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ブラック土木の現場監督が戦国時代に転生したら、太閤秀吉に気に入られて徳川家康の親友になりました(旧タイトル:トシサダ戦国浪漫奇譚)

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第二部 名護屋在陣と秀次事件 ——「三条河原の駒姫」
  第三十八話 渡らざる者たち

 文禄元年、六月。
 名護屋の丘には、二十万がいた。
 そのうち、海を渡ったのが十五万ほどである。
 残りは、渡らない。
 俺は、帳面を二冊に分けていた。
 ――渡る者。
 ――渡らざる者。
 分けたのは、飯の量が違うからだ。渡る者の米は船に積み、渡らざる者の米はこの丘で食う。
 (……そう思って、分けた)
 (分けてみて、気づいたことがある)
 渡らざる者の帳面は、名前が偏っていた。
 ――徳川大納言家康。二百五十万石。
 ――前田大納言利家。
 ――伊達侍従政宗。
 (……関東と、北陸と、奥州だ)
 つい去年まで戦をしていた土地の主が、そっくり残っている。
 (渡らせぬのか)
 (いや。……渡すと、留守が危ないのか)
 どちらにしても、この人たちは「置かれている」。
 そして、その帳面には、俺の名もあった。
 ――羽柴伊豆侍従秀定。十五万石。
 (俺は、なぜ置かれた)
 理由は、たぶん、簡単である。俺が、飯を数える係だからだ。

          *

 六月の初めの夕方に、徳川の陣から使いが来た。
「大納言様が、お呼びにございます」
 高吉が、眉を寄せた。
「殿。……お一人で参られますか」
「行く」
 (二百五十万石に呼ばれて断れる十八がいたら、俺が見てみたい)
 徳川の陣は、質素だった。
 (……うちより地味だぞ、ここ)
 陣幕の中に、家康が一人でいた。膳が、二つ出ていた。
「隣人が、同じ丘に二月もおって、一度も顔を見せぬ」
 家康は言った。
「――どういう料簡じゃ」
「……面目次第もございませぬ」
「よい。座れ」
 家康が徳利に手を伸ばしたので、俺は慌てて、それより先に取った。
「そなたがやると、こぼれるであろう」
 (――覚えてるのか、この人)
 韮山の陣で、俺は白湯をこぼした。二年前である。
 家康は、俺の膳を指した。
「そなたには、これじゃ」
 ――土瓶が、置いてあった。
 (……用意してある)
「あのときの湯は、うまかった」
「……恐れ入ります」
「黒田に、道を引かせたそうじゃな」
「……お耳が早うございます」
「城下が静かじゃ。荷が止まらぬ。……気づかぬ者はおらぬ」
 家康は、盃を舐めた。
「厠も、動かさせたと聞いた。陣の格が下がる、と申した者がおったろう」
「……三軒、動きませなんだ」
「その三軒は」
「夏に、病人が出ましてございます」
 家康は、しばらく黙っていた。
「……そういうとき、そなたはどうする」
「どうも、いたしませぬ」
「怒らぬのか」
「怒っても、病人は治りませぬゆえ」
 (腹は立ちます。ものすごく、立ちます)
「――ただ、次の陣割りで、その三軒を水の上に置きました」
 家康の喉が、低く鳴った。
「……やり方が、悪いのう」
「は」
「褒めておる」
 家康が、盃を膳に置いた。
「羽柴殿。……そなた、なぜ渡らぬ」
 (――来た)
「某は、飯の係にございますゆえ」
「そう申せと言われたか」
「――いえ」
「では、なぜじゃ」
 (渡りたくないからです、と言えるか)
 (言えるわけが、ない)
「渡っても、某には何もできませぬ。……某は、槍が弱うございます」
「それは、答えになっておらぬ」
 家康は、こちらを見ていた。目が、笑っていなかった。
 俺は、腹を決めた。
「渡れば、帰る者を数える者が、こちらにいなくなりまする」
 家康の手が、止まった。
「……数えておるのか」
「はっ」
「何人じゃ」
「五月の晦日で、二万二千四百十一人にございます」
「そなたの家中では、あるまい」
「他家の陣夫と、水主の分にございます」
「……なぜ、他家の者を数える」
「――数えねば、減っても分かりませぬゆえ」
 家康は、長いこと黙っていた。
 やがて、盃を置いた。
「……わしも、渡ると申し上げた」
「――は」
「太閤殿下に、三度な。……三度とも、お許しにならなんだ」
「渡らせぬ、というのはな。信じておらぬ、ということでもあるし、要る、ということでもある」
「――どちらか、分からぬ。分からぬままで、丘におる」
 (……この人でも、そうなのか)
「羽柴殿。腹は」
 (……来た)
「――痛みまする」
 家康が、顔を上げた。
「二年前、同じことをお尋ねいただきましたときは、大事ないと申し上げました」
「覚えておる。嘘が下手じゃと申した」
「……はい」
「今日は、正直じゃな」
「――嘘が下手なのは、直りませなんだゆえ」
 家康が、笑った。
 それから立ち上がって、後ろの櫃から小さな紙包みを出し、投げて寄越した。
「やる」
「……これは」
「万病円じゃ。――わしが、挽いた」
 (……天下の大納言が、自分で薬を挽いてる)
 (……この人、趣味だ)
「一日に三粒。酒で飲むな。……苦いぞ」
 家康が、手を打った。
「入れ」
 幕が上がって、少年が入ってきた。
 背が伸びかけたところで止まっている。指の先まで動かさない立ち方をしていた。
 (……見たことがあるぞ、この顔)
 (社長の息子が、初めて現場へ挨拶に来た日の顔だ)
「羽柴伊豆侍従殿じゃ。挨拶せい」
 少年は、畳に手をついた。
「――徳川秀忠にございます」
 声が、ほんの少し、裏返った。
 (……徳川、秀忠)
 俺は、危うく湯呑みを落とすところだった。
 (この子が)
 (二代目だ)
 (……いま声が裏返ったのを、この子は一生気にするやつだ)
 俺は、丁寧に礼を返した。相手が十三でも、徳川の子である。
「羽柴秀定にございます。……以後、お見知りおきくださいませ」
 家康が、立ち上がった。
「わしは、前田殿のところへ行ってくる」
 (――え)
「話をしておれ」
 幕が、下りた。
 (……置いていかれた)
 (十三歳と、二人きりだ)
 秀忠は、何も言わなかった。俺も、急かさなかった。
 (この手の子は、急かすと固まる)
 しばらく、波の音だけがしていた。
 やがて、少年が絞り出すように言った。
「……羽柴殿は、なぜ、厠の話をなさるのですか」
 (――そこか)
「お聞きになりましたか」
「父上が、笑うておられました。……羽柴の陣は、厠から作る、と」
 俺は、真面目に答えた。
「陣で人が死にますのは、槍ではございませぬ」
「……は」
「腹にございます」
「腹」
「二十万が集まれば、一日に糞が出まする。それが水に混じれば、人が死にまする。……戦の前に、死にまする」
 秀忠の目が、丸くなった。
「小田原では、それで減りました。この丘でも、減りかけましてございます」
「……父上は、そのようなことを、教えてくださいませぬ」
 (――出た)
「大納言様は、教え方をご存じないのだと存じます」
「……え」
「あの方は、ご自分で覚えられた方にございます。教わっておられぬゆえ、教え方をご存じない。……それだけにございます」
 秀忠は、うつむいた。
「……某には、兄がおります」
 (結城秀康。……俺と、同い年か)
「兄上は、戦がお強うございます。……某は、弱うございます」
 (……ああ)
 (この子、比べられて育ってるな)
「――若君様」
 俺は言った。
「戦の強い者は、この丘に幾らでもおります」
 俺は、幕の外を指した。
「そこに、二十万おりました。そのうち十五万が、海を渡りました」
「……はい」
「その十五万に、明日、飯を食わせられる者は、何人おりましょうか」
 秀忠は、答えなかった。
「……何人でございますか」
「某の見るところ、五人おりませぬ」
 秀忠が、顔を上げた。
「戦は、始めるより、終わらせる方が難しゅうございます。終わったあとは、もっと難しゅうございます」
「田を戻し、道を通し、飯を配り、人を数える。――それができる者が、要りまする」
「そして、それは、教わらねば身につきませぬ」
 幕の中が、静かになった。
 やがて、小さな声がした。
「……教えて、くださいますか」
 (……あ)
 (これ、断れないやつだ)
 (いや。――断る気も、ない)
「はっ」
 俺は、懐から帳面を出した。綴じ糸が緩んで、角の丸くなったやつである。
「これは」
「水汲み場の帳面にございます」
「……水」
「二十四箇所ございます。どこに何人並ぶか、朝と夕でどう変わるか。――三月分、ございます」
 秀忠が、めくった。
「……字が、汚うございます」
 (言うな)
「――申し訳ございませぬ。現場で書きますと、こうなりまする」
 秀忠が、ふ、と笑った。
 初めて、十三の顔になった。
 幕が上がって、家康が戻ってきた。
 帳面を挟んでいる二人を見て、足を止めた。
 秀忠が、慌てて背筋を伸ばした。
「……よい。続けよ」
 家康は元の場所に座って、あとは何も言わずに盃を舐めていた。

          *

 四半刻ほどして、秀忠が下がった。幕の前で、深く礼をした。
「――また、お教えくださいますか」
「――いつでも」
 幕が下りると、家康は、しばらく黙っていた。
「……あれは、二番目じゃ」
「はっ」
「兄がおる。あれは、戦が強い」
「伺いましてございます」
「二番目の子はな」
 家康は、盃の中を見ていた。
「家を継がぬと思うて、育つ」
「……はい」
「継がぬと思うて育った者が、継ぐ。――そのとき、何もできぬ」
 (――待て)
 (この人、いま、何を言った)
 (……いや)
 (俺は、知っている)
 (継ぐのは、あの子だ)
 (この人がこれから何年もかけて決めることの答えを、俺は先に知っている)
 (言えるわけが、ない)
 家康は、こちらを見なかった。
「羽柴殿。――あれを、見てやってくれ」
 (……これは、頼みじゃない)
 (予定表だ)
 俺は、頭を下げた。
「某は、隣人にございます」
 家康が、少しだけ笑った。
「――そうじゃ。隣人であろう」
 陣を出ると、夜になっていた。潮の匂いがした。
 高吉が、松明を持って待っていた。
「殿。……何を、話されました」
「厠と、糞と、水の話だ」
「……大納言様と、でございますか」
「ああ」
 高吉は、しばらく黙って歩いてから、言った。
「……殿らしゅうございます」
 丘に立つと、海が黒かった。
 懐に、二冊の帳面がある。渡る者と、渡らざる者。
 (渡った者は、いずれ帰ってくる)
 (帰ってきたとき、迎える者が要る)
 (迎える側にいる者を、俺は「渡らざる者」と書いた)
 (……書き直そう)
 陣屋に戻って、俺は表紙を書き換えた。

          *

 ――待つ者。
 (それでいい。待つのが、俺の仕事だ)
 薬を、三粒飲んだ。
 (……苦い)
 (本当に苦い。この人、嘘はつかんな)
 振り返ると、徳川の陣の灯が、まだ消えていなかった。
 
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