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一人にだけ

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第一章

                一人にだけ
 稲尾和久の武器は高速スライダーとシュートだった、正確極まるコントロールに球威に鉄腕と言われるスタミナが彼を西鉄ライオンズの押しも押されぬエースにしていた。
 彼の球種で最大の武器といえば誰もが高速スライダーだと思っていたが南海ホークスのキャッチャーであり主砲も務める野村克也だけは実は高速スライダーは見せ球であり真の武器はシュートだと見抜いていた。
 だがその野村がある日大阪球場での西鉄戦を前にしてこの日先発の杉浦忠に話した。
「今日もサイが出るな」
「そやろな」
 サイとは稲尾の仇名だ、顔が犀に似ているから付いた仇名だ。杉浦もこの仇名を知っていて頷いて応えた。
「僕も投げるしな」
「今日も負けられんな」
「あれやろ、サイの武器はな」
「実はシュートや」
 野村は杉浦にもこのことを話した、一塁側でどのバッターをどう抑えるかの話の後で稲尾のことも話しているのだ。
「あの高速スライダーに注意を向けさせてやな」
「そこでシュートを投げてやな」
「わかるやろ、あいつのシュートは」
「僕も投げるからな」
 杉浦もシュートを投げる、ただし少し沈むシュートであり彼自身は本当のシュートと思っていないフシがある。
「凄いシュートは」
「あっちの方が鋭い、それでや」
「高速スライダーで釣ってやな」
「シュートを投げて空振りさせるかバットに引っ掛けさせてな」
「打たせて取るのがあいつのピッチングやな」
「そうや、コントロールも球威も凄いから余計に打ちにくい」
 それが稲尾和久というピッチャーだというのだ。
「難儀な奴や、ただな」
「ただ。どないしたんや」
「あいつの持ち球その二つとストレートだけか」
 ここで野村は杉浦に怪訝な顔になって言った。
「実際に」
「何を言うんや」
「そやからや、ストレートと高速スライダー、シュートのな」
「三つだけかっちゅうんか」
「どの球種も桁外れやから中々打つことは出来んが」
 それでもというのだ。
「わしはもう一つ球種がある気がするんや」
「あいつにか」
「そや、南海との試合では投げてないけどな」
 それでもというのだ。
「何かもう一球持ってへんか」
「カーブか?あんまりイメージやないけどな」
 杉浦は自分の最大の武器と言われている球種を出した。
「あれはすぐ投げられるしな」
「いや、カーブやないやろ」
「ちゃうか」
「もっと別の球種の気がするんや」
 どうにもという口調でだ、野村はさらに話した。
「カーブやないな」
「また別の球種か」
「ピッチャーは自然と持ってる球種が多いとな」
「ああ、まだ投げてなくてもな」
 杉浦もピッチャーだ、それでわかることだった。
「もう一つ武器があるって思ってな」
「自然と態度とかピッチングに出るやろ」
「心に余裕が出来るわ」
 球種つまり武器が多い分だけだ。
「それが確かなもんやったら余計にな」
「それを感じるんや」 
 武器を多く持っている故のそれが稲尾にあるとだ、野村は指摘した。
「そやからな」
「ひょっとしたらか」
「あいつ何か持っててな」
 そしてというのだ。
「わし等に見せてないな」
「ほなお前に使ってくるか?」
 南海の主砲である野村にとだ、杉浦は彼の顔を見て問うた。 
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