ブラック土木の現場監督が戦国時代に転生したら、太閤秀吉に気に入られて徳川家康の親友になりました(旧タイトル:トシサダ戦国浪漫奇譚)
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第一部 小田原征伐と奥州仕置 ——「九戸城のトラウマ」
第二十六話 喜連川
八月の末に、俺は喜連川へ入った。
関白の本隊は宇都宮で分かれて、京へ帰っていった。
俺は、伊豆へ帰る前に、片付けねばならない現場が一つあった。
――塩谷惟久の、旧領である。
村へ入って、俺は少し驚いた。
人がいた。
田に人が出ていて、稲が刈られる寸前まで実っていた。
(……逃げてないのか)
主が夜逃げして、家が潰れて、次の領主が誰かも分からない土地である。
普通なら、村ごと山へ逃げている。
街道の辻に、板が立っていた。
――乱妨狼藉、堅く停止のこと。
――逃散の百姓は速やかに立ち帰り、耕作に励むべきこと。
関白の朱印。
(……紙一枚だぞ、これ)
紙が一枚、辻に立っているだけで、二千人が畑に留まっている。
(治部少輔様。……あんた、やっぱりすごいな)
俺は、その板に向かって、少しだけ頭を下げた。
*
検地は、九月に入ってすぐ始めた。
帳面はない。塩谷の検地帳も年貢の帳面も、一枚も残っていなかった。
だから、人に聞いた。
「――田の水は、どこから引いておる」
俺は、村の古老を集めて、それを一番先に聞いた。
男たちは、顔を見合わせていた。
新しい領主が最初に聞くのは、たいてい「去年の年貢はいくらだ」である。
「……堰は、上の川から」
一番年嵩の男が、恐る恐る言った。
「そのあと、どこで分かれる。どの村が先に取る。夏の少ない年、どこが先に枯れる」
男の目が、変わった。
(――そうだよな)
水の順番は、村の格の順番だ。
これを間違えて竿を入れると、翌年、村と村が石を投げ合うことになる。
*
俺は、その日から三日、田を歩いた。
畦の直り方を見た。水口の据わりを見た。
去年の稲株の残り方を見れば、その田がどれだけ実ったかは、だいたい分かる。
(現場を見ずに図面を引くやつは、必ずやり直しになる)
*
竿を入れたのは、四日目からだった。
京枡と、折尺。奉行は佐田新九郎。
竿取りには、甲州で検地を仕込まれた旧武田の連中を回した。
根来あがりの鉄砲衆が、村の入口に立った。
この連中は、俺の法度を知っている。
――村から一物でも取れば、首が飛ぶ。
*
十日で、村々の帳面ができた。
倉ヶ崎の城は、その間に接収した。
塩谷の家来が、まだ五十人ばかり居座っていた。
俺は、四百十六人で城を囲んで――
攻めなかった。
旗を立てて、飯を炊いた。
(韮山と、同じだ)
黒地に黄の五七桐が並び、その前に「鬼」の一文字が立った。
半日で、門が開いた。
(……戦う気は、最初からなかったんだな)
出てきた五十人は、痩せていた。
具足も揃っていない。半分は、鍬を持った方が似合う顔をしていた。
俺は、大手の前に床几を置かせて、そこに座った。
「去りたい者は、去れ」
俺は言った。
「追わぬ。三日分の米を渡す。……それを持って、好きなところへ行け」
ざわめきが起きた。
「残りたい者は、起請文を書け」
「今日より、足利国朝殿にお仕えすることになる。……足利の御家は、関白様が再興をお命じになった家だ」
俺は、そこで一度、言葉を切った。
「ただし、誰でも残せるわけではない」
「この一年、村から物を取った者。女に手を出した者。……その者は、残せぬ」
「隠しても分かる。村に聞くゆえ」
誰も、動かなかった。
やがて、白髪の老臣が一人、進み出て、平伏した。
「……羽柴様に、お伺い申し上げたきことがございます」
「申せ」
「なにゆえ、我らを斬られませぬ」
男は、地面に額をつけたまま言った。
「主が逐電し、城に居座った者どもにございます。斬られて当然の身にございます」
俺は、少し考えて、正直に答えた。
「斬れば、田を作る者が減る」
老臣が、顔を上げた。
「首を五十取っても、米は一粒も増えぬ。……それだけのことだ」
(本当のところは、もう一つある)
この五十人は、この土地の水路と、村の境と、去年の実りを知っている、ただ一つの生き残りだ。
帳面がない現場で、それを知っている人間を斬るというのは――
(唯一の図面を、燃やすようなものだ)
四十一人が残った。
九人が去った。そのうち三人は、村の聞き取りで名の出た者だった。
老臣が、去り際に一つだけ聞いた。
「殿は……惟久様は、いかがなりましょうか」
「知らぬ」
俺は答えた。
「探さぬ。……追えば、この土地がまた騒がしくなる」
老臣は、しばらく黙って、それから深く頭を下げた。
*
九月の半ば。
俺は、三千五百石を切り出した。
国朝に、地図を広げて見せた。
「――一つに、まとめてございます」
俺は、朱で囲った一帯を指した。
「良い田だけを選べば、同じ三千五百石でも、村があちこちに散らばりまする」
「散らばれば、代官が要る。使いが要る。年貢を運ぶ人足が要る。……取れ高は同じでも、手元に残るものが減りまする」
国朝は、地図を食い入るように見ていた。
「それと、もう一つ」
俺は、書付を出した。
「軍役の儀、関白様に上申いたしました」
「軍役……」
「三千五百石であれば、本来なら百人ほどの兵を養い、戦のたびに出さねばなりませぬ。……それを、大きく減じていただきまする」
国朝が、目を上げた。
「なにゆえ、そのようなことが」
「足利の御家は、兵を出す家ではございませぬ」
俺は言った。
「――血を、伝える家にございます」
国朝の唇が、震えた。
俺は、奉書紙を捧げた。
――下野国塩谷郡のうち、喜連川ほか、都合三千五百石。
――右、宛行い候。
白河で習った書き様の通りに書いた。
宛所は、足利国朝殿 人々御中。
国朝は、それを両手で受け取って、しばらく動かなかった。
それから、畳に置いて、額をつけた。
「……羽柴殿」
「はい」
「某には、お返しできるものが、何もございませぬ」
俺は、少し笑った。
「では、一つだけ」
「……なんなりと」
「――長生きしてくださいませ」
国朝が、顔を上げた。
「五十年、六十年、この城で退屈に暮らして、畳の上でお死にください」
俺は言った。
「それが、某への一番の返礼にございます」
――もう一通、書付があった。
古河公方の処分である。
――足利氏姫。古河城を退去のこと。
――鴻巣の御所と、その周り三百石を安堵。
(……三百石)
俺は、頭の中で数を並べた。
古河公方は、関東に百年続いた家である。
その家に残った、たった一人の跡取り娘に、三百石。
(家一軒と、番人の飯代だ)
潰してはいない。生かしてもいない。
――手元に、置いてある。
(……何に使う気だ、この人は)
俺は、絵図を広げ直した。
古河と、喜連川。
その間、十里ほどである。
関東の公方は、古河と小弓の二軒。百年、殺し合ってきた二軒だ。
その片方に、男子がいない。もう片方に、領地がなかった。
(――畳む気だ)
二軒を一軒にして、看板を一枚にする。
そして、その一枚を、徳川の懐に立てる。
三千五百石は、小弓公方を再興する代金ではない。
二軒を一軒に畳むための、頭金だ。
(……うますぎて、腹が立つ)
「国朝殿」
「はい」
「古河へ、ご挨拶の使いをお出しなされませ」
国朝の顔が、はっきりと曇った。
「……古河は、当家を認めておりませぬ」
「存じております」
「向こうの家来は、いまだに『公方は古河ただ一軒』と申しておりまする」
「――こちらの家来も、同じことを申しておりましょう」
国朝が、黙った。
使者は、その日のうちに立てさせた。
文面は、俺が書いた。角の立つ言葉を、一つ残らず削った。
*
返事は、十日で来た。
――御懇意、かたじけなく存じ候。
――なお、姫は古河を動き申さず候。
(……は)
もう一度読んだ。書き様は、非の打ちどころがない。
断りの言葉は、一つも入っていない。ただ、動かぬと書いてある。
(断ってない)
(断ってないのに、動かない)
四十年、俺はこの手の返事を読んできた。
「前向きに検討いたします」と、同じ形である。
書いた者は、嘘をついていない。ただ、動く気がないだけだ。
俺は、帳面に一行だけ書いた。
――古河。姫、動かず。
(……宿題だ)
(急ぐな。この手のものは、急いで壊すと二度と直らん)
城の外で、子供の声がした。
頼氏と、藤堂高吉である。
十一歳が二人、空堀の縁を全速力で走っていた。
「――走るな! 崩れるぞ、そこは!」
俺は、思わず怒鳴った。
二人が、同時に飛び上がって、同時に固まった。
(……あ)
(現場の声、出たな、今)
*
九月の末。
俺は、伊豆へ帰る算段をしていた。
三島の代官所へ人をやり、箱根の普請の帳面を取り寄せ、船をどこで押さえるかを新九郎と詰めていた。
(帰ったら、まず米蔵だ)
(春姫様に、この三月のことを、全部話さないといけない)
――そこへ、早馬が来た。
*
十月の、初めだった。
「奥州、石田治部少輔様よりの急使にございます!」
弥七が、書状を持って走り込んできた。
俺は、封を切った。
――葛西・大崎の旧臣、蜂起。
――木村伊勢守父子、佐沼の城に囲まれ候。
――近国の諸大名、速やかに兵を出し、これを救うべし。
俺は、書状を持ったまま、しばらく動かなかった。
(……来た)
(知ってた。十月だ。……予定通りだ)
予定通りに燃える現場ほど、腹の立つものはない。
言った。聞かれなかった。そして、燃えた。
(……いま「だから言ったのに」と言える相手は、この世に一人もいないんだよな)
俺は、書状を畳んだ。
「弥七」
「はっ」
「三百で行く。あとの百は喜連川に残す」
「奥州は、これから雪にございますぞ」
「だから、そこからだ」
俺は言った。
「綿入れ。足半ではなく、藁沓。塩、味噌、干飯。……薪を買う銭も持っていく」
「陣を張ってから探しても、その頃には村に何も残っておらぬ」
弥七が、にやりと笑った。
「――相変わらず、戦の話を一つもなさらぬ」
「凍えて死んだ兵は、槍を持てん」
(会津へ送った薪と味噌が、あそこで効いてくれればいいが)
*
出立の朝。
俺は、嶋子に会った。
城の広間で、国朝と頼氏も一緒だった。
「嶋子殿」
俺は、正直に言った。
「奥州へは、お連れできませぬ」
「戦にございます。それに、この冬の奥州は、人が凍えて死にまする」
「伊豆へお送りするにも、いま道中に人を割けませぬ。……三百を連れて北へ行かねばなりませぬゆえ」
俺は、頭を下げた。
「国朝殿の元で、春をお待ちいただけませぬか」
嶋子は、顔色一つ変えなかった。
「――畏まりました」
静かな声だった。
(……こういう時に、この人は不安な顔をしない)
(したことが、ないんだろうな)
俺は、国朝に向き直った。
「国朝殿。姉君を、お預けいたします」
「――お預かりいたします」
この十九歳は、背筋を伸ばして答えた。
(……いい顔をするようになったな)
半月前まで、声を裏返らせていた男である。
城と、田と、家来を持つと、人はこうなる。
馬に乗ろうとしたとき、後ろから声がした。
「秀定様」
振り返ると、嶋子が立っていた。
両手を、そっと前で合わせていた。
「――ご武運を、お祈り申し上げます」
俺は、一瞬、言葉に詰まった。
(……いや)
(なんで俺、いま、顔が熱いんだ)
四十年、俺を送り出した人間は、一人もいなかった。
朝の四時に起きて、暗い部屋で作業着を着て、誰にも何も言わずに出て行った。
「いってらっしゃい」も、なかった。
現場に着けば、待っているのは工程表と、遅れと、電話だ。
(……武運を祈られるって、こういう感じなのか)
俺は、咳払いを一つした。
礼を言うつもりだった。
だが、口から出たのは、別の言葉だった。
「――迎えに参ります」
「待っていてください」
嶋子の目が、大きくなった。
後ろで、誰かが息を呑んだ。
供の者が、一人残らず、こちらを向いていた。
国朝が、口を半分開けたまま固まっている。
(……あ)
――迎える。
その一語だけで、三百の背筋が伸びた。
(……そうか)
この世で「迎える」は、呼びつけることではない。
輿を仕立て、使者を立て、供をつけ、日のあるうちに、人の見ている道を通って、こちらから出向いて連れて来ることだ。
召し出すのではない。迎えるのだ。
蒲生の陣で、春姫様の輿の話を、俺は何度も聞かされた。
誰が使者に立ち、誰が輿脇につき、どの道を通るか。大人たちは、そればかり話していた。
(あれと同じ言葉を、俺はいま、この人に言ったのか)
(前世で「迎えに行く」と言えば、車を出して現場まで拾いに行くだけだった)
(ここでは、判を押すのと同じなんだ)
(……言い直すか)
(いや)
この人の亭主は、城と、家来と、田と、女房を置いて、夜のうちに出て行った。
その男が最後に何と言って出たのか、俺は知らない。
――守られなかったことだけは、知っている。
(言い直したら、二度目になる)
腹を決めた。
決めたら、あとは工程を切るだけである。
俺は、嶋子に向き直った。
「春に、輿を寄越しまする」
「供を付けまする。夜道は使いませぬ。……昼の、人の通る道を参ります」
嶋子の睫毛が、一度、震えた。
俺は、国朝を見た。
声を、少し張った。
その場の者、全員に聞かせるためである。
「国朝殿。春に、某の使いが参りまする」
「姉君は、罪人の妻ではござらぬ」
「――足利の姫として、伊豆へお迎えいたす」
国朝が、弾かれたように平伏した。
「――た、確かに、承りましてございます!」
(声、裏返ってるぞ)
(まあ、いい。聞いた者が多いほど、約束は固くなる)
嶋子は、深く、深く頭を下げた。
顔は、上げなかった。
「……『迎え』と、仰せになりました」
確かめる声だった。
聞き違いであってほしくない、という声だった。
「――申しました」
俺は、そう答えた。
言い直さなかった。
嶋子の肩が、一度だけ、大きく動いた。
「……お待ち、申し上げます」
声が、少しだけ揺れていた。
足元の土に、小さな染みが一つ落ちて、すぐに乾いた。
(……この人が顔色を変えたのを、俺は初めて見た)
俺がしたのは、たった一つである。
「迎えに行く」と、言った。それだけだ。
――それが、この人には、全部だったのだ。
(工期は、守る)
(俺は四十年、それだけで飯を食ってきた男だ)
俺は、馬を出した。
三百の背旗が、北へ向いた。
振り返らなかった。
(振り返ると、格好がつかん)
街道の空が、低かった。
北の山際に、灰色の雲が並んでいる。
――もう、雪の匂いがした。
*
十月。
奥州は、燃えていた。
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