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続・プレイボール ~ちばあきお「プレイボール」“もう一つの続編”~

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第2話 行こう甲子園へ!の巻

 
前書き
倉橋豊:三年生。墨谷高校野球部の正捕手にして、名参謀。長身の堂々たる体躯。
 入部当初は、歯に衣着せぬ発言で周囲と軋轢があったが、それもチームを思ってのこと。なんだかんだで面倒見が良く、現在では良好な人間関係を築いている。
 隅田中学出身。当時、地区随一の名捕手と噂されていた。松川とは、この頃からバッテリーを組む。地区大会準決勝では、谷口擁する墨谷二中と対戦。延長戦に縺れ込む激闘の末、惜敗した。

井口源次:一年生。イガラシの幼馴染にして、因縁のライバル。江田川中学出身。
 イガラシ曰く、わりと単純で、かげひなたのない性格。ただし、頭に血が上るとみさかいが付かなくなることがあり、小学生の頃に教師を殴り、停学を喰らった経歴の持ち主。
 野球の才能は、イガラシをも凌ぐ。中学自体は、豪速球と「直角に曲がる」シュートを武器に、あの青葉学院を完封。決勝でイガラシ率いる墨谷二中と激闘を繰り広げた。

根岸:一年生。西武台中学出身。原作には名前のみ登場。
 リトルリーグ時代には四番打者も務めたスラッガーだが、中学では野球部が弱小だったため入部せず、ブランクが長い。そのため変化球への対応に苦しみ、現在は控えに甘んじているものの、前向きに努力する姿勢はイガラシも認めている。
 勝気ながら明朗な性格であり、キャッチャーらしい冷静さ、観察眼も備えている。
 

 
1.工場裏の空き地

 すっかり日は落ちていた。それでも工場裏の空き地は、建物の明かりに照らされ、昼間と変わらずモノがよく見える。
「いくぞ!」
 制服姿のイガラシ、足元を軽く均した。そして投球動作へと移る。
「ナイスボール!」
 弟の慎二が、片膝立ちで捕球した。
「真っすぐ、また速くなったんじゃない」
「へへっ、まぁな。中学野球を引退してから、一人で毎日走り込みを続けてたが、その成果が出てきたようだぜ」
 返球を捕り、イガラシは「そういや……」と弟に尋ねる。
「この空き地、最近はもう使ってないのか」
「うん。ちいとも」
 慎二は苦笑いを浮かべた。
「現キャプテンの近藤さんが、長く練習するのはよくないって考えだもの」
「フフ、そうか。近藤らしいな」
 近藤というのは、墨谷二中時代の一期下の後輩だ。少々練習態度や協調性に問題はあるが、投打ともに秀でた力を持つ男である。昨夏の中学選手権後、イガラシは自らの後任キャプテンとして指名していた。
「なに感心したみたいに言ってるのさ」
 珍しく、慎二が露骨に溜息をつく。
「みんな不安がってるよ。地区大会まで、もう三ヶ月を切ってるのに。こんな生ぬるい練習でだいじょうぶかって」
「む。例年なら、そろそろ夏へ向けて特訓機関に入る頃だが」
「ひとごとだと思って。近藤さんをキャプテンにしたのは、アニキのくせに」
 まあまあ、と弟をなだめた。
「だからこうして、夜間練習につき合ってやってるんじゃねえか。それとな慎二」
 イガラシはふと、口調を険しくする。
「不満があるのなら、俺にグチってないで、直接近藤に言えよ。でなきゃ始まらないぜ」
 うっ……と、さしもの慎二も口をつぐむ。
「つぎ、カーブな」
「あ、うん」
 短く言葉を交わし、兄弟は投球練習を続けた。
「……わっ」
「あ、わりぃ」
 想定よりも大きく曲がった。慎二のグラブが、ボールを弾く。
「ううむ……カーブを思うように制球するのは、簡単じゃないな」
「内と外は投げ分けられてるし、十分だろう。ちゃんと低めにも集まってるから」
 慎二がボールを拾い、投げ返す。
「いいや、そうはいかん」
 きっぱりとイガラシは答えた。
「中学野球では通用しても、高校ではさらに力のあるバッターを相手にしなきゃならんからな。少しでも制球をよくしないと」
 あれ、と慎二が首を捻る。
「兄ちゃん、とうぶんは内野手でって言われたんだろ」
「なぁに。よく言うだろ、備えあれば憂いなしって」
 笑って答えたものの、内心には切迫感があった。
(内野手に専念できれば、たしかにラクではあるが……そうはいくまい。井口も片瀬も、まだ未知数だし。なにより谷口さんが、あれだけ打ち込まれたんだ。俺だって、やれることはしとかねえとな)
「さ、どんどん投げるぞ」
 一声掛け、さらに付け加える。
「この後、おまえノック受けるだろ?」
「もちろん」
 そこから二十球、投げ込んだ。速球、カーブ、シュート、落ちるシュートと一つ一つ、制球やキレを確かめながら放っていく。
「……よし。どれもキレは問題ねぇが、やっぱりカーブの制球だな」
 グラブを置き、バットに持ち替える。
「どうする、ちょっと休むか?」
 やや挑発的に言うと、慎二は「まさか」と返事した。
「兄ちゃんのボールを受けるぐらいじゃ、疲れないよ」
「ちぇっ、言ってくれるじゃねえか」
 バットを構え、弟へ告げる。
「そら、いくぞ」
「よしきた」
 いきなり強いゴロを打ったが、慎二は難なくグラブに収めた。続けて右へ、左へと打ち分けるが、どれも追い付いて捕球する。
「ようし。これなら、どうだっ」
 イガラシは、小フライを打った。いわゆるポテンヒットになる打球だ。
 慎二は、落下点めがけて一直線に走る。そして半身の体勢でジャンプした。そのまま倒れ込んだが、こちらに顔を向け「へへっ」と、挑発的な笑みを浮かべる。
「ぼやっとすんな。ほら、つぎがくるぞ」
「さぁこい」
 続けて十球、どれも難しい当たりを打ったが、慎二はすべて捕球した。憎たらしく思いながら、それでも感心する。
 こいつ。なかなかどうして、うでを上げてきてやがる。
「まだまだぁっ」
 バットを構えようとした時、ふいに砂利を踏む音が聴こえた。
 顔を向けると、意外な人物がこちらに歩いてくる。自分と同程度の背丈。こう言うと本人は怒るだろうが、おにぎりのような顔の輪郭。
「……丸井さん」
「やはりここだったか」
 丸井は、まだ帰宅していないらしく、制服のままだった。懐に、小さな紙袋を一つ抱えている。
「またユニフォームに着替えたのかよ。おまえら兄弟は、あいかわらずだな」
 すぐに慎二が駆けてきて、一礼する。
「丸井先輩、おひさしぶりです」
「やあ慎二くん。見ていたが、うでを上げたじゃないか」
「はい、おかげさまで。これも先輩のご指導のたまものです」
 二人の傍らで、イガラシは頬をぽりぽりと引っ掻いた。
(けっ。あいかわらず、口の達者なやつめ。つまんねぇ気ぃ、きかせやがって)
「で、なんの用です?」
 何だか面白くなくて、つい素っ気ない口調になる。
「そうツンツンすんなよ。おそくなったが、ちょっとした俺っちからの入学祝いだ」
 丸井は、紙袋を差し出した。受け取ると温かい。
「ほら、開けてみな」
 袋を開ると、中に鯛焼きが六個入っていた。
「うわぁ。おいしそうな鯛焼き!」
 慎二が無邪気に喜ぶ。イガラシは、さすがに少し恐縮した。
「ありがとうございます。でも、こんなにたくさん……」
「なぁに。鯛焼きのオヤジが、作りおきが余ってるってんで、ただでくれたのよ。さっ冷めないうちに、食っちまおうぜ」
 三人は、空き地の隅のベンチに座り、鯛焼きを分け合った。
「この鯛焼きおいしいです。先輩、よく見つけてきましたね」
 一個をたいらげると、慎二はそれとなく丸井を持ち上げる。
「いぜん、谷口さんにもみやげに持っていったのよ。あの人も、たいそう気に入ってくれてな。あっという間に、ぺろりだったよ」
 イガラシは自分の分を取り、紙袋を丸井に差し出す。
「丸井さんも、お一つどうぞ」
「ガラにもなく気ぃ遣うなよ。入学祝いだって、言ってんだろ」
「気持ちはうれしいですけど、先輩が食べてないと負担感じちゃいますよ」
「へぇ。おまえ、意外に気をつかうやつなんだな」
 丸井は笑い、鯛焼きを「んあー」と頭からかぶり付く。イガラシもしっぽから齧った。
「……へぇ。この鯛焼き、小豆の甘みがさっぱりしてますね」
「そうだろ? 変に甘ったるくなくて、食べやすいんだよ」
「これ、塩が効いてるんスよ」
「塩だと? アンコにか」
「ええ。砂糖だけだと甘ったるくなっちゃうんですけど、ちょっと塩を効かせると、こんな感じで甘みが引き立つんですよ」
「なんでこんなコト、知ってんだよ」
「だって……うちが、中華ソバ屋なので」
「そういやぁ中学の合宿ん時、おまえラーメンを作ってたっけ」
「ヘンなこと覚えてますね」
「ああ。おまえのラーメン、みょうに美味かったからな」
「みょうに、は余計ですよ」
 イガラシは、慎二に紙袋を手渡した。中にまだ二個残っている。
「これ、おやじとおふくろに持っていってくれ。すまんが、先に帰って、店の手伝いしててくんねぇか。店じまいの時は、俺が代わるから」
「うん、分かった」
 慎二はほどなく、荷物をまとめて制服に着替え、その場を立ち去った。
「……ははぁん」
 丸井がこちらに流し目を向け、にやりと笑みを浮かべる。
「な、なにか」
「イガラシって、あんがい家族思いなんだな」
「ほっといてください。それより、ほんとうは何の用件ですか?」
「うむ、それなんだが」
 丸井はみるみるうちに、深刻そうな顔になる。
「……マズイことになった」
 ああ、とうなずき答える。
「片瀬のことですね」
 はっとしたように、丸井が大きく目を見開く。
「なんだ。知ってたのか」
「というより……急に帰ったので、そりゃ何かあったと思うのが自然でしょう」
 淡々と、イガラシは答えた。
「それに谷口さんと倉橋さんも、明らかに様子がおかしかったですし」
「……なるほど」
 丸井は、大きくため息をついた。
「そこまで察しているのなら、話は早い。じつはな」
「やはり、重傷でしたか?」
 後輩の返答に、丸井は「あらっ」とずっこける。
「なんでそこまで」
「見てりゃ分かりますよ」
 苦笑いしつつ、イガラシは話を続けた。
「はじめは俺も、ブランクが長いせいかと思ってたんですけどね。しかし十日近くたっても、まるでフォームが安定してなかったですし、このごろボールも全部浮いてたので。これはきっと、どこかケガしてるんじゃないかと」
 丸井はしばし瞑目し、やがてぽつりと言った。
「……少なくとも、三週間は運動禁止だそうだ」
「三週間! やはり、けっこう重いですね」
「うむ。ひざに負担がくる運動は、一切しちゃダメだってよ」
「それじゃあ……ピッチングどころか、走り込みさえできないじゃありませんか」
 思わず溜息が漏れる。
「順調に回復できたとしても、そこから体力やら持久力やら、ちょっとずつ戻していかなきゃいけないですよね。どんなに一所懸命やっても……」
 ああ、と丸井がうなずく。
「夏の大会に間に合うかどうかは、よくて五分五分といったところだろう」
「となると……夏まで投手陣は、三人体制でってことになりますね」
 これじゃ厳しいぞ、と胸の内につぶやく。
「くそっ」
 丸井がふいに、足元の小石を蹴った。
「イガラシ、おらぁ悔しいぜ。戦力的に痛手ってのもあるが、それ以上に……片瀬のやつ、がんばってたじゃねぇかよ。知ってるだろ? あいつが、昨年のおまえ達が優勝した大会を見に来てたってこと」
「ええ。すでに俺の名前を知ってたので、おどろきましたよ」
「よほど野球をあきらめたくなかったんだな。あえて中学の野球部には入らずに、一人でくさらずリハビリを続けてたんだ。なのに、こんな……」
 まぁまぁ、とイガラシは先輩をなだめる。
「なにも野球ができなくなったわけじゃないですし。夏には間に合わないにしても、あいつには来年、再来年とあるので。そこへ向けてがんばるだけですよ」
「……そ、そうだったな」
 気を取り直すように、丸井が微笑む。
「ケガのつらさは、おまえもよく知ってたな」
「え、ええ……ほめられたことじゃありませんが」
 イガラシは頬を掻きつつ、苦笑いした。
「ところで丸井さん」
 そして、ふと口元を引き締める。
「いまのうちに、確認しておきたいことがあるんですけど」
「お、おう。なんだよ」
 丸井も真顔になり、こちらと目を見合わせる。
「いまのチーム。正直なところ、どこまで目標にしてます?」
「どこまでって、そりゃ……」
 幾分ためらいながらも、きっぱりと答えた。
「甲子園にきまってるだろ」
 イガラシは、無言でうなずく。
「少なくとも谷口さんは、本気でそう思ってるはずさ。だから……谷原にあんな負け方して、そうとうショックだったろうよ」
「ええ……でもね、丸井さん。今日の負けにうろたえてるようじゃ、とうてい甲子園にはたどりつけませんよ」
「な、なにいっ」
 途端、丸井が睨む目付きになった。
「誤解しないでください」
 すぐにそう付け加える。
「谷口さんを中心に、シードをかく得するくらいには強くなった。そこは自信を持っていいと思うんです。ただ、そうだな……登山にたとえると分かりやすいかも」
「と、登山だって?」
「ええ。いまのうちは、ガムシャラにがんばって、なんとか山の中腹までは来ました。でも、そこからさらに進めば、今までとまったく景色がちがってくるんです」
 なるほど、と丸井は目を丸くした。
「つまり……今日の俺っちらは、初めて見る景色にめんくらって、自分を見失っちまったってことか」
「そういうことです」
 丸井の理解の早さが、イガラシは嬉しかった。
「でも、これで全員、よく分かったと思うんですよ。五回戦あたりまで勝つのと、準々決勝、準決勝、決勝とさらに進んでいくのとは、まるで次元の違う話だってことが」
 一つ吐息をつき、率直に思いを告げる。
「分かった上で、覚悟しさえすれば……俺はじゅうぶん行けると思いますよ、甲子園」
 丸井は、呆れたような笑みを浮かべる。
「ずいぶん、カンタンに言いやがるな。あれだけコテンパンにされた後だってのに」
「数字上はね。でも丸井さん、もっと冷静に振り返ってみましょうよ」
 イガラシは、ふふっと含み笑いを漏らす。
「少なくとも今日の試合から教訓になったことは……力の差がある相手に、なんの準備もしないでぶつかったら、ああいう結果になるってことだけですよ」
 なっ……と、丸井が口をあんぐり開ける。どうやら意表を突かれたらしい。
「これが公式戦なら、きちんと相手のことを調べて対さくもしてから、試合にのぞむはずじゃないですか」
「た、たしかに……」
「今回はやられましたけど。これで谷原が、どういうチームかよく知れたので、つぎはぜったい同じ結果にはならないですよ」
 丸井が、ははっと笑い声を発した。
「なんだかイガラシの話を聞いていたら、ほんとにやれそうな気がしてきたぜ」
「もちろん口で言うほど、やるのはカンタンじゃありませんけどね」
 イガラシはそう言って、すっくと立ち上がる。
 どこかで警笛が鳴った。やや遅れて、路面電車が走り去る音。春の夜風を吸い込み、傍らのグラブを拾い上げる。
「帰りましょうか」
「む、そうだな」
 荷物をまとめつつ、イガラシは「ようし」とつぶやく。ひそかに一つの決意を固めていた。


2.河川敷グラウンド

―― 谷原との練習試合から、五日間が過ぎた。
 土曜日。墨高野球部は、OB会が借用してくれた河川敷グラウンドにて、大島工業と練習試合を行っていた。
 すでに試合は、七回まで進んでいる。墨高ナインは、守備に着いていた。マウンドには、二年生投手・松川が立つ。


三遊間に速いゴロが飛んだ。
「おおっ……あぁ」
 センターへ抜けたと思ったのか、束の間沸き立つ相手ベンチを、イガラシは視界の隅に捉える。左腕を目一杯伸ばしたが、飛び付くまでもなく、ある程度余裕を持って捕球した。
「へいっ」
 丸井がタイミングを合わせながら、二塁ベースに入る。
「セカン!」
 イガラシが右手で素早くトスすると、丸井はすぐに一塁へ転送した。一瞬にして、ダブルプレーが成立。
「タイミングばっちりです、丸井さん」
 そう言うと、丸井はにやっと笑みを浮かべた。
「ふふっ、そうだろう。今のもおまえが捕ると予測して、ちゃんとタイミングを計ってベースに着いたんだ。これも長年の経験のたまものってやつさ」
「欲をいえば、さっきの内野安打はアウトにしてもらいたかったですけど」
 ありゃっ、と丸井がずっこける仕草をする。
「わ、悪かったな」
「すみません。丸井さんには、どうしても期待しちゃうので」
「おっおう。期待してくれ……って、こらイガラシ。人をからかいやがって」
 イガラシは笑いをこらえながら、二本指を立てて頭上に掲げる。
「……つ、ツーアウト! しまっていこうよ」
 視線を流していくと、谷口の眼差しとぶつかった。微笑んで「ナイスプレー」と声を掛けられる。
「ほんとに、どこでも守れるんだな。丸井との連携も問題なさそうだ」
「え、ええ。まぁ練習もしてましたし」
 おや、とイガラシは思った。谷口の表情に、心なしか陰りがある。
 鈍い打球音が響く。松川の内角への直球に、相手打者が力負けしたようだ。ホームベースのやや後方へ、白球が高々と上がる。
「オーライ!」
 倉橋が右手を上げ、数歩下がっただけで捕球した。キャッチャーファールフライ、スリーアウト。簡易スコアボードの八回裏の枠に、控え部員が「0」と書き込む。
「よぉし松川、ナイスピッチング」
「この段階で、八回を一失点。上々じゃないの」
「守備もここまでノーエラーだ。最後まで、しめてこうぜ」
 ナイン達は声を掛け合いながら、足早にベンチへと引き上げる。
 土曜日ということもあり、周囲には多くのギャラリーが集まっていた。中には、制帽を被った男子生徒の姿も、ちらほら見える。墨高のものではない。どうやらライバル校の偵察部隊らしい。
「ふふっ、わざわざご苦労なこった。これじゃ……ろくな収穫はないだろうが」
イガラシはひそかに、含み笑いを漏らす。

――この日の対戦相手、大島工業は強打が売りで、見た目にも腕っぷしの強そうな選手が揃っていた。しかし、なまじバッティングに自信があるせいか、大振りが目立つ。
 先発の松川と倉橋のバッテリーは、その弱点を突くピッチングを披露した。緩急を付け、コースを投げ分ける。それだけで、あっけないほど簡単に仕留められた。

「やつら、あいかわらず振り回しやがる」
 心底呆れたように、キャッチャー倉橋が吐き捨てる。この大島工と、墨高は昨夏の都大会でも対戦し、二対〇と完封していた。その時の対策が、まだ通用したらしい。
「ちっとも成長してねぇ」
 正捕手倉橋の辛辣な発言に、同じ三年生の横井も「まったくだ」とうなずく。
「まだこりてないってんなら、ちゃんと思い出させねえとな」

 オウヨ、と戸室も同調した。
「墨谷の恐ろしさ、イヤってほど味わわせてやる」

―― 試合は三年生達の、まさに言葉通りの展開となった。
 松川の好投に応えるように、打線も力を発揮する。初回と三回に1点ずつ挙げると、一点差とされた直後の四回裏に一挙3点。七回にも2点を追加した。大島工の主戦投手、さらにはリリーフも打ち崩し、八回を終えて七対一と大きくリードを奪う。
 五番ショートで先発起用されたイガラシも、二本の三塁打を放つなど三打数三安打。レギュラー奪取へ向け、ほとんど申し分のない結果を残す。

「おいイガラシ。何ぼうっとしてるんだ」
 袖を軽く引っ張られる。丸井が、怪訝げな目をこちらに向けていた。
「そろそろ打席の準備しとかねぇと。谷口さんの次、おまえだろ」
「あ……すみません」
「どしたい、なにか悩みごとか。俺っちでよければ聞くぞ」
「べつに……ただ、回の先頭だったはずの丸井さんが、どうしてここにいるんだろうって」
 つい憎まれ口を叩いてしまう。
「うるせぇよ。とらえた当たりが、センターのまっ正面だ。悪かったな、凡フライの加藤よりマシ……おおっ」
 周囲から歓声が上がる。倉橋がレフト線へ二塁打を放った。続いて谷口が、ゆっくりと打席へ入っていく。
 イガラシは、無人となったネクストバッターズサークルに入った。マスコットバットを拾い上げ、軽く素振りを繰り返す。
 谷口が、四球で出塁した。ストレートの四球だ。相手バッテリーは、主軸打者を警戒しすぎたか、際どいコースを狙った球がことごとく外れてしまう。しょせんは控え投手だな、とイガラシは鼻白む。
 打席に入ると、相手投手は肩で息をしていた。もはや誰の目にも限界だと分かる。
 その初球。変化球がすっぽ抜けたのか、力のない球が真ん中高めに入ってくる。躊躇なくフルスイングした。
 ライナー性の打球が、レフト頭上を襲う。そのまま川面へと飛び込んだ。小走りにダイヤモンドを回り、倉橋、谷口に続いてホームベースを踏む。
 ベンチに帰ると、谷口が「ナイスバッティング」と声を掛けてきた。
「あ、はい。失投……というか、すっぽ抜けでしたが」
「いまの打席だけじゃないさ。今日は攻守ともに、文句のつけようがない」
「はぁ……どうも」
 手放しの賞賛に、少し戸惑う。
「ほんと大したものだ。軟球から硬球に変わっても、戸惑いなくプレーできるとは」
「ええ。中学野球を引退して、もう半年近くたってますし。硬球に慣れる練習は、ずっとしてきましたから」
 先輩と言葉を交わしつつ、イガラシは「おや?」と思った。
(谷口さん、なんだか元気ないみたいだ。谷原戦で大敗したショックを、まだ引きずってるんだろうか)
「ところで、肩の方はどうなんだ?」
「えっ。肩ですか」
 思わぬ質問に、目を見上げる。
「ぼく……ケガしてたなんて、言いましたっけ」
「丸井から聞いたんだ。昨年の選手権で、おまえだいぶ無理して、しばらく茶碗も持てなかったそうじゃないか」
 そうか、と胸の内につぶやく。
(谷口さんが俺を内野手に専念させようとしてるのは、チーム事情として攻守の穴をうめるだけじゃなく、ひょっとして俺の肩を心配してくれたのかもしれんな)
「どうなんだ、イガラシ」
「それは……なおったから、こうしてプレーしてるんじゃありませんか」
 二人の間に、しばし気まずい沈黙が流れる。

―― 九回、墨高は攻撃の手をゆるめず。イガラシのスリーランホームランなどで、一挙6点を追加したのである。
 その裏。墨高は松川に代えて、谷口をマウンドへ送った。
 谷原戦のショックが心配された谷口だったが、大量失点に気落ちした相手打線を寄せ付けず、三者連続三振で試合を締める。
 けっきょく試合は、十三対一と墨高の圧勝に終わったのだった。

 
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