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関東鉄道常総線

作者:消雲堂
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湯河原気分

乳がんで左乳房を失った妻の尚子を温泉に連れて行きたいと思った。

4年前に全摘手術をする前までは、ふたりで温泉旅行をすることも多かった。手術後は、尚子を温泉旅行に誘っても「温泉に行ってもお風呂に入れないから嫌だ」と言って寂しい顔をする。いつかは家族風呂があるとか貸切風呂がある温泉宿に連れて行こうと考えていたのだが、なかなかその機会に恵まれなかった。

最近になって僕が仕事を辞めたのがちょうどいい機会なので今のうちにナマコを温泉に連れて行こうと決めて、インターネットで「部屋に露天風呂が付いた温泉旅館」を検索していたら、湯河原の“華の園”というラブホテルのような名前の旅館のサイトが出てきた。

料金を見てみると、信じられないくらい安い料金だったので、「これだ!」って、すぐにその旅館に電話を入れて(ネット予約もあるけど、そこでは露天風呂付きの部屋を予約できないのだ)「2人なんですが25日空いていますか?」と聞くと「露天風の総檜風呂付きの部屋ならございますが・・・」となんとなく愛想のない返事。それに露天風とはなんだろう? 「露天風・・・ですか?」「そうです。ベランダを新設して作った新しいお風呂付きの部屋で、おひとり一泊14900円です」「うーん・・・そうですか。それじゃ予約をお願いします」という具合で決まっちゃったのである。

湯河原温泉といえば今まで3回行ったことがある。1度目は初めて勤めた池袋デパートの仕事仲間とふたりで、2度目はその1年後に入社した編集プロダクションの社員旅行で、3度目はその5年後に入社した農業の業界新聞社の社員旅行でだった。それぞれに思い出深いものがある。

さて待望の25日になって、午前11時に自宅を出発。旅行バックがないので東京駅で一度降車して東京駅地下街で荷物を運ぶときに便利なガラガラカートを購入した。これって人の迷惑になるから僕は大嫌いなのだ。無神経な奴がこれを引いて歩くときに周囲の迷惑などまるで気にかけない。一度、こういう奴が引くカートにつまずいて転びそうになったことがある。

旅館のチェックインが15時なので、東京駅からは鈍行よりも踊り子号とか特急を使おうとみどりの窓口を探した。ところが新幹線の切符売り場はあるもののみどりの窓口がないのだ。駅員に聞くとどうやら新幹線切符売り場がみどりの窓口らしい。やっとたどり着いて窓口のオネエチャンに「一番早い踊り子号は何時ですか?」と聞くとなんと15時過ぎになるのだと言う。それでは間に合わないどころではない。仕方なく新幹線で熱海まで行って、ひとつ駅を戻って湯河原に向かうことにした。新幹線は自由席だったが、室内は空いていて気分的にゆったりと目的地まで行くことができた・・・が、予定していた交通費の大半を初日で使ってしまったのだった。

熱海で新幹線を降りると寒かった。寒さに震えながら熱海駅ホーム下の待合室で休憩。トイレ休憩である。おしっこを済ませて、東海道線でひと駅戻って湯河原駅に到着すると、ナマコの病人なうえに(そんな言い方ないだろね)非力で要領の悪さにイライラして喧嘩してしまった。やれやれ・・・。なんだかこっちの方では雨が降っていたみたいだ。本当に寒いのだ。

湯河原駅前にはいかにも温泉街といった風に土産物屋が並んでいる。

早速、僕とナマコの実家に送るみやげを買った。帰りに買うのは時間がなくてばたばたと慌ててうっかりと無駄な買い物をしたりするから、先に買ってしまうことにしたのだ。大和の母親には「金目鯛の煮付け」、西葛西の義父には「かまぼこセット」を買った。よく考えてみたら、ありきたりのものだ。

みやげを買って宅配便で送ってもらった後、駅前から目的の旅館に電話すると「あ、電車ですか?」「はあ・・・」「電車に乗って来られたんですか?」「ああ、はいはい、そうです」「それでは駅前にあるロータリーの2番乗り場からバスに乗って“源泉境”というところで降りてください」と言う。「なんだ、迎えに来てくれないんだ?」ってナマコとぶつぶつ言いながらバスに乗りこんだ。

バスに乗って窓外の景色を見ると、温泉街の中心を流れる藤木川に沿って旅館が寄りそうように立ち並んではいるが、その多くが人気がなくて廃墟のようなイメージがある。さらに温泉街には、飲み屋とかバーとかキャバレーとか??? それに温泉場には決まりものの射的場などの遊興施設が少ないので温泉街の活気が少し失われているようだが“温泉旅情”を感じられないほどではないと思う。僕にはこのぐらい寂れていた方が温泉街として合格だ。そうこうする内にバスはどんどん奥湯河原の山の方に向かっていく。

僕とナマコを乗せたバスは15分ほどで現地に到着した。「源泉境バス停」は小さな橋を渡ってすぐだった。バスから降りて橋の上から渓流を見ると、川面にくっつくように垂れ下がったモミジや楓の葉は見事に紅葉していて、真っ赤な炎が川になだれ込んでいるような怪しさに満ちていた。橋の欄干を見ると「ニジマス禁漁」と赤い字で書かれた看板がかかっている。来年はここにフライを振りに(虹鱒を釣りに)来るか? なんて現実味のない夢を見る。

急な坂道を上って行くと温泉の源泉なんだろうか、真っ白い湯気を吐き出している錆だらけのボーリングの機械?が懐かしい感じがした。2人でダラダラと坂を歩いて行くと漸く旅館「花長園」に到着した。

旅館の建物を見て驚いた。旅館のホームページで見た建物の写真とは少し違って、いかにも古い旅館という感じがする。「ありゃりゃ?」ナマコと顔を見合わせてふたりとも少々不安になる。写真の恐ろしさを認識したのだった。

旅館に入ると電話に出た若い主人らしき男性が「菊の間ご予約のお客さんですか?」と言うので「はい」と答えると、玄関に置いた僕の荷物を見て「あれは、お客さんの荷物ですか?」と言う。「そうです」と言うと、その主人らしき男性は、フロントからだだだっと走るように出てくると僕たちの荷物を掴んで、「こちらですよ」って、あっという間に荷物を部屋に運び入れてしまった。予約した檜風呂付きの部屋「菊の間」は玄関&フロントに近いのだ。

部屋に通されると、つげ義春の「義男の青春」に登場する仲居さんに似た仲居さんがお茶一式を運んできた。

部屋はどこかで見たことがあるなあと思ったら群馬の川原湯温泉に行ったときに泊まった「高田屋(たかたや)」によく似ている。古い旅館は高田屋は妙な構造になっていて、まるでサイレント映画「カリガリ博士」に出てくる建築物のように建物全体がひしゃげているようだった。そのためか廊下も部屋もあちこちがぎしぎし言うし・・・地震でも来たら潰れてしまうだろう。ちょうど花長園も高田屋も同じようであった。

期待しながら部屋に付いている総檜の風呂を見ると、通常の部屋の中庭に薄っぺらな板切れで周りを囲って無理やり増設したような安っぽい感じの小屋があり、その中に水深が深い棺桶のような檜の風呂桶が見えた。2方向の壁には大きなサッシ窓があって、外が丸見えであった。内側から隣の客室の庭が見えるし、向かいに建つ大きな旅館の客室からも丸見えのようだった。

仲居さんは「お風呂の戸をあけていると猿がいたずらしに入って来ますから驚かないでくださいね」と驚くことを言う。ちょっとびっくりしたので「え、まっじぃ?」なんて軽薄な女子高生のような言葉が口から出てしまった。仲居さんは「ふふ・・・まじですよ」と笑いながら「夕食は6時に支度しますから、よろしくぅ」と言い捨ててスタスタと出て行った。

「猿だってよ・・・」とナマコを見るとニコニコしている。やはり仲居さんの冗談だと思っているようだ。僕は「疲れたなあ」と言いながら浴衣に着替えて部屋の縁側の椅子に座っていると、窓の外で「がしゃーん」と大きな音がした。音がしたほうを見ると、ふさふさとした少し緑色っぽい毛をの小さな猿が僕たちを見て驚いてきょとんとしている。すると「人間だ!」なんて言ったのかどうかはしらないが、猿は慌てて“ガチャガチャ”と上の部屋の屋根を引っかきながら逃げ去った。ナマコを見ると、口をぽかーんと開けて僕を見ている。「なんじゃありゃ?」仲居さんが言ったのは本当だったのだ・・・。

つづく 
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