ああっ女神さまっ 森里愛鈴 ―天と地をつなぐ翼―
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
15-1 はじまりの双翼
【天上界 執行部通達】
特別模擬演習 召集通知
宛先:森里 愛鈴 殿
発信:天上界 執行部 軍律課第一課
謹啓 時下ますます御清祥のこととお慶び申し上げます。
さて、貴殿におかれましては、地上界にての務めと修練の中にありながらも、その卓越した神力制御能力および、天賦の才に基づく戦闘応用力に関し、我ら執行部内において高い評価を得ております。
つきましては、本天上界・執行部主催の特別模擬演習への参加を、正式に要請いたします。本演習は、今後の天界・地上界間の連携および次代選定候補の実地検証を兼ねる極めて重要な位置づけを持ち、地上界からの参加者は貴殿、ただ一柱のみに限られております。
記
【模擬演習 概要】
演習名称:天上界合同戦技模擬演習《白翼ノ環・参型》
日時:地上時間換算にて〇年〇月〇日 未明(正確な時刻は別紙参照)
場所:天上界 第七階位戦域《星鎧結界内特設区画》
演習形式:対多対一変則戦技・展開型結界内交戦
装備制限:通常封印型具現化装束一式/破壊級術式は制限付き許可制
審査目的:戦闘能力評価/神力応用限界分析/精神的負荷への耐性試験
なお、演習における記録は、上位三柱審問官および女神三柱評議会に提出される予定であるため、個別の成績は今後の資格付与および許可範囲拡張において極めて重要な基準となります。
愛鈴殿の持つ「神と人のはざまに揺れる力」が、如何にして秩序の中に在るか。
その証明の場として、今回の演習は我らにとってもまた、ひとつの照準となることでしょう。
どうか誇りを胸に、天上の地へお越しくださいますよう、心よりお待ち申し上げます。
謹白
天上界 執行部 軍律課第一課 統制官
ルクス=セフィロト
薄暗い部屋に、サイドライトの琥珀色がふわりと滲む。
風はなく、窓辺のレースがわずかに揺れているのは、誰かがそっとため息をついたせいかもしれない。
ベッドの上、セントパッドの通知ランプがひとつ、微かに明滅していた。
【天上界 執行部・戦技局より通達:特別模擬演習 召集対象通知──森里愛鈴 殿】
画面を閉じたまま、愛鈴は毛布を抱きしめて動かなかった。
代わりに、ベッド脇の絨毯の上に、ひとすじの光がふわりと立ち上る。
「……通知、確認されたんですね。どうやら本物のようです」
声は落ち着いたアルト。姿は全高十五センチ、透きとおった光の少女。
C2が、非表示モードから静かに顕現していた。
「模擬戦……だってさ」
愛鈴は毛布に口元を埋めたまま、小さく呟いた。
「なんか、言葉だけだと軽く聞こえるけど……私、行ったらほんとに戦うんでしょ?」
「はい。戦います」
C2は即答した。だが、その声は冷たいわけではなかった。
「ただし、“実戦”とは違います」
愛鈴が視線だけを向ける。
「模擬戦、というのは──簡単に言えば“仮想戦闘”。実際の力を反映したデータ戦です。
肉体や神力をそのままぶつけ合うのではなく、演算領域内に展開された“疑似空間”にて、アバター同士が衝突します」
「アバター……って、私がそこにいないの?」
「いえ、参加者は現地に赴きます。けれど“ぶつかる”のは自分の分身、“構築体”です。 攻撃も、術式も、衝撃も、あくまで再現された情報体──安全マージンがしっかり取られています」
そう言って、C2は手をかざす。
ホログラムの空中に、愛鈴の戦闘アバターらしき光像が出現した。
背中に紋章のような光輪を背負い、足元を漂う火の羽衣。
表情は冷静。けれど、その目はどこか寂しげだった。
「これが、予測される“模擬戦時の貴女”です。──戦場では、この姿が、貴女として戦う」
「でも……それって、ケガしないから“楽”ってこと?」
C2の笑みが、少しだけ揺れた。
「ええ、身体の負荷は極小です。ですが……心の負荷は、時にそれ以上です。“安全”とは、“痛くない”ことだけではありませんから」
愛鈴の喉が、ごくり、と鳴る。
ベッドの上、愛鈴は身じろぎもせずに、C2のホログラムを見つめていた。
十五センチの小さな姿。けれど、その声は、大人のそれよりもずっと深く胸に響いていた。
「じゃあ……実戦って、何?」
少しだけ震える声だった。問いというより、確かめるような。
C2は答えを急がなかった。ホログラムの足元に、小さな魔方陣を浮かべる。
そこから再び、今度は全く違う戦闘映像が浮かび上がる。
砕ける地面。飛び散る神力。火花。絶叫。
そして、その中に立つ白い髪の女神──かつてのリンドだ。
「“実戦”は、現実で起きる戦闘です。 肉体も、神経も、魂すらも“直接”戦場に曝されます。相手も本気で、こちらも命を賭けて応じるしかありません」
ふっと映像が消える。
「もちろん、安全措置は取られています。それでも、“予測しない事故”──というものは、どんな空間にも、どんな時代にも、つきものです」
愛鈴は、枕元の縁をぎゅっと握る。
誰もが「大丈夫」と言って送り出す。でも、それで全部守れるわけじゃない──そんなこと、子どもでもわかっていた。
「でも……模擬戦は、違うんだよね?」
「ええ。模擬戦では、死ぬことはありません。ただし、“恐れる”ことはある。“傷つく”ことも、“倒れる”ことも、“泣く”ことも、“立ち上がれなくなる”ことも、あります」
「……やだな、それ」
ぽつり、と漏れたその言葉に、C2は初めて、声をやわらかくした。
「うん。……あたしも、やだな」
小さな身体が、布団の上にぴょこんと腰かける。
「でもね、アイリ。あたしは“戦え”なんて言わないよ。ただ、“行くなら、帰ってくる場所”は用意しておく。それだけ。疲れて帰ってきたら、お水も出すし、子守唄も歌うし──」
にこ、と笑った。
「今日は寝癖がひどかったって、からかうことだってできる。だから、あたしはベッドの下にいるの。……いつでも、戻ってこれるように」
愛鈴は少し目を潤ませながら、それでも笑った。
「うん……ありがと、C2」
「どういたしまして、アイリ様。──あ、でも今の“ありがとう”録音しちゃおっかな」
「やめてぇ~」
笑いながら、毛布の中に顔をうずめた。
窓の外には、天上界の星がひときわ強く瞬いていた。
朝。空は淡い金色の光に染まり、蝉の声が寺の屋根を這っていた。
「行ってくるね、お母さん、お父さん」
台所では、湯気の立つ急須と炊きたてのごはんの香り。
ベルダンディーは振り向き、にっこりと微笑んだ。
けれど、どこかその瞳の奥に、光の揺らぎのような迷いがあった。
「行ってらっしゃい、愛鈴。……これは、ティール様に渡してくれる?」
差し出されたのは、一包みの紅茶缶。重さはわずかでも、込められた意味は重い。
「例の……“あの紅茶”? これ、ずっと渡してないやつ?」
「ええ、ずっと、封を開けずに置いていたの。……でも、今ならあなたが届けられると思うの。ね、お願いできる?」
「うん。任せて」
受け取った愛鈴の背に、螢一が軽く手を添える。
「無理だけは、しないでな。模擬戦だって、ただの遊びじゃない。あいつら──“本気で測る気”だろうから」
「知ってるよ」
短く、でも確かな声で応えた。
「大丈夫、心配しないで」
正午過ぎ、転送術式が作動する。
空間が歪み、庭先に生まれた淡い光の輪──天上界へのゲート。
その光を踏みしめる瞬間、愛鈴は胸の奥にある「いつもの声」を確かめた。
──「力は、制御してこそ力」
その封印の言葉は今や、恐怖の象徴ではなく、足元を支える杭だった。
転送の光が収まると、そこは見渡す限りの白銀の大地。
天上界・接続区画。天空に浮かぶ大理石の回廊と、陽光のような魔導灯。
空は果てなく蒼く、そこに吊されたような浮島が遠くに見える。
──ただ、愛鈴はその美しさよりも、耳に入った“音”に小さく眉を動かした。
> 「あれが……例の“穢れの娘”?」
> 「父を死なせて、地上で人間と暮らしてる……ふん、異端にもほどがある」
柔らかく、しかしはっきりと届く声。
天上界の神々の一部は、彼女を「祝福された子」ではなく、逸脱した存在と見ていた。
──なるほど、そう見る者もいるのか。
愛鈴は立ち止まらなかった。
心が冷えたのではなく、静かに凪いでいただけだ。
その足取りは変わらず、受付棟へと向かう。
「模擬戦・参加者登録に参りました。森里愛鈴です」
受付にいた神属事務官が、愛鈴を一瞥する。
差し出された【特別模擬戦 招待状】には、天上執行部の紋章。
それを確認すると、事務官の表情がわずかに改まる。
「確認しました。──では、こちらに神印を」
愛鈴は小さく頷くと、セントパッドの側面に触れる。
掌から浮かび上がる、「花弁を模した銀の印章」が受付台に押し込まれた。
《神印登録完了──森里愛鈴、第一試合へ》
場内アナウンスが響き、天上界の空に光の環が広がる。
同時に、演習空間への転送サークルが展開された。
愛鈴は、紅茶缶の重みを再び手の中で確かめた
「試合が終わったら……祖父様に、ちゃんと届けよう」
その声は誰に向けたものでもなく、自分自身への約束だった。
そして彼女は、ゆっくりとサークルの中央へと足を踏み入れる。
光輪のサークルが、足元に淡く浮かび上がる。
視界に流れ込むのは、仮想演習空間への初期接続データ。地上時間ではわずか数秒──だが、天上の計測ではその一瞬にすら、神々の調整が施されている。
愛鈴の足元から、読み取り光が走った。
足元から順に、彼女の姿がホログラフのように包み込まれ、まばゆい光と共に転写される。
──次の瞬間。
彼女の目の前には、自分の戦闘アバターが立っていた。
深紅tと濃青と銀のボディスーツ。流線型の装甲が陽光を反射し、背中にはかすかな女神紋章。普段より高く結い上げられたポニーテールが、無風のはずの演習場でふわりと揺れている。
「……う、わ。これ、ちょっと……」
戦闘用に調整されたとはいえ、その密着感と見た目の“強そう感”に、思わず頬が熱くなる。
特に胸元のフィット具合とか、後ろ姿のラインとか──母が選んだにしては、わりと攻めてる。
《第一試合:開始地点へ転送します》
次の瞬間、風が変わった。
視界が荒野に切り替わる。
模擬戦用に構築されたバトルフィールド──赤茶けた岩場と乾いた空気、低空を飛ぶ二羽の鳥型式神が、砂の匂いをまき散らす。
「……なるほど、“野生”ってことね」
愛鈴がそう呟いた矢先、対岸の丘の上に、豪快すぎる影が立ち上がった。
サルジャック。
筋骨隆々、全身毛むくじゃら、腰には布きれ一枚、背中に妙な太鼓を担いでいる。
「ウオアアアアアアアアァァ!!」
突如、地響きを伴って雄叫びを上げ、四足走行で一直線に突っ込んできた。
「うわ、ほんとに頭悪そう……ていうか躊躇なしっ!」
視界には速度アラート。神属とはいえ、野生神系統の突進は実に危険。
しかし愛鈴の身体は、一瞬早く動いた。
右足を軸に、流れるように半身を回転。
突進軌道のギリギリ外側を、風のようにスラリとすり抜け──
「──こっちも、“女神の娘”ってとこ、見せてあげる」
重心を移した左脚が、相手の側頭部を真横から捉える。
ビュッ。
渇いた空気が裂ける音とともに、愛鈴の回し蹴りが炸裂した。
サルジャックの眼が、一瞬だけ大きく見開かれ──
「ほわぁ」
泡を吹きながら、体ごと宙を舞い、三回転半してから地面に沈んだ。
《第一試合終了──勝者、森里愛鈴》
アナウンスと共に、フィールドが淡く光を帯びて消え始める。
「……最初の相手が“頭”じゃなくて“本能”で来るタイプで、逆に助かったかも」
額の汗をぬぐいながら、愛鈴は深呼吸する。
──けれど、心はすでに次を見据えていた。
“模擬戦”とはいえ、彼女が天上界で見せる「存在証明」は、まだ始まったばかりだ。
光のフィールドが静かに収束していく。
サルジャックの轟沈から数分、愛鈴は転送待機室の光壁に背を預け、深く息を吐いた。
「……はあ。1戦目が肉弾戦だったから、次は頭使うタイプが来るかもね」
そんな独り言に応えるように、空間にC2のホログラムがふわりと浮かぶ。
「予想的中、ですね。──次の相手、バータム。高速特化型の風神系統。身軽さと速度だけで、いままで三十戦無敗だそうです」
「“だけで”無敗……なるほど、面白そう」
愛鈴の目が、ふっと細くなる。
その表情には恐れではなく、ほんの僅かな──好奇心が宿っていた。
《第2試合、出場の意思を確認します──森里愛鈴》
セントパッドの光が、手の甲を照らす。
「出場します」
短く、確かな返答だった。
フィールドが切り替わる。
今度の舞台は、岩柱と断崖が入り乱れる風の谷。
地形の高低差が激しく、視界も悪い。空気も薄い。
──そして、すでにその場にいた。
バータム。
痩躯。全身を覆う緑と黒の軽装。顔の下半分を仮面で覆い、瞳は猫科のように鋭く細い。
挨拶もなく、音もなく──まるで風のように、バータムは消えた。
「……もう?」
直後、左肩に風圧。
次の瞬間には、背後から低い蹴り。体勢を崩すと、今度は目の前へ回り込まれていた。
速い。
地を蹴る音すら聞こえない。
その動きはほとんど\“読み合いすら拒否する速さ”だった。
だが。
数手交えた後、愛鈴の目に、わずかな“繰り返し”が見えた。
(……なるほど、“速さ任せ”には、“癖”が残る)
空中に残る残像の軌道。踏み込みの瞬間の、足の開き具合。
それが、バータムの速度の中に、わずかに「予測可能な律動」を生んでいた。
──彼は、「自分が速い」ことに頼りすぎている。
愛鈴は静かに息を吐くと、次の突撃に合わせて半歩だけ前に出た。
そして。
バータムの疾走が、目の前を通過するその刹那。
「ここ、でしょ」
右手の人差し指を、空気を裂くようにすっと前に出す。
突き出されたその指先は、まるでそこに来ると最初から知っていたかのように──
バータムの額のど真ん中に、ぴたりと触れた。
パン、という軽い音。
それだけで、バータムの瞳が揺れ、次の瞬間には崩れ落ちていた。
声もなく、音もなく。まるで風のように。
《第2試合終了──勝者、森里愛鈴》
「……速いだけじゃ、ダメなんだよね」
そう呟いた愛鈴の人差し指は、まだ宙を指していた。
その指先には、ただの一撃よりも重たい、“見抜く力”が宿っていた。
演習場の空気が、先程までとは明らかに違っていた。
地響きのような足音。重量感。重力すらゆがむような気圧の渦。
フィールドは中央闘技場型──逃げ場のない真正面の一騎打ち。
すでに向かいに立つ男の姿を見て、愛鈴はほんの少しだけ口元を歪めた。
「うわ……また野生系……今度は、“超重量級”」
カリオン。
ゴリラにも似た長い腕、筋肉の塊のような胴体、そして顔は獣めいていて、額には旧式の神印が彫り込まれている。
「オレ、カリオン。チカラこそチカラ。勝者こそ最強」
言葉はあったが、思考は単純だった。全身から発せられる“押し潰す”圧力が、それを物語っている。
「そう……でもね、カリオン」
愛鈴はすっと構えた。腰を落とし、両足に力を込める。
「“力”は、それだけじゃ不完全なの。心がなければ、ただの暴力」
次の瞬間、カリオンが吼えた。
脚を踏みしめ、突進。その一撃は、地面を割るほどの質量を帯びていた。
だが、愛鈴は逃げなかった。
「なら……“真正面”からいってあげる!」
彼女も走る。全速で。真正面から。
その小さな身体が、巨体に向かって跳ね上がるように跳ぶ。
カリオンの拳と、愛鈴の拳──空中で交錯する。
──衝突。
激しい衝撃。フィールドの空気がひしゃげ、光壁が軋む。
爆風が走り、演習台地が割れた。
だが、勝っていたのは──愛鈴だった。
重心を活かした拳が、カリオンの巨腕を押し返し、体勢を崩させた。
そのまま彼女は身をひねり、二発目の拳を、巨体の腹へと打ち込む。
カリオンの身体が浮き、宙を舞い、地面に叩きつけられる。
土煙の向こう、沈黙した巨体。
そして、その胸元に、小さな右手が乗せられる。
「ね。力だけじゃ、駄目なのよ」
愛鈴の声は穏やかだった。
「“どこに向かうか”の意志がないと、力はただの獣と同じ」
《第3試合終了──勝者、森里愛鈴》
観戦席では、一部の神族たちが目を見張っていた。
“力”を“力”で封じながらも、そこに込められた意志の在り方。
演習空間が再展開される。
次なる舞台は──古代のコロッセオを模した円形闘技場。
石造りの観客席。吹き抜ける冷たい風。遥か上空には虚空の月が浮かんでいた。
「……わかってるな、このステージ」
愛鈴はゆっくりと構える。
空間の魔力密度は高く、詠唱系法術の飛び交う典型的な“魔法戦場”。
おそらく次の相手は、術数を持って押してくるタイプ──
「やっぱりね。見た目からして、頭良さそう」
対峙する男──バシュタール。
長身痩躯。黒衣に身を包み、手には三重の魔導環。
その顔は冷徹で、口元には常に余裕の笑み。
「君のような“力任せ”の神力使いが、詠唱合戦に来るとは意外だね」
「へえ、じゃあ見せてもらおうかな。“手数の優位”ってやつ」
開始の鐘。
即座に、バシュタールの詠唱が走る。
「《断罪の風刃》──《重唱:雷霆双槍》──《分岐展開・無形の盾》──」
連続詠唱。まるで楽器の演奏のように、流れるような呪文が場を支配する。
風、雷、氷、火──あらゆる元素が、束になって愛鈴を襲う。
だが。
「──《一点集中・霊極弾》」
愛鈴の詠唱は、わずかに一行。
手のひらから発せられた光弾が、風と雷の魔法陣をすり抜け、バシュタールの展開結界に直撃。
炸裂。
魔導環が三つ、すべて霧散する。
「なっ──」
「ね? そっちの手数は確かにすごい。でも、私の一発は、貫通するよ?」
再び、バシュタールが詠唱を繰り出す。
今度は防御に徹し、数十の式壁を展開しつつ、背後に召喚型の精霊を呼び出す。
「《炎環の召火・第七式──焦界獣マルゴッツ》!」
闘技場の床が裂け、炎の獣が咆哮を上げる。
けれど──愛鈴の表情は、まるで変わらなかった。
「ふーん……でも、もう“MP”尽きそうでしょ?」
その言葉に、バシュタールの眉が微かに動く。
彼の額には、汗。指先の震え。呼吸の浅さ。
──術者の限界は、法術の質だけではなく、“出し続けられる余裕”によって測られる。
愛鈴は掌をゆっくり掲げる。
その周囲に、神力が音もなく凝縮されていく。
「《神撃・霊装解放型・一点穿通式──終段》」
演算領域が震える。
次の瞬間、光が奔った。
白銀の魔力が真一文字に走り、召喚獣を貫通。
防御式も、結界も、何もかもを削り取る。
バシュタールの周囲が爆ぜ、魔導環が灰と化した。
その場に、ただ膝をつく姿が残る。
《第4試合終了──勝者、森里愛鈴》
風が吹いた。
コロッセオの瓦礫の間を、静かに通り抜けていく。
「法術戦は、確かに頭脳戦。でもね──“持久力”って、頭じゃ作れないの」
呟きながら、愛鈴はゆっくりと背を向ける。
観戦席に並ぶ神々の誰かが、静かに息を呑んだのが聞こえた気がした。
少女の中に眠る、底なしの魔力──
その片鱗が、ようやく“舞台の上”に現れはじめていた。
「第五試合──蒼天を穿つ光」
海だった。
見渡す限り、群青の大海原。
演習空間とはいえ、波は確かにうねり、風は肌を打ち、陽光は容赦なく照りつける。
その中央──魔導結界によって空中に浮かぶ、六角形の「空戦プラットフォーム」。
風が鳴った。
すでに対峙していたのは、メルーダ。
風と雷を纏う、鳥のような戦士。空中戦に特化した構成を持ち、背にはエーテル状の翼を広げている。
「ふぅん……アンタが“地上の神姫”ってやつ? なら──空の速さ、見せてあげる!」
言葉と同時、メルーダの身体が消えた。
いや、消えたのではない。速度が視認限界を超えたのだ。
愛鈴は即座に展開する。
「《全周感知──霊圧解放》」
しかし──追えない。
風のような軌跡が、何重にも愛鈴を取り囲む。
次の瞬間、肩口に衝撃。バランスを崩した体が、プラットフォームの外へと弾かれる。
空。
落ちる。
海が、ぐんと近づいた──
だが、愛鈴は咄嗟に詠唱。
「《神流・緊急浮遊式──双輪展開》!」
背中に、淡い光輪が二重に現れる。
そこから放たれた推進力が、彼女の身体を空中に押しとどめた。
「……速い、だけじゃない……軌道が、読めない……!」
汗が額を伝う。
ここまでの4戦では、彼女は常に「余裕」を持っていた。
だがこの試合は違う。
この相手は──“戦い慣れて”いる。
「へえ、まだ飛べるんだ。じゃあもっと飛ばすよ!」
メルーダが上空から一気に突っ込んでくる。
雷の刃が両手に展開され、プラットフォームが軋む。
回避は間に合わない。
しかし──愛鈴は、踏み込んだ。
「《神気・多重射出──連弾式》……全部、受けてよ!」
掌を前に突き出す。
その瞬間、光の球体が次々と生成され、嵐のように連続発射される。
一発、二発、三発──
追いつかない身体に代わって、放たれる意思の奔流。
八発、九発、十発──
命中。
正面から突っ込んできたメルーダが、光の連弾を受けて速度を失い、空中でよろめく。
そこに、愛鈴は追撃の一撃を叩き込んだ。
「これで──落ちて!」
最後の神気弾が炸裂。
メルーダの身体が、大きく弧を描いて空を裂き、海面へと落下した。
《第五試合終了──勝者、森里愛鈴》
荒れた呼吸。
汗まみれの額。
連弾の余波で痺れる腕。
愛鈴は、初めて“勝ったあと”に、膝をついた。
「……はぁ、はぁ……まいった、ね。こんなに追い込まれるなんて……」
C2のホログラムが、風の中からそっと現れる。
「ご無事でなにより。ですが……腕、痺れてますね?」
「腕には……内緒にしといて♡」
そう言って笑ったその顔には、ほんの僅か──“戦う者”の光が宿っていた。
休息──囁かれる名前
冷たい風が吹いていた。
試合後の一角、出場者専用の控室。
壁は光を反射する白金の素材、天上界らしく無菌的で整然としている──はずなのに、今の愛鈴には、その空気が少しだけ「重く」感じられた。
「……はぁ」
シャワーを浴びたあと、ガウンに着替えた彼女は、ソファに沈み込んでいた。
セントパッドは、すぐ隣の卓上でスリープ状態。
C2はその傍らで、小さなスクリーンを開いて、バトル映像のログを確認している。
「第五試合、全体的な評価は“技術+資質+魔力総量=適性評価上位”──となっています」
「数字で言われてもピンとこないよ……」
愛鈴はタオルを頭にかぶせたまま、ふて寝のようにごろんと横になった。
「でも疲れたのは事実。特にあのメルーダ……飛ぶ、動く、刺す、うるさい……」
「相手に敬意を忘れないでくださいね。──でも、そうですね。今回は“初の被弾”記録が残っています」
「うぅ……せめて次は“優しくて動かない敵”がいい……」
一方、観客席──。
上層神族用の観戦区画は、円形演習場の南東に設けられている。
煌びやかな衣装の神々が、食器片手に映像投影を見下ろしていた。
「……第5試合まで、すべて勝利。しかも内容にブレがない」
「地上育ちとは思えない神気制御……あの娘、いったい何者だ?」
そんな中、一柱の老神が、興味深そうに呟いた。
「見たか? あの空中連弾の動き……“あれ”は、リンドの戦型に極めて近い。
呼吸の取り方と、詠唱の切り替え位置が完全に一致していた」
その言葉に、周囲がざわつく。
「まさか……リンドの弟子だと?」
「いや、リンドが“弟子を取った”という話は聞かない。あの氷刃の女神が、他人に術技を授けるなど──」
「……待て。ひとつ、気になる噂がある」
別の神が口を開く。
「数年前。リンドが極秘で地上に降りた時期があった。“ある少女”の神力暴走に対処するためだと──そして、その件に関わった神は、詳細を口にしようとしなかった」
「まさか……その少女が、彼女?」
「だとすれば、納得だ。あの技の鋭さ……リンドの直伝でなければ、説明がつかん」
噂は、次第に熱を帯びて広がっていく。
「“リンドの弟子”が出場している」
「しかもあの子は、ベルダンディーの娘ではないか?」
「それが……“穢れの娘”だと?」
信じる者、否定する者、嫉妬する者──
愛鈴の存在は、静かに“舞台の中央”に押し上げられつつあった。
控室では、愛鈴が頭にタオルをかぶったまま、ひとつくしゃみをした。
「……誰か噂してる……?」
その声に、C2が小さく笑う。
「ええ。きっと、良くも悪くも“注目”されていますよ。あなたはもう、ただの参加者じゃない──“見られる立場”になってきてます」
「うぇぇ……やだなぁ……」
愛鈴はソファに沈みながら、だらりと手を垂らした。
──でも、どこかその表情には、覚悟のようなものが宿っていた。
第6戦目から第9戦目まで省略。
会場は再び、円形の石造りコロッセオ。
かすかに風が巻き上がり、遠くで鐘の音が響いている。
石壁に囲まれたこの場で、愛鈴はすでに十度目の戦場に立っていた。
だが──今回はいつもと空気が違っていた。
理由は、目の前の男にある。
「麗しき勝利の女神よ。どうか今宵の刃を、わたくしの胸にお納めくださらぬか──」
マルクス。
長身、金髪、銀の刺繍入りマント。
剣術・魔法・機動力、いずれも高水準。
これまで愛鈴が戦った相手の戦術を、まるでひとつにまとめたような総合型の神属──
──で、なければ、戦闘だけに集中できたはずだった。
「ほんとうざい……」
愛鈴の目元が引きつる。
「試合が始まってるのに、何で口説きが止まないの?」
マルクスは飄々と構え、微笑む。
「貴女のような方がこの戦場に立つのは、罪ですよ。この勝負──剣で交えるには惜しい。どうか、私の剣ではなく──心を受け取っていただければ」
「──重いって言ってるのよ」
小さな声だった。
「え?」
「うっとうしい。キザい。うざい。戦いってね、“相手を見る”ことから始まるの。あなたは、ずっと、自分の“演出”しか見てない」
言葉の一つひとつが、会場に反響する。
「私、さっきまでずっと我慢してたの。あなたの強さは認めるよ。戦い方だって、隙がない。でも──“言葉の軽さ”が全部を台無しにしてる」
愛鈴の声は冷えていた。まるで氷柱のように。
「だから、黙って。もう二度と、誰の前でも、軽々しく“心”なんて言わないで」
その瞬間、空気が変わった。
マルクスの周囲から、まるで目に見えない圧力が抜けたように、体勢がわずかに崩れる。
「ぐっ……!」
手が震える。
構えていた剣が、わずかに傾いた。
魔法の詠唱が、途中で止まる。
──彼にとって、“自分が否定される言葉”は、実は剣よりも痛かった。
愛鈴は踏み込む。
踏み込んだその一歩が、すでに勝敗を決していた。
「おやすみ」
最後の一撃は、術式でも神気でもなかった。
ただの掌底。それだけだった。
だが、その衝撃は、心から折れかけていたマルクスを確実に打ち倒すには十分だった。
仰向けに倒れ、天を仰いだまま動かない男のもとに、勝敗の鐘が鳴る。
《第十試合終了──勝者、森里愛鈴》
観客席が静まり返る。
誰もが、愛鈴の言葉の力に圧倒されていた。
神属同士の模擬戦において、「戦闘技術」ではなく「人格の軸」が明暗を分ける瞬間など、そう何度もあるものではない。
だが確かに──そのときの愛鈴は、剣でも術でもなく、“人間としての重さ”で勝っていた。
対戦相手の名が告げられると、空気がほんのわずかに揺れた。名高き戦女神の末裔。実力も意志も、今の自分には及ばないと分かっていた。けれど、問題はそこではない。
ただ、そこに立つ理由が見つからなかった。勝ちたいという渇きも、証明したいという執着も。誰かに「なれ」と言われた未来を、なぞるように歩く意味が感じられない。
剣は帯びたまま、愛鈴は一歩、二歩と前へ出る。天上界の試合場、光の床が淡く光を返す。その静けさの中で、口元に浮かんだのは、戦いを始める者の表情ではない。
「棄権を願います」
高座にいる裁定官が軽く眉を動かし、声にならない何かが観覧席の奥で揺れる。だが、それきりだった。
視線も声も追ってこない。勝負を放棄する者に与えられるのは、静寂だけ。
私は剣に手をかけることなく、その場を離れる。誰にも背を向けるつもりはなかった。ただ、自分の中にある確かな感触――「戦うために、戦乙女になるためにここに来たわけじゃない」――それだけを、胸の底にしまって。
足音は軽く、音を吸うように床が沈む。拍手も歓声もない。ただ遠くで鳴っている鐘のように、時間がゆっくりと波打っている。
彼女は戦女神になろうとはしなかった。
それが、誰の目にも明らかな唯一の答えだった。
「お祖父様に届け物がありますから」
言葉が風に舞う。
天上界の東端――雲層すら歪めて聳え立つ、白銀の断崖のような城がある。
その場所を知る者は少ない。そこを訪れた者は、なお少ない。
大天界長ティール。その名の下に、幾千年もの権威と審美と静謐が積み重ねられた空間。
そしていま、森里愛鈴はそこへ向かっている。
城は、馬鹿馬鹿しいほどの大きさだった。
門一つが都市の劇場より高く、扉の取手に至るまで、詩文のような魔術装飾が施されている。
けれど不思議だった。
押しつけがましさが、まるでなかった。
壁面の白は、ただの白ではない。
日輪が昇るたび、温もりを含んだ銀砂のように変化し、風が吹けば、わずかに模様が浮かぶ。まるで、石そのものが呼吸しているかのように。
何も語らないのに、すべてが整っている――そんな建築だった。
「見せびらかすことなく、隠さず、奢らず」
それが、この城に宿る精神なのだろう。
どれほどの力を有していても、それを“力”と感じさせない慎み。
その品格が、逆に彼女の背筋を正させる。
淡く輝く石畳を踏むたび、
彼女の内側にあった小さなざわめきが、すこしずつ鎮まっていく。
戦わなかった者として、ここに来る意味を、ようやく胸の奥で結べる気がしていた。
愛鈴は、扉の前で足を止めた。
城門には誰もいない。けれど、誰かが見ている気配がある。
それは不安ではなく、むしろ懐の深さに抱かれているような安心感だった。
目を閉じる。深く息を吸う。
そして、小さな声で名乗る。
「森里愛鈴。大天界長ティール様に、お届け物を」
風が、静かに扉を押した。
まるで、彼女の言葉を聞いていたかのように。
案内されたのは、城の東棟。
壁に彫り込まれた文様が、通り過ぎるたびに微かに色を変える。
それは記録なのか、結界なのか。誰にもわからない。ただ、静かにそこに在るだけだった。
愛鈴の前を歩くのは、翼を持たない天使だった。
白銀の衣を身にまとい、足音を一つも残さない。
まるで導き手というより、空間そのものの意志が姿を取ったような存在。
幾つもの廊を抜け、何層もの階を昇り、扉をいくつも潜った。
迷路にしては静かすぎ、牢にしては美しすぎる構造。
だが、愛鈴の中に芽生えたのは不安ではなく、
むしろ“どこまでも知らないままでいていい”という安心感だった。
最奥にあると思われた扉の前で、天使が足を止めた。
振り返ることはなかった。ただ片手をすっと上げ、無音のまま扉を開ける。
中からあふれ出たのは、香のような気配。
鋭くはなく、甘さもなく、**記憶をふと呼び起こすような懐かしさ**を孕んだ香。
愛鈴が一歩、足を踏み入れた瞬間、その香が彼女の衣の裾を優しく撫でた。
空間そのものが、来訪者を迎えているようだった。
部屋は、広いわけではなかった。
だが、余白の美しさがあった。
壁に掛けられた一枚の書。窓辺に置かれた淡い青の花。
天上界の格式とは無縁の、生活の気配と精神の静寂がそこにあった。
そして、部屋の中央――。
そこにいたのは、彼女より少し年上に見える、青年だった。
長身ではあるが威圧感はない。
衣は簡素だが、折り目正しく、指先には薄い書痕の墨が残る。
だがその目だけは、違っていた。
深海の底で眠る何かが、ひとたび瞳に浮かび上がったかのような透明な光。
見ているようで見ていない。だが、確かに愛鈴だけを捉えている。
その瞳を向けられたとき、彼女は本能的に知った。
この人が、ティールなのだと。
「ようこそ」
声は、柔らかかった。
だが、どこか時間の奥から届くような遅延を感じさせる。
すぐに意味が届かず、後から感情が追いかけてくるような、不思議な声だった。
「こうして顔を合わせるのは、初めてだな」
言葉を繋ぐように、青年は微笑む。
「君に会えるのを、少しだけ楽しみにしていた。……ベルダンディーは息災かな?」
その名を聞いた瞬間、愛鈴の中で何かが小さく波打った。
家族としての名ではなく、一柱の存在としての“ベルダンディー”。
その呼び方に、青年が何を見ていたのか――一瞬では分からなかった。
けれど、敵意も試す気配もない。ただ、静かな関心と、ほんの少しの懐かしさ。
愛鈴は、一呼吸おいて、小さく頷いた。
「母からのお届け物の紅茶です」
愛鈴は、包みを両手で差し出した。
柔らかな白布に包まれた小さな木箱。
開けるまでもなく、かすかに甘く、澄んだ香りが空気を満たしていく。
ティールはそれを受け取り、軽く鼻を近づける。
「おお、これはありがたい」
声にこもるのは、単なる社交辞令ではなかった。
紅茶に込められた手間も、心も、そして何より――**差し出した者の礼節**を正しく受け取る者の響きだった。
愛鈴は小さく頭を下げたのち、しばらく沈黙した。
けれど、胸の奥でずっと形にならなかったものが、ようやく言葉に届いてくる。
彼女は、視線をそっと上げた。
「あの……ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
その声に、ティールは微笑をたたえたまま、少しだけ首をかしげる。
「なんだね」
愛鈴は、一瞬ためらった。
けれど、それでも訊かなければいけないと感じた。
礼儀ではなく、確かめたくなる直感。
神格としてではなく、人として、目の前の“彼”に問いたかった。
「どうして、そのような……若い格好をしているのですか?」
その瞬間、部屋の空気がわずかに揺れた。
風は吹いていないのに、カーテンがふわりと持ち上がる。
何かが、笑ったような気配。
ティールは、目を細めた。
まるで、ずっと前からその問いを待っていたかのように。
そして、紅茶の包みを手のひらに乗せたまま、ゆっくりと椅子に腰をおろす。
「それはね――」
声は、少しだけ楽しげだった。
「“老い”というものは、天上界では“外套”のようなものなのだよ。 纏うか脱ぐかは、そのときの気分で決まる。私今、君に会うのに最もふさわしい“姿”を選んだ。……君の目に映る姿は、私が君に対して持つ“温度”の写しでもある」
彼の声は、理屈を語っているようでいて、説明ではなかった。
それはまるで、詩だった。
透明な光で紡がれたような、意味よりも気配で届く言葉たち。
「もっと年老いた姿もあるよ。もっと幼い姿も。だが今の私は、君にとって――“正しい重さ”で在りたいと思ったんだ」
愛鈴は、その言葉を受け止めた。
理解したわけではない。ただ、納得していた。
身体の奥深くで、何かが「それでいい」と囁いている。
ティールは、茶葉の包みを机に置き、ふと表情を崩した。
「それにね」
声がわずかに砕ける。
「年寄りじみた格好をすると……あの君の母上が、“ふふっ”と笑うんだ。あれが、どうにも、こたえる」
その瞬間、愛鈴はくすりと微笑んだ。
まるで部屋の香が、もうひとつやさしくなるような、やわらかな音だった。
気配が、ひとつ静かに落ち着いた。
紅茶の香りも、壁を撫でていた風も、どこか満ち足りたように穏やかになる。
愛鈴はそっと椅子を引き、立ち上がった。
扉の方へ向きながら、腰に手を添え、小さく頭を下げる。
「では、そろそろ……御暇します」
ティールは、微笑んだまま動かない。
しばらく、目を細めて愛鈴の姿を見つめたのち、ふと呟くように言った。
「そうか……そうだな」
その声はどこか寂しげでもあり、けれど温かくもあった。
言葉の選び方が、まるで別れではなく“節目”のように響く。
青年は机の上に視線を落とし、紅茶の包みをそっと撫でるように指先で押さえた。
「では、ひとつ……螢一くんに伝言を頼んでもいいかな」
愛鈴は少し驚いたように目を瞬かせ、姿勢を正す。
ティールは、静かに言った。
「――良い娘に育ててくれた。ありがとう」
その一言が落ちたとき、
空間の温度が、ひとつ和らいだように感じられた。
愛鈴の頬が、ぱっと紅に染まる。
目を逸らし、両手を胸元にそっと揃えると、言葉が慌ただしく口をついて出た。
「わ、わ、わかりましたっ……お伝えしますっ」
その姿に、ティールは小さく目を細め、声を立てずに笑った。
まるで、自分の記憶の中に何か懐かしい景色を見ているような、
“時の向こう側から微笑まれる”ような眼差しだった。
愛鈴は深く一礼し、扉に向かう。
その背に、ティールは一言も言葉を重ねなかった。
それでも、彼女にははっきりと伝わっていた。
「君は、もう十分だ」――そう言われた気がしたのだった。
やるべきことは、すべて終えた。
あの広すぎる城をあとにしてから、愛鈴はまるで迷子のように天上界を歩いていた。
けれど、その足取りに迷いはなかった。
ただ、自由だった。
息を吸うたび、空気が軽い。
肩を撫でる風が、柔らかい。
心に掛かっていた布が、静かにほどけていくような解放感。
曲がりくねった小道の先、木洩れ日のような光が滲む場所に、ふと――その姿が、目に入った。
公園、と呼ぶには小さすぎる。草花と木立、石畳の敷かれたわずかな広場。
その一隅で、誰かが舞っていた。
少女――いや、年格好は自分と変わらない。
しかし、その身体の動きには、時間があった。
ひとつの所作に、いくつもの季節が流れているような、そんな舞だった。
足運びは静かで、腕の振りは風とともにあり、髪が光の粒をまとうように揺れている。
舞なのか祈りなのか、それすら判然としない。
けれど、ただひとつ。美しかった。
愛鈴は、立ち尽くしていた。
言葉も、思考も、声さえも出なかった。
見惚れて、見蕩れて――
どれほどの時が流れたか分からない。
ただ、気づいたときには、
身体が、勝手に動いていた。
歩み寄り、静かに息を合わせ、その舞の流れに、自らの動きを重ねていく。
突然入り込んできた愛鈴に、少女は目を向けた。
けれど、何も言わなかった。
咎めるでもなく、驚くでもなく、ただ一度だけ、ほんの微笑みを浮かべる。
それは、「分かっているよ」という 言葉を超えた了解の証のようだった。
ふたりの舞が、ひとつに重なる。
踏み出す足が呼吸を揃え、手の角度が空の光を受ける角度で合い、風がふたりの輪郭をひとつの模様に溶かしていく。
言葉は交わされない。
けれど、魂だけがゆっくりと会話しているような、
そんな時間だった。
舞は、自然と終わりを迎えた。
決められた型も、合図もない。ただ、ふたりの動きが重なったまま、
風が一度、全体を撫でたときに、終わりが訪れた。
愛鈴は、少し息を整えながら、その少女の横顔を見た。
光を透かすような黒髪。細い首筋。
けれど目元は凛としていて、まっすぐな意志が宿っていた。
だからこそ、言葉を交わしたくなった。
「私は……愛鈴。森里愛鈴。あなたは?」
名乗った瞬間、少女はちらとこちらを見て、ふっと口元をゆるめた。
「知ってるわよ」
その口調は、どこか軽やかだった。
「10連勝の愛鈴さん、でしょ? いま天上界の武闘塔じゃ話題沸騰よ。名前だけじゃなくて動きでもすぐ分かったわ」
愛鈴は、思わず頬を紅潮させる。
先ほどまでの静けさは、風にさらわれてしまったようだった。
少女は、すっと一歩前へ出て、胸元に手を添える。
そして、わずかに顎を引いて、名乗った。
「私はユズリハ。ユズリハ・立花。女神候補生、序列5位」
声に響きがあった。
誇りや自負ではなく、“ここにいることが当然”という、しなやかな気高さ。
その名乗りには、訓練された者の癖も、古い格式も感じられた。
けれど、その目は、どこかいたずらっぽい。
「私たち、たぶん近い将来、もっとちゃんと向き合うことになると思う。だから今は――名前で呼ばせてね、アイリさん」
愛鈴は、ほんの一瞬、驚いたように目を見開く。
それは親しい友人たちが呼ぶ、私的な呼び方だった。
けれど、なぜか拒む気にならなかった。
「……うん、よろしくね。ユズリハさん」
後書き
ユズリハ ユリ アカネはようつべの「エトラちゃんが見た」からです
ページ上へ戻る