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椿姫

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第三幕その五


第三幕その五

 アルフレードは人がめっきりいなくなった部屋の中を見回した。だがここには目当ての者はいなかった。
「誰かをお探しですかな?」
「いえ」
 アルフレードは男爵の言葉に首を横に振った。
「何も」
「それでは続けますか、それとも」
 彼はアルフレードに問うてきた。
「食事に向かわれますか」
「もう充分過ぎる程勝ちましたし」
 彼は涼しい顔でこう言った。
「もう満足です。今度は別のものを満足させるとしましょう」
「わかりました。それでは」
「はい」
 こうして彼等も夜食に向かった。暫らくして誰かが宴の間に戻ってきた。見ればそれはヴィオレッタであった。
「何てことでしょう」
 彼女は青い顔でこう呟いた。
「お話しなければならないのにあの御様子では。どうなるやら」
 人を介してアルフレードと話をしたいと言ったのである。だが当人がそれを受けたかどうかは疑念があるのである。
「あれだけ怒っておられるとなると。何が起こるのか」
 思うだけで恐ろしかった。彼女はこれから起こるかもしれないことに悩んでいたのだ。
「けれど」
 彼が来ない場合も考えられる。それならせめても、と思ったがそれでは何も解決したりはしない。だがその複雑な願いは消えてしまった。
「御呼びでしょうか」
 奥の部屋の扉が開いた。そしてアルフレードがやって来たのだ。
「僕に何か御用でも」
 一見恭しく礼儀正しい。だがその声は聞いただけでわかる程の棘があった。
(来たのね)
 絶望が心の中に差した。だが同時に決意もした。それを固めて彼女はアルフレードに顔を向けた。
「はい」
 彼女はアルフレードを見た。そして身体も向けた。
「ここから引かれることはないですか」
「何故」
 アルフレードはヴィオレッタの言葉に口の片端を歪めて応じた。
「何故僕がここを下がらなければならないのです?」
「貴方に危機が迫っていますから」
「また妙なことを」
 今度はシニカルに笑った。
「僕に危機がですか」
「はい」
 ヴィオレッタは頷いた。
「ですから。すぐにでも」
「それは貴女のことではないのですか?」
 アルフレードは聞き入れようとしない。逆にこう返してきた。
「私の?」
「ええ。貴女は自分のことしか考えておられません」
 辛辣な口調でこう言う。
「自分のことしかね。僕の時もそうだった」
「それは」
「何か間違いでも」
「それは・・・・・・」
 言いたかった。だが言えなかった。その理由は彼女ともう一人だけしか知らない。それだからこそ言うことができなかったのである。
「言えないのですね」
「・・・・・・・・・」
 アルフレードから顔を背けて沈黙する。そうするしかなかったのだ。
「やっぱり。僕のことはどうでもいいと」
「私のことは忘れて下さい」
 力ない声でこう言うのがやっとだった。
「そして幸せに暮らして下さい。そうすれば」
「どうなるというのですか」
 声に怒りが篭ってきた。
「私にはもう」
「僕を捨てて新しい男に抱かれているんだ」
「・・・・・・・・・」
 その質問には答えようとしない。顔も背けたままであった。
「相手は誰ですか?」
「それは」
 アルフレードの問いにも答えようとしない。アルフレードは少なくともそう感じていた。だが実は違っていたのだ。答えられなかったのだ。
「答えられないのですね」
「いえ」
 もうこうするしかない、と思った。心にもないことでもこう言うしかなかった。
「それは」
「男爵ですか!?」
 アルフレードは問うてきた。
「ドゥフォール男爵ですね、そうですね」
「はい・・・・・・」
 顔を背けたまま頷く。
「彼を愛しているんですね」
「それは・・・・・・」
 心にもないことを言うことはできなかった。かって夜の世界にいた時には言うことができたというのに。もう戻ってきても言うことはできなかった。彼女はこうした意味でもう夜の世界にその身は置いていなかったのである。
「どうなんですか、また嘘を仰るつもりですか」
「いえ」
 嘘という言葉に反応してしまった。こうなってしまっては後に退くことはできない。
「では仰って下さい、本当のことを」
「言います」
 応じはしたがやはり顔は背けたままであった。
「では」
「愛しています」
 それを言うだけで心が辛くなった。
「あの方を」
 本当は別の者をまだ愛していた。しかしそれを口にすることはもう許されていなかったのだ。それを知らないのはアルフレードが愚かだったからではなかった。だが彼は愚かな行動をとってしまった。
「よくわかりました」
 アルフレードはそれを聞き怒気を露わにした声でこう言った。
「貴女のことが。それでは僕も覚悟を決めましょう」
 こう言って先程自分が出て来た扉に顔を向けた。そしてこう叫んだ。
「皆さん」
 この宴に参加している全ての者を呼んだ。
「来て下さい、すぐに」
「!?」
 扉の向こうから気配がした。夜食を摂っている者達がそれに反応したのだ。
「すぐに。御見せしたいものがあります」
「一体何ですか、ジェルモンさん」
 客達は扉の向こうからアルフレードに問う。
「何があったというのですか?」
「すぐにわかります」
 彼はそう答えた。そしてまた言った。
「すぐにこちらに。お願いします」
「わかりました」
 客達はそれに応えた。そしてどやどやと宴の部屋に戻ってきた。そしてアルフレードのところに来た。
「何の御用件ですかな」
「この女を御存知でしょうか」
 アルフレードはヴィオレッタを指差しながら客達に対して言った。ヴィオレッタはうなだれている。
 
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