ブラック土木の現場監督が戦国時代に転生したら、太閤秀吉に気に入られて徳川家康の親友になりました(旧タイトル:トシサダ戦国浪漫奇譚)
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第二部 名護屋在陣と秀次事件 ——「三条河原の駒姫」
第四十八話 柳の間
高野山は、涼しかった。
*
七月の半ばである。麓は蒸していた。
坂を登り切ると、風が変わった。
杉が高い。石畳が続いている。
道の両側に、苔むした墓が並んでいた。
(……墓地の中を、歩いてるんだな)
数百年分の死人の間を通って、俺たちは寺へ向かった。
福島正則は、一番後ろを歩いていた。
この人は、坂を登り始めてから一言も口を利かなかった。
三日遅らせた道が、昨日で終わった。
遅らせる理由が、もう作れない。
(……この人、いま、何を考えてるんだろうな)
考えなくても、分かる気はした。
早馬は、来なかった。
青巌寺の門前で、僧が待っていた。
この人は、俺たちの顔を見なかった。
「――お待ち申し上げておりました」
そう言って、頭を下げた。
(……妙だな)
待っていた、というのは、正しくない。
検使が来ると分かっていたのなら、山門で人を並べる。
使いの者を先に出す。湯と草鞋を用意する。
この人は、一人で立っていた。
(――もう、済んでるのか)
福原長堯が、馬を降りた。
「関白殿下は」
僧は、答えなかった。
答えずに、先に立って歩き出した。
柳の間、と呼ばれる座敷だという。
庭に、柳が一本あった。
障子が、開いていた。
匂いが、先に来た。
*
七月である。
締め切った座敷で、半日、放っておいた血の匂いである。
(――あ)
俺の身体が、勝手に一歩下がった。
(待て)
(下がるな)
(下がったら、福原殿が書く)
足を止めるのに、一拍かかった。
一拍で済んだのは、四十年の訓練のおかげである。
だが、口の中に唾が溜まっていた。
胃の上のあたりが、勝手に動いていた。
(――知ってたぞ、俺は)
*
七月十五日、高野山、青巌寺。
関白豊臣秀次、切腹。
本で読んだ。何度も読んだ。
日付まで、覚えていた。
(知ってた)
(知ってたのに)
頭は、平気だった。
身体が、平気ではなかった。
四年前、九戸の堀の前で、同じことが起きた。
あのときは、言葉が出なかった。
今度は、足が下がった。
(……進歩してない)
座敷には、五人いた。
上座に、一人。
その手前に、三人。
少し離れて、一人。
上座の人には、首がなかった。
(……)
手前の三人は、若かった。
十七か、十八。
一人は、それより下に見えた。
三人とも、腹を切って、うつ伏せていた。
順に切ったのが、血の広がり方で分かった。
(――先に、逝ったのか)
主君が腹を切る前に、小姓が先に切る。
そういう作法があるのだと、あとで聞いた。
少し離れた一人が、介錯をした人である。
その人も、自分で切っていた。
福原長堯が、硯を出した。
早い。
座敷に入って、十を数える前だった。
「羽柴殿」
「――はっ」
「首を、改めていただきたい」
(……俺か)
理由は、分かる。
俺は、この人の顔を知っている。
三迫の本陣で、半刻、目の前にいた。
白木の台に、置いてあった。
俺は、膝をついた。
布を、自分の手で外した。
(――あ)
目が、開いていなかった。
それだけで、少し楽だった。
九戸の首は、開いていたのが多かった。
「……相違ございませぬ」
俺は言った。
声は、震えなかった。
「関白豊臣秀次公にございます」
福原長堯が、筆を走らせた。
「御年、二十七」
「――はっ」
「刻限は、昼過ぎと聞いた。相違ないか」
「……某には、分かりかねまする」
「僧に聞け」
俺は、布を戻した。
戻すとき、指が、少しだけ止まった。
(――止めるな)
戻した。
福島正則は、座敷に入ってこなかった。
廊下に立ったまま、庭を見ていた。
柳を見ていたのではないと思う。
たぶん、何も見ていなかった。
俺が出ていくと、この人は言った。
「……間に合わなんだな」
「はい」
「三日、遅らせた」
(――言った)
「わしが遅らせた。……分かっておったろう」
「……はい」
「なんで、止めなんだ」
俺は、少し考えてから答えた。
「――某も、遅らせとうございました」
市松兄は、しばらく黙っていた。
それから、板壁を一度、拳で叩いた。
一度だけだった。
座敷を出る前に、俺は文机を見た。
書物が、一冊置いてあった。
伏せてある。
読みかけを、伏せて置いたままの形だった。
*
三年半前、三迫の本陣でも、この人は書物を閉じた。
(……好きだったんだな、本が)
表紙に、紙が一枚、挟んであった。
俺は、僧に断ってから、それを開いた。
字は、乱れていなかった。
――これは、近衛殿より借り受けたるものなり。
――返し奉るべし。
(……)
(――引き継ぎだ)
この人は、最後に、引き継ぎをした。
自分の家がどうなるかは、もう分かっていた。
妻も子も、どうなるか分かっていた。
それでも、借りた本を返せと書いた。
(……返しますよ)
(それくらいは、できます)
俺は、僧に断って、その一冊を手に取った。
「――お坊様」
「はい」
「殿下は、いつからこの間に」
僧は、目を伏せたまま答えた。
「十日に、山へ入られました」
「十一日、十二日は、書き物をしておられました」
「十三日から、お尋ねになるようになりました」
「――何を」
僧が、少し黙った。
「……検使は、まだか、と」
(――)
「一日に、何度も。朝に一度、昼に一度、日が落ちてから一度」
「昨日は、五度、お尋ねになりました」
「今日は」
僧は、初めて顔を上げた。
「……今朝は、一度も、お尋ねになりませんでした」
(……ああ)
この人は、待っていた。
腹を切るなら、検使の前で切りたかった。
関白として、筋を通して死にたかった。
それだけのことだ。
待って、待って、四日目の朝に、待つのをやめた。
(――三日だ)
馬の脚と、川の増水と、鮎である。
俺は、廊下のほうを見た。
福島正則は、まだ庭を見ていた。
(……言わない)
この人には、一生、言わない。
言えば、この人は死ぬまでこれを抱える。
抱えたところで、誰も生き返らない。
(俺が持っておけばいい)
(――もう一つくらい、変わらん)
俺は、書物を懐に入れた。
*
夕方、福原長堯が、書き物を集め始めた。
文机の上の紙。硯箱の中の紙。反古を入れた籠。
一枚残らず、油紙に包ませた。
「羽柴殿。その書物は」
(――来た)
俺は、懐から出して、両手で差し出した。
「近衛様よりの借り物にございます」
「借り物」
「――返せ、と挟んでございました」
福原長堯は、紙を読んだ。
読んで、俺を見た。
「……これだけか」
「はい」
あの人は、少し考えてから、書物を俺のほうへ押し返した。
「借り物を返すのは、筋じゃ」
「――かたじけのう存じます」
(……この人も)
(悪い人じゃ、ないんだよな)
*
書付は、その日のうちに整った。
福原長堯の手は、速かった。
文も、隙がなかった。
――関白秀次、七月十五日、高野山青巌寺にて自害。検使四名、これを検す。
それだけである。
(……それだけか)
座敷には、五人いた。
公の書付に載るのは、一人だけだ。
残りの四人は、どこにも書かれない。
(――拾うて、名を書け)
俺は、自分の帳面を出した。
僧に、一人ずつ聞いた。
――山本主殿。
――山田三十郎。十八。
――不破万作。十七。
――雀部淡路守重政。介錯。
書いても、誰も助からない。
四年前から、俺はそればかりやっている。
それでも、書いた。
四年前、俺は九戸で、名を書かなかった。
書く暇がなかったのではない。
書いてはいけない気がしたのだ。
自分が火を入れた城の中で死んだ者の名を、自分の帳面に写す。
――どう考えても、図々しい。
(……逃げてただけだな)
名を書くのは、供養ではない。
帳面をつけることだ。
出て行った者と、帰ってきた者の数が合わぬ。
それを、合わぬまま放っておかない。
ただ、それだけの話である。
(……合わないんだ、ずっと)
(合わないまま、四年たった)
翌朝、山を下りた。
石畳を、来たときと逆に歩いた。
苔の墓が、また両側に並んでいた。
(……この山は、静かだ)
(静かなところで、人を殺すな)
麓で、京からの早馬とすれ違った。
赦免ではなかった。
――関白の妻子を、聚楽第より移すべし。
(……始まった)
俺は、懐の書物を押さえた。
八月二日まで、あと十六日である。
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