指さした。
「アホにアホって言って何が悪い。一人っていうのは今つきあってる奴がいないのかと聞いているんだ。わかれ。そんくらい」
「え?あ、その、い、いるわけないじゃないですか」
ドレスが初夏の風に舞いあがると、理沙は慌てて裾を押さえた。亮は戸惑ったように顔を背(そむ)けた。
「本当に俺のこと三年も待ってたのか」
とぼけてみせた。
「さ、さあ」
亮はいきなり理沙を壁のほうへ押しやった。理沙は息を呑んだ。亮の整った顔が近づく。
「他に好きな奴は?」
理沙は目を泳がせた。こんなに近くでドキドキして顔が見れない。
「い、いませんよ他になんて。あの、顔、近いです」
シトラスのような甘くさわやかな香りがする。亮の息が触れる。胸が締め付けられるようだ。
「バカ。引っかかったな。今、俺の他に好きな奴と聞いたんだ」
「あ、ひどい!誘導尋問・・」
理沙の言葉の途中で、亮は理沙の頭の後ろに手をまわして唇を重ねてきた。

何となく、何となくそうなるんじゃないかと思っていた。いや、そうなってくれるんじゃないかと百パーセント期待していた。そうだ。これを待ちわびていたのだ。三年も。
三年間、まるで浮いた話が全くなかったわけではない。お店の客に告白されたこともあれば、短大の友達に男の子を紹介されたこともあった。でも、すべて断り続けてしまった。今日みたいな日を迎えられる日を夢見て亮以外の男性のことは考えないようにして過ごしてきた。まるで尼(あま)のような生活。とまではいかないが、二度とない思春期をジッと待って過ごすのは、本当に辛かった。でも亮のことを忘れることなんて出来ない。亮以上の人なんていない。考えられないのだ。好きになった弱みと言ってしまえばそれまでだが、理沙は信じていた。亮はきっと迎えに来てくれる。自分を忘れないでいてくれると。 今日それがやっと報われたのだ。
けれど、キスされた瞬間はなぜだか驚いた。信じようとしていたことが本当になったのが信じられない自分も居たからだ。驚きずぎて心臓が止まるのではないかと思ったのだが、その心臓は早く、そして大きく高鳴っていた。

理沙は驚いて見開いた目を静かに閉じた。教会の中からきれいな讃美歌が聞こえる。亮は寄せては返す波のように何度も甘いキスを繰り返した。三年前と変わらず、それは甘くやわらかなものだった。
長いキスの後、亮は理沙を強く抱きしめて言った。
「待たせてごめん。好きだ。ずっと好きだった。俺とつきあってくれ」
「うん。私も。ずっとずっと好きだったよ」
微笑んだ亮がもう一度、理沙にキスをしようとすると教会の扉がいきなり開いた。
亮と理沙ははじかれるように慌てて離れた。係員に続いて店長と美紀の真っ白な二人が出てきた。
「お?そっちも誓いのキスは済んだのか?」
店長の言葉に亮と理沙はそっぽ向いて顔を赤くした。

「それでは、これからライスシャワーを行います」
係員の声に教会から出てきた皆は、二人の為に道を作った。
「みんなのとこへ行こう」と理沙は亮を見上げた。
「わかった」と言った後、亮は少し考えるような顔をした。何か呟いた。
理沙は振り返った。
「亮さん?」
「よし、これからお前の家に挨拶にいくぞ」
聞き間違えたのか。いや、こんなことを聞き間違えようがない。
「は? 今、挨拶って・・」
楽しそうに亮は笑って美紀達の方を見た。
「ああ、その後、俺のオフクロに会わせるから。正式に」
理沙は驚いた表情で口をぽかんと開けた。
「今のって、もしかしてプロポーズ?」
亮は隣にいる理沙を見下ろした。そして優しく微笑んだ。
「ああ、まあ、そうとも言うな。他にどういう意味があると思う?」
理沙は嬉しいような複雑な心境になった。待った分だけ展開が早すぎるような・・。
亮は理沙のおでこにそっとキスするといとおしそうに言った。
「ふたりでいい店つくろうな」
「ええー?ちょっと、それ、どういう意味―?」
亮はにっこり微笑んでライスシャワーをまく人々の群れに入って行った。
走って追いかけた理沙に、美紀は「早く早く」白い手袋をした手で招いて呼んでいた。
タキシード姿の店長は温かい表情で美紀を見ている。この上ない幸福な顔で。
美紀はいたずらっぽく振り返って「行くよー」というと高々とブーケを飛ばした。

清みわたる空に白いブーケが飛んだ。それに手を伸ばし、見上げる人々の顔は皆、それぞれが希望に満ちていた。


            終

                                                                                         

 
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