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岡山県にて。日本の合戦一覧をウィキペディアで拝謁しながら。

作者:earthsolute
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岡山県で書いたもん。東岡山駅に近いネットカフェ。快活clubの方。

メモ。岡山にて。東岡山出たとこ。
まず、bing及びマイクロソフトだが、マイクロソフトは、シアトルあたりの企業である。西海岸北である。
そして、グーグルとかファイアーフォックスとか、ツイッターとか、あそこらへんIT関連は、全部サンフランシスコの内陸海の、南側にある
すなわち北海岸側に面しているところに本社を置く企業である。みんな同じである。

つまり、IT関連は、卓越しているのは、たぶんマイクロソフトと、あと、サンディエゴ、西海岸にある、アップル社だけである。この二社だけ特別で
あとは軒並み同じ。あとは機能面がどう違うか程度の差。

そして、まず小田原市の北条氏だが、応仁の乱は室町時代の出来事である。このとき岡山から入植した人。
つまり鎌倉幕府が関東に入植したほうが先ってことになる。

鎌倉幕府は、まず、勢力が、三分されておった中から出た、第一勢力は、小田原市あたりをうろついていた。
第二勢力は、茅ケ崎とか海老名市のあたりをうろついておった。
で、第三勢力が、川崎市横浜市、三浦半島を所持していた。三浦半島勢力は、千葉県勢力とつながりがあった。
この第三勢力と第一勢力は結託して、第二勢力をつぶして土地を奪おうとした。

で、鎌倉幕府ができた。西日本の連中が、関東に入植し始めたのは、まず、今の神奈川県が先だったってことになるだろう。それから次がたぶん千葉県で
あとは全部田舎のままで残されたっぽい。検索しても出ないので。千葉県は鎌倉幕府が、九十九里浜を開拓し、今の名前に名付けなおしたって逸話があるらしい。
以前の名前は、玉の浦。

ただ。その前に大和王権とかほかに何かあったかもしれないのでそちらも注意。

つまり神奈川と千葉県だけ特別で、あとはそうじゃないってことになる。群馬県は、たぶん、山梨の、武田信玄とか、もしくは、新潟県の、なんだっけ。
上杉謙信とかに手出しされてるはずなので、そういや上杉と武田はお互いに同じ領地をめぐる関係だっけか?

群馬県は別口で特別ってことになる。つまり手つかずは、東京埼玉茨城栃木ってことになろうか。関東を細分化するとこういうことになる。

あとは毛利でしょうか。というのは、岡山は毛利氏と織田信長の激突の場所にされてたらしいので。
山陰の連中とか関西の連中は何をしていたのでしょうか。

出雲守護に、尼子経久のがおった。これが攻撃できた範囲は、石見国、安芸国

青谷上寺地遺跡、鳥取県で弥生時代に起こった大量虐殺の証拠となる遺体が百点発見されたらしい。山陰怖い。北に行くと俺も虐殺されること相違ない。
それはそれ。やっぱ北は虐殺の文化か。怖すぎるぜ。俺弱いから怖い。この虐殺は虐殺であり、戦争とは関係ないかもしれない。というのは、結局上記の
尼子は、弱かったみたいだ。虐殺をよくやる民族が戦争まで強いとは限らない。

その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。(中略)その八年(正始8年)、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず、倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
狗奴国と邪馬台国が対立していたらしいという記述が中国の書物にみられるらしい。




虐殺しすぎる文化は、戦争はあまり強くないかもしれないな。というのは、あんまり虐殺してばっかだと、結託して、ほかの地域にいる連中に
攻撃仕掛けるような体制が取れないためである。北海岸はいづれも虐殺文化だとして、例えばフィンランドからスウェーデンまであるが
連中は南海岸である。一応。バイキングはそこそこ強かったといえよう。でもほかに関しては、やっぱイギリス人、ロンドン首都のイギリス人が
南、つまりアフリカや、アラブ半島あたりに一気に攻撃したのは強かった。

が、北海岸というと、北アフリカ。雑魚だなあ。みんな雑魚だなあ。戦争では。アルジェリアイタリアの植民地だし。
アラブ半島。サウジアラビアはムスリムの中では現在うまくやれてる方である。あと当初のカリフェートは非常に強力だった。
アフリカ。黒人在住アフリカ。イギリス人とかフランス人に負けるのは仕方がないと思う。だって相手コーカソイドだもの。黒人じゃ
人種が違うからね。ただそれはそれとして、現地では強かったんじゃないの? 対戦相手がいなかっただろうけど。いきなり来たら
あまりにも強すぎたっていう。

だから黒人在住地区、ガーナとかのことだけど、こことイギリスの戦争は、特例といえる。なぜか? 北アフリカは、ずっと、たとえばカルタゴだかの、
ハンニバルとかだが、イタリアとか対岸の連中とはずっと顔を突き合わせていたから、反撃のチャンスが、ハンニバルの件だけってのは
ちょっと少なすぎである。雑魚でしょうね。ただ、古代イスラエルと、エジプトと、なんだっけか? あれ、えー。インドヨーロッパ語族で、
アナトリア半島に昔住んでた民族で、もう滅びた民族。なんかいたよね。えー。オスマンじゃないんだよ。あれトルコ人だからね。

誰だっけ? こいつら。まあいいや。こいつら。絶滅したインドヨーロッパ語族。あと、トラキア人とか。いやトラキアは時代が違うか。
だから、とにかくトラキアの隣に、ヒッタイトだな。ヒッタイト。ヒッタイトとかの戦争で、エジプトが勝ったこともあったかもしれん。ただ
エジプトは北の要素もあるけど、東側に紅海あって、南東に、アラビア湾があるから、ちょっと南東風の影響も受けてる地域なんだよね。
あとナイル川うまく活用もしていたので。単純な北海岸ではない。そこそこ強かったのは知っている。

古代ローマ人は、北アフリカを占領したとき、虐殺をしているんだよね。乳幼児を大量に。異民族がやる場合もある例。
ただ本人らがやっていたんじゃねえのかってことを俺は疑ってるのさ。そうなると、異民族が来たときにどの程度対応できるのか。

それとバイキングだな。古代ローマ人は、北アフリカに南下することで、北海岸側を得て、虐殺をしたわけだ。
バイキングの攻撃対象は、どこだったのか? たとえばバルト三国とかポーランドとかだったりしたら?
もしその時ポーランド人がバイキングに負けていたら? ポーランド人は弱いってことになる。ポーランドが強いなんて話は聞いたことないぜ。
バイキングが強いって話はよく聞くが。

神武東征
日向市(宮崎県内)→高千穂峰、高千穂町、いずれは各々、それぞれ、薩摩、宮崎。ここまでの旅路は、自分らの勢力内の話であったはずだ。
というのは、どこを攻めるべきか、相談しに行ったらしいので。→筑紫→宇佐市。宇佐市は大分県の北海岸側。えー。筑紫がどこかは、だいたい福岡県の
筑紫野市の辺を表すらしい。そうなると、たぶん、この人たちは、宮崎県日向市から、宮崎県筑紫町、山の中であるもしくは、鹿児島県筑紫峰、山である
まで一旦相談に行ってから、そうそう、時々、山で修行したりするもんね。集英社とか、ブラットラッドで。漫画の話である。

だから一旦山に相談に行って戻ってきてから、出立したんだけど、筑紫が現在の福岡県の内陸の方なら、この人たちは、最短ルートである
東海岸側を北に上っていくルートをとらずに、いちいち、薩摩藩の方へ南下してから、街道を渡って、西海岸側へ出て、熊本県の沿岸部を北上して
そして、筑紫の地区へ行って、それから、筑紫の地区から、一旦、朝鮮との海峡側へ出てから、平原部を、東へ移動して、宇佐市へ行ったという。

前提としてこの人たちは、"東へ行くことにした。"らしい。さて、私はたぶん、普通に、日向市から、高千穂町の街道を抜けてあっち側の平原へいき、
そのまま福岡県の筑紫郡通って、東へ行き、宇佐市へ行ったんじゃねえかなと思う。ダイレクトに日向市から宇佐市行けば、筑紫郡通る必要なくなるから。
東へ行く前提があるのに、薩摩藩へ行くのもどうかと。思うので、高千穂町の方へ相談に行ったんじゃないのかなあとも思うけど、相談と街道は別個だったかもしれんし、

あっち方面がこの人々の勢力圏内だったかに依る。
→岡田宮。ここ福岡に北東にある神社。行ったり来たりだな。→ 多祁理宮(広島市)、西日本入り。→高島神社。これは岡山県と香川県の間にある島にある
神社である。ただここじゃなくこの周辺である可能性もあるらしい→浪速国の白肩津(東大阪市、ただし入り江型水没していたらしい)で、ナガスネヒコと
戦闘になるらしい。海岸線が今より向上していたそうだ。そうなると、まあ、高島神社周辺は今より水没していたわけだ。この人たちが
香川県経由でいったのなら、高島神社に停泊した可能性も高いと思われるが、本土経由ならなんでわざわざそっち行ったのってことになる。
戦闘になった場所が、東大阪市なわけで、今より海岸線が向上している状況で、つまり平原がほとんどなくて、島ばっかりの状況なわけだが
香川県から東大阪市行くなら、どのルートか判別つかんな。どこからでも東大阪市は最短ルートになる。どっちにしろ東大阪市のあたりまで
平原部分は全部水没していただろう。大阪南平原多いから。で、北上ルートか南下ルートか知らんが、戦闘になったわけだ。

"イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。"
↑俺東海岸嫌いなんで、イツセの気持ちはよく判ります。ただし死んだみたいだが。北上ルートでなく南下ルートで交戦に入った可能性が高い。
というのは、まあ、和歌山県側から北上していって東大阪市へ行くなら、東向いて戦わないだろう? だって大阪の海岸線って、斜め下に下がった形状だからね。
東ってより北向いて戦うことになるし、それに南に回り込むって記述は

まあ、兵庫県側からくる。東大阪市へ来る。交戦。交戦中に、ちょっと東へ進み、南へ降りる。そうして東大阪市の背後に回る。
そうすれば南下して回り込むことになる。だから兵庫県ルートであることが推察される。ではイツセは残念ながら死んでしまわれましたけど
行きましょう。

男之水門、これは古事記の名称であり、現在の、水門吹上神社の位置だと言われたりするみたいだけど、まあこの地所は、川や山が近くにあるので
現在、だから、海進してれば入り江になったろう、それ故港の呼び名である神社でもあり古事記でもあるという意見もホムペである。
戦没者の場所に神社があるパターン。ほお。ひめゆりの塔みたいだ。ただ沖縄人は神社なんか作ってたまるかってことかもしれんが。
それはそれとして、そうそう、神社って水の方向を示すもんなんじゃねえかと思ったことあるぜよ。何かしらの指標の可能性が高いと俺は見る。
だから、逆に、このしにはる軍人が、泊まった場所とか、死んだ場所とかに、指標として残した可能性全然高いとは思う。同時に入り江であった可能性も高い。 
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