ブラック土木の現場監督が戦国時代に転生したら、太閤秀吉に気に入られて徳川家康の親友になりました(旧タイトル:トシサダ戦国浪漫奇譚)
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第二部 名護屋在陣と秀次事件 ——「三条河原の駒姫」
第四十六話 踏み絵
七月三日。
関白豊臣秀次に、謀反の嫌疑がかかった。
糾問の使いが、聚楽第へ入った。
石田治部少輔。増田右衛門尉。前田徳善院。
奉行が三人である。
(……三人)
一人なら、確かめに行くのだ。
三人なら、決まっている。
京の町が、静かになった。
静かになった、というのは、正しくない。
――人が、消えた。
聚楽第の門前に、毎日並んでいた輿が、三日で一挺も来なくなった。
出入りの商人が、荷を止めた。
医者が、往診を断った。
坊主が、法会の日取りを延ばした。
(……見たことがある、これ)
前世で、俺のいた会社の親会社が飛んだ年がある。
資材屋が現金前払いだと言い出した。
下請けが電話に出なくなった。
昨日まで「先生」と呼んでいた設計士が、他社の名刺を配っていた。
誰も、悪くない。
自分の家を守っただけだ。
(――誰も悪くないのに、人が一人、消える)
そして、消えるのは一人ではない。
俺は、宿の帳面に名を書き出した。
*
七月四日、聚楽第の小姓が三人。
*
七月五日、御咄衆が一人。歌の会で二度、顔を見た男である。
*
七月六日、若江の城主。
*
七月七日、京の茶人が二人。
*
(……何をしてるんだ、俺は)
書いても、誰も助からない。
それでも、書いた。
拾うて、名を書け。
四年前、縄目の男に言われた言葉である。
*
七月八日。
関白は伏見へ下ったが、太閤には会えなかった。
そのまま、高野山へ入った。
俺は、京の宿にいた。
何もしなかった。
何もできなかった、と書きたいところだが、それは嘘だ。
できることは、あった。
――太閤の前へ出て、口を開くことだ。
それをしなかった。
*
七月十日、伏見城から使いが来た。
太閤は、書院にいた。
文机の上に、紙が積んであった。
一枚も見ていない様子だった。
「秀定」
「はっ」
「高野へ参れ」
(――来た)
「検使にございますか」
「うむ」
それだけである。
何をせよとは、言われなかった。
言われなくても、分かる。
検使が高野へ行く用は、一つしかない。
(――ここだ)
四十年、俺は上から降ってくるものを全部受けてきた。
工期の短縮も、追加工事も、人員の引き抜きも。
受けて、なんとかしてきた。
だが、これは違う。
(庇えば、終わる)
一言でいい。
「あまりにご無体にございます」でも「今一度お調べを」でもいい。
言えば、俺は関白に与する者になる。
そうなれば、伊豆も相模も駿河も甲斐も消える。
家来が四百二十人、路頭に迷う。
春姫と嶋子が、どこへ行くのか俺は知らない。
それだけではない。
(……八月二日に、俺は動けなくなる)
俺は、知っている。
関白の妻子は、三条河原で斬られる。
その中に、出羽から出てきたばかりの、十五の娘がいる。
まだ関白に会ってもいない娘だ。
今日ここで正しいことを言えば、八月二日、俺には何も残らない。
石高も、口もきけぬ立場も、太閤の御前に出る資格も。
(――一人も救えなくなる)
喉が、動いた。
言葉が、そこまで来ていた。
「畏れながら」の四文字である。
四十年、俺はその四文字を何百回も言ってきた。
施主にも、元請けにも、役所にも。
言えば、話が一日止まる。止まれば、考える時間ができる。
――そうやって、俺は現場をいくつも救ってきた。
(……言うな)
(言えば、八月二日が消える)
俺は、息を吸った。
吸って、止めた。
喉の動きが、収まった。
俺は、額を畳につけた。
「――畏まりましてございます」
それだけ言った。
一言も、余計なことを言わなかった。
沈黙が、長かった。
やがて、太閤が言った。
「秀定」
「はっ」
「そなた、秀次に会うたことがあるな」
(――やっぱりだ)
この人は、知っている。
知っていて、聞いている。
ここで「軍役の割り当ての話を少し」と言えば、たぶん通る。
通るが、この人には見える。
四十年、俺は嘘が下手だと言われ続けてきた。
徳川の大納言にも、うちの家来にも、妻にも言われた。
(――言え)
「三迫の陣にて、一度」
俺は、顔を上げずに言った。
「本陣に押しかけ、畜生の所業にございます、と申し上げました」
書院が、静まった。
どこかで、蝉が鳴いていた。
「……それで」
太閤が言った。
「そなたは、なぜ生きておる」
「関白殿下が、無かったことにする、と仰せられました」
(――言った)
言ってしまった。
これで、太閤は「秀次が羽柴秀定を庇った」ことを、口から聞いた。
太閤は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「知っておったわ」
(……)
「福原からも、池田からも、上がっておる」
(――報告されてたのか)
(三年半、寝かせてあったのか)
太閤が、初めてこちらを見た。
「秀定。……なぜ、そなたを検使にすると思う」
俺は、答えられなかった。
答えは、分かっていた。
――借りがあるからだ。
命を助けられた男に、その相手の死を見届けさせる。
見届けて、帳面に書かせる。
そうすれば、借りは消える。
消えたあと、その男の中には、太閤しか残らない。
(……踏み絵だ)
前世で読んだ。
役人が絵を置いて、踏め、と言う。
踏んだ者は生きて帰る。
帰って、そのあと五十年、自分の足の裏を見て暮らす。
「――分かりませぬ」
俺は、そう答えた。
「某には、太閤殿下のお考えは、量りかねまする」
太閤が、鼻から息を出した。
「……ふん」
「分かっておる顔じゃ」
俺は、額を畳につけたままでいた。
「行け」
伏見を出て、宿へ戻る前に、俺は高吉を呼んだ。
「家中を、伊豆へ帰せ」
高吉の顔が、止まった。
「……殿」
「京に残すのは、十人でよい。あとは今日のうちに発たせろ」
「――殿は」
「高野へ行く」
高吉は、動かなかった。
この男は、俺より五つ下で、筆頭家老で、十一の歳から俺の下にいる。
「殿。……某は、残りまする」
「帰れ」
「帰りませぬ」
俺は、初めて声を荒らげかけて、やめた。
(……こいつを怒鳴っても、動かん)
「――なら、聞け」
俺は言った。
「俺が高野から戻らぬときは、伊豆へ帰って、春姫の下知を受けよ」
「田を焼くな。人を逃がすな。……帳面を、渡せ」
「誰にでございますか」
「次に入る者にだ」
高吉が、唇を噛んだ。
「引き継ぎのきれいな家は、潰されぬ」
俺は言った。
「――越前の堀の家に、そう申し上げた。うちも、同じだ」
*
廊下で、福島正則に会った。
この人も、検使である。
「――市松兄」
「おう」
それきり、二人とも黙った。
やがて、正則が言った。
「……お前も、か」
「はい」
「あの人は、人選が上手すぎる」
市松兄は、太閤の小姓から出た人である。
関白は、その太閤の甥である。
この人にも、たぶん、借りがある。
「明日、発つ。……雨じゃな」
空は、白かった。
*
その夜、宿で一人になった。
俺は、吐かなかった。
泣きもしなかった。
四十年、そういう身体になっている。
代わりに、帳面を開いた。
新しい頁の右端に、一行だけ書いた。
*
――八月二日。
(……ここが、期日だ)
工期は、動かせない。
日付が動かないなら、逆から引く。
蒲生飛騨守様のときに、俺はそうした。
そして、春姫は間に合った。
(――今度も、同じだ)
八月二日に何かを動かすには、その日までに何が要るか。
太閤の前へ出る資格。
話を通す順番。
書付を書ける手。
そして――誰か、口を利いてくれる人。
俺は、書き出した。
一、御前へ出る筋。北政所様。……叔母上である。
一、順番。徳川大納言様に、去年教わった。
一、書き様。大谷刑部様に、五年前に習った。
一、名分。……これは、当日までに拵える。
書きながら、手が震えていた。
(――震えてるのは、怖いからじゃない)
(間に合わないかもしれないからだ)
書き終えてから、伊豆へ文を書いた。
――京は暑い。息災である。
――高野へ、お使いに参る。十日ほどで戻る。
嘘は、書かなかった。
ただ、本当のことも、一つも書かなかった。
隠し事はいたしませぬ、と、五年前にあの娘に言った。
(……破ったな、俺)
(帰ったら、全部話す)
(帰れたら、だが)
三年半前、三迫の陣で、あの人はこう聞いた。
――いつか、わしが同じ目に遭うたら。
――そなたは、どうする。
俺は、こう答えた。
――間に合うとは、申し上げられませぬ。
(……間に合わない)
関白には、間に合わない。
それは、もう決まっている。
(――なら、その先だ)
*
翌朝、雨が降った。
俺は、馬に乗った。
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