ああっ女神さまっ 森里愛鈴 ―天と地をつなぐ翼―
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14-2 まだ知らなかった炎
それは、本当に一瞬のことだった。
五時間目。国語の授業。空気はすでに午後の眠気に満ち、教科書の活字は誰の目にも灰色の波のように揺れていた。
「──青木さん、じゃあ、次。ここ、読んでくれる?」
黒板を向いたままの教師の声が、教室に落ちた静寂をゆっくりと掻き回す。
瑠璃は反射的に顔を上げ、教科書に目を落とした。
掌に触れる紙の感触が、いつもよりざらついて感じられた。
喉の奥が、妙に渇いている。視界の端に愛鈴の気配が見えた気がして、すぐに教科書へと視線を戻す。
──いつも通り。何も起きていない。普通に読めばいい。
「……“そのとき、夕暮れのなかを──”」
声が、少しだけ震えていた。けれど、周囲の誰もそれに気づいてはいない。
読もうとしたその瞬間──
「ッ……っくしゅん!」
不意のくしゃみ。
予兆も前触れもなく、あまりに唐突に訪れたその爆発に、身体がほんの少し仰け反った。
そして──次の瞬間。
瑠璃の口元から、火が吹き出した。
誰よりも彼女自身が驚いた。
音もなく、熱が奔った。口から火の帯が噴き上がり、教卓の脇をなめて走った炎が、黒板の端、掲示物、教師の机の端に向かって一直線に襲いかかった。
「うわっ!!」
「火っ、火ィー!!」
「何!? え、何したの今──!?」
熱風が空気を裂いた。
紙が焦げ、掲示プリントの端が黒く巻き上がる。教師のコーヒーカップが床に転がり、硝子のような音を立てて割れた。
けれど、生徒たちは奇跡的に無傷だった。
誰も火に触れていない。机も半焼きで止まっていた。
ただ──教室は完全に、騒然となった。
「えっ、今、火……火吹いた!?」
「誰か見た!? 青木さん……口から!?」
「うそ、うそでしょ……!?」
瑠璃は、目を見開いたまま、その場に立ち尽くしていた。
火が出た。
自分の口から、文字通り、炎が。
身体の奥が灼けていた。角がじんじんと燃えるように熱く、額の皮膚がずっと焼け焦げそうな感覚。視界の端が、白く霞む。
息がうまくできない。
足元が崩れた。
「──瑠璃ちゃんっ!」
誰かが叫ぶ声がした。
けれどその声は、もう遠かった。
目の前が黒く染まり、重力が強くなる。意識が、ゆっくりと引き剥がされていく。
──ああ、もうダメだ。
そう思ったとき、ふわりと誰かの腕に抱き留められた感触があった。けれど、それが誰なのかを確かめる暇もなく、彼女の瞼はそっと閉じていった。
教室には、焦げた紙の匂いと、残り火の微かな熱気だけが、静かに漂っていた。
──白い天井が、ゆっくりと視界に広がった。
ぼんやりとまばたきを繰り返す。鼻腔に漂うのは、どこか薬品とリネンの香りが混ざった、病室とは違うけれども似たような匂い。
「……知らない天井だ」
つぶやいた自分の声が、思った以上に普通で、それが少しだけおかしかった。
「ふふっ、冗談言えるなら大丈夫だね」
横から聞こえたのは、森里愛鈴の声だった。柔らかくて、少し笑っていて──それでいて、ちゃんと心配の色が含まれていた。
「……あ、え? わたしは……?」
体を少し起こしかけた瞬間、肩にふわりとブランケットが掛け直された。
「火を吹いて、倒れたんだよ。……覚えてない?」
「……あ、そうか」
思い出しかけた記憶の断片が、焼けた黒板の匂いと一緒に、ふいに脳裏をよぎった。くしゃみ、熱、炎──
「──って、授業はどしたん?」
「ユリに代返頼んだ」
「うをい」
自分の声が跳ねたのを、愛鈴がおかしそうに笑った。体はまだだるかったけど、少しずつ感覚が戻ってくる。喉が渇いてる。視界が安定してきた。布団の感触が心地よくて──ああ、ここ、保健室か。
「目を覚ましたな」
低めの声がして、カーテンが軽く揺れた。
白衣のポケットに手を突っ込みながら現れたのは、見慣れない女性。髪は黒に近い焦茶で、肩の下でまとめられ、眼鏡越しの瞳がどこか達観したような鋭さを帯びていた。
「いきなりの発現だ。身体がびっくりしたんだろう」
そう言って、備え付けの机の前に置かれた椅子へと音もなく腰を下ろす。
「……誰?」
思わず口に出すと、隣で愛鈴がすっと立ち上がった。
「養護教諭の、結城玲奈先生だよ。さっき、私が呼んできたの」
「ふぅん……」
瑠璃は目を細めた。どこかただの先生には見えなかった。
「なにかご存知のような口ぶりですね」
愛鈴が問いかけると、結城は肩をすくめて──
「存じも何も、あたしゃこいつの母親の同級生だよ」
「……!」
思わず、身体を起こしかけてしまう。角がシーツに引っかかって、軽く枕を押し上げた。
「びっくりするわ、こっちが」
「だから、大体のことは聞いてる。あの子の娘だって、見りゃ分かる。……今日は、海が迎えに来るだろ」
言葉の端に、どこか懐かしむような響きがあった。
保健室の中は、どこか放課後の部室のような雰囲気に包まれていた。結城も腕を組んだまま、「子供相手に容赦ないな」と苦笑していたが──その表情が、ふと真顔に戻る。
「……ちょっといいか、青木」
唐突に名前を呼ばれて、瑠璃は姿勢を正した。
「はい……?」
結城は椅子に深く腰かけたまま、まっすぐ彼女の顔を見た。眼鏡の奥の瞳が、観察者のそれに変わる。
「顔、こっち向け」
ゆっくりと顎を取られたわけでもない。けれど、動けなかった。
まるで目の奥まで覗き込まれるような、静かな圧があった。
「……ふむ」
その声には、はっきりと確信が滲んでいた。
「やはりな。人間の瞳をしてない」
「──え?」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
「どういう……ことですか?」
愛鈴が静かに問いかける。その間に、瑠璃は思わずセントパッドを手に取った。
机の上でスリープ解除し、インカメラを立ち上げる。
画面に映った自分の顔。その中に──
「……!」
息を呑んだ。
瞳の輪郭が違っていた。
黒目の外縁が鋭く尖り、光を反射して金属のように光っている。虹彩の内側には、爬虫類のような縦長のスリット。瞬きのたびにわずかに閉じたり開いたりして、まるで獣が光を読んでいるようだった。
──ドラゴンの眼。
明らかに“ヒト”の目ではなかった。
「これ……わたしの……」
声が震える。
「落ち着け。大丈夫、これは“正常”だ。少なくとも、あんたにとっては」
結城の声はあくまで冷静だった。慰めではない。説明の語調だった。
「発現の初期段階では、身体の深部から“源種の因子”が出てくる。火を吹いたってことは、もうフィルターの一部が剥がれたんだ。眼が変わるのは、よくあることさ」
「……よくある……って……」
「私は“人間の尺度”では話さない。安心しろ、視力に問題はない。だが、しばらくのあいだ、この眼は“本質”を映す」
「本質……?」
「感情に振り回されると、きっとこの眼も暴れる。それだけは忘れるな。抑えが利かなくなった時、炎より先に“おまえ自身”が焼ける」
ぞわり、と背筋に寒気が走った。
でもその奥に、不思議な確信もあった。
──これが、私の目。
これが、私の“種” の姿。
額にある二本の角、そして──この眼。
もう、戻れない。
でも、それは“異常”じゃない。少なくとも、この人たちは、そう思ってない。
「……大丈夫。似合ってるよ、瑠璃ちゃん」
そう呟いた愛鈴の瞳には、確かな光があった。自分を見て、怖がっていなかった。
──ほんとうに、そう見える?
聞きたかった。でも、聞かなかった。
かわりに、もう一度だけインカメラを覗き込み、その縦長の瞳に映った自分と、静かに見つめ合った。
そして、しばらくして──
「失礼します。……遅くなりました……」
ドアが開き、声が差し込んできた。
青木海。落ち着いたグレーのスーツ姿に、書類鞄を下げたままの母親が、戸口できちんと一礼して現れた。そして、室内の様子を見て──眉を寄せる。
「………なにしてるの?」
ベッド横のローテーブルでは、瑠璃・愛鈴・結城の三人が、真剣な表情でカードを切っていた。
「だだいま三連勝です」
瑠璃がさらっと答える。愛鈴が恥ずかしそうに苦笑する。
「……あんたね」
海が深いため息をつく。
結城はUNOのカードを置きながら、「よう、海」とだけ言った。
海も軽く片手を挙げて、「はあい、玲奈」と返す。
「今日は連れて帰るよ」
「医者につれてけよ」
「……事情を知ってる方のね」
言葉を交わすそのやりとりは、何年経っても変わらない友人同士のようだった。
「とにかく──医者に行くよ。乗って」
保健室の玄関先で、青木海はきっぱりとそう言って、黒塗りのセダンのドアを開いた。
午後の陽がまだ残る街路に、エンジン音が静かに響いていた。
「……え、今から?」
「今から。予約はしてある」
「そんなに……急ぎ?」
「火、吹いたんでしょ? そりゃ急ぐよ。あと角も立派に生えたし」
助手席のドアをためらいがちに閉めながら、瑠璃はため息をついた。走り出す車内には、エアコンの冷風と、緊張の匂いが漂っていた。
訪ねた診療所は、町外れの住宅街にひっそりと建っていた。看板には一般内科とだけあったが──中に入るとすぐ、「そっち方面」への理解があることが分かった。
医師は人間だった。けれど、ドラゴンの血統について既に情報共有を受けており、眼の変化も炎の発現も「想定の範囲内」と、こともなげに言ってのけた。
診察室の壁には、普通の解剖図のとなりに──爬虫類型の神経系統図が貼られていた。
「今後も、月に一度は診せに来てくださいね。経過観察が大事ですから」
瑠璃が「……うわ、マジか」と呟いたのを、海は無言で背中を押して促した。
帰り道。ハンドルを握る海の横顔は、いつになく真剣だった。
「ともかく──火をコントロールしよう。できるようになるまでは……学校、休み」
「──えっ、ええっ!? うそでしょ!?」
「うそじゃない。角があって、火を吹いて、眼が竜なら……それを自覚して扱えるようになるまでは、普通には戻れないの」
「戻れないって……」
「なせばなる、なさねばならぬ。とにかく、それしかない」
その断定に、反論の余地はなかった。車は夕暮れの河原沿いを走り、いつのまにか家ではなく、広い堤防の駐車場へと滑り込んでいった。
こうして──“特訓”が始まった。
河川敷。風が強くて、草の匂いが鼻をくすぐる。目の前の瑠璃は、空っぽのペットボトルを並べられた的に向けて、拳を突き出していた。
「──火、出ろ」
出ない。
「燃えろ、って言えばいいんだっけ」
出ない。
「──炎よ、いでよ……?」
「それはちょっとダサい」
横から海のツッコミが飛ぶ。
数日間、試し続けていたが、あの日のような火炎は一度も出てこなかった。
「……ていうか、出ないままのほうがよくない?」
ぼやいたその声は、本気だった。
「無理無理。一度出たってことは、もう“中にいる”ってことよ。次に暴発したら、あんたじゃ止められない」
「うぅ……」
そう言って、頭を抱えた瑠璃の前に、ひょいと人影が差し出された。
「エネルギー切れかも、です」
愛鈴だった。赤いお弁当箱を両手に持ち、どこか遠足帰りのような笑顔で立っていた。
「ちょっと早めだけど、お昼ごはんにしようと思って。休憩だよ、休憩」
「……まさか、応援に来たわけ?」
「うん。あと、おにぎり食べたら、何か出るかもって」
「その理屈……どうなの……」
けれど、海は「腹が減っては火も出ん」と真顔で頷いていた。
結局、三人は河川敷のコンクリート段に並んで座り、ピクニックのように弁当を分け合った。昼食タイム。瑠璃が三つ目のおむすびを一口噛んだとき、風が一段強く吹いた。
その瞬間──
「…………なんか、出そう」
低く、喉の奥から言葉が漏れた。
角の根元が熱くなる。喉が焼けるように乾く。背中の内側に、あのときの“火”が──ふたたび、ぐるぐると回り始める。
「よし、行け!」
海が叫んだ。
「がんばれ!」
愛鈴が続いた。
瑠璃は両足を踏みしめ、右手を前に突き出した。
「──これが…………人間なわけ、あるかあああああッ!!」
爆ぜた。炎が、真っ直ぐに空を裂いた。
轟音と熱風とともに、数メートル先の空中に広がった火柱が、燃える竜の尾のようにうねって消えた。
沈黙。
草がひるがえり、土が巻き上がり、空気が焦げていた。
「お見事……!」
愛鈴が小さく拍手を送った。
「いいファイアーだったぞ」
海は笑って言った。
瑠璃は膝に手をついて、肩で息をしていた。
──出た。出たんだ。
まだ手が、震えていた。
でも、たしかに“制御して出せた”。
炎は、もう“敵”ではなくなりつつある。
風が、優しく髪をなでた。
河川敷の風が、さわさわと草を揺らしていた。
すっかり陽も高くなり、空は眩しいほど青く、まるでこの地上で少女が火を噴いたことなどなかったかのように静かだった。
「じゃあ今日は──実戦形式でやってみようか!」
ぱん、と手を叩いて満面の笑顔を浮かべたのは、森里愛鈴だった。
「は?」
瑠璃は、手のひらの熱を鎮めながら、引きつった顔で振り返った。
「なに言ってんの、あなた」
「いや、だってさ、火を“出す”のはできたんだから、次は“どう使うか”ってステップに入るべきじゃない?」
「使うって……あたし、兵器か何かじゃないんですけど!」
「でも、例えて言えば……うん、ほら、シンゴジラの“内閣総辞職ビーム”みたいなやつ?」
「な ん で 知ってるのそのワード!?」
愛鈴は指を立てて、きらきらと目を輝かせた。
「空を焦がすような一直線の熱線、ぐおおおおーって、あれ! あれできたらかっこいいと思わない?」
「思わない! ていうか、あれやったら自衛隊が出てくるやつだから!!」
「じゃあさ、せめて“火の矢”とか、“範囲焼却”とか、“魔導砲”っぽく──」
「無理無理無理!! 私を何だと思ってんのよ!! 中学生よ!? ヒューマンよ!?」
絶叫する瑠璃に対して、愛鈴は変わらずニコニコしていた。というか、その笑顔がどんどん“ワクワクしてる人の顔”になっていってるのが怖い。
「……わかった、じゃあひとまず、昨日みたいに“前方集中”で出す練習をしてみようよ。私、離れて立ってるから。大丈夫、任せて!」
「信じられない。……けど、やるしかないのかぁ」
しぶしぶ準備を始めながら、瑠璃は心の中で母に向かって「止めてくれよ…」と祈った。だが母・海は車内から双眼鏡を構えてニヤニヤしているだけだった。
──だめだこの家族、誰も止めない。
草の上に立ち、深く息を吸う。両足を踏ん張り、喉に熱を集めていく。額の角が少しだけ脈打った。火は、もうそこにある。
「……いくよ」
風が静まる。
「燃えろっ……!」
次の瞬間、瑠璃の喉元から、炎がほとばしった。
火は、目標の空中へと一直線に伸び──
「わあっ、ちょ、逸れた!!」
軽く角度が狂った火炎が、横にいた愛鈴の方へ飛ぶ。
「あぶなっ──!」
しかし、愛鈴は微動だにせず──
すっ、と右足を半歩引き、ひらりと身体を旋回させた。
炎が、紙一重で彼女の身体をかすめていく。制服のスカートが、風圧でふわりとめくれたが、火は掠りもせず、背後の空へと消えていった。
瑠璃の目が見開かれる。
「えっ、今の、どうやって──」
「ふふっ、“かわした”だけだよ」
ふいに見せたその笑みは、風のように軽やかで──けれど、確かな芯があった。
「……おしいね」
「え?」
「力はね、“制御してこそ、力”だよ」
その言葉が、胸の奥で音を立てて響いた。
思い出す。昔、母に言われたことがあった。
──“力はね、振るうものじゃなく、治めるものよ”
それが、いまようやく、少しだけ意味を持った気がした。
「……はあ、なんか……ほんと、めんどくさい体になっちゃったなあ」
「でも、ちょっとずつ、使いこなしていけばいいんだよ」
そう言った愛鈴の目は、まっすぐで、嘘がなかった。
瑠璃は深く息をついた。
火はまだ、喉の奥にある。だけど、怖くはなかった。
──制御して、私の力にする。
それが、今の目標だった。
愛鈴に親友が増えた。
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