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リリカルってなんですか?

作者:SSA
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A's編
  第二十七話 後




 しとしとと小ぶりの雨が降る中、僕とはやてちゃんは、八神家へ向けて公園の中で、歩みを進めていた。もっとも、歩みを進めていたといっても、僕が後ろで押して、はやてちゃんは、車椅子に座ったまま、大きめの傘をさしているのだが。

 どうして、こういうことになったかというと、さすがに雨の日の図書館の談話室が都合よく空いているなどという幸運がなかったためである。談話室があいていなかったからと言って、図書館の中で小声で話すというのも味気ない。だったら、どうしようか? と悩んでいた時にはやてちゃんが、おずおずといった様子で、自分の家へ行くことを提案してくれたのだ。

 いいのだろうか? とは思ったが、休日の昼間であり、夕方にはお暇することを考えれば、さほど問題はないだろうと思う。それに、はやてちゃんがおずおずといった様子だったのは、まだ親しくもない僕を呼ぶことに対する遠慮だったのだろう。

 だから、僕は、はやてちゃんの家が構わないのであれば、行こうかと彼女の案に乗ることにした。

 僕がそう答えた時のはやてちゃんの表情はどこか驚いた様子であり、しかし、それもすぐに笑顔にとってかわった。そのあとだっただろうか、僕が八神さんのことを『はやて』と名前で呼ぶように強要されたのは。ちなみに、僕もほかの友人たちと同じくショウで構わないと告げている。

 そういうわけで、僕たちは今、八神家へ向かって歩いている。状況は先ほども説明したとおりだ。はやてちゃんだけであれば、車椅子の部分に傘をさすところがあるので、そこにひっかければいいのだろう。きちんと車椅子を使う際に支障が出ないように設計されている。だが、それだけでははやてちゃんは濡れてしまう。そのための大きめの傘なのだろう。彼女をすっぽりと覆ってしまうのだから。

 それも今は、僕とはやてちゃんをすっぽり覆う都合のいい傘だった。

 僕も傘を持っているのだが、彼女が車椅子を押すよりも、僕が押したほうが早いため、こうやって僕が車椅子を押している。それに僕が先導できるわけでもなく、はやてちゃんを待たなければいけないのであれば、こちらのほうがより効率的だったのだ。そうやって、僕が後ろから押すといった時に渋ったはやてちゃんを説得した。

 しかしながら、と僕は思う。

 ―――はやてちゃんは、今日、どうしてこの図書館に来たのだろうか?

 もちろん、理由はいくつだって考えられる。本の返却期限が今日までだったとか、どうしても行きたかったとか。いくつだって思い浮かべられる。でも、そのどれもが、彼女が直接図書館に来る理由としてはどうしても弱いように感じるのだ。

 今日は雨だ。だから、地面はぬかるんでいるし、僕がこうして押している間でも何度か、タイヤが滑りそうになったこともある。力がついてきた僕でさえこれなのだ。いくら、毎日車椅子のタイヤを押しているはやてちゃんといえども、図書館まで来るのは相当の労力が必要だっただろう。しかも、雨に濡れる心配もしなければならないのだ。いったい、何が彼女を図書館まで駆り立てたのか。僕には謎で仕方なかった。

 だけど、そこには踏み込めない。僕とはやてちゃんはまだ出会って一時間程度しか経っていないのだ。そこまで踏み込めるほど信頼感はないだろう。

 車椅子を押しながら、コロコロと変わる表情で話を続けるはやてちゃんを見ながら僕はそう思った。

 はやてちゃんの家についたのは、図書館から歩くこと30分程度のころだろうか。はやてちゃんの家は、住宅街の真ん中にあり、庭もある一階建ての一軒家だった。もっとも、彼女の身体のことを考えれば、一階建てなのは当然のことだろう。

 僕が車椅子を押して、玄関の前まで、連れて行くとはやてちゃんは、ドアノブに手を伸ばし、鍵が開いているかどうかを、がちゃがちゃとノブを回して確認していたが、どうやら、鍵がかかったままらしい。そのことを確認するとはやてちゃんは落胆しような表情を見せた。もしかしたら、誰か帰ってきていることを期待していたのかもしれない。

 しかし、はやてちゃんはすぐに困ったような笑みを浮かべて、自分のポケットから鍵を取り出して、開錠する。がちゃ、というドアが開いた音を立てたことを確認して、僕たちははやてちゃんの家へと足を踏み入れた。もちろん、僕がドアを開けて、その間にはやてちゃんに入ってもらったのだが。

「おじゃまします」

 先にはやてちゃんを入れて、僕も玄関へと足を踏み入れると、そこは、僕の家よりも広い玄関だった。靴は靴箱の中に日ごろから入れられているのだろうか―――僕の家では、アリシアちゃんやアルフさん、母さん、父さんの靴が散乱している―――靴は、今、はやてちゃんが脱いだであろう一足しか見当たらない。しかも、玄関は、バリアフリーという段差がない作りになっていた。

 玄関と廊下を仕切る間には、おそらく車椅子を掃除するための布ようなものが敷いてあり、そこでタイヤをきれいにしているのだろう。

「ショウくん、こっちや」

 僕が初めて見るバリアフリーという作りに感心していると、待ちわびているのかリビングになっているであろう部屋からはやてちゃんが手だけだして手招きしていた。

 そもそも、ここに来た目的を思い出して、僕は慌てて靴を脱いで、きちんと揃えてからはやてちゃんに呼ばれた部屋へと足を運ぶ。

 はやてちゃんの家のリビングは綺麗に掃除されていた。フローリングに敷かれたカーペット。立派で大きなソファー。キッチンには、そのまま繋がっており、そこには食卓も兼ねているのだろう大きめのテーブルが置かれていた。特筆すべきは、家具の隙間だろうか。彼女が通りやすいように僕が二人ぐらいは軽く歩けるほどのスペースが置かれていた。

「適当に座っていいで」

 僕が部屋に入ってきたのを見たのだろう。はやてちゃんが僕にソファーに座ることを勧めてきた。僕は言われたとおりにソファーに腰掛ける。ソファーは上等なものなのだろう。我が家にあるものよりも柔らかく、ふんわりと沈み込むような感覚を受けた。

「なぁ~、ショウくんは、紅茶とコーヒーどっちがええ? まあ、両方ともインスタントやけどな」

 笑いながらはやてちゃんが聞いてくるので、僕は、コーヒーと答えた。はやてちゃんは、インスタントなのをネタに笑っていたが、一般の家はそれが普通だと思う。豆からひいたコーヒーや葉を考えた紅茶が出てくるのは、アリサちゃんやすずかちゃんの家ぐらいだ。家で飲んでいるのもインスタントだし、僕には全然不満はなかった。

 台所から水を出す音とコーヒーの粉でも出しているのだろうがさがさという音がしていた。はやてちゃんが車椅子であることを考えると手伝ったほうがいいかな? とは思ったが、彼女の様子からして、はやてちゃんが車椅子になったのは、ここ最近のことではないだろう。つまり、はやてちゃんは、車椅子に乗ったままの作業に慣れているはずであり、僕が手伝っても邪魔なだけだろう。だから、僕はソファーに座っておとなしく待つことにした。

 ふと、ソファーに座ったまま周りを見渡してみる。

 はやてちゃんに配慮しているのか、背の高い家具などはどこにも見当たらなかった。すべての家具の高さが僕の胸ぐらいで、はやてちゃんの手が届くような位置だろう。

 ――――あれ?

 はやてちゃんに配慮して、すべての家具が彼女の身長よりも低い位置にある? おかしい話だ。もしも、はやてちゃんだけが、この家に住んでいるならまだわかる。しかし、彼女はどうみても僕とそんなに離れていない。最低でも保護者はいるはずだ。現に先ほど見たテーブルの上には湯呑が四つ置いてあった。あれはおそらく彼女の家族のものだろう。よって、すべてをはやてちゃんだけに配慮する必要はない。彼らが使う分は、普通のサイズでいいはずだ。それが、なぜかはやてちゃんだけに合わせている?

 もちろん、家族が気を使って彼女に合わせている可能性がないわけではない。だが、それでも違和感はぬぐえなかった。

「どうしたんや? なんかおもろいもんでもあったか?」

 コーヒーが乗ったお盆を片手にはやてちゃんがやってきた。彼女は、僕が考えていたことも知らずに、面白いものなど何もないやろう? と言わんばかりに苦笑していた。まさか、君の家族のことが気になっていた、なんてまだ出会ってから数時間しか経っていない少女に聞けるはずもなく、僕はあいまいに微笑みながら、そうだね、と相槌を打つことしかできない。

「ちょっと待っててな。今、持ってくるから」

 え? 何を? と問う前にはやてちゃんは、僕が伸ばした手が届くよりも先にリビングから出て行った。残ったのは、テーブルの上に置かれた湯気を立てるコーヒーのカップと僕だけ。仕方なしに僕は、出されたコーヒーに口をつける。インスタントだ、という割には僕には飲みやすかった。やはり、いつも飲み慣れているコーヒーのほうがおいしいのだろうか?

「すまんな、持ってきたで」

 二口、三口とコーヒーを飲み進めていると開けっ放しだったリビングのドアからはやてちゃんが数冊の本を抱えてやってきた。それらをドスンとテーブルの上に置く。大きなハードカバーサイズの本が六冊。それらはすべて同一のシリーズなのだろう表紙に書かれているタイトルの書体と作者名は同一のものだった。

 どこかで見覚えがある、とは思っていたものの、答えは簡単だ。なぜなら、その本は、僕とはやてちゃんが出会うきっかけになった本の一巻から六巻なのだから。

 図書館で借りていたはずなのだが、どうやら彼女は自前でも購入していたようだ。きっと七巻も購入するつもりだったのだろう。しかし、彼女は今日まで七巻を買っていなかった。いや、別にかまわないのだが、彼女の口ぶりからして、はやてちゃんが、この本の相当のファンであることは確かだ。そんな彼女が、購入を忘れていたとは考えにくいのだが。

「全部持ってたんだ」

「せや。やっぱ、読みたいときに手元に置いときたいやん」

 笑顔で語るはやてちゃん。なんというか、本好きの手本みたいだ。確かに、本好きな僕たちにとって読みたいときにその本が手元にないのは苦痛だ。僕でも、図書館で読んで、気に入った本はあとで個別に買ったりすることもある。

「あれ? でも、七巻はどうして買ってなかったの?」

「それは―――ちと、忙しかったんや」

 少しさびしそうな色を含めた笑みで誤魔化そうとするはやてちゃん。どうやら、その部分は、僕が触れていいような部分ではないようだ。だから、僕は、そうなんだ、と詳細を聞き出すことなく引き下がるしかない。誰にだって触れてほしくないこと、話したくないことがある。そこに触れるには相当の勇気と信頼関係が必要だ。僕たちの間にそれはない。だから、引くしかないのだ。

「でも、七巻も借りてきた分があるし、ええやろう。ショウくんは、何巻の話が好きなんや?」

「そうだね、僕は―――」

 そこから、僕とはやてちゃんの熱く、まるでオタクのような本についての雑談が始まるのだった。いや、しかしながら、本当のファンが話すとこんな感じなのだろうとは、思うけどね。



  ◇  ◇  ◇



 この家に来て、どれだけ話しただろうか? 少なくとも日が傾く直前までは話していたようだ。

 お互いに話す内容が尽きることはなかった。その本のどの場面が好きだとか、どのキャラクターが好きだ、とか、話し始めればきりがない。本は、人によって感じ方が異なるものだろう。異なる視点とはよく言ったものだが、つまり、同じ文字なのに考え方が異なる。感じ方が異なる。その差異を楽しむのも、人と本について語る時の楽しみ方だと思う。

 しかしながら、話しながらわかったのだが、僕が知略を駆使した戦闘場面を好むのに対して、はやてちゃんは、ギルドの中のパーティという意味で使われるファミリでの日常パートが好きなようだ。

 はやてちゃんが言うには、異世界から戻れなくなった主人公が、新しく家族を作るところが好きなんだとか。僕としては、知らない世界で戦いに巻き込まれながらも、抗って戦う様が好きなんだけど、それは好みの違いというやつだろう。

「―――ああ、もうこんな時間か」

 ある程度、話の区切りがついたところで、何杯目になるか数えていないコーヒーを口に含んだ後、棚の上に設置している時計を見て僕はつぶやいた。普通なら、そろそろ帰る時間だといっても過言ではないだろう。それに、今日が休日であることを踏まえても、そろそろ家族の人も帰ってくるはずだ。ならば、これ以降は家族の時間。部外者の僕がいるべきではない。

 だから、そろそろお暇するにはいい時間である。

「いい時間になってきたから、そろそろお暇しようかな」

「え?」

 僕としては、時間的には、実にいい時間だと思った。遅いわけでもなければ、早いわけではない。母さんやアリシアちゃんたちに心配させるような時間ではなく、はやてちゃんの家族も帰ってきているわけではない。だから、切り出すタイミングとしては間違っていないと思う。

 しかしながら、僕が帰宅を告げた時のはやてちゃんの顔は驚きの表情だった。

「も、もう帰るん?」

 はやてちゃんの口調からは焦りのようなものを感じ取ることができた。だが、彼女が焦る理由がわからない。それとどこか引き留めたそうな口調もよくわからない。

「そ、そやっ! ショウくん、晩御飯食べて行ったらええよ」

 突然、ぱんっ、と手を打ったかと思うと名案だ、と言わんばかりの口調で僕に提案してくるはやてちゃん。

 いきなり晩御飯と言われても困るのが実情だ。しかも、僕の家でも僕の分を確保しているだろう。あまりに突然すぎる提案は、僕としても困ってしまう。さらにいうのであれば、僕とはやてちゃんは、確かに共通の趣味で意気投合したのは間違いない。しかしながら、出会ったのは今日なのだ。それなのにいきなり家で晩御飯を食べるのは少し躊躇してしまう。

「でも、家の人に悪いんじゃない?」

 しかし、いきなり断るのも心象に悪かろう。もしかしたら、嫌われてしまった、と思われてしまうかもしれない。だから、ごく一般的な理由で遠慮することにする。

「だ、大丈夫やっ! 帰ってきてもみんな歓迎してくれるはずやっ!」

 どこか必死な声で僕を引き留めようするはやてちゃん。何がいったい彼女をこんな風に駆り立てるのだろうか。何らかの理由があると見るべきなのだろうが、付き合いの浅い僕にはわからない。

 どうしたものか? と悩んでいるとおずおずといった様子ではやてちゃんが口を開く。

「……ダメ……なんか?」

 少し潤んだ瞳で、上目づかいで問いかけるはやてちゃん。その表情にはどこか見覚えがあった。それは、僕がまだ幼稚園時代のころ、親の迎えが遅くなって、一人で幼稚園に残っている子が向けてくる表情だ。その裏にある感情は、寂しさだ。一人で残されることへの恐怖といってもいいだろう。そのころから僕は、ある種の世話役的なところがあって、そういう子を残して帰ることはできなかった。よくよく考えれば、あのころは、母さんに迷惑をかけていたな、と思う。

 僕はこういう表情に弱いのだ。たとえば、小さい子供が僕の袖を引っ張って帰らないで、と言われているのに等しい。小学校に上がってからは、ほとんどなかったのだが、久しぶりに遭遇してしまった、というべきだろう。

 そして、残念なことに僕は、この表情に抗うすべを持っていない。両手を挙げて降参というしかない。

「わかったよ。それじゃ、今日はご馳走になろうかな」

 そういうしかなかった。しかし、その効果はあったようで、一時は沈んでいたはやてちゃんの表情も泣いたカラスがもう笑うといったように笑顔に変わっていた。

「そ、そか。ほんなら、早速準備せんとな」

 そう言いながら、はやてちゃんは器用に車椅子を操作して、自らの身体をキッチンへと運んでいく。もしかして、彼女が晩御飯を作るのだろうか。いや、未だに顔を出さない家族のことを考えれば、彼女が料理をすることも別に変な話ではないのだろう。小学生だから料理をしてはいけないということはないはずだ。

「あ、そうだ。僕は、ちょっと親に連絡してくるから」

 晩御飯がいらないのであれば、はやく母さんに連絡しなければならない。もしかしたら、少し怒られるかもしれないが、僕の分はおそらく親父とアルフさんが消費してくれるから無駄にはならないだろう。アルフさんは、基本的にアリシアちゃんからの魔力供給で大丈夫なはずなんだけどな……。

 僕ははやてちゃんから「了解や」という返事を聞いてから僕は廊下に出てから携帯電話を使って、家に電話した。

 電話口に出た母さんは、事情を話すと「またいつもの世話焼き癖が出たのね」といいながらも、はやてちゃんの家で食べることを了承してもらえた。しかし、僕の行動は、癖のように思われていたのか。もっとも、そっちのほうが僕にとっては都合がいいのだが。まさか、精神的には兄的立場で見捨てることができないなんて言えないから。僕の癖のように思われているなら、いつものことか、で片付けられるので幸いなのだ。

 母さんから「遅くならないうちに帰ってくるのよ」という言葉をもらった後、電話の通話を切り、二つ折りの携帯をぱたんと閉じるとリビングへと戻った。そこには、はやてちゃんが持ってきた六冊の本が置いてあるだけ。リビングの隣のキッチンからは、カレーのいい匂いがするので、はやてちゃんがカレーを作っているのだろう。

 僕は、リビングでソファーに座らず、そのままキッチンのほうへと足を運ぶ。何か手伝いができれば、と思ったのだ。この世界に生まれてから料理は、家庭科でしかやったことがないが、前世の大学生時代は、二年間、自炊をしていたのだ。包丁と簡単な料理ぐらいは作ることができる。

「はやてちゃん、なにか手伝うことない?」

「へ? ショウくん、料理できるんか?」

「まあ、少しだけね」

 僕ができるのが意外だったのか、はやてちゃんは少し驚いたような声を上げる。確かに、事情に迫られなければ、小学生が料理ができるとは思わないだろう。それをいうのであれば、トントントンと手慣れたようにリズムを刻むはやてちゃんは、その事情に迫られた小学生に分類されるのだろうが。

「ほんなら、私がサラダ作るから、カレーを混ぜといてくれんか?」

「了解」

 それは、料理というよりも見張り番では? とは思ったのだが、カレーとサラダというメニューであれば仕方ない。はやてちゃんが、サラダづくりに集中できるのであれば、僕は見張り番という役に甘んじて徹しよう。

 そう思いながら、お玉はどこ? と場所を尋ねて、言われた調理道具がそろった一角にあったお玉を手に僕は、カレーをあっためているであろう鍋の前に立った。

 僕が上から覗き込んだ鍋の中身は、とても二人分とは思えない量のカレーが入っていた。家族の分も含んでいるのだから当然と言えば当然だ。僕が電話をかけてからあまり時間が経っていないことを考えれば、このカレーは、今日作ったものではないだろう。おそらく、前日から寝かせたものだろう。ならば、味は期待できるはずだ。

 そんなことを考えながら、鍋の中身をかき混ぜていたのだが、その中で違和感を感じた。

 ――――あれ? おかしいな。どうして、踏み台もなくて調理ができるんだ?

 そう、おかしい話だ。車椅子に座っていながら、鼻歌交じりに料理をしているはやてちゃん。そして、立ったままで鍋の中身を見下ろすことができ、余裕で鍋をかき混ぜることができる僕。その点に違和感を抱かざるを得ない。

 普通、キッチンの高さは、使用者の高さによって決められる。なのに、このキッチンは、はやてちゃんの車椅子に座った時の高さに合わせられている。小学生の普通でも低い身長に、さらに座った時の低さに合わせられているのだ。もしも、大人が料理するとなれば、相当に使いにくいキッチンであることだろう。

 そこから導き出されることは、あまり考えたくないものだが、このキッチンで主に料理を作っているのがはやてちゃんということであろう。

 ほかの家族はいったいどうしたのだろうか。いや、この家族の役割分担ということなのかもしれないが、もしも、このカレーの人数分だけ毎日料理を作るとなると結構な大仕事である。それを子供にやらせるのはいかがなものだろうか。手伝い程度ならばわかる。しかし、こうしてキッチンの高さまで調節してまで。これでは、最初から料理することを放棄しているようにとられても仕方ないのに。

「ん? どうしたんや? ショウくん。手がとまっとるで」

「あ、いや。なんでもないよ」

 しかし、人様の家庭事情に僕が簡単に足を踏み込めるはずもなく、僕が考えていたことを表に出さないように曖昧に笑うしかない。しかし、はやてちゃんを誤魔化すことには成功したようで、少し怪訝には思っていただろうが、そか、と一言言うとまたサラダづくりに戻るのだった。



  ◇  ◇  ◇



「「ごちそうさまでした」」

 僕とはやてちゃんの声が重なる。

 あれから、僕たちはカレーを温めて、サラダを盛り付けて、料理を並べて少し早目の晩御飯を食べていた。用意されたお皿の数は僕たちの分も合わせて五つだ。しかし、そのうち三つは、お皿を逆にして埃をかぶらないようにしている。おそらく、後で帰ってきてもいいようにだろう。ちなみに、カレーはすでに冷蔵庫の中に保存されている。

「ふぅ、そろそろ、帰ろうかな」

 食器を片づけた後、食後の一杯を口にしながら、僕はぽつりとつぶやいた。あまり遅くなるな、と釘を刺されているうえに外はすでに日が落ちてしまって真っ暗だ。今度こそ、お暇しなければならないだろう。

 僕が晩御飯に誘われた時の表情を見ていると家族のだれかが帰ってくるまで一緒にいてあげたい気もするが、僕が大人ならまだしも―――それはそれで、別の問題が発生するような気もする―――今の僕は小学生だ。遅くに外は出歩けないし、親を心配させてもいけない。つまり、そろそろ帰るしかないのだ。

 もちろん、それが一筋縄ではいかないことは確かだろう。僕のつぶやきを聞いたはやてちゃんの肩がビクンと動いたのを見てしまったから。

「か、帰るんか?」

「うん、そろそろ、親が心配しちゃうからね。外も暗いし……そろそろ、帰らないと」

 そう言っている最中にもはやてちゃんの表情が沈んで行くのがわかる。しかし、これ以上はいることができない。それが現実だった。いくら、後ろ髪ひかれる状況だろうが、それは許される立場には僕はなかった。だから、ここは心を鬼にしてでも帰らなければならないのだ。

「あんなっ! ショウくん、私の家、もっと別の本もあるんよ。ショウくんはどんな本が好きや? 気に入ったのがあったら、読んでったらええよっ!」

「いや、だから、僕は―――」

「ゲームもあるんやでっ! ショウくんは、ゲームするんか? 私は、少しやるんやけどな。うちの子が好きなんよ」

 よほど僕の気を引きたいのか、次々と自分の家にあるものを挙げていくはやてちゃんが痛々しかった。先ほど見せた表情を鑑みれば、彼女の中に一人でいることへの寂しさがあるのは間違いないはずだ。しかも、それを笑顔で覆い隠しているのがさらに痛い。

 しかしながら、本当に手立てがないのだ。もしも、何かはやてちゃんのそばにいられる手立てがあるなら、家族の誰かが帰ってくるまで傍にいることも吝かではないのだが……。

「あっ! せやっ! なんなら、泊まっていってもいいんやでっ!」

 ―――それは……一考の余地はありか?

 少なくとも出歩くことはない。危険性は遅くなって帰るよりも、かなり低くなるだろう。いや、しかし、出会って一日目で家に泊まるのはいかがなものか。

「どやろ? ショウくん」

 しかしながら、やはり、その表情で見られると僕は弱い。すぐさま、否とは言えなくなってしまう。可能性を考えてしまう。そして、その可能性は十分にありといえた。前提条件として、はやてちゃんと母さんの許可は必要だが。

「はぁ、わかったよ。とりあえず、母さんに聞いてみるね」

 晩御飯に続いて、今度は泊まるというのだから、母さんも驚くだろう。

 そう思っていたのだが、案外、話はスムーズに進んだ。もしかしたら、母さんも予想していたのかもしれない。家族が誰もいないということを言っていたことも聞いたのかもしれない。相手が女の子とも話していたのだが、さすがに小学生が相手で考えることでもないか。そんな具合であっさりと母さんからの承諾を得ることができた。ただし、一度、家に帰ることが条件だが。確かに着替えもない状態では泊まれないだろう。

「それじゃ、一度、僕は家に帰るから」

「すぐ帰ってくるんか?」

 ただ家に帰って、再び引き返してくるだけだ。時間にして三十分もかからないだろう。母さんが準備してくれるらしいから、僕が用意することもないし。だから、はやてちゃんが不安げな表情をしている理由が理解できなかった。もしかして、三十分でも一人になるのが嫌なのだろうか。だから、僕はできるだけ安心させる笑みを浮かべて答えた。

「うん、大丈夫。すぐ戻ってくるよ」

「そか………うん、わかったで。いってらっしゃい」

「うん、いってきます」

 何かを考えていた様子を見せたはやてちゃんだったが、すぐに笑顔を浮かべて、僕を「いってらっしゃい」という言葉と一緒に手を振りながら僕を送り出してくれた。少し大げさだな、と僕は内心で苦笑しながら、はやてちゃんの声にこたえて、いってきます、と告げた後、八神家の外へと出るのだった。



  ◇  ◇  ◇



 八神家までの道のりを親父と一緒に歩いていた。僕の家から八神家までは、僕の足で大体十五分程度だろう。予想通りといえば、予想通りの道のりだ。その道を母さんから受け取ったお泊りセットの入ったボストンバックを片手に親父と一緒に引き返していた。

 もしも、日が暮れていなければ、僕一人でもよかったのだが、日がすっかり暮れてしまったのだ。確かに住宅街というだけあって、時間的には、人気が全くないというわけではないが、それでも心配なのだろう。母さんに言われて親父が付き添うことになったのだ。

 親父と別段仲が悪いというわけではない僕たちは、最近学校であったことや、友達と遊んだ時の面白い体験などを話しながら、ゆっくりと僕に歩調を合わせて八神家へと歩みを進める。そう、歩みを進めているつもりだった。

 僕がそれに気付いたのは、親父の一言からだった。

「なあ、翔太、俺たち、どこへ向かってるんだっけ?」

 不思議そうな顔をして僕に問いかけてくる親父。その顔は、本当に歩いている最中に目的地を忘れてしまったような表情をしている。人が突然、目的地を忘れてしまうようなことがあるだろうか。そもそも、持病を持っていれば、話は別だが、親父がそんな持病を持っているなんて聞いたことはない。

「何言ってるの? 八神はやてちゃんの家に僕を送ってくれるんでしょう?」

「ん? あ、ああ……そうだ。そういえばそうだったな」

 僕の言葉を聞いて納得した親父は、どうして忘れてたんだ? と不思議そうに首をかしげていた。

 持病も持っていない親父が健忘症のようにふるまう。そんなことがあるだろうか。物忘れが激しいというレベルではない。まるで、記憶から零れ落ちたような、そんな振る舞いだった。はたして、そんなことが考えられるだろうか。もしも、僕が平凡な人生を送っているなら考えられないだろう。明日にでも、病院へ行くことをお勧めしているだろう。

 しかし、生憎ながら齢十歳にならないというのに僕の人生はすでに平凡ではない。もっとも、それを言うならば、生まれた瞬間からというべきかもしれないが。

 ともかく、僕はこのような現象を起こせる存在を知っている。魔法というおとぎ話のような存在を。まさか、と思って周囲を注意深く探ってみれば、若干だが、微妙な違和感を感じるのは確かだ。これが魔法だと僕には断定できない。そこまで魔法に精通しているわけではないからだ。クロノさんたちならわかるかもしれないが、僕にはわからない。

 だが、魔法以外に親父の状況を説明できないのも確かであり、いったいどうしたものか? と考えたのがまずかったのかもしれない。周辺から感じる違和感よりもはるかに強い違和感――――まるでユーノくんの結界に入った時のような違和感を一瞬だけ確かに感じた。その直後、隣を歩いていた親父の姿が消えた。

「は?」

 魔法による結界に入ったことは理解できた。しかし、それ以上の理解が追い付かない。どうして? なぜ? 誰が? 何の目的で? そんな疑問がマルチタスクで同時に僕の頭の中で処理される。しかし、どの問いの回答も『不明』という結論だった。手がかりが一つもないのだから当然だ。ただ一つだけ理解できていることは、僕を結界に誘い込んだ『だれか』がいることだけである。

 僕は、周囲を警戒する。いつでもチェーンバインドを発動できるように手はずを整える。

 ―――それは、僕の前に姿を現した。

「――――あなたは、誰ですか?」

 僕の真正面。ユーノくんが使った封時結界であれば、当然であるが、人通りがまったくない道の真ん中に立つ一人の男性と思われる人。黒い髪に白いスーツに身を包まれ、仮面舞踏会で使われるような仮面で顔を隠した男性が僕の前に立っていた。

 彼は、僕の問いに無言だった。その代わりに無言でまっすぐと歩みを進めてくる。どうやら彼は、僕の質問に答えるつもりはないようだ。

「チェーンバインドっ!」

 いくらなんでもそのまま近づけさせられるわけがない。だから、僕はあらかじめ警戒して、用意していたチェーンバインドを発動させた。相手が魔法世界の相手でも、拘束ぐらいはできるだろう、と考えたからだ。しかし、その考えは甘かったと言わざるをえない。僕が発動できる最大数であるチェーンバインドが三本同時に仮面の男に向かって飛びかかる。

 そのままであれば、僕の白い魔力光で発動したチェーンバインドは、仮面の男を雁字搦めにするはずだった。だが、その想像は、男が腕を一振りして、パリンというチェーンバインドが砕ける音とともに無残にも砕け散った。

「え? あ、あれ?」

 魔法が砕かれるなんて想定外もいいところだ。どうやったのか? なんてわからない。クロノさんだったら、もしかしたら、わかるかもしれないが、魔法に精通していない僕にはわからない。しかし、わかったところで対処法があるわけではない。僕ができることはチェーンバインドを生成することだけだ。

「チェーンバインドっ!」

 今度は二本、遅れて一本の時間差で発動させたが、それも無意味。彼は、戦いに慣れているのだろう。不意打ち気味に発動した一本さえ見ているときと同様に腕を振るだけで砕いてしまった。

「くっ」

 まずい、まずい、まずいと思った。明らかに僕で対処できる限界を超えている。

 どうする? どうする? と頭をひねらせても逃げられるとは思えない。ここで、背中を見せて逃げ出したとしても、彼はすぐに追いつくだろう。僕の魔法を腕の一振りで砕くほどの実力を持っているのだ。しかも、それは彼の実力のすべてではないだろう。そこから導き出される答えは、逃げられない。

 彼がゆっくりと近づいてくる。彼が近づくたびに後ろに下がる。しかし、それでも逃げられたのは数分の間だけ。気が付けば、僕の後ろにはブロック塀が立ちふさがっていた。彼から最大限距離をとるように動いていたら、いつの間にか壁際に誘導されていたらしい。ここからさらに逃げ出すのは無理だろう。

 そんなことを考えている間にも、彼は近づいてきて、僕に手を伸ばす。彼は、僕を一体どうするつもりなのだろうか? 彼の気配からは全く想像できない。いったい彼が何をしたいのか、僕には全く分からない。わからないということは、恐怖へとつながる。いや、そもそも、魔法を使われて男に追いつめられているという時点で恐怖心満載なのだが。

 ここまで追い詰められた僕にできる抵抗はせいぜい、相手を睨みつけることぐらいだ。

 当然のことだが、彼はそんなことには歯牙にもかけず、僕に片手を伸ばしてくる。

 そして、あともう少しで僕にその手が届くというときだった。彼が、不意に上を向いたのは。僕も彼につられて上を見る。

 ―――そこには、一人の騎士がいた。

 手には手甲を装着し、右手には反りのない片刃の西洋剣を持ち、スカートのような部分にも鎧にも似た甲冑を装備している紫色の髪をポニーテイルにした女性がそこにはいた。

 先ほどまでは全く気配を感じなかったことから、たった今、張られた結界を抜けてこの場に現れたと見たほうがいいだろう。はたして、彼女は僕にとって、敵なのか味方なのか。敵の敵は味方という形で助けてくれたら幸いなのだが……。

 そんなことを思っていると僕の願いが通じたのか、剣を構えた彼女は、まっすぐ僕と彼の間に突っ込んできた。それを見て、仮面の男はたまらず後ろへと退避する。仮面のせいで表情はわからなかったが、動きから察するに彼は、動揺、あるいは、困惑しているように見えた。

「どうして、貴様がここにいる?」

 仮面の奥から聞こえる男のくぐもった声。

「無論、この身は、我が主のため。主の命を除いて我がこの場にいる理由はない」

 剣を構えながら仮面の男に対して全く油断せずに彼女は答える。

 彼女の言葉から推測するに、どうやら彼女の主からの命令らしい。しかし、魔法に関連している人が、僕となのはちゃん以外にいるのだろうか。しかも、僕の知り合いに。あるいは、この事態を知って、正義感から助けてくれたか。どちらにしても、僕を守るように立っていることから考えるに彼女が、僕を助けに来てくれたのは間違いないようだ。

「なん……だと……。バカな。いったい………。ちっ」

 彼女の言葉に驚愕し、信じられないというような口調で、何かつぶやいていたが、先ほどの僕のようにこの状況が理解できなくなってきたのだろう。彼は、小さく舌打ちをすると、唐突にこの場から姿を消した。同時に周りの結界も消えたようだ。僕を包んでいた違和感はなくなっていた。

 その場に残ったのは、僕と騎士のような女の人だけ。彼女は、しばらく気を抜かずに剣を構えていたが、彼の気配が完全になくなったと判断したのだろう。剣を鞘に戻していた。

「あの……ありがとうございます」

 主さんからの命であれ、僕が助けられたのは違いない。だから、僕は頭を下げてお礼を言う。あそこで彼女が助けに入らなければ、僕がどうなっていたかわからないから。

「いや、礼には及びません。私は主の命に従ったのみ。それでは、私はこれにて」

 本当は、あなたの主がだれか? ということを聞きたかった。だが、彼女はそんな暇を僕に与えてくれなかった。すぐさま、来た時と同様に空へ向かって飛び立つと、そのまますごいスピードでこの場を離れて行った。

 僕にはだれかわからないが、とりあえず、助けてくれたであろう主さんに僕は感謝することにした。

「さて、親父はいったいどこへいったんだろう?」

 僕と一緒に消えたはずだが、同じ結界の中にはいなかった。ともすれば、この場に取り残されたか、あるいは、僕と同じように結界に取り込まれたか、である。結界に取り込まれて入れば、それはまずい気がするが。いや、しかし、魔法が発動しているような違和感は感じられない。

 どうやって連絡を取ろうか? と考えていた僕の耳に携帯からの着信音が聞こえる。いったい誰だろうか? と画面を見てみれば、そこには『母さん』の三文字が浮かんでいた。どうしたんだろうか? と疑問を浮かべながら通話のボタンを押して、携帯を耳に当てる。

「もしもし、どうしたの?」

『ああ、よかった。ショウちゃん、無事なのね? お父さんがショウちゃんを残して戻ってきたからびっくりしちゃって』

 どうやら、勝手に連絡がついたようだ。しかし、僕を置いて家に帰ったってどういうことだろうか? 魔法で何かされたのだろうか? その可能性が高いだろう。よくよく考えたら、さっきの手を伸ばしたのも僕に魔法をかけようとしたのかもしれない。

「大丈夫、僕は無事だよ」

『よかったわ。ショウちゃんは? って聞いても、家に帰ってきてるだろう? なんていうんだもの』

「それは―――」

 もしかしたら、彼は僕を家に帰すつもりだったのかもしれない。

 ――――なぜ?

 それは、僕がこれから行く場所を考えれば、簡単に想像できた。つまり、八神家だ。はやてちゃんに僕を近づけたくなかった。近づけない目的は僕にはわからないが、それ以外に理由を思いつかない。今までと変わったことなんてそれぐらいしか思いつかないから。

 そうだとすると、はやてちゃんも魔法に何かしたら関係あるのか………?

「母さん、僕、はやてちゃんの家に行くよ」

 僕は大丈夫だったが、はやてちゃんが心配になった。今までなんでもなかったから大丈夫だとは思うが、僕が襲われた直後で、しかも失敗しているのだ。その分のツケが、彼女に向かったとしてもおかしい話ではない。僕に何かできるとは思わないが、それでもここで見捨てて家に帰るという選択肢は少なくともない。

 ちょっと、ショウちゃん!? と声を出す携帯電話の通話を切ると形態をポケットに仕舞って、道路に投げ出されたお泊りセットの入ったボストンバックを持つとはやてちゃんの家の方向に向かって走り出す。幸いにして、道のりの半分は来ているのだ。走れば、五分もかからない。このときは、運動会のときに発揮された運動能力に感謝した。五分、走ったとしても息切れしないのだから。

 五分、全力疾走に近い形で走り続けて、ようやくはやてちゃんの家の前につく。僕は、少しだけ息を整えた後、『八神』と書かれた表札の横にあるインターフォンを押す。ピンポーンという昔ながらの音を鳴らした直後、がちゃ、とドアが開いて、車椅子に座ったはやてちゃんが姿を現した。ほとんどタイムラグないことを考えると、もしかしたら、ドアの前で待っていたのかもしれない。

 確かに三十分ぐらいしかかからない道のりで一時間半ほど時間がたっていれば心配もするだろう。だが、とりあえず、変わりないはやてちゃんの様子に僕はひとまず安心する。

 なぜか、はやてちゃんも、僕の顔を確認すると、ほっ、と安心したように息を吐いた後、笑みを浮かべて口を開いた。

「おかえりや、ショウくん」

 まさか、そんな言葉で迎え入れられるとは思わなかった。僕が、虚を突かれて驚いている間に、笑顔だったはやてちゃんの表情が不満げに頬が膨らむ。

 ああ、そうだ。そうだった。その言葉で迎え入れられたのだ。ならば、僕が答えるべき言葉は一つしかない。おそらく、彼女はいつまでたっても僕がそれを口にしないのが不満なのだろう。だから、僕も彼女の笑顔で迎え入れてくれたことに応えるようにできるだけ笑顔で返事をする。

「ただいま、はやてちゃん」

 僕がその言葉を口にした瞬間、今まで不満げだったはやてちゃんの表情は、花が咲いたような満面の笑みへと変化したのだった。



つづく















 
 

 
後書き
 うらやましいと思うのは、そのものの価値を認めているからである。 
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