ああっ女神さまっ 森里愛鈴 ―天と地をつなぐ翼―
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16-1 海と竜とバカンスと
―開幕の鐘は、蝉しぐれの合図で―
扇風機の音だけが、妙に大きく感じられた。教室というには広すぎるホールで、五百人近い生徒たちが一斉に椅子を軋ま せたのは、ちょうど壇上の学長が「では、もうひとつだけ」と言ったときだった。
──あれが三つ前から“最後の一つ”なんだけどな。
脳内で突っ込んだのは愛鈴だけではない。誰の表情にも、うっすらとした汗と疲労と、「あと何分で終わるのか」という共通の諦観が見えていた。外は夏の陽射しがじりじりと校舎を焼き、窓の向こうでは蝉たちが全力で鳴いている。もうすぐ夏休み。そんな希望の匂いが、逆にいまの拘束時間を倍に感じさせていた。
壇上の学長は、この時期恒例の「命の大切さ」から始まり、「メディアリテラシーの必要性」へと話を展開し、なぜか途中から「明治時代の教育制度」まで遡りはじめ──要約すれば、原稿用紙で3枚にまとまる話を、40分かけてゆっくりと、時に咳払いと水分補給を挟みつつ語っていた。
ようやく「以上をもって、夏季休暇前の講話を終わります」という言葉が出たとき、どこかの列から微かに拍手が起きかけたが、すぐに隣の誰かに止められたらしい。
講堂の扉が開かれ、真っ先に駆け出していったのは小等部の低学年たちだった。
「……死ぬかと思った」
そうつぶやいたアカネが、椅子にくたっともたれかかる。
「私のセントパッドが自動スリープに入りました」
ユリが苦笑いで、ひとつ息を吐いた。
「去年と、話の骨子同じだった気がする」
愛鈴の声はどこか脱力していて、ユズリハがその横で、うっすら笑った。
「ねえ、それ録音にして再生でよくない? わたしAI作れるよ」
「やめとけ」
隣で瑠璃が、首元の汗を拭いながら制した。「それやったら、また“人の心が~”とか言われるやつ」
ようやく解放された生徒たちは、ぞろぞろと列を成して教室へ戻っていく。
空調の効いた廊下に入ると、五人の少女たちはまるで別世界に来たように、同時にふうっと息を吐いた。
「でもさ、夏休みって……」
ユリが呟いた。「なんか、始まる感じするよね。いいことも、悪いことも」
愛鈴はその言葉に、一瞬だけ視線を遠くへやった。
──“始まる”。
その響きに、ふと、胸の奥がざわりと揺れる。
蝉の声が、鼓膜の奥でいつもより少しだけ不規則に跳ねた気がした。
「そういえば、みんな海行くよね?」
アカネが明るく話題を変える。
「遭難とかしないようにね~」
冗談めかして言ったその言葉が、ほんの少し、後になって意味を持つことになるとは、このとき誰も想像していなかった。
そのときはまだ──。
蝉の声が壁の向こうで、いっそう元気になっていた。
窓を少しだけ開けて、熱気とともに吹き込んでくる夏の匂い。汗と緑と、少し乾いたグラウンドの砂埃。その全部が「夏 休み間近だ」と、身体に直接ささやいてくる。
「じゃあ、これより終業式後のHRを始めます」
教卓の前に立ったのは愛鈴だった。副委員長という肩書きもあるが、それより「まとめ役が上手い」という理由で、こういうときの司会進行はたいてい彼女に任される。
「まず、先生のお話です。月岡先生、どうぞ」
軽く一礼して一歩引くと、前に出てきたのは少し頼りなさげな雰囲気の若い男性教師。着ているワイシャツが汗を吸って、うっすら背中に張りついていた。
「えっと、あー……はい、じゃあ、あの」
月岡先生は手元の紙を見てから、視線を何度か泳がせた。
「みなさん、夏休みは……うん、事故なく、健康に、ええ……」
やや頼りない口調に、クラスの空気がふわっと緩む。誰かが小さく吹き出し、誰かが机に突っ伏して笑いをこらえる。
「と、とにかく、生活リズムを崩さないように、そして、SNSの投稿には十分気をつけて……」
「先生、それ先週も言ってました」
ユリの突っ込みに、思わずどっと笑いが起きる。月岡先生は苦笑いを浮かべながら、それでもちゃんと最後まで話し切った。
「じゃあ、あとは成績表の配布ですね」
先生が手を振ると、教卓の上に積まれた封筒がひとりひとりへと配られていった。
「……あー、見たくない」
「先に謝っとこうかな、親に」
「わたし、数学が怪しい……」
教室のあちこちで悲鳴と笑いが混ざる。成績表を封筒から出すか出さないか、その逡巡にもそれぞれの性格が出ていた。
「見ないの?」
瑠璃が封筒を開けながらユズリハに尋ねると、ユズリハはちらと中身をのぞいて、
「うん。見なくても、まあ……だいたい分かるから」
と淡々と言った。
「うわ、それはそれで強い」
そんなやり取りの横で、愛鈴は自分の封筒を手にしながら、一瞬だけ心を落ち着けた。
──あの春、いろんなことが動き始めて、気づけばもう夏休み。
激動の数ヶ月だった。それでも、いまここで笑っていられる。
「よし、それでは、これでHRを終了します。夏休み、楽しんでください!」
ぱちぱち、と拍手が広がり、誰からともなく立ち上がって荷物をまとめ始める。
カーテンがふわりと揺れた。陽射しが、机の上で跳ねる。
音楽室からは、誰かが奏でるピアノの音がかすかに流れてきていた。
「行こうぜ、バカンス!」
アカネが元気よく叫ぶ。
「ちゃんと準備してね、泳げる格好で」
ユリが釘を刺す。
「遭難だけはやめてよね」
瑠璃が笑う。
「……そのときは、ちゃんと助けてあげる」
ユズリハが静かに言った。
愛鈴は、そのやりとりを聞きながら、ふと外を見た。
空は青い。信じられないくらい澄み切って、真っ直ぐだった。
でも、どこかで──その下に潜む、見えない“気配”のようなものが、胸の奥をかすめていた。
それでも、いまは笑っておこう。
もうすぐ、夏が始まる。
森里家・みんなのティールームにて
アイスティーのグラスに入った氷が、コツンと音を立てた。
夏の午後の陽射しが、障子越しにやわらかく差し込んでいる。
ウルドがスイカを切って去っていった後、残されたのは、父と娘のふたりだけ。
「……で、どうだった? 成績表」
対面のテーブルで新聞をたたんだ螢一が、自然な口調で切り出した。
「別に。悪くないよ」
愛鈴はそっけなく言いながらも、グラスの結露に指で文字を描いている。
「うん、それ見て言ってる」
螢一は新聞と入れ替わりに成績表の封筒を広げて、目を通す。
「確かに“悪くない”けど──本気、出してないよね?」
その一言に、指先が止まった。
愛鈴は少しだけ唇をすぼめ、視線を外す。
「だって……型にはまったテストじゃ、本気なんて出しようがないし」
「出しようがない、ねぇ……」
螢一はため息をつきながらも、どこか微笑ましそうに目を細める。
「うちは成果主義って、知ってるよね?」
「……う……」
愛鈴は、こめかみに手を当てた。
「確かに、それは否定できないけど……でもほら、成績、平均よりはいいし」
「それが逆に目立つんだよ。“力を持ってるのに、なんで中途半端なの?”っていう目で見られる」
螢一の言葉は穏やかだけど、鋭い。
「トップを取れとは言わない。ただ……自分の“手加減”が、誰かを不安にさせるってこと、忘れないでくれると嬉しいな」
しばし沈黙。
風鈴が、風に揺れて鳴った。
「……善処します」
愛鈴はグラスを持ち上げ、少し口をつける。
冷たい液体が喉を通っていく間、彼女の心の中で、何かが微かに形を変えていた。
──父は、ちゃんと見ている。
だからこそ、手を抜くとバレる。
だからこそ……。
「それにしても」
螢一がぽつりと呟く。「君、今回も体育だけ妙に高いね?」
「身体測定込みでしょ。仕方ないよ、計測のとき真剣になったから……」
「いや、跳び箱“人間離れしてた”ってコメントあるよ? 先生の手書きで」
「……う、そこまで読んだ?」
「読むよ、親だもの」
にやりと笑う螢一に、愛鈴はグラスの氷をカランと鳴らして顔を背けた。
愛鈴がグラスの氷をつついていると、奥の障子がそっと開いた。
「楽しそうね」
ほのかに甘い香りとともに、ベルダンディーが入ってくる。白いエプロン姿のまま、手には小さな皿──焼き立てのパウンドケーキが乗っていた。
「ふふっ、この娘、リンドと勝負できますからね」
やわらかく微笑みながら、愛鈴の隣にそっと腰を下ろす。
「ただ……もっと手加減を覚えないと、対人ではちょっと大変なことになります」
「え、なんかしたっけ」
愛鈴が素知らぬ顔をして聞き返すと、ベルダンディーは目を伏せて、少しだけ思い出し笑いをした。
「確か──ドッジボールのときでしたか。一球で三人、射止めたの。あれは驚きました」
「ああ……つい夢中になりまして」
愛鈴はおどけたように肩をすくめたが、頬にうっすら赤みが差していた。
「でも、当たった子たち全員、“すごい!”って言ってくれましたよ」
「それはね、“褒めてる”っていうより、“評価を下してる”っていう場合もあるのよ」
廊下から入ってきたのはウルドだった。
ワインレッドのタンクトップに、冷えたビールの缶──どうやら仕事上がりらしい。
「まあ、若さの特権かしら。力を余らせて弾けるなんて、いまだけの贅沢よ」
「贅沢……なのかな」
愛鈴は少しだけ目を伏せて、グラスの氷をひとつ口に含んだ。
冷たい感触が、熱を帯びた自分の芯を、ほんのわずかだけ鎮めていく。
「だけどね、愛鈴」
ベルダンディーが、その頬にそっと手を当てた。
「力を持つ者が、それを“使わないこと”を選ぶには、もっと大きな勇気がいるのよ」
言葉に詰まりかけて、愛鈴はそっと目を閉じた。
「……うん、知ってる。知ってるけど、まだそこまでは、ちゃんと、できない」
「うん、それでいい」
母はそれ以上、何も言わなかった。
隣で螢一が新聞を畳み、静かに椅子を引く。
その背中に向けて、ウルドが冗談まじりに声を投げた。
「それじゃあ、成果主義の大将──この子を海にでも連れてって、発散させてあげたら?」
「それ、賛成!」
愛鈴が即答した。
「賛成はやっ!」
螢一が思わず笑いながら振り返る。
そして、このときはまだ、誰も知らなかった。
その“海水浴”が、後にちょっとした怪異との接触点になることを──。
夕方のティールームに、レモネードと氷が並ぶ。
夏の空気は少しだけ湿り気を帯び、外ではヒグラシが早くも鳴き始めていた。
「で、行き先どうするの?」
アカネが地図アプリを広げながらテーブルに身を乗り出す。
「せっかくなら、海だけじゃなくて山も楽しみたいよね。せっかくの“バカンス”だし!」
「でも、盆休みは避けたい。人が多すぎるし、宿も混む」
ユズリハの声は冷静だったが、やる気は十分に感じられる。
「8月の第4週なら、少しは落ち着いてるはず。夏休みも終盤で、宿も狙いやすい」
「どこがいいかなぁ……」
ユリは自分のセントパッドで検索をかけながら、指をくるくる動かす。
「条件は、海と山が近いこと。なるべく自然がいっぱいで、人が少なめ」
「あと、ちょっとは冒険感も欲しい!」
瑠璃がにやっと笑って言った。「せっかくだし、“非日常”ってやつ?」
「……じゃあ、ここはどう?」
地図の画面を回してきたのは、愛鈴だった。
その名は──龍我浜。
「海もあるし、山もすぐそば。少し遠いけど、行く価値はあるよ。地元の神社も古くて、ちょっとした“伝説”もあるっぽい」
「りゅうがはま?」
アカネが音の響きを真似して口に出す。
「強そう。で、旅館とかあるの?」
「うん、小さな民宿ならいくつか。予約はわたしがまとめて取るよ」
ユズリハが軽やかに言って、セントパッドの画面を覗き込む。
「じゃあ、そこにしよ!」
ユリが手を叩く。「行こうよ、龍我浜!」
「大丈夫? 学生だけで、けっこう遠出になるよ?」
瑠璃が少しだけ心配そうに問いかけると、愛鈴がまっすぐ彼女を見る。
「……でも、それが、いいんじゃない? “誰かの管理下”じゃない、わたしたちだけの時間」
「それは……うん、確かにね」
「よし、じゃあ──」
愛鈴が手を差し出した。「龍我浜、五人で行きましょう」
ユズリハがその手を取り、アカネ、ユリ、瑠璃と続く。
五つの手が、パチンと一つに重なった。
「バカンスと、ちょっとだけ非日常と──」
「そして、たぶん怪異と!」
アカネの茶化しに、みんなが笑った。
そのときはまだ、笑っていられた。
“龍”の字を含むその浜が、彼女たちにとってどんな意味を持つのかを、誰も知らなかったから──。
― 交通手段と、最初の違和感 ―
「車は、あたしが出すよ」
その声に、場の空気がふわっと跳ねた。
ソファに脚を組んで座っていたスクルドが、カチッとセントパッドの画面を閉じる。口調はさらりとしていたが、どこか得意げな響きが混ざっている。
「ほんと!?」
愛鈴が目を輝かせた。「やった! スクルド姉の車って、あの――」
「試作五号」
スクルドが人差し指を立てる。「正式名称は《風韻 -Type Ω-》。“地上界の法規を守りながら最大出力を制御可能”というコンセプトで作った最新式。いま、テスト走行の許可が下りたとこ」
「試運転……?」
ユズリハが小さく眉を上げる。
「いえ。迎えもするから、時間厳守ね」
スクルドはそこだけ強調して言った。
「やったあ!」
アカネが両手を挙げてソファに倒れこむ。
「これで電車移動じゃなくてすむ! 朝、荷物持ってラッシュ突入は地獄だもんね!」
「龍我浜……」
ぽつりと呟いたのは、瑠璃だった。
「ん? どうしたの?」
アカネが体を起こして、瑠璃の顔をのぞき込む。
「……うん、なんか……なんだったかな」
瑠璃は眉間にしわを寄せて、ひとつ深呼吸する。
「昔、母さんがこの地名のこと、なんか言ってた気がするの。けっこう前の話。夏に、家で話題になって」
「何か悪い話?」
ユリが少し身を乗り出す。
「ううん……覚えてない。でも……」
瑠璃はもう一度、口の中でその地名を転がすように言った。
「“行かない方がいい”って……そんなニュアンスだった気がする」
ティールームの空気が、ほんの少しだけ沈んだ。
「C2」
愛鈴が呼びかける。自室から転送されたホログラムが、すぐに応答する。
「はい、どうされましたか?」
「“龍我浜”って地名、なにか記録ある? 都市伝説とか、事故歴とか」
ホログラムの目が一瞬だけ煌めく。検索プロトコルに入った証だ。だが――。
「…………ありません」
短く、静かな応答だった。
「え、マジで?」
アカネが口を開けた。
「ネットにもないの?」
「はい。“地名”としての登録はありますが、関連情報は異様に薄い。個人ブログすら、ほとんどありません。観光地としての紹介も、他と比べて圧倒的に少ないです」
「……それって、逆におかしくない?」
ユズリハが小さく眉をひそめる。
「海と山が両方あるって言う割には、情報が“抜け落ちてる”」
「行くのやめる?」
ユリが、少しだけ真顔になる。
「……でも、それも変でしょ」
愛鈴はじっとC2を見つめていた。
「地名が存在するのに、記録が薄い。忘れられてるんじゃない。意図的に、削がれてる感じ」
「そんな……」 瑠璃がぽつりと呟く。「なんで……?」
再び、ティールームに静寂が落ちる。氷の音も、蝉の声も、どこか遠くなったような。
「じゃあ、決まりね」
その空気を破ったのはスクルドだった。「“気になるなら行ってみろ”が基本。少なくとも、地上界の法では禁止されてない。あたしが送る。責任も見る」
「……ありがとう、スクルド姉」
愛鈴の声に、どこか小さな決意が宿る。
ティールームの窓の向こう。陽が傾き始め、空にわずかに赤が差し始めていた。
「……それにしてもさ」
愛鈴がぽつりと呟いた。
「おい、C2」
ホログラムの天使は、いつものようにふわりと浮かびながら、愛鈴の肩口に投影されていた。涼しげな微笑みを浮かべていたが、その目が少しだけ泳いだ。
「なにか、知ってるな。吐け。」
「え?」
「え?」
「……え?」
一瞬、空気が止まる。そして――
「ホログラムだろうが関係ない! えいやっ!!」
愛鈴がその手を伸ばした瞬間、光の粒でしかないはずのC2を、なぜか**鷲掴みにしていた。
まるで光を“物質化”するかのように、両手でそのホログラムを掴み取り、上下に振る。ぐわんぐわんと。
「わわわわわわ! なななななんでっ、ホログラムのはずではっ! ちょっ、待って、待ってえぇぇ!」
「ごまかすな! 龍我浜って何かあるんだろ!? いつから“観光地”がこんなに情報すっからかんになるんだよぉ!」
「あー、やっぱ知ってた」
ユズリハがあきれ顔で腕を組む。
「おまえ、ホログラムって自分で言ってたろ、なのに掴まれてるのはどう説明する?」
「そ、それはっ、愛鈴の干渉フィールドが一時的に局所反映を引き起こしただけであって!」
「長い! 内容言え!」
「ひぇええ! ごめんなさいごめんなさい! 言います言います!“龍が浜”って……その……龍伝説があるんです……それも、ごく最近まで……!」
「……“最近まで”?」
その言葉に、全員の動きが止まった。
夏の蝉の声が、急に遠く感じられる。扇風機の音すら、重く沈んだ。
「え、まさか」
瑠璃が低く呟いた。
「母さんが言ってたの、まさにそれかも……。“本当にいた”って……?」
「当たりかもしれないし、外れかもしれない」
スクルドが肩をすくめながら、缶ジュースをひと口。
「行けばわかるさ。」
「あんたは猪木か!」
アカネがすかさずツッコんだ。
その瞬間、場の空気がゆるむ。ホッとした笑いが全員の口元に戻ってきた。
「でも……いるかもしれないよね、龍」
ユリがぽつりと呟く。「海と山のあいだに。だって、C2が隠してたってことは、それなりの“意味”があるんだよ」
「C2、ほかに何か知ってることは?」
愛鈴が訊ねると、C2はホログラムの手を前で組み、小さく頭を下げる。
「……申し訳ありません。龍我浜に関する神格・存在・座標指定情報は、上位階層から遮断されています。“あなたのレベル”では閲覧不可です」
「わたし、女神なんですけど!?」
「ええ、でもまだ“未成年者扱い”ですので」
「はぁぁあ~~~……」
愛鈴は頭を抱え、他のメンバーはくすくす笑う。
でも、その“遮断された記録”の向こうに何があるのか。
それを知るのは、まだもう少し、陽が傾いてからの話だった。
夜、青木亭
― 母と娘の、秘められた記憶 ―
風鈴が、控えめにひとつ鳴った。
瑠璃は冷たい麦茶の入ったグラスを手に、ゆっくりとキッチンに入っていく。母は食器を洗っていた。水音だけが、夜の部屋に静かに響いていた。
「ねえ、母さん」
瑠璃の声は、普段よりも少しだけ柔らかかった。
「……龍我浜って地名、心当たりある?」
海の手が止まった。
ほんの一瞬。けれど、音も動きも、世界ごと止まったように感じられた。
次の瞬間、彼女の手から白い陶器の皿が、スルリと滑り落ちる。
乾いた音を立てて床に割れ、破片が光の粒のように跳ねた。
「……ごめん」
海は小さく謝りながら、膝を折って片付け始めた。だが、その動きはどこかぎこちなく、指先がわずかに震えていた。
「やっぱり。あるんだね、何か」
瑠璃は静かに言った。もう、疑っていない。
「……どこで、その地名を」
海の声は、かすれていた。
「今度、友だちと旅行に行くんだ。その報告と、確認。もし……何かあれば、と思って」
海は割れた破片をタオルで包みながら、うつむいたまま、しばらく沈黙していた。
そして、ぽつりと。
「……そっか。もしかしたら、会うかもしれないね。あなたの“父親”に」
瑠璃は瞬きした。
一度、二度。
「……“え”?」
言葉が追いつかない。思考も追いつかない。
「……“父親”って、え、それ……あの……え?」
海は、ゆっくりと立ち上がる。その表情は、どこか懐かしさと寂しさが入り混じっていた。
「名前は?」
瑠璃の声が少しだけ震える。「あたしの……父さんの、名前」
「龍に名前はあってないようなものよ」
海は笑った。だがその笑みには、どこか深い影があった。
「私は“竜帝”って呼んでる。そう呼んでた人が多かったから」
「……なんか……偉そうな名前」
ようやく言えたその言葉に、自分でも笑った。
母も、ふっと笑った。
けれど、その目の奥には、“記憶の湖”のような静けさがあった。
「じゃあ……気をつけてね」
海はその場を離れながら、背中越しに告げた。
「そこは、何かを選ばされる場所になるかもしれないから」
瑠璃はその背中を、何も言えずに見送った。
扇風機が首を振る。畳の上で麦茶のグラスが、わずかに汗をかいていた。
青木海の回想
― 選ばれた者の、過去 ―
あのとき、もういちど“海”に帰ろうと思ったのは、
ただ疲れていたからだった。
東京での生活に押し流されて、昼も夜もない仕事に追われ、
名前より番号で呼ばれるような日々のなかで、ふと立ち止まった。
深く息を吐いて、空を見上げて、
そうして思い出したのが、あの海の匂いだった。
帰郷してすぐ、海沿いの村は昔と変わらない景色だった。
潮の匂い。セミの声。畳のにおい。
「ここはいいね」
そう呟いて笑った、次の日の朝。
「海、お前だ。今年は」
村の長役が言った。
「五十年の約束だ。忘れたとは言わせんぞ」
意味がわからなかった。
けれど問う間もなく、古びた神社に連れていかれ、白無垢を着せられて、目隠しをされ、なにひとつ説明されないまま、どこかへ──
……気づけば、そこは現実とは思えない場所だった。
空も海もない、ただ、白と青の光がゆらぐ空間。
呼吸ができているのかすら曖昧な、音も匂いも存在しない場所。
そして、現れたのは“龍”だった。
その白さは、雪のようでもあり、月のようでもあった。
巨大で、威厳があり、言葉を持たぬまま、ただ“意志”だけで訴えかけてきた。
……殺される。そう思った。
けれど、そうはならなかった。
その龍は、私を“生贄”ではなく──
“嫁”として扱った。
抱かれたわけじゃない。
肌に触れることもなかった。
でも、“そういう感覚”だった。
何も知らなかった。人の理も、心も。
呆れるほどに、龍は純粋だった。
問えば沈黙し、怒れば戸惑い、泣けば──そっと、近づいてきた。
季節の感覚がなかった。
でも、私は気づいた。
身体が変わりはじめていた。
──孕んでいる。
龍の子を。
喜びでも恐怖でもなく、
ただ、茫然としたまま、私は日々を過ごした。
ある日、龍は静かに、私を元いた世界へと戻した。
何も告げず、何も求めず。
まるでそれが“当然”であるかのように。
それが慈悲だったのか、それともただの無関心だったのか──
今も分からない。
けれど私は、この娘にだけは“選ばせてあげたい”と思っている。
人として生きるのか、
それとも、龍の血に惹かれて、あの世界へ還るのか。
少なくとも、あのときの私には、選ぶ権利すらなかったのだから。
割れた皿はすでに片付け終わり、床も拭かれ、食器棚は元通りになっていた。
なのに、海の胸の奥にはまだ、ガラスの破片のようなものが残っていた。
問題は、伝えるかどうかだ。
あのとき、あいつは言った──
「もし娘がそちらに行ったら、おまえが決めろ」と。
「話すのも、黙ってるのも、そっちの世界のことだ」と。
──いいか。出会ったなら、あいつが伝えるだろう。
だから気楽に考えた。
その場になれば、全部あいつがやる。
私は、ただ見届ければいい。
「母さん」
声に振り向くと、瑠璃がグラス片手に廊下から戻ってきていた。
髪を後ろでまとめて、少し眠たそうな顔をしている。
「わたし、父さんに会えるかな」
海の手が、わずかに止まる。
「……あたしもね、あんたに角が生えたとき、会ったばかりなのよ」
「えっ? 最近じゃん!」
瑠璃がグラスを持ったままのけぞる。
「そんな簡単に会えるもんなの?」
「ま、人によるのよ。あたしは妻だから」
「え、じゃあ……母さんだけ?」
瑠璃の目がじとっとにらむ。「ずるい。」
海はふっと笑った。
「妻の特権よ。」
それは軽口で、冗談で、けれど、たった一人で“その存在”を知ってしまった者だけの言葉だった。
「瑠璃」
グラスを受け取って、キッチンカウンターに置きながら、
海は娘の額にそっと手を当てる。
「行くなら、気をつけて。……そこは、“出会う場所”だから」
瑠璃は、よく分からないという顔をしながらも、ただ「うん」と頷いた。
それだけの夜。
けれど、確かに静かに、何かが動き始めていた。
夏休み序盤 ― 暑さと笑いと全力少女たち ―
夏休みは、突然に始まった。
制服から解き放たれた朝、最初の目覚ましはセミの声。
予定のない自由が、手のひらにぎゅっと握られているようで、
とりあえず――「プール行こう」という流れになった。
「市民プールって……ほんとにあの、一般の?」
ユズリハがタオル片手に、少し眉をひそめる。
「大丈夫、塩素濃いめで逆に清潔よ!」
アカネが元気にタオルを振った。
「……どんな理屈それ」
ユリが笑いながら水着バッグを肩にかける。
結局、水しぶきにまみれて2時間。
飛び込みはNGなのに、愛鈴は“うっかり”水面ギリギリを舞い、注意される。
「泳ぎというか、舞ってたよね今の」
瑠璃がタオルを頭に巻きながら呆れる。
午後は、街のカラオケ店。
みんなでフリータイムに入り、飲み放題とポテト祭り。
マイクは常に二本、なぜか曲間で漫才が始まる。
「ユズリハ、歌う? ちょっと意外な選曲くるタイプでしょ?」
「では、般若心経・ラップver.で」
「なんでだよッッッ!!」
アカネが即ツッコミ。
その次はボウリング。
ユリがフォームだけ完璧でガーター連発、愛鈴が「気配で狙う」などと言い出し、
ユズリハが黙ってスコア200近くを叩き出す。
「……で、誰が一番なの?」
「勝ち負けじゃないから」
と、愛鈴が言いながらガーターの溝からボールを救出していた。
最後はバッティングセンター。
「わたし、苦手なんだけどな……」
ユリが構えたその後ろで、
「見てろ、ドラゴンパワー!」
瑠璃が笑いながらフルスイング、
金属音を置き去りにして柵を越える打球。
「え、なにいまの!?」「それ公式球!?」「ちょっと野球部に転入しようか!?」
「うち、ドラゴンなんで」
「納得したくない納得がきた!!」
一日が終わるころ、街灯の下で五人の影が並ぶ。
風はまだ熱を残しているけど、どこか心地いい疲労感があった。
「……夏休みって、なんか、自由すぎて逆に怖い」
ユリが呟くと、ユズリハがくすりと笑った。
「だったら、たくさん埋めればいい。予定と、記憶で」
愛鈴は空を見上げた。
西の空には、明日へ続く夕暮れのグラデーション。
“あの日”が始まるには、まだもう少し、笑っていられる時間がある――
夏の課題 ―五人五葉―
【1. 愛鈴:思索と逃避のあいだで】
午前の光が、畳の上にゆらゆらと揺れている。
愛鈴はセントパッドの画面を開いたまま、半分ぼーっとしていた。
「夏の自由研究」と題されたテンプレートには、“心の動きと神経反応の相関性について”と打ち込んだものの──そこから先が進まない。
「……自由って言うけど、不自由な自由だよね」
C2は「やめときましょう、テーマ重すぎ」と呟いて、また無駄に可愛いアニメGIFを投影してくる。
だとしても、と愛鈴は口に出さずに思った。
こういうとき、何を選ぶかって、“今のわたし”を表すと思うのだ。
でもまだ、“いまのわたし”が、よくわからない。
神か人か、その境界線で、夏の光は揺れていた。
【2. ユリ:作家の卵、今日もペンを執る】
机の上には原稿用紙が並び、横には父からもらった古い万年筆。
ユリは筆圧強めに、タイトルを書き込んでいた。
『短編集:夏の抜け殻』
自由研究=物語を書くことにした。
だって、それが自分の一番の“観察”だから。
テーマは「変化」。
誰かの気持ちが少し揺れる瞬間。
それを文字にすることが、彼女の“夏の宿題”。
「でもね……これ、絶対提出用と分けなきゃダメなやつ……!」
時折、手が止まるのは、書きかけの小説が少し“本音”すぎるから。
【3. アカネ:記録魔、人生が研究】
「夏の課題? 楽勝楽勝~♪」
アカネはもう、毎日日記をつけていた。
“日記”というよりは、“記録”。
体温、起床時間、食べたもの、話したこと、ツッコミの回数……。
「テーマは“自分の生態記録”! 最終的にグラフにして出す予定!」
この世で一番観察しやすいのは、自分。
そして、ツッコミと笑いの比率が下がった日は、何かがあった証拠。
「日常って、案外面白いんだよ」
夏が終わったとき、記録はきっと“ひと夏の証拠”になっているはずだった。
【4. ユズリハ:精緻な分析官】
図書館の一角、紙の蔵書が並ぶ棚の前。
ユズリハは分厚い本を二冊抱え、静かに腰を下ろした。
「自由研究のテーマ。“天界における自然発生的神格の記録と地上界の祭祀構造”……」
周囲の空気が一段冷えたような重厚さ。
ただ、本人はいたって真面目。
「形式は地上界基準に合わせるけど、内容は私の世界の基準でいく」
時折メモを取る手が止まるのは、思考が別の次元に飛ぶからだ。
“あの場”で得た情報の断片が、どこかで地上界のものと噛み合う。
彼女にとって、研究とは祈りのようなものだった。
【5. 瑠璃:なぜか火山とドラゴン】
瑠璃はスケッチブックを開きながら、手を動かしていた。
火山。
溶岩の流れ。
地熱帯に生息するトカゲの進化系。
そして──“もし存在するなら、こういうドラゴン”。
「……やっぱり火山と竜って、相性いいよね」
テーマは『神話生物と環境との関係』。
ほぼ“自由妄想研究”だが、イラストが本気すぎて誰も止めない。
「夏の課題って、想像力勝負でしょ」
そう言って笑うその背中に、竜の血が確かに流れていることを、まだ誰も知らない。
本人は鼻歌歌ってますが。
こうして、
五人の少女たちはそれぞれの方法で、“夏”を掘り始めた。
同じ時間を生きて、
違う形の“今”を残して、
やがて──あの龍の浜辺へと、集うことになる。
後書き
次は8/17 21時
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