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俺の涼風 ぼくと涼風

作者:おかぴ1129
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6. 二人で一人(1)

 提督からの予想外の一言に対し、私は身体の震えを止められなくなった。

「提督。あんた、自分が涼風に何を言ってるのか、わかってんのか?」
「分かってる。酷なことだとは思うが……」

 私の右隣に立つ摩耶姉ちゃんが、私たちの正面にいる提督に、そう噛み付いていた。真剣な表情で私たちを見つめる提督の机には、小さなテレビモニターが置いてある。

「……榛名も反対します。涼風さんは、現状ではまったく戦力になりません」

 左隣に立つ榛名姉ちゃんは、言い淀むことなく、きっぱりとこう言い放つ。恐怖で言うことを聞かない顔をなんとか持ち上げ、こっそり榛名姉ちゃんの顔色を伺った。榛名姉ちゃんはとても冷たい眼差しで、私に視線を向けることなく、まっすぐに提督の方を見ていた。



 話は昼食後に遡る。今日はオフの私達は、食事が終わった後、館内放送で執務室に呼び出しを受けた。

「? なんだ?」
「榛名もですか……」

 ご飯を食べたらゆきおの部屋に遊びに行こうと思っていた私だったが、提督からの命令なら致し方なし。榛名姉ちゃんも一緒に、険悪な空気を我慢しながら、私たちは執務室へと向かう。

「……」
「……うう」
「……」

 3人で廊下を歩いている時、私は時々、ご機嫌を伺うように、榛名姉ちゃんの横顔を見た。昔なら、私が横顔を覗きこむ度に、私に『ん? どうかしました?』と優しい笑顔を向けてくれていた榛名姉ちゃんだったのだが、今では……

「……涼風さん」
「……?」
「そんな風に怯えながら、こっち見ないで下さい」
「ご、ごめん……」
「……気分悪いです」
「……」

 私の方を一切見ずに、こうやって辛辣な言葉を浴びせてくるだけだ。私は、いつか榛名姉ちゃんと、昔のように笑顔で仲良く一緒にお話したいと思ってるけど、そんな日が本当に来るのか、とても不安になってくる。

 一方、そんな刺々しい空気の中、摩耶姉ちゃんはというと……

「ふわぁー……昼飯食った後って眠いなぁ……」
「……摩耶さんも、もうちょっとしっかりして下さい」
「っせーなー……腹いっぱいで眠いのは仕方ねーだろーが……」

 空気を読んでないのか、はたまた読んだ上でのあえてなのか、緊張感のかけらも見せておらず、涙目であくびをしながら、ぱんぱんに膨れたお腹をさすっていた。

 そうして険悪な空気に耐えながら、私達3人は執務室に到着する。待ち構えていた提督は、私たちに対し、開口一番、こんなことを言った。

「明日の出撃だが、涼風を含むお前たち3人に出撃してもらおうと思っている」
「……え?」

 私は最初、耳を疑った。私は今、出撃することが出来ない。確かにこの鎮守府所属の駆逐艦の中でも、私は比較的練度が高い。タイマン勝負なら、誰が相手でも、負けない自信はある。

 でもそれは、演習での話だ。私は今、あの忌まわしい過去のせいで、実戦で戦う事が出来ない。出撃しようとすると、怖くて怖くて身体が震えてくる。また私を守ろうとして、誰かが沈むんじゃないか……私が戦場に立つことで、艦隊の大好きな仲間たちが、全員沈んでしまうんじゃないか……反射的に、そう思ってしまう。

 まだこの鎮守府に編入されて間もない頃、私は摩耶姉ちゃんと榛名姉ちゃんと、他の仲間と共に、一度だけ遊撃部隊として出撃しようとしたことがある。近海で発見された駆逐イ級の艦隊を殲滅するだけの簡単な任務だった。だけど。

『ま、摩耶姉ちゃん……ッ』
『!?』
『ごめ……身体……が……摩耶……姉ちゃ……ッ……!!』

 出撃する寸前、私の身体は恐怖ですくみ始め、主機の回転も止まり、主砲を持ち上げることすら出来なくなった。季節は初夏で蒸し暑い日のはずなのに、寒くて寒くて、身体を動かすことすらままならなくなった。

――涼風ぇぇ……

 直後、みんなの喧騒とざわつきに混ざって、もう二度と聞きたくない声が、私の耳に確実に届いた。

『ヒッ……』
『涼風!! しっかりしろ涼風!!』
『あいつの声が聞こえる……摩耶姉ちゃん! アイツがいる!! すぐそばにいる!!!』
『いないって! あいつは塀の中だ! ここにはいないって!!』
『いるって! あたいの耳には聞こえるんだ! あいつの声が聞こえるんだッ!!』

――また……いっぱい、みんなを連れて行こうなぁ……

『嘘だッ!! また、みんなにあたいを守らせる気だ!!』

――そして……みんなにいっぱい……守ってもらおうなぁ……涼風ぇえ……

『イヤだ……イヤだぁ!!』
『落ち着け涼風!! 大丈夫だから! 誰も沈まない!! あたしらは誰も沈まないから!!!』
『逃げろ!! みんな逃げろッ!!! あたいなんか守らなくていいからッ!!!』
『涼風!! 涼風ッ!!!』
『やめてくれ!! イヤだ!!! 誰も沈むなあたいを守るなァァァアアア!!!』

 その時、取り乱した私が何を叫んでいたのか、具体的には今も思い出せない。私の記憶では、そこから摩耶姉ちゃんにキツく抱きしめられているところまで、記憶が飛んでいる。そして。

『作戦を変更する。涼風と摩耶は離脱。第一艦隊は旗艦を五月雨へ変更。そのまま出撃しろ。……摩耶』
「ああ」
『涼風を医務室に連れて行け。涼風を休ませてやってくれ』
「了解だ……ッ」

 提督からのその通信を聞き、出撃が取りやめになったことと、私を守って沈む仲間がいなかったことに心から安堵し、やっと心が落ち着いたあの時の感覚は、今でも鮮明に思い出せる。あの忌まわしい日々は、今も私の脳裏にべったりとこびりついて、私はそれに囚われているのだということを、イヤでも思い知らされた瞬間だった。

 以来、私は出撃を命令されることはなくなった。常に遠征任務と演習という、できるだけ実戦から遠く離れたところでの活動を余儀なくされた。戦うために命を授かった艦娘としては、本来なら悲しむべきことなのかもしれない。

 だがそれでも私は、もう仲間を沈めるような事態にはならないことに安堵していた。あの時のように、私を守って沈む仲間はもういない。体中穴だらけにされたり、身体を砕かれたり、穴を開けられたりする仲間が出ないという事実は、私の心に平穏をもたらすには、充分だった。

 そんな私だから、提督から下された命令には、恐怖を抱かざるを得なかった。

 ゆきおと出会った日から今日まで、久しく忘れていた感触が、私の全身を駆け巡った。生ぬるくて気色悪い空気が、私の全身を包み込む。心臓がぎゅうぎゅうと縮こまり、空気は生ぬるいはずなのに、身体は寒くて寒くて震えが止まらない。

「……提督」
「ん?」

 身体がガタガタ震えているその隣で、榛名姉ちゃんが厳しい口調を提督に向けていた。周囲に意識を向ける余裕なんかないはずなのに、なぜか榛名姉ちゃんの冷たく厳しい声だけは、私の耳に容赦なく届いていた。

「なぜ、この体たらくの涼風さんを加えるんですか?」

 私の耳に、榛名姉ちゃんの声が刺さる。でも本当のことで、私には何も言い返せない。言い返す気力も沸かず、言い返す余裕もない。私はただひたすら、身体に襲いかかる恐怖に抵抗することで精一杯だ。

「……涼風はここしばらく、遠征続きだ。ココに来て半年経つし、そろそろ出撃に抵抗もなくなってきたんじゃないかと思ったんだが……」
「でもこれでは、使い物にならないでしょう」
「おい榛名、もうちょっと言い方ってのがあるだろ」
「榛名は本当のことを言ってるだけです」
「それに正直なところを言うと、練度が極めて高い涼風を遊ばせておくというのは、大きな損失だ。本人の将来のためにも、出来れば最前線で戦えるようになっておいてもらいたい」
「でもよー提督」

 私に関する話が、私のはるか遠いところで繰り広げられている。私も何か口をはさみたいのだが、何を言いたいのかが自分でも整理できない。『大丈夫』だと言えれば一番いいのだが、恐怖ですくむ身体が、それを許してくれない。私は今、何もすることが出来ない、非力で小さな、たたの子供になってしまっていた。

 やがて、私の話をしていたはずの3人の会話が止まった。摩耶姉ちゃんは私の右肩に手を置いてくれている。私の肩をギュッとつかむ摩耶姉ちゃんの手からは、私に対する思いやりと心配が伝わっているが、それでも私の身体に絡みついた恐怖は、私から剥がれ落ちない。

 一方で、私の左隣の榛名姉ちゃんは、ただ黙って、冷ややかな目で私を見つめていた。あの日以降、私に対して怒りと嫌悪を躊躇なくぶつけてくる榛名姉ちゃん。今のこの榛名姉ちゃんの私に対する眼差しは、姉ちゃんの怒りを如実にあらわしているようだった。

 私の様子を見かねた提督は、ふぅっとため息を付いた後、最後に

「本当に出撃するかどうか、明日もう一度涼風に聞く。無理なら無理で構わない。今日はこれで解散とする」

 と言って、私たちを執務室から開放してくれた。

「……提督」
「ん?」
「ごめんよ……」
「いいよ。でも、お前を苦しめたいから第一艦隊に編入するって決めたんじゃないことは、理解してくれるか」
「うん……」

 執務室を出るときに、私は提督を振り返ったのだが……その時の提督の背中は、なんだか寂しそうに、小さく見えた気がした。

 その後執務室の前で榛名姉ちゃんは、『出るにしろ出ないにしろ、迷惑だけはかけないで下さい』と吐き捨てたあと、ツンツンと尖った背中を私たちに向け、カツカツと足早に自分の部屋に戻っていった。

「っんだよあいつ……」
「……」

 去っていく榛名姉ちゃんの背中に向けて、摩耶姉ちゃんが小さく悪態をつく。未だ身体の震えが止まらない私の肩を抱き、摩耶姉ちゃんは私の左の二の腕をさすってくれた。

「大丈夫か?」
「う……うん……」

 心配そうに覗きこむ摩耶姉ちゃんの顔を見てられなくて、私は顔をそむけ、そして痩せ我慢で大丈夫だと答えた。でも摩耶姉ちゃんがそれで納得してくれないのは、姉ちゃんの顔を見れば分かる。

「……なー涼風」
「……ん?」
「お前さ。今日このあと、何か予定はあるか?」

 摩耶姉ちゃんは、私が『予定はない』といえば、きっと私と一緒にいてくれるつもりなのだろう。摩耶姉ちゃんは、私が辛い時は、何も言わず、ずっと一緒にいてくれる。言葉は乱暴だけど、摩耶姉ちゃんはとても優しい。

 でも。

『すずかぜー』

 なぜだか今、ゆきおの優しく柔らかい声を聞きたかった。あの、生活感がないけれど、とても優しく、柔らかな空間に行って、友達のゆきおと、とりとめのない話をしたかった。

「ごめん摩耶姉ちゃん」
「んー?」
「あたい、今日さ。約束してるんだ」
「誰と?」

 当然の質問が飛ぶ。本当は約束なんかしてないんだけど……

「えと……ゆきおと」
「ふーん」

 適当にごまかせるほどの余裕なんかなくて、ついゆきおの名前を口走ってしまったが……それが摩耶姉ちゃんの心の琴線に触れたようだ。上を向いてしばらく『んー?』とうなった後、摩耶姉ちゃんは急にニパッと笑い、私の肩をガシッと抱いた。

「そっかー。最近のお前、雪緒と仲がいいもんなー。ニヤニヤ」
「ん?」
「そっかー。約束があるんじゃ仕方ない。アタシは一人で間宮でも行ってクリームあんみつでも食べてくるかー。ニヤニヤ」

 これは絶対に何かおかしな勘違いをしている……何か言い返そうと思ったのだが、やはり何も文句が思いつかない。いやらしい笑みを浮かべた摩耶姉ちゃんは、『んじゃごゆっくりー』と好き勝手なことを言い、一人でてくてくと姿を消した。私の前から去っていく摩耶姉ちゃんの背中は、不思議と上機嫌に見えた。

 私はというと、そのままゆきおがいる宿舎に向かうことにした。甘いモノが好きなゆきおのために、間宮か酒保でお菓子でも買っていこうかと思ったんだけど、今はゆきお以外の誰にも会いたくない気分だった。ゆきおには悪いけど、今日はおみやげはなしにしよう。

 さっきの執務室の話のためか、幾分重い足を引きずりながら、私は宿舎に到着する。いたるところに段ボール箱が置かれた一階を通り過ぎ、階段で三階まで向かう。エレベーターを使おうと思ったのだが、私が到着した時、エレベーターは三階の表示になっていた。待つよりは階段を使ったほうが、到着は早い。

 てくてくと階段を上がり、三階に到着する。一階と同じく、三階にも物が増えてきた。廊下に、観葉植物や3人掛けの腰掛けなんかも置かれている。私はこの建物のことを勝手に『宿舎』だと思っていたが、どうも宿舎ではないような気がする。

「あら。こんにちは」
「あ、こ、こんにちは」
「この鎮守府の艦娘さんかな?」
「うん」
「これからよろしくおねがいしますね」

 ややピンクがかった白い服に、同じく薄いピンク色の帽子を被った、一人のきれいな女の人とすれ違った。テレビで見たことがある服装だ。確か看護師さんとかいう人だったか。なんでそんな人がこの鎮守府にいるのかよく分からなかったが、男の艦娘になるゆきおの、身体のことを調べる為にいるんだと、すぐに思いついた。気にせず私は、ゆきおの部屋のドアの前まで向かい、コンコンとドアをノックする。

『はーい』

 いつもの優しいゆきおの声が、ドアの向こうから聞こえてきた。なんだかそれだけで、さきほど全身にまとわりついた恐怖が、ほんの少しだが、消えていくことを感じた。

「ゆきおー。あたいだ」
「え? 涼風?」
「うん」
「入っていいよ。どうぞー」

 私がここに来たのが意外だったのか……多少戸惑いの色を見せるゆきおの許可に従い、私は部屋のドアを開く。ゆきおはいつものように、真っ白い部屋着の上からクリーム色のカーディガンを羽織って、ベッドの上で本を読んでいた。

「よっ。ゆきおー」
「うん」

 いつものように、ベッドの横に置いてあるソファに腰掛ける私。ゆきおはふわっと柔らかい微笑みを私に向けた後、手元の本に視線を戻した。ゆきおが読んでいる本の内容が気になった私は立ち上がり、ゆきおが開いている本を覗き込んでみることにする。

「? どうしたの?」
「ゆきおは何を読んでるのかなーと思って」

 開いているページを覗き込んでみたのだが……何やら小難しい文章が長々と続いている。何について書かれているのかさっぱり分からないが、私の理解の許容量を超えたものであることだけは理解出来た。

「なんか難しそうだなー……」
「そうでもないよ? ちゃんと読めば、涼風も分かると思うよ?」
「そうかー? チラッと見ても、あたいには理解出来そうにねえよー……」
「そんなことないよー……だって……」

 眉間にシワを作り、困った顔を浮かべたゆきおは、いつかのように『ふんっ』と声を上げ、読んでる本を持ち上げてひっくり返す。本の表紙と背表紙には、『艦隊戦』と書かれていた。

「ほら。艦隊戦の教則本。父さんからもらったんだよ」
「へー……砲雷撃のやり方が書いてあるのか?」
「というよりも艦隊戦の基礎と指揮のとり方かな。父さんが士官学校に通ってた時の教科書なんだって」
「へー……」

 そう言われ、私はその本をゆきおから受け取って、改めて中のページをペラペラとめくってみた。確かにこれは、艦隊戦全般に関する説明や指揮のとり方、弾道計算なんかかが事細かに載っている。

「ふーん……」
「確かにこうやって本にされたら難しく見えるけど、きっと涼風が、いつも無意識にやってることだよ」

 私の心臓にイヤな鼓動が走った。身体が少し、寒くなった。

「う、うん……」
「?」

 そして、そのせいで私の様子がおかしくなったことに、ゆきおが気付かないはずがなかった。

「涼風?」
「ん? どうした?」
「大丈夫?」
「なんで?」
「だってほら」

 眉を八の字型にしたゆきおが、立っている私の右手に触れる。自分自身でも気が付かなかったが、本を支えている私の両手は、少しだけカタカタと震えていた。

「手が震えてる」

 ゆきおの声が、じんわりと私の胸に染みこんでいく。心地いい声が、私の耳に優しく届く。私は動揺をさとられまいと、努めて元気に振る舞おうとした。

「だ、大丈夫だって! なんでもねーよ!」
「そお?」

 がんばって笑顔を作り、力を振り絞って大声を出した。私は、今出せる精一杯の空元気を振り絞る。本をゆきおの膝の上にボンと投げ捨て、両手で力こぶを作って、何も問題がないことをアピールした。

「ほら! げんきー!」
「……でも、震えてたよ?」
「だーいじょうぶだって!」
「でも……」

 精一杯空元気を振り絞る私に対し、ゆきおは思いの外しつこく食いついてくる。ほとほと困っていると、私の視界のすみにあった窓が、全開になっていることに気がついた。開いた窓からは、少し冷たい風が入り込んでいて、カーテンが優しくなびいている。

「ほ、ほら! 窓があいてっからさ! ちょっと寒くなっちゃったんだよ!」
「そうなの?」
「うん! ほら、あたいって、手袋はつけてるけどノースリーブだろ? だからさ」

 たなびくカーテンを見て、なんとか思いついたウソ。このことにゆきおが気付くかどうかは分からないが……これ以上追求されて、ゆきおに昔のことを知られるのはイヤだ……お願いします。どうかもうこれ以上、私の過去に近づかないで下さい。

「涼風」
「ん? ど、どした?」
「ちょっとしゃがんで」

 この、唐突で予測できなかったゆきおの要望は、私の思考をストップさせた。

「なんで?」
「いいから」
「なんでだよっ」
「いいからしゃがむのっ」

 ストップした頭の回転をなんとか取り戻したが、意味もなく抵抗してしまうあたり、私の頭はまだ動作不良を起こしたままのようだ。でもゆきおの妙な真剣味に呑まれ、私は頭に疑問符をいっぱい浮かべつつ、腰を落としてその場にしゃがんだ。私の目線が、ベッドの上で上体だけ起こしているゆきおの目線よりも、かなり低くなった。

「ほい。しゃがんだぞ?」

 ゆきおの顔を見ようとすると、かなり見あげなければならない。それがまたけっこうな首の負担になってしまうため、私はしばらくうつむくことにした。

「ありがと。ちょっと待っててね」

 俯いているため、ゆきおがどんな表情をしてるか分からない。でもゆきおは、『よっ……』と声を上げて、何かをごそごそやってるようだった。

 そして次の瞬間。

「はい」

 私の両肩に、柔らかく温かい、ふわふわとした感触のものがかけられた。途端に私の鼻に、消毒薬の匂いが……いつもゆきおの身体から漂う、消毒薬の香りが届く。

「それ羽織りなよ。暖かいよ?」

 ゆきおを見上げた。いつもと違う、いたずらっ子のような笑顔を浮かべたゆきおが、そこにいた。ニシシと微笑むゆきおの肩には、さっきまで羽織っていたはずのカーディガンが見当たらない。

 自分の肩に触れる。ふわっと柔らかい、温かい感触。ふわふわと心地いい手触りのものが、私の肩にかけられていた。さっきまでゆきおが羽織っていたカーディガンが今、私の肩に羽織られていた。

「え……これ……」
「暖かいでしょ」
「ゆきおは……寒く……ないの?」
「僕は大丈夫。それよりも涼風だよ。ノースリーブで寒そう。見てる僕が風邪ひいちゃう」
「……」

 さっきまであんなに震えていた私の身体が、今は信じられないほど暖かい。両手でゆきおのカーディガンに触れる。ふわふわと心地いい感触のカーディガンは、まるでゆきお本人のようにやわらかく、そして優しい。

 私は再び俯いた。ゆきおの顔を見ていられない。ゆきおの優しさが私の胸を温めてくる。

「っく……」
「涼風?」
「……っ……く」
「?」

 鼻の奥がツンと痛くなり、喉がぎゅうっとつまりはじめた。いけない。泣くな。ここで泣いたらゆきおに心配をかける。私は今日、ゆきおと笑って話をするためにここに来たんだ。泣いちゃいけない。

 私が自分の胸の痛みと挌闘して、なんとか涙を流すまいとがんばっている、まさにその時。

「……涼風」

 私の左肩に、カーディガン越しの、ゆきおの手の優しい感触があった。ゆきおが、私の左肩に、ぽんと右手を置いてくれた。

「……?」
「何で落ち込んでるのか知らないけど……」
「ゆ……き……」
「早く解決するといいね」

 ゆきおの右手が、私の肩を弱々しくキュッと掴んだ。顔を上げ、知らない内に滲み始めた視界をゆきおに向ける。ゆきおは、優しく微笑んでいた。

「ゆきお……」
「ん?」
「気付い……て……」
「だって、ノックに元気がなかったもん。いつもならドッカンドッカンやってくるのに」
「……」
「それに、部屋に入ってきた時からずっと、泣きそうな顔してた」

 私の左肩に置かれた、ゆきおの弱々しい、優しい右手を見た。14歳の男の子の手にしてはとても白くて、か細く、そしてとても暖かい右手だ。その手が私の力になろうと、私の肩を優しくキュッと掴んでいる。落ち込んだ私を励まそうと、冷えきった私の肩に、暖かいぬくもりをくれている。

「……」
「……」

 ゆきおの右手に、私の右手を重ねた。私の手と同じぐらいの、男の子にしては小さなその手は、とても力が弱くて、でもとても柔らかくて温かく、私を守ろうという優しさに満ちていた。

「……ゆきお」
「ん?」

 私は再び、ゆきおの目を見た。先ほどと変わらない微笑みを向けていたゆきおは、ただ、静かに私を、ジッと優しく見つめ返してくれていた。

「……あたいさ。明日、出撃するんだ」
「そっか」

 震える喉が、私の意識を離れた。唇が私の意思に反して、明日の出撃のことを話し出した。

「あたいさ。ほんとは……ずっと戦えなかったんだ。戦おうとしたら、怖くて怖くて、身体が言うことを聞かなくなっちまってたんだ」
「うん」
「だから……明日、ちゃんと出撃出来るのか、不安で仕方なかったんだ」
「うん」

 今声を上げれば、鼻に走るツンとした痛みがさらにひどくなって、私は涙がこらえきれなくなってしまう。それでも私の唇は、話すことをやめようとしなかった。両目に溜まる涙が少しずつ流れ落ちはじめた。それでも私は、今の気持ちを言葉に紡ぐことを、やめなかった。

「提督も『無理しなくていい』って言ってくれたからさ。やめようかと思ってたんだ」
「うん。命がけだもんね。こわいよね」
「あたいはさ。意気地なしなんだ。『明日出撃しろ』って言われて、怖くて怖くて身体が震える、臆病者なんだよ……」

 私の言葉を受け止めていたゆきおが、私の肩からゆっくりと右手を離し、正面を向いた。ゆきおの右手が私の肩から離れたことは少しだけ残念に思ったが、肩にはまだほんのりと、ゆきおの体温の感触が残っていた。

「ぼくはさ。そうは思わないけど」

 今まで私の話を黙って聞いていたゆきおが、いつもの柔らかく優しい声で口を挟んだ。不思議とその声は、私の耳にではなく、私の胸の奥にまで届くような、そんな声だった。

「……どういうこと?」
「涼風はさ。この前、僕を海に連れて行ってくれた。艦娘なのに海に出たことのない僕のために、コソコソと鎮守府の中を一緒に隠れてつっきって、あんなに大きくて、あんなに広い海に、僕を連れて行ってくれたでしょ?」

 ……そんなこと。私じゃなくても、きっと誰でもやってる。きっと摩耶姉ちゃんだって、あの時の私と同じ立場ならそうするし、榛名姉ちゃんだってきっと……。

「……で、摩耶さんにバレても、『もうちょっと海にいてもいい?』て言ってくれたでしょ?」
「うん」
「あの時の摩耶さん、きっとめちゃくちゃ怒ってたでしょ。でも、そんな摩耶さんに『もうちょっと海にいてもいい?』て言える涼風が、意気地なしで勇気がないとは思えない」

 確かに私はあの時、初めての大海原にはしゃぐゆきおのために、怒り心頭の摩耶姉ちゃんに対して、『もうちょっと海にいてもいい?』ってお願いしたけれど……

「そんな涼風だから、仮に明日出撃することになったとしても……怖くて怖くて身体が震えても、きっと任務をやり遂げる」
「……」
「……ぼくはね。そう思ってるよ?」

 ゆきおが再び私を見下ろした。いつもの優しい、私が大好きな、とても優しいゆきおの笑顔。

 不意にカーテンがさらさらとなびいて、冷たい風が室内に入ってきた。

「ん……やっぱりカーディガンないと、ちょっと寒いね」

 ゆきおが寒そうに肩を縮こませ、両手で自分の二の腕をさすりながら、苦笑いを浮かべた。風は冷たく、そしてゆきおの髪を少しだけ乱す程度に強い。少しだけ震え始めたゆきおの両手は、男の子のそれとは思えないほど華奢で、そしてとても弱々しかった。

 私は立ち上がった。涙を右手で拭い、そのままカーディガンを脱いで、再びゆきおに羽織らせる。

「……ん。ありがと」

 ゆきおの肩にかけたカーディガン越しに、私は両手でゆきおの両肩に触れた。まるで駆逐艦の女の子のように華奢で細いその肩は、優しいぬくもりを私の手の平に与えてくれる。

「あたいにカーディガン貸して、自分が風邪ひいてたら、世話ねーや」
「そだね。でもやっぱあったかい。涼風が羽織ってたからかな」

 気のせいか、ゆきおのほっぺたが少しだけ、赤くなった気がした。カーディガンを脱いで肌が出ている私の肩に、窓からの風が冷たく感じる。でも胸が温かくて、あまり寒いと思わない。

「なー。ゆきお?」
「ん?」
「……あたいさ。やれっかな?」
「やれるよ」
「考えただけでも怖いのに?」
「大丈夫」

 ゆきおの『大丈夫』という言葉が、私の胸の中に静かに、じんわりと温かく、広がっていった。

「怖くて怖くて、動けなかったのに?」

 ゆきおの声が聞きたくて……ゆきおの優しい声に『大丈夫』と言って欲しくて、私はもう一度、あえてゆきおに問いかけた。ゆきおの肩をキュッと握る。華奢で弱々しいはずのゆきおの肩が、私の手をしっかりと受け止めてくれた。

「大丈夫だよ。……だってさ」

 次のゆきおが発した言葉は、いつの日か、私がゆきおに言い放った言葉だった。ゆきおは私の言葉で、私のことを勇気づけてくれた。

「涼風はさ。自分を誰だと思ってるの?」
「……?」
「改白露型の駆逐艦だよ?」
「……」
「そんな涼風がさ。出来ないわけないよ。僕は、そう思ってる」

 そう言って、いつもの朗らかな微笑みを向けるゆきおは、何よりも、誰よりも壊れやすく、でもとても優しい存在に見えた。

 私は明日、出撃することに決めた。 

 
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