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蝶々夫人

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第二幕その五


第二幕その五

「ですが」
「そうですか。わかりました」
「私が見ているのはあの方だけです」
 こうまで言う蝶々さんであった。
「ですからそれはありません」
「わかりました。・・・・・・くっ」
 シャープレスはあらためて歯噛みする。そうせざるを得なかったのだ。
「ピンカートン、どうして」
「それで領事様」
 歯噛みするシャープレスに気付かずまた問うてきたのであった。
「まだ何かありますか」
「もう一つ御聞きしたいことがあります」
 彼はまた言ってきたのだった。
「あのですね。若し彼がです」
「あの方ですね」
「そうです。若しもです」
 念入りにこう前置きするのだった。蝶々さんを気遣って。
「帰って来なかったら。どうされますか」
「え・・・・・・」
 これは蝶々さんに対して言ってはならない言葉だった。その顔が強張り言葉も止まる。そんな彼女を見てシャープレスも悟るしかなかった。その悟った彼に蝶々さんの言葉が届く。
「そうなれば私に出来ることは二つだけです」
「二つですか」
「そうです。芸者に戻るか」
 まずはそれであった。これが彼女にとって不本意極まるものであるのは言うまでもない。
「そして」
「そして?」
「もう一つは。死ぬだけです」
「馬鹿な」
 シャープレスは蝶々さんのその言葉を受けて色を失った。
「貴女は死んではなりません。そんなことを仰らないで下さい」
「私はもうあの方と一緒でなければ生きる意味がないのですから」
 それが蝶々さんの偽らざる心の言葉だった。
「そうでなければ。どうして」
「そこまで。貴女は」
「御覧になって下さい」
 困り果てた顔になったシャープレスに対してまた声をかけるのであった。
「鈴木」
「はい」
 次に鈴木に声をかける。すると鈴木はそれ応えるのだった。
「あの子を連れて来て」
「わかりました」
 鈴木は一旦後ろに消えてそれから三歳程度の子供を連れて来た。見れば肌と顔は日本人のものだが髪は金色で目は青だった。それだけで誰の子供かわかる。
「彼の・・・・・・」
「そうです、あの人と私の子供です」
 その金髪と青い目が何よりの証拠だった。
「御覧になられましたね」
「はい、よく」
「この子がいるから。あの方はきっとここに」
「ですが」
 シャープレスは蝶々さんの信じる気持ちに対して残酷な言葉をかけるしかなかった。かけたくはない彼の心は押し殺すしかなかった。
「彼はそのことを御存知で?」
「いえ」
 蝶々さんは首を横に振った。
「あの方が日本を去られてから生まれた子です」
「そうですか、やっぱり」
「だからこそ。教えて頂きたいのです」
 こうシャープレスに頼み込んできた。
「あの方に。子供がいるのだと。そうすれば」
「戻って来るというのですね」
「あの方の子供なんですよ」
 それこそが蝶々さんの最大の心の拠り所であった。この子こそが。
「雨の日も風の日もこの子を抱えて歌って食べ物や着物を稼いで同情する人達に悲しい歌声を聞かせて不幸な母親にお恵みをと叫ばせるのですか?」
「それは・・・・・・」
 そんなことが言えるシャープレスではない。俯いて黙ってしまう。
「悲しい運命の蝶々はこの子の為に踊りまた芸者に戻って楽しみの歌は悲しみの歌になって。そんなことをする位なら」
「駄目だ、もう」
 シャープレスは今にも泣きそうになる。それだけは必死に堪えて言うのだ。
 
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