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ボリス=ゴドゥノフ

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第一幕その二


第一幕その二

「宴会かい」
「そうさ。何でもボリス様って人が皇帝になられるらしい」
「皇帝ねえ」
 そう言われても民衆達にはピンとこなかった。
「とにかく偉い人になるんだね」
「そうさ、偉い人がもっと偉い人になる」
「まあそんなところだろうな」
「そしてそなた達は宴会でご馳走をふるまわれる」
 警吏がそこに来て彼等に対して言った。
「悪い話ではないと思うが」
「はい」
「まあ声を出すだけで飯にありつけるのなら」
 彼等にとってはその程度の認識であった。これは彼等が愚かなのではなくそうした時代であり風土だからである。当時は庶民の考えはその程度のものであった。
「幾らでも出しますよ」
「そうか、ではもっと大声を出せ。いいな」
「わかりました。それじゃあ」
 民衆はそれを受けてまた声をあげはじめた。そしてボリスを呼ぶ声がまた修道院に木霊するのであった。
 大きいが空虚な声が続く。その中一人の豪奢な毛皮を着た男がやって来た。警吏は彼の姿を認めて民衆達に対して言った。
「静まれ、立て」
「!?」
 民衆達はそれを受けて声を止めた。そして緩慢な動作で立ち上がった。
「何でしょうか」
「貴族会議の書記官様が来られた」
「御領主様の」
「そうだ、だから静まるのだ。よいな」
「わかりました」
 民衆達はそれを受けて声を止めた。そしてぼんやりとその場に立っていた。
「信者の皆さん」
 その貴族会議の書記官はシチェルカーロフといった。貴族の中でもかなりの実力者でボリスの側近の一人として知られている。
「ゴドゥノフ公爵はかなり頑なであられます」
「頑な?」
「頑固という意味だ」
 警吏がぽつりと呟いた民衆の一人に言う。
「私達と総主教様が幾らお話しても首を縦に振られません。まことに残念なことですが」
「確かに残念なことだ」
「このままではご馳走が」
「こらっ」
 警吏は本音を言う民衆達を書記官に気付かれないように叱った。
「馬鹿なことを言うな」
「はあ」
「あの戦いのことを思い出して下さい」
 シチェルカーロフはまた言った。
「タタールとのことを」
 クリミア=ハン国のことである。歴史的にロシアは長い間彼等モンゴル系の遊牧民族達に悩まされてきた。チンギス=ハーンの遠征以降ロシアは長い間その支配に苦しめられてきた。モンゴルの侵略は苛烈なものであり多くの者が殺された。彼等は血と恐怖の支配をロシア人達に教えたのであった。彼等にとってタタールは恐怖そのものであった。これはこの時代には色濃く残っていた。現実にある恐怖であったのだ。
「タタールの」
 それを聞いた民衆達の顔に恐怖が浮かんだ。
「かってこの街に攻めて来た彼等を退け、この前にも彼等の動きを制したのは誰だったでしょうか」
 かつてクリミア=ハン国が大軍を以ってモスクワに来たことがあった。それを退けたのはボリスであった。
 またこの前にも彼等の不穏な動きがあった。この際もボリスは自ら兵を率いて彼等を牽制したのである。シチェルカーロフはこのことを民衆達に対して言ったのである。
「あの方しかいないのです」
 彼は民衆達に対してことさら優しい声で言った。
「我々を救える方は」
「わし等を」
「はい。では私はもう一度行きます」
「どちらへ」
「あの方の下へ。そしてまたお話してきます」
「はあ」
 そう言い残すと彼は姿を消した。そして修道院の中へ入るのであった。
「なあ、どうする?」
 民衆達はヒソヒソと話しはじめた。
「タタールをやっつけられるのはあの人しかいないんだろう?」
「どうやらそうみたいだな」
 彼等は顔を見合わせて小声で話し合う。今までの声とは違い実のある声であった。
「それじゃあそれでいいかもな」
「ああ。タタールからわし等を守ってくれるんならな」 
 これが彼等の本音であった。身の安全と腹。この二つを保障してくれる者こそ彼等にとっては必要だったのである。それだけであった。これは何時の時代にも変わらないことである。この時代のロシアだけの話ではない。そもそも民衆が統治者に望むのは根本としてはこの二つなのであるからだ。
 時間は夕暮れになろうとしていた。雪の中赤い光が修道院と民衆達を照らそうとしていた。
 その中でまた声が聞こえてきた。だがそれは民衆達のそれではなかった。
「栄光あれ、地上の至高の造物主に」
 それは賛美歌であった。修道院から聞こえてきていた。
「栄光あれ、神の力と天つ全ての聖者達に」
 修道僧達が歌っている。それは民衆達のそれとは違いまとまりがあり、そして清らかな声であった。それが夕暮れの雪の中で聞こえてきていた。
「僧侶様達だ」
 民衆達はそれを聞いて囁き合った。
「主の天使は告知された。ロシアを覆う怪物を退けよと」
「怪物を」
「それは」
 民衆達の心にその怪物は先程のシチェルカーロフの話のタタール人達と合わさった。見事なまでに。
「十二の翼を持つあの蛇を」
 サタンのことである。ロシア正教においてもサタンは邪悪な存在とされている。古き蛇とも十二の翼を持つ魔王とも呼ばれている。これはキリスト教世界においては不変なことの一つである。
 修道僧達が姿を現わした。彼等は歌いながら民衆達の方へやって来た。
「救世主を迎えよ」
 彼等は言う。
「我等を救って下さる方を。今こそイコンを持って御呼びするのだ」
 イコンとはキリストやマリア等を描いた絵画のことである。ギリシア正教の流れを汲むロシア正教においては偶像崇拝は禁止されていた。その為絵画を信仰の要としていたのである。板金形のものが主流であり、ウラディミールやドンで作られたものが最も尊いとされてきた。ロシア人の信仰の拠り所の一つである。
「神の栄光を讃えよ」
 彼等は歌う。
「聖なる力を讃えよ。そして救世主をお迎えするのだ」
「尊い方々の御言葉だ」
 ロシアの民衆は信心深い。悪く言うならば迷信深い一面がある。その彼等が聖職者達の言葉に耳を貸さない筈がなかった。
「聞こえたな」
「ああ」
「イコンを持って」
 彼等は囁き合う。
「行こうか」
「行くのか」
「皇帝をお迎えに」
 ここで誰かが言った。恐ろしいまでに絶妙のタイミングで。
「皇帝を」
「ゴドゥノフ様を皇帝に」
 彼等の囁く声は次第に大きくなっていく。
「お迎えするのか」
「そなた達」
 ここで今まで黙っていた警吏が再び口を開いた。
 
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