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ボリス=ゴドゥノフ

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第三幕その三


第三幕その三

「陛下」
 彼は恭しく敬礼をして声をかけてきた。
「どうした」
「シュイスキー公爵が来られていますが」
「公爵が」
 それを聞いたボリスの目に不機嫌な色が漂う。
「一体何用か」
「陛下にお目通りを願われていますが」
「公爵がか」
 ここで彼は微かに思わせぶりに笑った。だがまだ若い侍従はそれには気付かなかった。
「どうされますか」
「通せ」
 ボリスは通す様に言った。
「話を聞くとしよう」
「あと御耳に入れておきたいことが一つあるのですが」
「何だ?」
 それを聞いたボリスの眉が動いた。
「その公爵のことですが」
「また何か企んでいるのか」
 シュイスキーは陰険な謀略家として知られていた。野心を持っており常に誰かと密会していた。表面上はボリスに従っているふりをしているがそれが仮面に過ぎないことはボリスにもわかっていた。ボリスも彼を警戒していたのである。
「はい。昨夜プーシキン侯爵のところに潜ませている密偵から報告がありました」
「ふむ」
 大貴族の一人である。リトアニアと通じ謀反を疑われている。
「侯爵がシュイスキー公、そしてムスチスラーフスキイ侯爵と密会していたそうです」
「彼等とか」
「そしてそこに何処からか急使が」
「怪しいな」
 ボリスはそこまで聞いて言った。
「彼等から目を離すな」
「はい」
「そしてそのうえで公爵に会おう。通せ」
「わかりました」
 侍従は部屋に入って来た時と同じ様に敬礼をして部屋を後にした。そしてまた入れ替わりにフェオードルが戻って来た。
「父上」
「どうして騒ぎがあったのだ?」
「鸚鵡のせいです」
「鸚鵡の」 
 鸚鵡は最初からロシアにいた鳥ではない。寒いロシアには鸚鵡はいなかった。ボリスが取り寄せたもののうちの一つであったのだ。彼はこうした面からも西欧的なものを受け入れようとしていたのだ。鸚鵡は人の言葉を話す不思議な鳥として宮中で非常な人気があった。
「鸚鵡が怒鳴ったんです」
「そうだったのか」
「姉さんがお友達やばあやと一緒におしゃべりをしていたら。いきなり姉さんのお友達の一人に『馬鹿っ!』って叫んで」
「ふむ」
「それでばあやが懲らしめようと鸚鵡の首を掴んだら。暴れはじめまして」
「何だ、そんなことか」
 大した話ではなかったのでとりあえずはほっとした。
「けれどまだ続きがありまして」
「続き?」
「そうなんです。鸚鵡を宥める為に甘いお菓子なんかをあげたのですが食べずに」
「どうしたのだ?」
 そこを問う。
「ブツブツと呟いた後でまた暴れだしたんです。飛び上がって」
「それで先程の騒ぎになったのか」
「はい、鸚鵡はもう静かになりました。このことで皇帝である父上の御心を乱し申し訳ありません」
「よい、その程度のことでは私は驚かぬ」
 彼は穏やかに笑って息子にこう応えた。
「鸚鵡一匹のことなどで。国のことに比べたら」
「左様ですか」
「ところでだ」
「はい」
 ボリスは父親の目をして言った。
「今の話はよかった。非常に分かり易かったぞ」
「はい」
「人によくわかる話をしなければ皇帝ではない」
 彼は言った。
「それができるかどうかで大きく違ってくる。今のそなたにはそれができた」
「有り難うございます」
「これも学問を常に続けているおかげだ。これからもよく学ぶようにな」
「はい」
「さすればそなたは善き皇帝となれる。そしてロシアをよく治めていくことになるだろう。その時が来るのを楽しみにしているぞ」
 そこまで言った時であった。先程の侍従がまた部屋に入って来た。
「陛下」
「来たか」
 ボリスの顔が父から皇帝のものになった。
「そなたは下がっておれ」
「はい」
「だが一つ言っておくことがある」
「それは?」
「あの者は信用するな」
 今度は皇帝として彼に語っていた。
「シュイスキー公爵をですか?」
「そうだ。唯でさえ大貴族は信用ならないがあの男は特別だ」
 イワン雷帝以前よりロシアは大貴族達の専横に悩まされてきた。雷帝の母も最初の皇后も貴族達により毒殺されたと言われている。雷帝の治世は外敵、そしてこの大貴族達との戦いであった。そしてそれはボリスの代でも続いていた。彼もまた貴族達と戦っていたのだ。王や皇帝と貴族達との戦いはロシアにおいては一際熾烈で陰惨なものとなっていたのである。
「知恵ある助言者だが同時に狡猾だ」
「狡猾」
「そうだ。悪知恵の働く男だ。油断するな」
「わかりました」
 息子を下がらせた。そしてボリスはシュイスキーと会うのであった。
「陛下、御機嫌麗しゅう」
 あの小狡そうな顔の男が入って来た。背は猫背でありそれがさらに狡賢そうに見せていた。だがその目の光は鋭く、そして抜け目なかった。それを見るとこの男が只の狡賢い男ではないことがわかった。
 ボリスはその顔を黙って見ていた。だがやがていささかシニカルにこう述べた。
「ようこそ、親愛なる公爵」
 彼にしては珍しく皮肉な音色を秘めていた。
「元気そうで何より」
「陛下のおかげでございます」
「昨夜は何処にいたのかな」
 先程の侍従からの報告をあてこする。
「宴会に出ていたようだが」
「一人で飲んでおりました」
 だがシェイスキーはその言葉がわかっていたかの様にとぼけてみせた。
「最近何かと心配事が多いので」
「それをなくす方法を知っているが」
「それは」
「イワン雷帝みたいにすることだ」
 そう言って暗に脅しをかけてきた。
「だが我がゴドゥノフ家は寛容を以ってする。それはない」
「左様ですか」
「私もまた血は好むところではない。安心せよ」
「何を仰りたいのかわかりませんが」
 慣れたものであった。どうやらこうしたやり取りは日常的に行われているらしい。
「ふむ、まあよい」
 ボリスはそれ以上言うことはなかった。
「して何の用だ」
 あらためて問うた。
「公爵自身のことか」
 暗に彼が常に野心を抱き、皇帝の座を狙っていることを揶揄した。
「国家のことです」
 彼はしれっとしてこう述べた。
「国家の一大事です」
「二人の侯爵かな」
 プーシキン達との密談を陰に込めてきた。
 
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