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幻の旋律

作者:伊能忠孝
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最終話 さよならをメロディーに乗せて

ここは、大牟田市民大ホールである。
賢治は表入り口前で、クラスに集合をかけた。

「君らは、今日この日のために、苦しい練習にも耐えてきた・・
緊張する必要はない・・皆で呼吸し歌う、ただそれだけだ・・
俺はこの瞬間を、忘れなぜ・・」
「先生!頑張るぜ!ハハハハ」
皆は気合が入っていた。
「ようし!行け、スタンバイだ!」

今日は、合唱コンクールの本番である。
地域の住人、来賓数多く客が入っていた。
一方、裏口前にて木村警部は、数十人の部下に集合をかけた。

「おい!気を抜くんじゃないぞ、俺の第六感によると、滝沢はこの会場にいる!
ある男を殺しにな・・その男を何が何でも死守しろいいな!」
「その男とは一体何者ですか?」
「ああ・・その男は、日本を代表する超一流の数学者だ・・」
「では、配置につけ!」

オープニングは、幸代の前奏曲「華麗なる大演舞曲」であり、力強い演奏は会場を盛り上げた。しかし、その中にひとりの男が紛れ込んでいた。演奏を聴きに来ていたわけでない。黒いバックを抱えていた。

「深谷賢治・・いや、伊能賢治だったな・・
この会場にいることは分かっている・・今日しか機会はないはずだ・・待ってろハハハ
俺はお前ら三人のせいで人生が狂ってしまったぜ・・・」

女は、店に入った。
「今日の十時に予約していた者です」
ここは、高級サロン、「マルコフ」である。
「こちらにお座り下さい・・」
女は座り、鏡に写った自分を見ていた。
「初めまして・・当店のカリスマ美容師の太田祐二と申します・・」
女は、無関心な表情で鏡に写ってるその美容師を見ていた。
「今日は、どんな風にしたいですか?・・私は、どんな要望でもお応え致します・・」
と自信の溢れた様子で言い、女の長い髪を触り始めた。
「そうね・・・」
女は考え込んでいた。
「美容師さん・・」
「何ですか・・」
「あなた、カリスマでしょ?カリスマって、お客の注文を受けた瞬間、すでに、完成後のイメージが出来てるの??」
「ハッ!?・・」
美容師は動揺していた。そんな質問をされたのは初めてであったからである。
「は・・い!もちろん・・」
「そう・・それが可能なあなたって、きっと芸術家なんだわね・・」
女は微笑みながら言った。
「芸術かハハハハハお客様にそのような最高の褒め言葉を頂いたのは初めてです!」
「そうね・・では・・・」

「映画、ニキータの髪型にしてくれる・・」
「まさか!・・・それは、かなりの短髪ですよ!・・」

各クラスの合唱の最後のプログラムが終わり。
表彰を終え閉会を控えていた。しばらくの時間があった。
生徒も先生達も大変和やかな雰囲気で閉会までの時間を過ごしていた。以前の高校の雰囲気に戻ったようである。

「深谷先生、まだ席に戻らないのか・・・・」」
教頭が嘆いていた。
「先生の席は朝から空いたままです!職員達も誰一人、この会場内で先生を見ていないそうです・・
ところで教頭先生、深谷先生のクラス立派でしたね・・」
「ああ、あの崩壊したクラスが蘇ったな・・これからというときに彼は退職するな。この事実を知らない生徒達は明日の終業式で一体どうなってしまうのか・・・・」
「明日就業式まですね深谷先生が出勤するのは・・」
平本先生が言った。
「そうだな・・この学校も寂しくなるなハハハハ」
「ところで深谷先生どこに行ったんだよ・・・・・
閉会まで戻らないつもりか・・」

「兄貴!学校行事だろ!どこにいるんだよ・・」
木村警部は、会場を歩き回り捜索した。

やがて、総合司会者である幸代は閉会の挨拶を始めた。
「ええ、これで全日程が終了致しました・・
実は・・最後に、本日、新人のピアニストをゲストとしてお迎えしております!」

「は?閉会だろ!何言ってるんだよ!ピアニストだと・・・」
会場は、騒ぎ始めた・・
「はい、静かにしてください・・・それでは、彼のプロヒュールを紹介します。」
幸代は元気よく話始めた。

「えー・・長い間、数学の研究をしていた彼は、夏の終わりに、楽譜に現れる周期性に興味を持ち、音楽理論を探究しました。やがて鍵盤に向かい、自分らしい独特な旋律を身につけ・・今日のこの日を迎えたのです。」

「何だと、夏から始めてまだ半年だろ?そんな奴が、このステージで弾くのか・・そんな、度胸のある奴がいるのか!」

「素人であるはずの彼は、音楽家である私にこう言いました・・
美しいメロデーだからこそ、そこには周期性が存在する・・
美しい音の配列は偶然でない、そこには、数学が存在する・・
旋律は、歌うように強弱が大切なのは当然ではあるが、決して自己満足であってはならない、それでは聴き手には伝わらない・・
聴き手と共有するには・・
時間との共有をすることだ・・・
何故ならば、人々は皆時間を共有してるからだ・・
数学と同様、音楽もイメージこそが大事である・・」

木村警部は、はっとした・・
「俺ら凡人にそんなこと言ったって理解出来る訳ないだろ・・
いや、待てよ・・数学だと・・一体、幕の後ろにいる人物とは・・・・・まさか!」

ここはステージ中央である。幕が閉じているためそこは暗闇だ。
賢治は幕の向こうでの観客の騒ぎに我にかえり、目を開けた・・・
彼はこの一年を振り返っていたのだった。

「俺の人生はまさしく激動だったぜ・・
これは俺の生まれ持った「宿命」によるものだ・・
俺は、この「宿命」に逆らうためにも、過去の暗闇を消さねばならない・・
だから、お前らを殺さねばならない・・
まあ、俺が死ねばいいのかもしれないな・・
なあ・・滝沢、お前はこの会場にいるよな・・・
対決の時が来たな・・・
でも、もう少しまってくれ・・
最後にやりたかった事があるんだぜ・・・
俺は、この日のために寝る間も惜しんで練習したんだぜ・・・」

「イエス・キリストよ・・この私に、もう少しの時間を下さい・・・
父と子と聖霊と源によりて、アーメン」


木村警部は息を吞んだ。

「彼の音楽に対する感覚はもはや素人ではありません。それでは、聴いて下さい・・」
幸代は元気よく言った。
幕が、開き始めるとともに演奏が始まった。

「おおおお!まさか、兄貴!今度は音楽かよ!」

賢治は、天井を見上げ優雅に弾いていた。まさに別人である。

「すげー・・・」
この時、客席は爆発していた。
「これが、俺の兄貴?深谷賢治なのか・・」
騒ぎは止まらない・・賢治は弾きながら、次のような事を冷静に考えた。
「なんで、そんなに興奮するのだよ・・俺の演奏聞こえてるのか・・その前に、クラシックを聴く姿勢がなっていない全く・・もう少し耳を澄ましてくれないものかね。これでは俺のトロイメライが台無しだ・・」

「まったくだわ・・これでは聞こえないじゃないの・・」
幸代は機嫌を損ねた。

やがて、弾き終え拍手の嵐だった。生徒、職員は大興奮だった。もちろん生徒のほとんどはその曲を知らない。観客は賢治の演奏というよりは、彼がピアノを弾いている姿事態に興奮していたからだ。

「最後の晴れ舞台だな・・ハハハ覚悟しろ・・」
滝沢はカーテンに隠れ賢治を銃口で狙った。
「後はお前を殺せば復讐は終わりだ・・・馬鹿がのん気にピアノ弾きどころでは、ないぜハハハハ」

「馬鹿野郎!何のん気にピアノ弾いてるんだよ!狙撃されるぞ!」

演奏が終わり賢治は立ち上がり、皆に笑顔で手を振っていた。
「キャー・・!深谷先生!・・」
観客は爆発していた。

「はい!静かにして下さい!先程の曲は、シューマンの代表作、トロイメライでした。クラシックは静かに耳を澄まして静かに聴くものです。いいですか?続きましての曲が最後となります。ショパン代表作、エチューNO10―3です。この曲を作曲したショパンは、このような美しい旋律もう二度と作れない・・と言った程の名曲です!」

「すごく、楽しみだわ・・・さて、あなたはこの曲をどう表現するのかしら・・」
「それでは、どうぞ・・」

皆は期待した。会場は静まりかえっていた
賢治は、俯き何か考えていた。皆はじと見つめるだけだった。

女の髪は容赦なく切られていく。美容師は真剣だった。女性の髪をこんなに短く切ったことはないからだ。完成後のイメージができないままだ。女は、鏡に映ってる自分を冷静に眺めていた。そのとき、店内ではあるピアノ曲が流れ始めた。

「この曲は・・・なんて美しいの・・」
「そうですね・・この曲は・・
ショパンの別れの曲ですね・・」

女の瞳は濡れていた。
美容師の手が止まり、鏡に映っている女に見とれてしまった。

「滝沢、最後の曲だ!もう少し待ってくれ・・お願いだ・・
俺は今、あの頃と違って一人ではないんだ・・・この会場にいるみんながいるんだ・・
そうだったな、お前は・・
今でも孤独なんだよな・・
佐々木にも操られてな・・
俺を銃口で狙ってるだろ?・・
引きたいんだろ・・その引き金をな・・
だが俺は、このピアノを弾くぜ・・
この曲はな・・
俺なりの、サヨナラなんだよ・・」

そして演奏は始まった。穏やかな始まりである。最初の和音から第一小節で・・

「この曲は・・なんと寂しく美しいのだ・・確かショパンのあの名曲・・
藝術の世界にも足を踏み入れたのか・・」
木村警部の足が止まった。

「なんという美しい旋律なの、すごく繊細な音ね・・」
幸代は感激していた。

「ガチャ・・」
滝沢は安全装置を解除し、賢治をスコープで狙った。
「ハハハハ伊能賢治よ・・」
「チェック・メイトだせ!・・・」
引き金に手をかけた。

このとき調が変わり、激しさが増していった。

「フョルテッシモね。激情する苦しみの表現ね。見事だわ・・何だか悲しみに落ちていく、いや、絶望、怒りか、・・」

「何だこのメロデーは・・調子狂うぜ・・」
滝沢はスコープで狙撃しておいたが、そのメロデーが滝沢の聴覚系を刺激していた。
そのときだった。

「よう、滝沢・・」
闇の彼方から声がする気がした。
「え・・お前誰だ!」
あたりを見回したが誰もいない。
「もしかして・・死んだはずの・・」
しかし確かに声がする・・
「幽霊なのか!確かに聞こえるだが何処だ・・」
「滝沢・・このメロデーを聴いて何も感じないのか・・
心が洗われるだろ・・」
「え!なぜだ・・お前を殺したはずなのに・・やめてくれ!」
「おい・・お前は殺す相手を間違っているぞ・・
あの、橋げた落下事故は、佐々木が仕組んだんだ・・・」
「・・・・・・」

しばらく、滝沢は目を閉じてもがいていたが・・
滝沢は、銃を下し膝待ついた・・

「俺は、お前ら三人を殺すことが親父への供養と・・
それが使命だと信じて、今まで生きて来た・・」
「ところで、なんてメロデーだ・・・何だか、心が洗われるぜ・・・」
滝沢はほほ笑んだ・・

やがてメロデーは再び穏やかなになっていった。
賢治と過ごした時間を振り返った。幸代は直感した。

「まさか!・・・」

「賢治、幸代お前らは全く素晴らしいコンビだ!
これで安心して、俺達は、地獄に行けるぜ・・
なあ滝沢・・そろそろ時間だ・・
賢治・・後は頼んだぜ・・・」

「おい・・・お前!ひょっとして・・」
木村警部は銃を向けた。
「滝沢なのか・・どうした・・大丈夫か・・・よしお前を連行する・・」
「なあ・・刑事さんよ最後のお願いがある・・」
「何だ・・言ってみろ・・・」
「もう少しここにいさせてくれ・・この曲が終わるまでな・・」
「それもそうだな・・・・」

このとき、賢治退職を知っている教員の多数は悲しい表情をしていた。
「先生達なんで泣いているのだろう・・・この曲聞いたことないけど・・
すごく激しくも、穏やかでとても悲しい曲だね。何だか泣きたくなる気分・・」
賢治の演奏は、皆を悲しみの底に突き落とした。
職員なりに、この曲を最後に弾いた理由を理解している。明日の終業式が、賢治の最後日だったからである。

「そうなのね・・私は、あなたの一番そばにいて理解してきたつもりだわ・・・
でも、あなたが背負っているものとは何なの・・・
私が赴任した二年前、すでにあの頃から・・
私達は住む世界が違っていたのかもね・・・
でも・・ただひとつ分かることは・・
あなたが、なぜこの曲を選んだかよ・・
あなたは、私から・・いやこの街からも離れて行くのね・・」
幸代は、深いため息と同時に目を閉じた。

やがて最終小節、最後はピアニッシモ、だんだん弱くやがて無に収束する・・

演奏を終え、皆に深く一礼し、ほほ笑んで退場した。

「なあ滝沢・・
何故、引き金を引かなかった・・」

「ええ・・最後に・・」
幸代は挨拶した。

「今日、この合唱コンクールが素晴らしいものとなり主催者である私もこれ以上幸せなことはありません・・音楽教員である私は、ただ上手にピアノを弾くことしか考えていませんでした。すなわち私の音楽は自己満足にすぎなかったのです。
でもあるとき教わりました。音楽は人に語りかけるように演奏すべきだ、すなわち言葉と同じなんです。私は今、そんな音楽を目指しています。今日この会場の皆様は、皆共有しました。もちろん時間に乗せたメロデーを通じてです。人間は集団化すると、そこには、争いや嫉妬が存在するものですが、これは人間である以上仕方のない事かもしれません・・こんな時代のせいでしょうか?この街だって、以前に大量の麻薬が流出し多くの若者達が今でもその後遺症で苦しんでいます。治安が悪く、争事が絶えない悲しい街になりかけています・・でもせめて、今日みたいな場面で一つになれた事は大変素晴らしい事です。私は、ただの音楽教員ですが。ここ大牟田が争い事もなく平和な街であことを願って演奏を続けて行くつもりです。最後に私は、

野に咲く一輪の花が美しい・・・

と思えるような、情緒を大切にしたいと思います。こんな不吉な時代だからこそこのような心が大切であるのではないでしょうか。どうか、今日のこの合唱コンクールの余韻がいつまでの皆様の心の中に残りますように・・・」

美容師の緊張は極限状態に達した。
「このお客さん・・一体今どんな心境なのか・・
大失恋でもしたのか?・・・
ニキータだと!
一体どこまで短くすればいい・・!
でも、なんて魅力的な女性なんだ・・
俺は、美容師の指命として、
完成後に、この女性を幸せな気分にさせなければならないのだ!」

「ねえ・・美容師さん!そんなに怖い顔で切らないでよ・・肩の力を抜いてよねハハハ」
女は微笑んだ。その笑顔で、緊張感がほぐれ始めた。
「御客様!だって、ニキータですよ・・格好良く切りますよ。覚悟して下さいね!」

賢治は、会場裏口へと歩いて行った。
「俺にはこんな物、必要ないよな・・・なあ幸代・・・」
賢治は、ごみ箱に携帯電話と拳銃を捨て車に乗った。

「ありがとな・・あとは頼む・・
もう、この街に未練はない・・」

木村警部は、賢治を追った。やがて、ごみ箱の拳銃を発見した。
「安心したぜ・・二人に対しての殺意はないよな。兄貴・・・」
すぐさま刑務所に連絡した。
「滝沢を逮捕した!深谷賢治も殺意はないぜ!安心しろ!直ちに麓刑務所の厳戒態勢を暖和しろ!」
電話を切り、まるで緊張が解けたかのように爽やかな顔で空を見上げた。

「兄貴、一体何処へ・・まさか、この街を出たのか?そんな必要はないのに・・
安心してこの街にいて、兄弟仲良くつるもうぜ・・またいろんな闇の情報を提供してくれよな!そして今度は、警視でもなるぜハハハハハ」

美容師は、最後の一切りを終え鏡を見た。女も自分に見とれていた。
「これが、私なの・・」
「はい・・ニキータ様!終了でございます!」
「なかなかいいわね・・」
女は微笑み席を立ち、黒のロングトレンチコートをはおり襟を立てた。
「至急会計してちょうだい・・」
「はい!9987円になります・・壱万円札からですね・・」
女は無言のまま、ゆっくりとサングラスをかけた。
「では、お釣りです・・」
美容師は、お釣りを握り渡そうとした。
「そんな、不吉なお釣りはいらないわ・・」
女の姿を見て一瞬恐怖を感じた。
「はい!・・分かりました!またお待ちしています・・」
「何だか、気分が変わってすっきりしたわ・・」
微笑み、背を向け店を出て行った。
美容師は女の口元だけを見て感じた。
「とてつもない悲しい微笑みだ・・でもなんて魅力的な女性なんだ・・」
思わず握っていた手を広げた。そこには、十三円があった。

賢治は三池港に車を乗り捨て、三池港インターに徒歩で入った。
数多くの車が通行している有明沿岸道路を運転手らは賢治を見ない人などいなかった。皆振り返った。重たい荷物を抱えたその後ろ姿に皆、幻を見るかのように見ていた。
賢治は、有明沿岸道路を一歩一歩かみしめながら歩いていた。

「この道路には様々なドラマがある・・俺は、25年前、ちょうどこの地点から歩いたぜ・・」
賢治の記憶は今は鮮明だ。

女は写真を見ていた。そして、吸っていた煙草を窓から投げ捨て、ゆっくりと車から降りた。
「すみません・・佐々木の娘です・・面会に来ました。」
笑顔を振りまき、警戒警備をいとも簡単に突破した。
受付で名前を書き言った。

「十三号室でお願いしたいわ・・・」

「はい?・・ご希望通りに致します。第一三号室はここをまっすぐ行ったところです。」
「コツ、コツ、コツ・・・」
やがて、部屋のノブに手をかけ入った。そこに佐々木はガラス越しに座っていた。

「お前、誰だ・・・サングラスを取れ!」

その女は立ったまま、佐々木をじっと眺めていた。
やがて、トレンチコートのポケットから手を出し口を開いた。

「チェック・メイト・・」
「バキューン・・・・・」

わずか、数秒の出来事であった。近くにいた盗聴委員は言葉を失い、しばらくそこから動けなかった。
やげて、再び手をコートに入れ歩き出した。
「コツ、コツ、コツ・・・」
女の足音が、刑務所に響く・・・

「賢治・・あなたの幼い頃の悲愴が、再び蘇ってしまったわ・・・
あの、爆発の炎、あなたの仕業でしょ?私は遠くから見ていたわ・・
あれはあなたの、悲愴の炎なのよ・・
あなたのいるこの世界に、佐々木は存在してはいけないのよ・・」
そこには魔性の香りが漂っていた。

今日は就業式である。

「なんで深谷先生いないのですか?」
「今日は欠勤なの。何か急用ができたらしくて・・」
幸代は顔色を変えずに言った。

「まあ、いつもの事だ・・どうせ三年次の担任も先生だろうハハハハ」
「まあ、そうかのもね・・」
幸代は苦笑いをした。
「まあ、それより、まずは帰りの支度しなさい!教室内の私物全部持って帰るのよ・・」
生徒はしばらく荷物整理をした。
「賢治・・今、一体どこにいるの・・・」

「はい・・それでは・・帰りの準備は出来ましたか・・・」
生徒は、皆注目している。
「ええ・・今日、深谷先生から手紙を預かっています・・・」
「なに、それー手紙?ハハハハ柄にもなく・・・」
生徒達は笑っていた。
「覚悟しなさい・・今からあなた達は、どこまでも落ちていくのよ・・・」
幸代は、手紙を読み始めた。

「合唱コンクールお疲れ、残念だったな。準優勝だ・・しかし、皆最高に良かったよ。俺はすごく幸せだ・・・」
 生徒は、喜んでいた。
「へ・・深谷先生、今日は素直だな、本当は俺たちの事好きなんだろハハハハ」
「はい、静かにして!」
「俺は君らと過ごしたこの二年、とてもきつかったよ・・でも、得た物は計り知れない・・
あの入学式が浮かぶよ・・入学式のHRのとき、君らのほとんどは俺を見てなかったからな・・でもそれから、君らと時には衝突し、時には信頼しあってきた・・とにかくいろんな事があったな・・」

「ちょっと、何その内容・・まるで、卒業の言葉みたいじゃないの・・先生一体何を考えてるの・・」
生徒は騒ぎだした・・そこで幸代は言った。

「あなたたちね、まだ分からないの・・どこまで馬鹿なのよ!」
幸代は怒鳴り、生徒は皆黙った。

「深谷先生ね・・あの人ね・・昨日、ピアノを弾いたでしょ・・」
「ああ、あの最後の曲、知らない曲だったが、さすがの俺も、かなり感動した・・
あれはやばすぎるぜ・・・」
「そうよ・・でね・・あの曲のタイトル知っているの。」

幸代は、悲しげに下を向いた。そして、しばらくして震えながら口を開いた。

「あれはショパンの別れの曲よ・・あれが、先生の別れの言葉なの・・」
「・・・・・」

皆は黙った・・完全に言葉を失っていた。

「これ以上は読めないわ・・」
震えている幸代に対して、生徒は言った。
「先生・・続きを読んで下さい・・・」

「俺は、今まで長い間、数式との格闘を続けすぎたせいか人間らしい感情を失っていた。でも君らと接することで今、人間らしい感覚を得たような気がする。
秋が終わり、寒い冬が始まりかけたあの日、俺感じてしまった。俺が、悩みの種である君らに癒されていたことをな・・
それに気がついたのは遅かったがな・・・笑えるだろ?
俺は、君らにむかついたことは数多くあったが、嫌いになったことは一度もない・・
せめて、最後に出来ることは何か・・でも、もうその必要はなかったな・・
君らはもうそのときすでに、立派に共通の目標に向けて歩いていたのだ・・
最高に嬉しかったよ。
でも、もう君達と会うことはなかろう・・
しかしな、遠く離れていても俺たちには、共有しているものがある。もちろん想い出だが、でも所詮は、忘れるものだ過去のものだから・・
想い出に浸り生きて行くのは愚かなことだからな・・・
死んでしまえばなおさらだ・・・
それは、時間だ・・
俺達は時間と共有している・・
もちろんこれからも・・永遠にな・・
俺は、それだけで十分だ・・」

皆は、悲しみの底に落ちて行った・・・・・

「一体このクラスの中で何人が自分の使命に気がつくのだろうか・・
それを見つけるために、どうか探究して欲しいものだ・・
人生は、楽しいばかりではないけどな・・
しかし、決して無理をせず、自分らしい旋律をつくってくれ・・
最後に、ありがとう・・
そして、さよなら・・・・」
              
クラスは悲しみの底に落ちて行った・・
あまりにも突然で、そうなるのも当然である。人生の厳しさ教えられた。普通は面と向かって言うべきであろう・・そして、また会おうと・・しかし賢治は違った。

賢治は前日から有明沿岸を歩き続け砂浜で眠り波の音で目が覚めた。
一人海を見ながら追憶していた。

「ねえ、お爺ちゃん何処まで歩くの・・」
「そうだな・・気が済むまでだ・・・
人間には生まれ持った使命がある・・
それに気がつき、人生を終えることが出来る人間は一体この世の中に何人いるだろうか・・・・」
「使命・・」
「ああ・・それに気がつき、何か成し遂げる者・・
誰かに絶大な影響を与える者・・まあ様々だ・・・
指命を果たしたが、自分自身でそれに気がつかない者もいるであろう・・」
「では、僕の宿命とは何なの・・」
「そうだな・・答えは風の中だ・・・」
「まあ・・それより今夜の宿を探すぞ・・ハハハハ」

やがて、賢治は立ち上がり歩き始めた・・

「お爺ちゃん・・もう行くの・・」
「ああ・・そろそろ、時間だ・・」
「・・・・」
「この出会いが運命であればまたあの子に会えるさ・・」

数日後、職員室の幸代の元に、住所不明の手紙が届いた。
封筒に何か入っている。
「誰なの・・」
幸代は封筒を開け手紙を広げた。

「幸代、世話になったな・・最後の最後まで俺の代わりにHRありがとな
俺は、もう一度、少年時代に戻り、この大自然の中で、豊かな情緒を育み暮らすよ・・
君だけは、時間との共有だけでは物足りない・・
では自分の使命があるのならそれを果たしてくれ・・
またその時にでも会えたらな・・」

待鳥は、手紙の途中まで読み、慌てて学校を飛び出した。
「何、その時って!今から向かうわ!北へ向かえばいいのね・・」

幸代は三池港へ車を走らせ、有明沿岸道路に乗った。
「今日は夕日が綺麗ね・・あっ!この橋は・・」
やがて、車を橋の脇に停車し、夕日を眺めた。懐かしい感覚が鮮明に蘇った。

「ねえ・・お母さん、誰を待ってるの・・・」
「そうね・・・伊能忠敬だよ・・」
「だれそれ・・・」
「あ!誰か来る・・・・二人いるよ・・」
「今夜は、御もてなしをするのよ・・先に還って準備してきなさい・・」
「はーい!今夜は楽しくなるね・・」

「いやこの橋はまだ渡らないわ・・・」

「私は幼い頃、母と二人で、有明沿岸沿の鹿島市に住んでいたわ・・そして二人の旅人は偶然にも、その街を訪れた。しばらくその街に滞在した二人の旅人は、やがて出て行ったわ・・」

「私はあの日、あなたをずっと待っていたわ・・・
だから今度は、あなたが待つ番だわ!
私決めたの、一年後よ!
私にはやるべきことがあるの・・・
またそのとき砂浜で遊びましょう・・」

「しかしな、幸代・・
俺は、生徒への手紙にも書いたが・・・所詮、想い出とは消える存在だ
特に俺の場合、消し去りたい過去があるから・・
その暗闇の中には、もちろん光も存在するんだ・・
その光とは、君と幼い頃過ごした思い出だ・・
これらすべて消し去る覚悟は出来ているよ・・
そして、真っ白な状態で今度は、偶然に出会いたいものだ・・」

しかし、2人は結ばれなかった・・
北部九州大震災が起こり、唐津にいた賢治は行方不明になったのである。
玄海沖でマグニチュード9の大地震が起こり、巨大津波が海岸に迫ってきた。警報と同時に住人は避難したが、彼は、砂浜でただ一人残り海を見ながらこう言ったという。

「俺は、今まで、教育現場、闇の組織、この現代社会にまで逆らってきた・・
しかし、この自然の力にだけは逆らえないぜ・・
だから俺は、この宿命を受け入れるだけだ・・
俺は、今まで自然現象を探究することに生きてきた・・
だから、この自然現象によりこの大自然に還るのだ・・
そして、また別の時代に生まれる・・・
ただ、それの繰り返しだ・・・
迫りくるこの巨大津波よ・・
どうか俺の過去を流してくれ・・」

そして、その大波は賢治を呑み込んでいった・・

当時賢治のクラスの引き継ぎとして担任を希望した幸代は、生徒達に気ずかれぬよう笑顔で振る舞い続けた。無気力になるどころか、底知れぬ悲しみのエネルギーで鍵盤と向き合った。そして、一流のピアニストの最終審査に合格し、春から、デビューを控えていた。デビュー後は哀愁のピアニストとして、一躍有名となる。

卒業式の日、最後のHRでクラスにさよならを告げ、一人体育館に向かった。
鍵盤に向かい弾き始めた・・「悲愴 第二楽章」であった。

賢治・・これはあなたが真夜中に弾いていた曲よ・・・
あなたのクラスは幸せに卒業したわ・・・
私は今でも・・深い悲しみの底よ・・
この世界に、あなたは存在しない・・
たとえ、そうだとしても・・
この悲愴が何だか心地いいの・・・
なぜなら、それは・・
こんな悲愴も、メロデーで表現すれば美しいものになれるのよ・・
あなたがここで弾いたこの旋律・・
その余韻は、今でも私の中で時間を刻んでるの・・
これからも・・・
そう、永遠にね・・・

演奏を終え、静かに蓋を閉じゆっくりと深く一礼をした。
やがて、顔を上げ、立ちあがった。

この九州は大地震の被害で多くの人が苦しんでるわ・・
私は、そこにメロデーを届けに行くの・・
勘違いしないで・・
決して、あなたを探すためじゃないわ・・
それが私の使命なのよ・・・
だから私も、この街から出るわね・・
旅に出るのよ・・

幸代は、十円硬貨を取り出し、じっと見つめた。そして投げた。

「やはり北だわね・・・」


 九州北部は、大被害を受け、経済的にも大混乱に陥った。それだけではない、玄海原発の放射能が大量に漏れるという日本最大規模の大惨事が起こってしまった。やがて、再び石炭の重要性が国会で検討され、有明沿岸道路を利用し石炭の大輸送計画案が持ち上がった。これは古賀誠議員の提案であった。もちろん、無限の石炭発掘地とされてる三池炭鉱は復活することとなったのである。
当時から伊能良蔵を追跡していたジャーナリスト狩野大成氏はやがて、脚本家となりこの出来事に深く関わっていた、木村警部、待鳥幸代、らの協力を得て、この一連の出来事をドラマ化したのである。そこで、二人は交流を持つこととなり。木村警部により幸代は、賢治についてのすべてを知ることとなる。もう一人の重要人物である塩塚美香は、佐々木殺害容疑で全国に指命手配された。この捜索に木村警部は関与し、彼女を追いつめたが、博多港からの韓国行きの密輸船に乗せてしまったのだった。しかし、その数日後、九州北部大地震による巨大津波で船は沈没、また彼女も行方不明となっている。ほぼ同時刻に、深谷賢治もこの巨大津波に呑まれたことになるが、二人の死体は今だに発見されていない。もしかすると二人は、何処か異国の砂浜に流れついたのかもしれない。その真相を知る者は存在しなのだ。しかし、ソウルでの刑法研修ツアーに参加した木村警部は、そこで、ある驚くべき噂を耳にするのだ。それは、二人の日本人らしき男女が、済州島に漂流したというものだ。木村警部は帰国後も、二人の行方を追っている。
このドラマは三人の男の「使命」を描いた作品であり。タイトルは「有明の風」とつけられた。挿入曲として、「ピアノ協奏曲、宿命」「月光第一楽章」「トロイメライ」「悲愴第二楽章」「別れの曲」などが使われた。終わりは、三人の男が背を向け、砂浜を歩いて行く・・という実話とは異なる幻像的なシーンだが、人々の余韻を浸らせ話題を呼び社会現象とまでとなった。警視庁でも「時効制度」の見直しが提案されたほどだ。また、現代の若者達にも「三人の男達の最後」に心を打たれ多大な影響を与えた。それらの若者達に「それぞれの使命」について考えてくれたのであれば嬉しい限りである。


 
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