ブラック土木の現場監督が戦国時代に転生したら、太閤秀吉に気に入られて徳川家康の親友になりました(旧タイトル:トシサダ戦国浪漫奇譚)
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第二部 名護屋在陣と秀次事件 ——「三条河原の駒姫」
第三十九話 律儀者
徳川家康は、灯を落とさなかった。
膳を下げさせ、盃も片づけさせた。残したのは行灯が一つと、薬研が一つである。
小半刻ほどして、幕の外で低い声がした。
「――弥八郎にございます」
「入れ」
本多正信が入ってきた。五十を少し越えた男で、痩せていて、いつも寒そうな顔をしている。家康の前に座ると、無駄のない所作で手をついた。
「聞いておったか」
「……幕は、薄うございまする」
家康は、鼻から息を出した。
「で。どう見た」
*
「――よく、できておりまする」
正信は言った。褒めている声ではなかった。
「二年前まで、五百石の小姓にございました。それが、いまは十五万石。……速うございます」
「速いのは、太閤殿下の癖じゃ」
「速いのは結構にございます。それより、崩れておらぬのが気になりまする」
家康は黙って先を促した。
「あの家は、陣から病人が出ませぬ。軍法は厳しく、それでいて牢人がよく居つきまする。家中への知行を薄うして、蔵入りを厚く残しております。……今宵は、他家の陣夫と水主の名まで数えておると申しておりました」
「二万二千四百十一人、と申した」
「――数まで、諳んじておりました」
正信は、そこで少しだけ間を置いた。
「もう一つ、腑に落ちぬことがございます」
「申せ」
「あの家に、佐田という勘定方がおりまする。豊前の城井の生き残りにございます」
家康の目が、わずかに動いた。
「城井は、黒田の父子が酒宴の席で討ち果たしましてございます」
「うむ」
「その男を、羽柴伊豆侍従は名護屋へ着いた三日目に、城の普請場から港の荷方へ移しました。……黒田の陣から、いちばん遠い持ち場にございます」
家康は、何も言わなかった。
「触れれば必ず血の出るものを、触れる前に離しております。しかも表向きは『港の荷がいちばん詰まっておるゆえ、いちばんできる者を置く』と申したそうにございます」
「……理屈が、通っておるな」
「通りすぎておりまする」
正信は、そこで少しだけ間を置いた。
「殿。……十八にございますぞ」
*
「隙が、ございませぬ」
正信は言った。
「隙のない十八というものは、この世におりませぬ。おるとすれば、それは誰ぞが仕込んだ者にございます」
「――目付か」
「はい」
誰かがあの若者を作り、徳川の隣に置いた。正信の言いたいことは、それだった。
「太閤殿下は、関東に二百五十万石をお置きになりました。置いた以上、見張りをつけられぬはずがございませぬ」
「伊豆と、相模の西と、駿河の河東か」
「箱根の両側にございます。あれを一人の手に集めた御沙汰は、どう読んでも当家への当てつけかと」
「……弥八郎。あの小僧は、箱根で何をしておる」
「――道を、直しておりまする」
「うむ」
「足柄の峠道と、湯本から先の山道を、去年の冬から人を入れて直しております。橋も、三つ架け替えたと聞きまする」
家康は、そこで初めて笑った。
「攻めてくる者はな、弥八郎。道を直さぬ」
「……は」
「攻める者は、こちらの道を細いままにしておく。細ければ、こちらの兵が出て来られぬゆえな」
正信の口が、閉じた。
「あれは、荷を通す気じゃ。荷を通す気の者が、荷の通る道を、自分の銭で広げておるだけじゃ」
家康は、しばらく行灯の芯を見ていた。
「――弥八郎」
「はっ」
「あれはな」
男は言った。
「律儀者じゃ」
*
正信は、返事をしなかった。
「六つで岡崎を出された」
家康は言った。
「織田に売られて、今川に引き取られて、気づいたら十九になっておった」
「……存じております」
「他人の家におる子はな、弥八郎。三つのことを覚える」
家康は指を折らなかった。ただ、順に言った。
「一つ。人の顔色を読む。読めねば、飯が減る」
「二つ。揉め事は、起こる前に片づける。起きてしまえば、悪いのは必ず預かられておる側じゃ」
「三つ。――礼を言われる前に、こちらから礼を言う」
行灯が、一度、揺れた。
「あの小僧はな。わしが徳利に手を伸ばしたら、わしより先に取りおった」
「……はい」
「気を利かせたのではない。手が、先に動いたのじゃ」
家康は、自分の右手を見ていた。
「わしも、そうであった」
*
「――ならばこそ、危のうございまする」
正信の声は、変わらなかった。
「そのように育った者は、主を選びませぬ。誰の下でも、同じ働きをいたします。太閤殿下の下でも、当家の下でも」
「その通りじゃ」
「では」
「じゃが、あれは家を選ぶ」
家康は言った。
「主は選ばぬ。家は選ぶ」
「……家、と申されますと」
「あれが守っておるのは、太閤でも、わしでもない。――自分の家じゃ。女房と、子と、家来と、田におる者。それだけじゃ」
正信の眉が、わずかに動いた。
「それだけの男が、なぜ他家の陣夫の名を数えまする」
「数えねば、減っても分からぬからじゃ」
家康は、そう言って少し笑った。
「あれは、他家の陣まで自分の受け持ちと思うておる。悪い癖じゃ。……あれで、身を削る」
*
正信は、しばらく黙っていた。
「殿は、若君を残されました」
「うむ」
「わざと、席を外されましたな」
「……見ておったか」
「幕は、薄うございまする」
家康は答えなかった。
「――人質に、ございますか」
正信は、そう聞いた。
家康は、初めてこちらを見た。
「逆じゃ」
「……逆」
「預けたのじゃ」
*
「弥八郎。わしは、あと何年生きる」
「……縁起でもございませぬ」
「答えよ」
「――存じませぬ」
「わしも知らぬ」
家康は、薬研に手を伸ばした。乾いた音が、幕の中に響いた。
「上の子は、戦が強い。強い者は、戦が終われば要らぬ」
薬研が、ごり、と鳴った。
「下の子は、弱い。弱い者が家を継げば、家来に食われる」
「……」
「食われぬためには、家来より、よう知っておらねばならぬ。……何をじゃと思う、弥八郎」
「軍法に、ございましょうか」
「――飯と、道と、厠じゃ」
正信の口が、わずかに開いた。
「あの小僧が、今宵、倅にそれを申した。倅は、目を丸うして聞いておった」
家康は、薬研を回し続けた。
「わしは、それを五十年かけて自分で覚えた。……教えてくれる者は、おらなんだ」
*
「――写させよ」
家康は言った。
「あの小僧が置いていった帳面じゃ。倅に、手で写させよ。読ませるだけでは、身につかぬ」
「……手で、でございますか」
「手じゃ。字が汚うても構わぬ。……あれの字も、汚かった」
正信は頭を下げた。
「もう一つ、伺うてもよろしゅうございますか」
「申せ」
「殿は、なぜ、あの者をそこまで買われまする」
家康は、薬研を止めた。
「……昔、貸しを作られた」
「貸し」
「うむ」
「どのような」
「言わぬ」
正信は、それ以上聞かなかった。この男の美点である。
*
「弥八郎」
「はっ」
「世間は、わしのことを何と申す」
正信は、少し考えてから答えた。
「――律儀者、と」
「そうじゃ」
家康は、笑わなかった。
「あれはな、褒め言葉ではない」
「……」
「使いやすい、という意味じゃ。頼めば断らぬ。押しつけても文句を言わぬ。腹を立てても顔に出さぬ。……そういう男を、世間は律儀者と呼ぶ」
行灯の油が、少し減っていた。
「わしは、それで五十年生きた。生きたが」
家康は、自分の腹のあたりに手を置いた。
「――ここを、壊した」
*
「あの小僧は、まだ十八じゃ」
家康は言った。
「今日、初めて腹が痛むと申した。二年前に同じことを聞いたときは、大事ないと申しおった」
「……二年、かかりましたか」
「二年かかった」
家康は、薬研の粉を紙に落とした。
「ああいう者はな、弥八郎。誰かが『もう十分じゃ』と言うてやらねば、死ぬまで止まらぬ」
「殿が、お言いになりますか」
「わしが言うても、あれは信じぬ」
男は、紙を折った。
「……あれが信じるとすれば、あれ自身が育てた者の言葉じゃ」
正信は、そこで初めて、はっきりと分かった顔をした。
「――若君に、ございますか」
「二十年、かかるかもしれぬ」
家康は言った。
「かかっても構わぬ。……わしが間に合わぬだけじゃ」
*
正信が下がったあと、家康はしばらく一人でいた。
折った紙を、文机の隅に置いた。次に会うたときに渡す分である。
「――律儀者、か」
誰に言うでもなく、そう言った。
名護屋の丘は、静かだった。海の向こうでは、十五万が北へ向かって進んでいる。
徳川の陣の灯は、明け方まで消えなかった。
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