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冥王来訪

作者:雄渾
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第三部 1979年
姿なき陰謀
  隠然たる力 その2 (旧題:マライの純情)

 
前書き
 秘事の結末がどうなるかといえば、こうなるとしか…… 

 
 その頃、アイリスディーナは初級士官の課程として、人文・社会科学の講義を受けていた。
 冷戦期は、19世紀以降の近代軍隊から変容の時期であった。
軍隊が戦争遂行の道具であるという一面的な認識は、すでに過去のものとなりつつあった。
 そして急速な科学技術の発展は、そのことをより強めた。
将校に求められることは、高度な科学技術に基づく装備を運用する技術者という面も大きくなっていた。 
 従前の東ドイツ軍では、ソ連赤軍と同様に、厳格に定義された職務を遂行する人材が重要視された。
しかし、BETA戦争で各部隊を指揮する将校の自己裁量が求められる場面が増大した。
 通信が途絶し、孤立した部隊をどう運用するか。
自ら問題解決を試行錯誤しなければならない場面が増えてきた為、自ら判断を組み立てることができる能力を育む人文科学教育のカリキュラムを大幅に追加することとなった。 
 ちなみに現在の米空軍では、学科教育の半分の時間を人文・社会科学に割り当てることが決められている。
 
 午前の講義が終わったころ、アイリスディーナは戦闘団長室に呼ばれていた。
そこには、帝国陸軍の野戦服に身を包んだマサキが立っていた。
彼女の目には、どことなく気障(きざ)に映った。
「き、木原さん……いつの間に来られたのですか」 
驚きとも好奇心ともつかない声を出した彼女は、目を丸くした様子だった。
「せめて、事前に連絡でもくれれば……」
 アイリスディーナとの半年ぶりの再会に、マサキも心躍った。
久しぶりに聞く「木原さん」という声が、マサキの鼓膜を心地よく震わせた。
「お前に逢いに来た」
 突然のコットブス空軍基地訪問に、アイリスディーナは、まだ驚きを隠せないようだった。
マサキが目の前に現れたことを、信じられないようにつぶやく。
「どのような要件で……」
 ある種の感動に包まれて、マサキの手を両手で覆った。
「午前の課業が終わったばかりなので、帰宅するはちょっと先になりますが、待っていてもらえますか。
家に帰ったら、ゆっくりお伺いします。
私の方からも重要な話がありますので……
昨日いただいたばかりの、南米のグァテマラ産の本物のコーヒーを入れましょう」
「その必要はない」 
 アイリスディーナの表情が、途端に曇った。
目の前にいる、責任者のハンニバル大尉をないがしろにする言動の為ばかりではない。
マサキが、自分の事を差し置いて、仕事を優先すると思ったからである。
「えっ!」
 彼女もまた、若い現代の女であった。 
私より仕事が大事なんだ……でも、それは仕方ない。
そう、考えた矢先である。
 アイリスディーナの意図を察したマサキは、その手を握り返した。
「今すぐ、お前を、連れ出す許可を取りたい。
年頃の娘が帰りが遅くなるようでは、周囲も心配するからな」
「……」
彼女は、心の隅で申し訳ないという気持ちを抱きながら、()じらいの笑みを浮かべた。
「俺とゼオライマーで遠乗りに出かけよう。今すぐにな……」
 戦闘団長室の椅子に座るハンニバル大尉は、その場で二つ返事で快諾してくれた。
「同志ベルンハルト少尉、只今より12時間開放する」
本来ならば、前日の午前中までに提出せねばならないのだが、急な半休を調整してくれた様だった。

 午前0時までの門限を決められて、外出を許されたアイリスディーナ。
彼女は、マサキと共に基地の外に出た。
 ベルリンにあるボルツ老人の邸宅に場所を移して、マサキの土産話に花を咲かせた。
「先日まで、インドにいらしたと……」
 本来ならば、そういう質問に答えないのが軍人の常である。
元々が民間人のマサキは、警戒心が甘かった。
「ちょっとばっかり、モルディブやセイロン(今日のスリランカ)に遊びに行っていた」
 マサキは、日に焼けた頬へ微笑を浮べながら、
「一応、土産は何がいいかわからないから、適当に買ってきた。
バナナや、ダージリン、アッサム、セイロンの茶葉。
絨毯に、カシミヤのスカーフ……」
 そういって、山積みになった段ボールから包み紙に包まれた物を取り出す。
包み紙にくるまれていたのは、インド原産の宝石や貴金属類であった。
それらを、無造作に机の上に並べながら、
「セイロンは、ルビーの原産地の一つでな……
お前の好みに合うかわからないが、民族衣装のサリーもあるぞ……気が向いたら着てくれ」
 アイリスディーナは、瞬きもせずに、赤く頬を染めて、マサキを見上げている。
夢を見ている感じだ。
そんな表情だった。
「お忙しいところを……一番に……」
 彼女は、瞳を震わせ、感極まって、打ち震えている。
思いがけない一言に、マサキは昂奮(こうふん)を覚えた。
「ああそうだ、お前の顔を拝んでみたくなったのさ」
おもむろにホープの箱を取り出して、タバコに火をつけると、こう切り出した。
「アイリス、重要な話とは何だ」
「実は……」
 アイリスディーナの話はこうだった。
 ユルゲンと一緒にいるマライが何やら重大な問題があるので、マサキの事を呼んでほしいという内容の電話を昨日受けたという事である。
 マサキは、重要な話と聞いて、いくつかのパターンを類推した。
 まず、ユルゲンに西側のスパイが接近したという事である。
駐在武官、外交官、大使館事務員を装ったスパイが虚実織り交ぜた怪情報をユルゲンに渡し、彼を自分たちの協力者にするというパターン。
 次に、ユルゲンとマライの関係の変化である。
もっとも懸念されるのは、マライの妊娠である。
 国家人民軍の任務とはいえ、夫婦としてアンダーカバーを装ううちに本当の夫婦同然になり、深い関係になった。
あるいは、出国前から深い関係なのかもしれないが、国外という事で羽目を外したことも考えられる。
 家庭環境が、決して幸せとは言えない、ユルゲンとアイリスディーナの兄妹だ。
今回の問題も決着の付け方によっては、全員が不幸になる。
 ユルゲンやアイリスディーナはおろか、一方の当事者であるマライ。
そしてユルゲンの妻であるベアトリクス……
 救いはユルゲンとの間にすでに一子がいる事か……
ベアトリクスの妻としての立場はゆるぎないし、問題はないと思うが……
 ただ彼女は、文化的に妻妾を設ける東洋人でもないし、一夫多妻制を許容する第三世界人ではない。
どう諭すか、これも考え物だな……
 マライもマライで、自分の子供は愛しかろう……
好んで自らの体に宿った生命に手をかける女はいない……
少なくとも、彼女に関してはそう信じたい。
 海外出張で、単身赴任中の夫が男女の過ちを犯すというのは、よくあるパターンだ。
せめてもの救いは、同国人同士という事か……
 最後に考えられるのは、ユルゲン自身が米政府に出奔する用意をみせるという事である。
しかし、これは考えづらい。
 東ドイツ政府はすでにベアトリクスとユルゲンの息子という人質を抱えている。
元の世界で、1976年に函館に亡命したソ連防空軍のベレンコ中尉という人物がいた。
 彼の場合は、母親が継母で、妻との間は疎遠で、子供もなかった。
亡命するにしても、ユルゲンとベレンコ中尉では環境が違い過ぎる。
 ユルゲンの母は離婚したとはいえ、彼の事を気遣っているし、ベアトリクスとの結婚も長い恋愛の末だった。
順当な手続きを踏んで結婚もしたし、子供も一人とはいえ、いる。
 子は(かすがい)という言葉があるように、ユルゲンとベアトリクスの仲は、そう簡単には切れるものではない。
おそらく、最後のパターンではないはずだ。
 
 あと考えられる最悪のパターンは、ユルゲンが西側の諜報員に接触を受けたのと、マライが妊娠が判明したのが、同時期に起きた可能性だ。
これは、ありえなくはない。 
 避妊をしていない20代の夫婦の妊孕(にんよう)率というのは1年で80パーセント、2年で90パーセントだからだ。
 マライの年齢が、いくつか知らない。
だが、ユルゲンと同い年、あるいは2・3歳上だとすると、その可能性は排除できない。
 思えば、アイリスディーナは、不遇な人生を辿った娘だ。
父がアルコール中毒、母が家庭を捨てて、間男に走った。
 幼少期から、家族の愛に飢え、団欒を知らず、寂しい思い出しかなかったのではないか。
5歳年上の兄、ユルゲンがいなければ……、こんなに優しく、清楚には育つこともなかったであろう。
 大概、このような崩壊家庭に育った少女というのは、生の実感が乏しく、自傷行為に走りがちだ。
リストカット、薬物の過剰摂取(オーバードーズ)、不純異性交遊……
 男でも脱落する戦術機の衛士勤務も、ある種の自傷行為とも受け取れる。
母メルセデスの事を反面教師としての、非常に強い信仰心と貞操観念も同じだ。
 ここで、ユルゲンという彼女の精神の支えに何か不都合が起きれば……
このまま、軍隊にのめり込んで、家庭の幸せや、女としての生活を捨ててしまうのではないか。
 そんな薄幸(はっこう)の美少女を、救ってやりたい……
この時、マサキは、アイリスディーナに対して、男としての強い欲望を感じた。
 マサキが紫煙を燻らせながら、悶々と思いあぐねてる時である。
 何気なくアイリスディーナの顔に目線を移した。
アイリスディーナが見つめていた。
「どうか、木原さん、兄さんやマライさんを救ってあげてください……
どのような事になっているか、わかりませんが……」
いつもの優しい声がしたが、マサキは視線を外すことも、身動きすらも出来なかった。
 

 マサキは商人服(背広)に着替えると、その日の内に、ニューヨークに飛んだ。
アイリスディーナの話を総合すれば、ニューヨークにいるユルゲンに何かあったらしいことが判明した。
 どんな内容の事か、誰と接触したかは、現地を調べてみないとわからない……
ニューヨークの日本総領事館を頼るしかないのか……
 そう考えている時である。
現地時間の15時前に、涼宮総一郎から、連絡があった。
彼は、コロンビア大学の留学生で、マサキの護衛を務める白銀と懇意にしている間柄だった。
「木原先生、ベルンハルト大尉の奥さんの事を知りませんか」
 この話を聞いたとき、マサキはキツネにつままれた感覚に陥った。
ユルゲンの妻、ベアトリクスは、今、産休でベルリン郊外の実家にいるはずだ。
そんな判り切ったことを、なぜというのが第一印象だった。
 しかし、詳しく聞いてみると、涼宮の言う妻というのはマライの事を指し示いるらしいことが分かった。
どうやら、留学中にマライを自分の妻として周囲に紹介していたらしい。
そのことが、この誤解の原因だった。
 マサキは、マライの姿が見えなくなったことを恐れた。 
まさか、誘拐事件ではあるまいか。
散々、ソ連や東側諸国の誘拐事件を経験してきた彼は、第一番にそのことが頭に浮かんだ。
FBIとニューヨーク市警(NYPD)に連絡を入れた後、美久や白銀と手分けして、ニューヨークの街中を探すことにしたのだ。
 時は1979年。
この時代は、携帯電話もポケットベルもない時代である。
 捜索には困難を極めると思ったが、偶然立ち寄ったセントラルパーク内の動物園にいる所で彼女と再会した。
「よお、マライ、久しぶりだな」
背中を向けていたマライに後ろから声をかけた直後、いつもとは違う空気が流れていることに気が付いた。
「どうして……」
 東ベルリンならともかく、ニューヨークに降ってわいたように現れたマサキの事を不思議そうに見つめていた。
無言のまま、マサキはマライの前に立っていた。
 直後、マライはしゃがみ込んでしまう始末だった。
マサキは抱え起こした。
しかし、完全に力をなくした女の体は、意外と重い。
「どうした」
耳元でささやくと、やっとマサキに縋り付いて、マライは立ち上がった。
「こんなところでへこたれてどうする。ニューヨークの夜は冷える……そんな薄着では凍え死ぬぞ」 
 マライの支度は、ベージュの薄手のプルオーバーセーターに、リーバイスのジーンズ。
日没になれば氷点下近くまで気温が下がる、短いニューヨークの春に向かない格好であった。
「それで良いの……もう死にたいわ」
 あながち冗談ではなさそうだ。
マサキは、ますます何かあると感じたが、そんな素振りは見せず、着ていた濃紺のローデンコートをマライの背中にかけてやった。
「そいつは構わないが、死ぬ前に何があったか、詳しく教えてくれないか」
 そんな会話を交わしながら、マライを支えて、セントラルパークの近くにあるホテルに向かった。
マライの話は、思ったより深刻なものであった。
 米国務省主催のレセプションに参加したユルゲンに、西ドイツ領事館職員を名乗る怪しげな女が近づいた。
そこで女は、ユルゲンに戦術機に関する機密情報を提供し、その見返りに西ドイツの協力者になれと迫ったというのだ。
マライはそのことを物陰で漏らさず聞いていたが、ユルゲンには問いたださなかった。
 
 ふとマサキは思慮に返って、しばらくは沈黙していた。
マライの様子を見極めながら、マサキは口を開いた。
「フフフ、なんだそんな事か……それくらいなら、俺がどうにかしてやるよ」
マサキは言葉を切り、タバコに火をつける。
「てっきり、ユルゲンが……お前の事を(はら)ませたのかと思ったが……」
 それにしても、孕ませたという言葉を聞いたマライの驚きは大きかった。
 思いがけない言葉に愕然とした。
この男は、どこまで知っているのだろう。
この時、初めて、マライはマサキに恐怖に似た感情を覚えた。
「奇麗ごとを並べ立ててても仕方があるまい。
真実をさらけ出した方が、かえってすっきりとすることもある」
 マライは、外人であるマサキに、自分とユルゲンとの関係を話しても、詮方(せんかた)ない事ではないか。
その様に諦めていた。
 彼女は、妊娠している事実を何の感慨もなく、他人事のように受け止めていた。
驚き、慌てるどころか、ひどく冷静で、まるで軽い風邪に掛かった様な受け取り方であった。
 なかば唖然とするマライの両手を、マサキは強く握った。 
「お前はユルゲンの女だ、つまりはアイリスの身内という事だ。
遠慮はいらん。なんならお前の事を助けてやってもいい」
「貴方には、関係のない事でしょう!」
 マライは、マサキの手を邪険に振り払うと、いつになく声を強張らせていった。
彼女は、マサキの顔を見れないまま、目を閉じた。
「今の反応を見ると、図星の様だな」
 その言葉は質問というよりも、マサキの独り言の様だった。
「お前とユルゲンに何があったが知らんし、聞きたくもないが、お前に今、死なれては困るのだ」
 マライは、つき上げられたように胸をおこした。
その顔は、能面より白かった。
 マサキは、そのとき見た。
彼女の顔が、涙に洗われている。
「えっ」
 マサキは、あらぬ方に視線を泳がせていた。
この男は、何を考えているのだろう。
 マライは、東洋人の瞳の中に、無限の哀しみを見たような感じがした。
今までに、一度も見せたこともない色だった。
「詳しいスパイの情報や、内容を聞いていないからな……
それに、今お前が抱えているのは、ユルゲンの子だろう……」
「ええ、そうよ……」
 マライの忍び泣くような声が、聞こえた。
「そうすると、アイリスの大事な甥になる……アイリスは俺の女だ、つまりは俺の甥にもなるってことさ」
 静謐(せいひつ)を破るような嗚咽が、聞こえた。
マライの、烈しいこらえ泣きであったのだ。
 その悲泣は、見るにも堪えない。
マサキは、その逞しい体を馴れ馴れと、すり寄せて、彼女の背をなでるのだった。
「とりあえず、今回の件が決着がつくまで、お前とお前の子供の命を預からせてくれないか。
ユルゲンに近づいた、すべた(あま)は、俺が調べて、懲らしめてやるよ」
 西ドイツのスパイが、ユルゲンに接触した。
この大きな秘密を知ったことは、何かの役に立てそうな気がした。
 東西ドイツ両国にも、政治的スキャンダルとして、なにか利用できるのではないか。
マサキは、初めて悪魔的な笑みを浮かべるのであった。 
 

 
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