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ああっ女神さまっ 森里愛鈴 ―天と地をつなぐ翼―

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20 セントパッド暴走事件

 午後の数学の授業。
 教室の空気に溶け込むのは、3D画像を映し出すメインディスプレイと、セントパッドが織りなす立体映像の光。
 半透明の数式やグラフが宙に浮かび、指先でなぞればすぐに形を変える。
 その心地よさが、教室の緊張を少し緩めていた。
――ただ、その映像の奥に、愛鈴だけが耳を澄ませてしまう“かすかな響き”が混じっていた。
 電子のざらつきに似て、けれどもっと生々しい、胸の奥をかすめるような震え。
 クラスの誰一人として気づいてはいない。気づけるのは自分だけだ――愛鈴はそう直感していた。
 次の瞬間。
 メインディスプレイがぱちりと瞬き、映し出されていた数式がざらついたノイズに飲み込まれる。
 幾何学模様のように崩れた記号が空間に浮かび上がり、数秒遅れて教室中のセントパッドが一斉に悲鳴のような電子音を立てた。
「うわっ、何これ!」
「停電? いや電気は点いてるし!」
「データ飛んだらマジで最悪なんだけど!」
 生徒たちの声が次々に上がり、教室は一気にざわめきに包まれる。
 教師も慌てて職員用の端末を操作するが、画面は真っ白にフリーズしたまま。
 数十台のセントパッドが同時に暴走する光景は、ただの「バグ」と呼ぶにはあまりにも異様だった。
 ユズリハが机越しに身を寄せ、小声で囁いた。
「ちょっと、鈴。これってまさか」
 愛鈴は唇をかすかに噛み、乾いた笑みを浮かべる。
「あー……たぶん、私だ」
 机の下で、彼女は自分のセントパッドを起動させた。
〈C2、状況把握。ノイズの逆流を止めて〉
 心の中で指示を送る。
……返事がない。
 端末の片隅に浮かぶはずの小さなホログラムは現れなかった。
「――え?」
 愛鈴の胸に冷たいものが走る。C2が沈黙している。
 ノイズはなおも拡大し、宙に浮かぶホログラムは乱舞する無数の断片に分解され、
 それらがぶつかり合うたびに、耳障りな電子音が響いた。
 ざわめきは騒然へと変わり、生徒の誰かが悲鳴を上げる。
(……もう、私しかいない)
 愛鈴は息を深く吸い込み、机の下で指先を握る。
 胸の奥で渦を巻く神力が、皮膚の内側からこじ開けようと暴れていた。
 強く押さえつければ暴発する。けれど流れを撫でるように扱えば、形は変えられる――母から教わった制御法が、かすかな記憶の底からよみがえる。
(ノイズは心臓の拍動とリンクしてる……なら、呼吸を合わせればいい)
 ひとつ、ふたつ。
 鼓動を数えながら呼吸を整える。
 吸うたびにノイズがわずかに弱まり、吐くたびに光の粒子が静まっていく。
 額に汗がにじむ。背中に冷たい感触が走る。
 けれど愛鈴は表情を崩さず、机の下で必死に力を撫でるように抑え込み続けた。
 数秒後。
 メインディスプレイの光が徐々に安定し、崩れた数式が再び形を取り戻す。
 セントパッドのざらつきも次第に消え、やがて音は完全に止んだ。
「……直った?」
「やっぱサーバー側のトラブルだったんじゃね?」
「ったく、焦らせんなよー」
 安堵の笑いがあちこちから漏れる。
 生徒たちはすぐに「バグ」として片づけ、何事もなかったかのように授業へと戻っていった。
 ただ――ユリとユズリハの視線だけは違っていた。

 放課後。
 夕焼けに染まる廊下を歩く愛鈴に、ユリが静かに並んだ。
 人通りの途切れたタイミングで、彼女は小さく声をかける。
「アイリ……さっきの、本当にただのバグ?」
 愛鈴は歩みを止め、目を伏せる。
 否定の言葉はいくつも浮かんだ。けれど、口に出たのは短く乾いた返事だった。
「……やっぱ、ユリには隠せないか」
「当たり前よ。何年一緒にいると思ってるの」
 ユリの声は優しかった。けれどその奥にある真剣さからは逃げられない。
「一時的なものでしょう」
 ユズリハが淡々と口を挟む。
「誰でも調子の悪い日はあるよ」
 アカネは軽く笑って肩をすくめた。
 愛鈴は胸の奥で、友人たちの何気ない一言一言に救われていた。
 秘密を抱えていても、こうして隣にいてくれる――それだけで心が少し軽くなるのだから。

 夜。
 家の灯りが落ち、境内の静けさが濃くなるころ。
 愛鈴は自室のベッドに腰を下ろし、セントパッドを膝に置いた。
 薄闇の中で画面が淡く点灯し、やがて空間に小さなホログラムがふわりと浮かび上がる。
「……C2。昼間、どうして応答してくれなかったの?」
 問いかけに、ホログラムの少女は一瞬ためらうようにまばたきした。
『申し訳ありません。高密度の干渉が発生しており、私の処理層が一時的に遮断されておりました』
「高密度の干渉……」
 愛鈴は額に手を当てる。
「じゃあ、やっぱり私のせいか」
『原因を断定するのは時期尚早です』
 C2はいつもの丁寧な声音で答える。だが、その響きはどこか固い。
 愛鈴はシーツに体を沈め、天井を見上げた。
 昼間のざわめきが、まだ耳の奥に残っている。
(普通でいたいだけなのに……どうして、こんなふうに)
 枕に顔を埋めた瞬間、ドアが小さく叩かれた。
「おーい、愛鈴。C2、ちゃんと戻った?」
 ひょいと顔をのぞかせたのはスクルド。
 片手にはドライバーと分解途中の機材。髪は少し乱れているが、表情は妙に楽しげだ。
「……うん。もう大丈夫」
「ならよし」
 スクルドはにやりと笑う。
「そんなの、思春期にはよくあることだって」
「女神の思春期って……普通と違うでしょ」
 愛鈴は苦笑まじりに返す。
「細けぇこと気にすんな。機械だって人間だって、バグるときゃバグるんだ」
 さらりとした軽口。
 それだけで、胸に張り詰めていたものが少し緩む。
「おやすみー」とだけ告げて、スクルドは去っていった。
 静けさが戻った部屋で、愛鈴は布団を引き寄せる。
 けれど、心のざわつきはまだ完全には収まらない。
 そのとき――廊下から低く柔らかな声が響いた。
「……起きてるか?」
 愛鈴は思わず顔を上げる。
「……お父さん?」
「無理に答えなくてもいい。ただ――困ったときは、一人で抱え込むな」
 短い言葉。不器用で、けれど温かくて。
 それはスクルドの軽口とはまるで違うのに、同じくらい心に染みてきた。
 愛鈴は布団の中で小さくうなずいた。
 返事は声に出さなくても、それで十分だと思えた。
 枕元でC2のホログラムが淡く揺れる。
『……やはり、ご両親の存在は、強力な安定化要因のようです』
「……うるさいな」
 愛鈴は苦笑し、目を閉じる。
 瞼の裏に残るノイズのざわめきは、まだ完全には消えていない。
 けれど――眠りに落ちるには、十分すぎるほどの温もりがそこにあった。 
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